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三河の名城巡り、田原城紹介の締め括りです。明治4年の廃城令により、建物などは取り壊され、再建されたのは、二ノ丸櫓と桜門などだけでした。遺構では、池田輝政公が吉田城主時代の野面積の石垣が見所でした。(ウィキペディア、田原市関連公式サイト)

2018梅雨、三河の名城(8/8):田原城(5完):二の丸櫓、桜門、額紫陽花、田原城址碑

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2018/06/12 - 2018/06/12

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旅行記グループ 2018梅雨、三河の名城巡り

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旅人のくまさん

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三河の名城巡り、田原城紹介の締め括りです。明治4年の廃城令により、建物などは取り壊され、再建されたのは、二ノ丸櫓と桜門などだけでした。遺構では、池田輝政公が吉田城主時代の野面積の石垣が見所でした。(ウィキペディア、田原市関連公式サイト)

交通手段
私鉄
  • 田原城址で咲いていた、『ガクアジサイ(額紫陽花)』の光景です。紫系統の花のようですが、周りの装飾花には、薄っすらとピンク色になっていました。額紫陽花と山紫陽花はよく似ていますが、額紫陽花の葉の方が、葉が厚めでやや光沢があり、うぶ毛が少ない 特徴を持ちます。額紫陽花の開花時期は6月中旬~7月頃ですが、山紫陽花の方が半月~一月程早く咲きます。(同上)

    田原城址で咲いていた、『ガクアジサイ(額紫陽花)』の光景です。紫系統の花のようですが、周りの装飾花には、薄っすらとピンク色になっていました。額紫陽花と山紫陽花はよく似ていますが、額紫陽花の葉の方が、葉が厚めでやや光沢があり、うぶ毛が少ない 特徴を持ちます。額紫陽花の開花時期は6月中旬~7月頃ですが、山紫陽花の方が半月~一月程早く咲きます。(同上)

  • 観光用に造られたらしい、東屋風の休憩所の光景です。座ったまま、周りを眺められるよう、吹き抜け構造になっていました。この辺りは、通用門を潜った三ノ丸跡になるようです。見学はしませんでしたが、三ノ丸内部には護国神社が祭られていて、渡辺崋山、村上範致、岡田虎次郎などといった地元の名士の顕彰碑なども建てられているようです。(同上)

    観光用に造られたらしい、東屋風の休憩所の光景です。座ったまま、周りを眺められるよう、吹き抜け構造になっていました。この辺りは、通用門を潜った三ノ丸跡になるようです。見学はしませんでしたが、三ノ丸内部には護国神社が祭られていて、渡辺崋山、村上範致、岡田虎次郎などといった地元の名士の顕彰碑なども建てられているようです。(同上)

  • 三ノ丸方面の見学を終えて、かつての登場路に面して建つ、二ノ丸櫓方面に向かう途中の光景です。段差の少ない石段がありました。全域が田原市の公園として整備されているらしく、通路などもよく整っていました。(同上)

    三ノ丸方面の見学を終えて、かつての登場路に面して建つ、二ノ丸櫓方面に向かう途中の光景です。段差の少ない石段がありました。全域が田原市の公園として整備されているらしく、通路などもよく整っていました。(同上)

  • 二ノ丸櫓の前を経由して、『桜門』にやって来ました。『大手門』とも呼ばれているようです。内側から眺めたその『桜門』の光景です。通常は、こちらから入場しての見学が順路になるようです。三河田原駅から歩いた場合も、少し近道になるようでした。(同上)

    二ノ丸櫓の前を経由して、『桜門』にやって来ました。『大手門』とも呼ばれているようです。内側から眺めたその『桜門』の光景です。通常は、こちらから入場しての見学が順路になるようです。三河田原駅から歩いた場合も、少し近道になるようでした。(同上)

  • かつての登城路脇の新緑の光景です。中央から左手にかけて、二ノ丸櫓とその石垣が見えていました。明治初め頃の写真によれば、二ノ丸櫓の株は下見板張りとなっていたようですが、白い漆喰壁に代えて再建されました。(同上)

    かつての登城路脇の新緑の光景です。中央から左手にかけて、二ノ丸櫓とその石垣が見えていました。明治初め頃の写真によれば、二ノ丸櫓の株は下見板張りとなっていたようですが、白い漆喰壁に代えて再建されました。(同上)

  • 『桜門』の前近くから、北側を向いての撮影です。今度は、かつての登城路を中心にしての撮影です。コンクリート舗装やアスファルト舗装ですと興覚めですが、石畳の道で復興されていました。(同上)

    『桜門』の前近くから、北側を向いての撮影です。今度は、かつての登城路を中心にしての撮影です。コンクリート舗装やアスファルト舗装ですと興覚めですが、石畳の道で復興されていました。(同上)

  • 内側から眺めた、『桜門』の城門扉の光景です。全面に金属製の多いと補強の鋲打ちがされた、本格的な外観の城門でした。城門内側の壁面まで白漆喰で塗り固めてありました。(同上)

    内側から眺めた、『桜門』の城門扉の光景です。全面に金属製の多いと補強の鋲打ちがされた、本格的な外観の城門でした。城門内側の壁面まで白漆喰で塗り固めてありました。(同上)

  • 同じく、内側から眺めた『桜門』の城門扉の光景です。これだけの外装を持った城門ですと、打ち壊しに備えての柱や建物補強のほか、門の厚みなども要求されますが、目視した厚みは薄く、少しがっかりでした。この当たりが、ウィキペディアで、『大手門が再建されているが、やや装飾過剰なようである』と冷やかされている由縁かも知れません。(同上)

    同じく、内側から眺めた『桜門』の城門扉の光景です。これだけの外装を持った城門ですと、打ち壊しに備えての柱や建物補強のほか、門の厚みなども要求されますが、目視した厚みは薄く、少しがっかりでした。この当たりが、ウィキペディアで、『大手門が再建されているが、やや装飾過剰なようである』と冷やかされている由縁かも知れません。(同上)

  • 外側から眺めた『桜門』の周りの光景です。左手に『桜門』の小さな石標が、右手に『縣社・巴江神社』の文字が刻まれた大きな石標がありました。立看板のタイトルは、『田原市博物館展示案内(2018・4~2018・10)』でした。(同上)

    外側から眺めた『桜門』の周りの光景です。左手に『桜門』の小さな石標が、右手に『縣社・巴江神社』の文字が刻まれた大きな石標がありました。立看板のタイトルは、『田原市博物館展示案内(2018・4~2018・10)』でした。(同上)

  • 外から眺めた『桜門』の光景です。明治時代に撮影された古い写真を基に、ナマコ塀が再建されたようです。(同上)

    イチオシ

    外から眺めた『桜門』の光景です。明治時代に撮影された古い写真を基に、ナマコ塀が再建されたようです。(同上)

  • 影が映って読みにくくなっていましたが、『田原城址・愛知県』の文字が刻まれた石標のズームアップ光景です。古い字体の『愛知縣』の文字がありますが、現在は史跡などには指定されていないようでした。(同上)

    影が映って読みにくくなっていましたが、『田原城址・愛知県』の文字が刻まれた石標のズームアップ光景です。古い字体の『愛知縣』の文字がありますが、現在は史跡などには指定されていないようでした。(同上)

  • 『桜門』の前から眺めた右手方面の『袖堀』の光景です。石垣の上に、ナマコ壁と白壁が再建されていました。現在、埋め立てによって海はだいぶ後退していますが、本来は城塁近くまで海が迫ってきていて、海によって侵食された台地に建つ海城でした。(同上)

    『桜門』の前から眺めた右手方面の『袖堀』の光景です。石垣の上に、ナマコ壁と白壁が再建されていました。現在、埋め立てによって海はだいぶ後退していますが、本来は城塁近くまで海が迫ってきていて、海によって侵食された台地に建つ海城でした。(同上)

  • 同じく、『桜門』の前から眺めた『袖堀』の光景です。埋め立てによって、海とは繋がっていませんが、かつては海水が引かれていたようです。古い長石垣が続きますので、田原城の見どころの一つになっています。(同上)

    同じく、『桜門』の前から眺めた『袖堀』の光景です。埋め立てによって、海とは繋がっていませんが、かつては海水が引かれていたようです。古い長石垣が続きますので、田原城の見どころの一つになっています。(同上)

  • 『桜門』の前から眺めた、左手にある『枡池』の光景です。一時期コンクリートの土手になっていたようですが、整備工事の時に石垣に戻されたようです。水の流れが少ないのでしょうか、濃い緑色をしていました。(同上)

    『桜門』の前から眺めた、左手にある『枡池』の光景です。一時期コンクリートの土手になっていたようですが、整備工事の時に石垣に戻されたようです。水の流れが少ないのでしょうか、濃い緑色をしていました。(同上)

  • 緑色の水面の『枡池』のズームアップ光景です。この後、田原城の紹介では特質すべき人物、渡辺崋山について、纏めて紹介します。『渡辺崋山(1793~1841年)』は、通称は登(のぼり、のぼると揮毫)、諱は定静(さだやす)、号ははじめ華山でしたが、35歳ころに崋山と改めました。号は他にも全楽堂、寓画堂などがあります。(同上)

    緑色の水面の『枡池』のズームアップ光景です。この後、田原城の紹介では特質すべき人物、渡辺崋山について、纏めて紹介します。『渡辺崋山(1793~1841年)』は、通称は登(のぼり、のぼると揮毫)、諱は定静(さだやす)、号ははじめ華山でしたが、35歳ころに崋山と改めました。号は他にも全楽堂、寓画堂などがあります。(同上)

  • 崋山は、江戸詰の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町の藩邸で生まれました。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていましたが、父定通が養子であることから15人扶持(27石相当)に削られました。父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかり、幼少期は極端な貧窮の中に育ちました。(同上)

    崋山は、江戸詰の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町の藩邸で生まれました。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていましたが、父定通が養子であることから15人扶持(27石相当)に削られました。父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかり、幼少期は極端な貧窮の中に育ちました。(同上)

  • 田原城周辺の現在の案内図です。まだ少年の崋山は、生計を助けるために得意だった絵を売って、生計を支えました。のちに谷文晁(1763~1841年)に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となりました。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳の時には昌平坂学問所に通い、佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学びました。(同上)

    田原城周辺の現在の案内図です。まだ少年の崋山は、生計を助けるために得意だった絵を売って、生計を支えました。のちに谷文晁(1763~1841年)に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となりました。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳の時には昌平坂学問所に通い、佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学びました。(同上)

  • 藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にありました。時は進んで、天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任し、天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉も藩は乗り切りました。(同上)

    藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にありました。時は進んで、天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任し、天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉も藩は乗り切りました。(同上)

  • 天保の大飢饉を貧しい班が乗り切ったのは、食料備蓄庫を築いておいたことや、『凶荒心得書』という対応手引きを著して、家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどが効果があったとされます。貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けています。崋山は農学も学んでいました。(同上)

    天保の大飢饉を貧しい班が乗り切ったのは、食料備蓄庫を築いておいたことや、『凶荒心得書』という対応手引きを著して、家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどが効果があったとされます。貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けています。崋山は農学も学んでいました。(同上)

  • 崋山は、藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用しました。助郷(すけごう)とは、徳川幕府が諸街道の宿場周辺の村落に課した夫役です。それによって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されましたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑とされ、崋山自身は開国論を持っていて、鎖国・海防に反対の考えでした。崋山の紹介はこれで小休止です。(同上)

    崋山は、藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用しました。助郷(すけごう)とは、徳川幕府が諸街道の宿場周辺の村落に課した夫役です。それによって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されましたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑とされ、崋山自身は開国論を持っていて、鎖国・海防に反対の考えでした。崋山の紹介はこれで小休止です。(同上)

  • 『桜門』の前付近から眺めた建物光景です。塀の上に『田原市民俗資料館』の表示がありました。その建物を眺めていましたら、『こちらも見学していってください』との声が掛かりましたので、立ち寄ることにしました。(同上)

    イチオシ

    『桜門』の前付近から眺めた建物光景です。塀の上に『田原市民俗資料館』の表示がありました。その建物を眺めていましたら、『こちらも見学していってください』との声が掛かりましたので、立ち寄ることにしました。(同上)

  • 『田原市民俗資料館』の入口光景です。資料館のHPからの紹介です。『田原市民俗資料館は、田原市博物館に隣接し、田原城桜門の正面にあります。 江戸時代以降の庶民の暮らしを中心にした歴史・民俗・生活工芸資料が展示されています。資料の展示・解説にとどまらず、身近で、たのしく学ぶことのできる場とし、間近にその時代を感じることができます。』と冒頭に紹介されていました。(同上)

    『田原市民俗資料館』の入口光景です。資料館のHPからの紹介です。『田原市民俗資料館は、田原市博物館に隣接し、田原城桜門の正面にあります。 江戸時代以降の庶民の暮らしを中心にした歴史・民俗・生活工芸資料が展示されています。資料の展示・解説にとどまらず、身近で、たのしく学ぶことのできる場とし、間近にその時代を感じることができます。』と冒頭に紹介されていました。(同上)

  • 『田原市民俗資料館』の展示品は撮影禁止になっていましたので、写真紹介は出来ません。その敷地内にあった太鼓橋の光景です。資料館の『農業・漁業の歴史』に関する紹介文です。『田原の人々の生活は、古くから沿岸部の漁業と内陸部の農業によって支えられてきました。ここでは、 農業や漁業に実際に使われていたさまざまな道具を資料として展示しています』 (同上)

    『田原市民俗資料館』の展示品は撮影禁止になっていましたので、写真紹介は出来ません。その敷地内にあった太鼓橋の光景です。資料館の『農業・漁業の歴史』に関する紹介文です。『田原の人々の生活は、古くから沿岸部の漁業と内陸部の農業によって支えられてきました。ここでは、 農業や漁業に実際に使われていたさまざまな道具を資料として展示しています』 (同上)

  • 次は、『衣食・生活・信仰・その他の歴史』に関する展示紹介文です。『庶民の生活のなかで使われていたさまざまな日用品、家具等を展示しています』と紹介され、また、『養蚕・商業・工業の歴史』については、『江戸時代以降の看板や、商業・工業・養蚕業に使われていたさまざまな道具を展示しています』と紹介されていました。これで、『田原市民俗資料館』の紹介はおしまいです。(同上)

    次は、『衣食・生活・信仰・その他の歴史』に関する展示紹介文です。『庶民の生活のなかで使われていたさまざまな日用品、家具等を展示しています』と紹介され、また、『養蚕・商業・工業の歴史』については、『江戸時代以降の看板や、商業・工業・養蚕業に使われていたさまざまな道具を展示しています』と紹介されていました。これで、『田原市民俗資料館』の紹介はおしまいです。(同上)

  • 崋山の紹介を再開します。崋山は、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した『尚歯会』に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合いました。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓しました。絵心のある崋山が、その挿絵を担当しています。その後この学問会は天保8年(1837年)のモリソン号事件とともに更に広がりを見せました。(同上)

    崋山の紹介を再開します。崋山は、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した『尚歯会』に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合いました。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓しました。絵心のある崋山が、その挿絵を担当しています。その後この学問会は天保8年(1837年)のモリソン号事件とともに更に広がりを見せました。(同上)

  • 『尚歯会』には、蘭学者の高野長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになりました。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けています。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある水戸藩の藤田東湖(1806~1855年)は、『蘭学にて大施主』と呼んでいます。(同上)

    イチオシ

    『尚歯会』には、蘭学者の高野長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになりました。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けています。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある水戸藩の藤田東湖(1806~1855年)は、『蘭学にて大施主』と呼んでいます。(同上)

  • 崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての『大施主』の呼び名です。 幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加していないとして、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけとの指摘もあります。崋山や長英・三英は、内心では鎖国の撤廃を望んでいましたが、崋山は幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていたようです。(同上)

    崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての『大施主』の呼び名です。 幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加していないとして、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけとの指摘もあります。崋山や長英・三英は、内心では鎖国の撤廃を望んでいましたが、崋山は幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていたようです。(同上)

  • 江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近しましたが、崋山はそれを利用して江川に海防論の誤りを啓蒙しようとしていたとする説もあります。天保10年(1839年)5月、言論弾圧の『蛮社の獄』が起きました。崋山は、藩に類を及ぶのを避けるため、蟄居中に自裁しました。弾圧の首謀者は鳥居耀蔵でしたが、江川とは昵懇の仲だったようです。まだ紹介したいことがありますが、終わりにします。(同上)

    江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近しましたが、崋山はそれを利用して江川に海防論の誤りを啓蒙しようとしていたとする説もあります。天保10年(1839年)5月、言論弾圧の『蛮社の獄』が起きました。崋山は、藩に類を及ぶのを避けるため、蟄居中に自裁しました。弾圧の首謀者は鳥居耀蔵でしたが、江川とは昵懇の仲だったようです。まだ紹介したいことがありますが、終わりにします。(同上)

  • 南北の本通りに出ました。あとは、三河たあhら駅まで一直線です。街路が整備され散ましたが、街路樹が全くありませんので、この時期でもかなりの厚さを感じました。盛夏での暑さが大変そうでした。(同上)

    南北の本通りに出ました。あとは、三河たあhら駅まで一直線です。街路が整備され散ましたが、街路樹が全くありませんので、この時期でもかなりの厚さを感じました。盛夏での暑さが大変そうでした。(同上)

  • 三河田原駅の構内で撮影した写真だったようです。左上の写真には『三河田原駅舎:平成25年(2013年)10月に竣工』、右下の写真は、『三河田原駅遠景:平成25年(2013年)10月撮影)』です。これで三河の名城田原城の紹介はおしまいです。(同上)

    三河田原駅の構内で撮影した写真だったようです。左上の写真には『三河田原駅舎:平成25年(2013年)10月に竣工』、右下の写真は、『三河田原駅遠景:平成25年(2013年)10月撮影)』です。これで三河の名城田原城の紹介はおしまいです。(同上)

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