2018/09/01 - 2018/09/01
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ドクターキムルさん
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鎌倉天園と呼ばれているが、果たして昭和40年(1965年)に横浜市が作成した1/3,000の地図に記載されているように、峠の茶屋跡から天園休憩所の辺りまでが横浜市だった時期を確認しに天園休憩所を訪れた。春に2度ほど訪れて以来だ。
女将の話ではここ天園休憩所は昔から鎌倉市で、二階堂と十二所に掛かっているのだという。しかし、宅急便では二階堂と十二所とでは配送地区が分かれる場合があり、二階堂の地名で送ってもらっているという。
獅子舞谷などに銀杏の木や楓の木、梅の木を移植したのは女将のお祖父さんの小川氏と他の数人であるが、どうやら自分の地所に木々を植えたようだ。獅子舞谷の半分が小川家の地所だったという。昭和初期であれば、戦後のように無秩序に他人の地所を勝手にどうこうすること(永福寺跡にバラックを建てて住み着いたり、大平山を掘削して大平平にしたり、横浜市の道路に茶屋を開いたりした例がある)はなかったようだ。
また、大正時代から天園休憩所を開設しており、飲み水に井戸も確保している。そこに小屋を建てた。当時、小川氏は親しくしていた東郷平八郎に名前を付けてもらい、「日源荘 東郷元帥書」の書を揮毫してもらった。それを彫った碑が「日源荘」碑として今も竹林の道に残っている。なお、この竹は女将の兄が植えたもので、今では広大な竹林になっており、春にはここ天園休憩所で、焼き筍などで出されている。明治天皇に仕えた当時は軍神として崇められたいた東郷平八郎が貸別荘・日源荘を建てたのではなく、小川氏が貸別荘を建て、東郷平八郎に名付け親になってもらって「日源荘」と呼ばれたというのが真相のようだ。獅子舞谷に東郷平八郎が銀杏の木や楓の木、梅の木を植えさせたのだとすれば、その土地の所有権は東郷平八郎に移ったはずであるが、そうではないようだ。考えてみれば、大正天皇は僅かな御代で崩御され、若い昭和天皇が即位されたばかりの頃である。そんな中で、東郷平八郎の社会的な地位はいかばかりであったかは想像が付くであろう。東郷平八郎の孫娘が没後30年が過ぎた戦後になっても、東郷の名を残し、ご主人に婿入りしてもらう形で結婚した理由も理解できることだ。
また、東郷平八郎はここ六国峠を愛で、「天国に遊ぶ」と讃えて「天園」と呼んだ。その後、休憩所の名前に天園が付くように変わり、六国峠が天園峠に替わった。
昔から、六国峠、後の天園峠は鎌倉市であったために、戦後に麓の亀ヶ淵の水田が団地に変わって町内会名に「天園」が入るのも理解できる。しかし、源頼朝以来の地名「亀ヶ淵」が、その地に頼朝によって建立された永福寺の壮大さのために、「二階堂」村が分離し、字名も「三堂」などに変わってしまった。由緒ある「亀ヶ淵」は忘れかけられていた。しかし、ようやく、私が唱える頼朝が建立した八幡宮寺がある「鶴岡(つるがおか)」に対して、永福寺は「亀ヶ淵」にあり、「鶴亀」に大寺を建立して天下泰平、国家の長久を祈念したのであろうということが理解されつつあるようだ。
(表紙写真は「日源荘」碑)
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