2018/06/03 - 2018/07/03
170位(同エリア370件中)
スタリモストさん
- スタリモストさんTOP
- 旅行記305冊
- クチコミ10件
- Q&A回答0件
- 269,195アクセス
- フォロワー32人
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にかかわる、何冊かの本を読み、何本かの映画を見ていたので、特別な気持ちを持ってサラエヴォに立つことになった。しかし、確かに内戦の爪痕はモスタル同様あちこちに見られたが、東西文化が行き交った街として、興味深い歴史的なスポットが随所にあり、観光都市としての魅力を感じた。
フリーツアーガイドの青年が、誇りをもってサラエヴォの街を紹介してくれた姿も印象に残った。
6/3出発→6/4アテネ→6/5.6メテオラ→6/7.8アルバニア/ジロカストラ(+ブルーアイ)→6/9.10ベラト→6/11クルヤ→6/12シュコダル→6/13バルボナ→6/14セス→6/15シュコダル→6/16.17モンテネグロ/コトル→6/18ボスニア・ヘルツェゴビナ/モスタル→★6/19.20サラエボ→6/21ヴィシェグラード→6/22.23セルビア/モクラ・ゴラ→6/24ニシュ→6/25.26.27.28.29.30ブルガリア/ソフィア(+リラの僧院+コプリフシティツァ+3夜ソフィア国立オペラ座『プッチーニ・オペラ「トゥーランドット」』『モダンバレエ「その男ゾルバ」』『古典バレエ「ジゼル」』)→7/1アテネ→7/3帰国
PR
-
■17日目(6/19火)
モスタルのバスターミナルから、サラエヴォ行きのバス(21KM)は11時に出発。モスタルは始発ではなく経由地だったので、車内には2人並んで座れるシートはすでになかった。※1KM(マルカ)=70円 -
ネレトバ川沿いを走り、窓外に流れる山川の景色はとても美しく、ずっと眺めていた。
-
サラエヴォ市内に入ったのは午後1時半頃、スパイナー通りを行く。
セルビア人狙撃兵が、市民を狙い撃ちしたドキュメンタリー映像が頭をよぎった。 -
鉄道駅近くの長距離バスターミナルに着いたのは午後2時前。およそ3時間弱要した。
高層ビルは「アヴァズ・ツイスト・タワー」。2009年建造されたビルで、新聞社アヴァズ社が入る。36階が展望台になっている。 -
トラム(1.6KM )の1番に乗って「バシチャルシア」に向かう。
-
切符は乗り場横のキオスクで購入し、乗車後すぐに打刻機に通した(下向きに入れる)。この街を訪れた方の旅行記を読んでいると、これを怠り10KM(700円)徴収された例があったので、これだけはせねばと、頭にしっかりインプットしていた。
-
角を曲がり、再びスナイパー通りに出ると、旧ホリデイ・イン(現Hotel Holiday)が左に見えた。紛争中、世界のジャーナリストがこのホテルにデスクを構え、その惨状を発信したホテルだ。
-
バシチャルシアの手前の旧市庁舎前で降りて、宿に向かった。東方面の坂道を行く。
-
コヴァチ墓地の横を通る。イスラム教徒の白い墓碑が密集している。墓碑の多くは1992~95に亡くなったボシュニャク人の若者のものだ。
中央には、ボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチの墓もある。 -
街を展望できる「イエロー要塞」を過ぎ、横道に入ってなんとか、「Guesthouse Mraovac」(15euro)を見つけた。坂道が続いたので、もう汗だく!!。
-
この宿は一軒家の何室かをゲストルームにしていて、booking.comで予約したが、ほとんどAirbnbの宿を利用しているような感じだ。オーナーはとてもフレンドリーで親切。
-
部屋は狭めだけど、バルコニーが付いていたので圧迫感はなかった。2泊したが、結局ゲストは私たちだけで一軒家貸し切り状態だった。
ただ丘の上にありバシチャルシア広場から700m離れていて、おまけに坂道がきつく、途中で休憩のために戻る気にはなれなかった。 -
荷物を解いて、バシチャルシアに出かけた。違う道を行くと、オスマン帝国統治時代に造られた城門があった。
-
窯で焼いているパン屋。奥行きが狭いせいで、パンを窯から出し入れする道具が、窓の外に出ている。作業中は棒の端が入ったり出たりするのだが、これは見ていて楽しかった。
-
バシチャルシアに近い坂を、少し上がったところに並ぶ数軒の店は、雰囲気が良く、隣のチャイハネの席を、欧米の若者たちが占有していた。
-
バシチャルシアは、オスマン帝国時代の職人街。水飲み場(セビリ)のある界隈は観光客で一杯だ。
-
土産物が並ぶ。扱う商品は道筋ごとに変えているように思えた。奥の建物は、「ブルサ・ベジスタン」。
-
銅製品が扱われている。
紛争中の銃弾の薬莢でつくられたペンなども見かけたが、買う人はいるのだろうか? -
並んでいるものもそうだけれど、行き交う人たちを見ていると、トルコ風の顔立ちの人も多い。ここが中欧であることを忘れる。
15世紀から19世紀までオスマン帝国の支配下にあったことを実感する場所だ。 -
「ラテン橋」
1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、ボスニア系セルビア人の銃弾に倒れた場所だ。このサラエヴォ事件は、第1次世界大戦の端緒となった。
しかし、セルビア青年が皇太子を暗殺した理由はわかりやすいが、大戦への道をどうして突き進むことになったのかは、その時の世界情勢を読み解いていないために、なかなか見えてこない。 -
「旧市庁舎」
オーストリア=ハンガリー帝国時代の1896年に建てられた。イスラムの影響を受けたムーア様式の傑作として名高い。1992年.8.25~26の砲撃で外壁を残して建物が全焼し、貴重な蔵書200万冊以上が燃えた。2014年に再建された。 -
建物の前に告知されていた『忘れるな、思い出せ、警告せよ』の言葉は、モスタルにあった 『恐ろしいことが行われた。しかし、それを忘れることの方がより恐ろしい。』とも通じる。
-
「ガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスク」
1531年創建の由緒あるイスラム寺院。 -
「イエスの聖心大聖堂」
5年の歳月を経て1889年に完成したカトリック大聖堂。
近くにはセルビア正教会やシナゴークもある。イスラム寺院も含めて、それぞれがこんなに近くに肩を寄せ合っているというのは、とても稀有なことだ。
まさに、ボスニア・ヘルツェゴビナが多民族、多宗教国家であることの象徴であり、サラエヴォという街の在り様を物語る。 -
「マルカレ市場」
1994年2月、セルビア人勢力が加えたこの市場への砲撃で、市民68人が死亡し200人以上が負傷。国連はセルビア人勢力に対して重火器撤去通告を行ったが、その効果はなく、翌年8月にも砲撃を受け、37人が死亡し90人が負傷した。この事件が契機となり、NATOはセルビア人勢力への空爆を実施。その年10月に停戦、11月21日にはディトン合意とつながり、紛争は終結していく。 -
まさにマルカレ市場は、紛争の実相と変遷を物語る現場だ。ちなみに、サラエヴォでは12,000人が死亡し50,000人が負傷。その85%は一般市民であった。
-
ミリャツカ川沿いには、目を引く美しい建物が立ち並んでいる。
-
明日もじっくり見て回りたい。
-
■18日目(6/20水)
午前中は「トンネル博物館」を見学する。昨日と比べ今日はとても快晴だ。振り返って、丘陵に広がる街並みを撮ると、「イエロー要塞」も写り込んでいた。 -
トラムとバスを乗り継いで向かう。
-
バシチャルシアの乗り場から、トラム(1.6KM)の3番に乗り、終点の「イリジャ」に出た。
-
バスの案内所で聞くと、トンネル博物館方面のバスは10時15分だと言う。
時間があったので、バス停横でボスニアンコーヒー(1KM)を味わう。濃厚なエスプレッソ!!。 -
「32番バス」(1.6KM→運転手から切符を買う)が定刻に入ってきた。
-
終点でバスを降りて、橋を渡った先に立つ案内板。民家の間を800mほど歩く。
-
そして「トンネル博物館」(10KM)に到着。
コラル家の住まいが博物館に転用されている。壁には弾痕のあと、地面には「サラエヴォの薔薇」が残る。 -
まず、ビデオでサラエヴォの当時の様子を見る。生々しい映像が流れる。実際に使われていたトンネルの様子も写しだされる。壁には往事の写真が展示されている。
-
「サラエヴォ包囲網」
1992年5月から始まったセルビア人勢力による包囲網に対して、ボスニア人勢力は、国連の裁定による空港周辺の緩衝地帯に、800mにわたってトンネルを掘り、人の往来と物流を可能にした。
このパネルを見るとトンネルが生命線であったことがわかる。
※セルビア人勢力=ユーゴスラビア人民軍とスルプスカ共和国軍
ボスニア人勢力=ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍 -
建物の中に入ると、当時使われていた道具などの実物が展示されている。
-
重機を使わず手掘りでトンネルを掘ったようだ。
-
トンネルに入る。800mのうち一部分が残されている。幅1m、高さ1.6mだ。暗闇に立つと、往事にいるかのような現実感がある。
このトンネルが街から多くの人たちを脱出させ、街に武器や生活物資を運び入れた。 -
11時半のバスでイリジャにもどり、サラエヴォ駅でトラムを降りた。
ランチを「ZMAJ」でとった。駅を見て左方向に少し行き、煙突から(肉を焼いて出ている)煙に引き寄せられた。店内はとても繁盛していた。 -
チェバブチチを注文。パリッとしていて香ばしく、美味しかった!!(ドリンク2本含めて10.5KM ・・1人前で十分)
-
バシチャルシアにもどり、ミリャツカ川の南側にある「サラエブスコビールの工場(Sarajevska Pivara d.d.)」(5KM)に行ってみた。
-
製造ラインへの立ち入りは、残念ながら団体でないとかなわず、パネルや展示品で会社概要を説明する一部屋だけの見学となった。
-
5KMのチケットには、ビール1杯が飲めるサービスが付いていて、隣に併設されているレストランで提供される。
-
ここのレストランは重厚な造り。とてもゴージャスな時間が持てた。
-
-
昨日も気になったが、散歩していると外観が魅力的な建物にたくさん遭遇する。
これはビール工場近く。 -
ミリャツカ川の川沿い北側の建物。
-
あらためて、バシチャルシアの西側に続くフェルハディヤ通りを歩く。
-
バシチャルシアに立つと、ここはトルコ?と思うほどだけど、こちら側に来ると景色ががらっと変わる。行ったことのあるブタペストの街並みと重なる。
-
オシャレな雰囲気のある店が並ぶ。
-
「イエスの聖心大聖堂」界隈
-
「イエスの聖心大聖堂」の後ろ(北側)。
-
左に「カジ・フスレヴ・ベイ・ハマム」。右、イエスの聖心大聖堂の後ろ側。
-
音楽学校に転用されていた建物。
-
愛嬌振りまく学生。
-
「聖キリルと聖メトディウス教会」
-
旅行会社「インサイダー」が主催している「フリーツアー」に参加した。
-
16時半。地下の部屋で、一通りの説明があって街に出る。
-
ラテン橋をスタート。
-
1462年創建の「Emperor's Mosque (Careva Dzamija)」。
スルタン・メフメト2世に献上されたモスク。 -
改めて「旧市庁舎」。実に美しい建物だ。
-
バシチャルシアにて。
-
キャラバンサライの一画がチァイハネになっている。ツアーにのらないと立ち入らなかった所だ。
-
イエスの聖心大聖堂前の「サラエヴォの薔薇」。
※サラエヴォの薔薇・・迫撃砲のさく裂痕を赤い樹脂で固め、保存している。犠牲者が出た場所だ。 -
昔のシナゴークを利用したユダヤ博物館前で、「サラエヴォのハガダー」についてくわしく説明してくれたようだが、理解不能(^^;。
そして、オスボロベンジャ広場で解散。たっぷり2時間案内してくれた。フリーとはいえ、チップは渡しておいた。
この国の歴史や、サラエヴォ事件のこと、そして紛争のこと、独自の文化のことを、現地に赴いて熱ぽく説明してくれた。 -
夕飯はミリャツカ川沿いのレストラン「Inat Kuca」を利用した。川向こうは旧市庁舎だ。
1階はすべて、団体客の予約でフル。2階の席に案内された。 -
「煮込み料理」を中心にオーダー。牛肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、パプリカなど一杯入っていた。バランスのとれた体に優しい料理だった。
-
当地のプレミアムビールやその他も入れて34KM。
-
1階では団体客相手にボスニアの歌とダンスを披露していた。彼女たちは2階上のロフトで着替えていたものだから、1階に降りていく時にパチリ。下から聞こえてくる当地の音楽を聴きながら、当地の郷土料理が食べられて良い時間を過ごせた。
-
イエロー要塞から、夜景を眺める。
サラエヴォは、ローマ帝国、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下におかれた影響で、多彩な文化が育まれ行き交った街だ。そして内戦の悲劇も刻んだ。
そのためだろうと思うが、1日半程度の滞在だったけれど、バリエーションに富んだ様々なものを一杯詰め込んだ感じがする。
明日は、ヴィシェグラードに移動する。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
スタリモストさんの関連旅行記
サラエヴォ(ボスニア・ヘルツェゴビナ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
サラエヴォ(ボスニア・ヘルツェゴビナ) の人気ホテル
ボスニア・ヘルツェゴビナで使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ボスニア・ヘルツェゴビナ最安
625円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
0
72