2018/06/12 - 2018/06/12
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旅人のくまさんさん
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三河の名城巡りは、続日本百名城に選定された吉田城の紹介の締め括りです。戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に池田輝政により大改築が行われた、巨大な縄張りを持つ名城です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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イチオシ
本丸跡の西北隅に位置する、『鉄櫓(くろがね・やぐら)』の光景です。天守が造られなかったとされる吉田城で、その代わりとなったとされる三重櫓の建物です。天下泰平となった江戸時代には、天守の役割は自然と低下してしまったようです。(同上)
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南側から眺めた、『鉄櫓』の光景です。『鉄櫓』は本丸の西北に位置しますが、ほかの実隅にも隅櫓が置かれていました。『鉄櫓』から時計回りに『入道櫓』、『辰巳櫓』と『千貫櫓』です。(同上)
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『鉄櫓』の上層階のズームアップ光景です。1階部分の下半分ほどは、『下見板張』の概要になっていますが、それより上階は白漆喰での仕上げです。焼物の鯱が乗せられていました。(同上)
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『鉄櫓』の玄関光景です。残念ながら『本日は終了しました』の表示がありました。月曜日だけでなく、火曜日も連休でした。残念ながら、この建物内に置かれている続日本百名城のスタンプは、押印できませんでした。またの日に出直しです。(同上)
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『鉄櫓跡』の文字が刻まれた石標の光景です。現在の『再建鉄櫓』からは少し離れた場所でしたが、『鉄櫓』の位置について、それほど大きな意味合いはないようでした。(同上)
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イチオシ
『鉄櫓』の前の大樹の光景です。段地に生息する、マンサク科イスノキ属の常緑・高木です。ユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキなどの別名を持ちます。虫こぶ(ひょんの実)は、成熟すると表面が硬く、内部が空洞になります。入口の穴に唇を当てて吹くと笛として使えます。これが『ヒョンノキ(ひょうと鳴る木)』の由来とされるようです。(同上)
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『豊橋公園のイスノキ』のタイトルがあった説明看板の光景です。『とよはしの巨木・名木百選』の40番に選ばれた木でした。豊橋地区では、最も巨木のイスノキと紹介されていました。(同上)
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『イスノキ』の特徴らしい、根元のズームアップ光景です。板状根のような値の張り方でした。その板状根が腰掛になるように見えましたが、木の材質が非常に堅く、家具や杖の素材にされことが名前の由来かも知れません。イスノキ材の木刀は、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術の示現(じげん)流系統で使用されているようです。現在の宗家は13代東郷重賢氏です。 (同上)
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『本丸御殿跡』の文字が刻まれた石標の光景です。かつての吉田城の絵図などによれば、『本丸御殿』は本丸の中心近くに置かれていたようですから、この石標も、現位置を厳密に記したものではなさそうです。邪魔にならない場所に控えて建てられていたようです。(同上)
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かつて、四隅に隅櫓が置かれていた、本丸の一部分の光景です。本丸御殿は、江戸時代の深溝松平氏が治めた当時に建設されましたが、宝永地震で崩壊し、以後、再建されませんでした。宝永地震は宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震です。南海トラフのほぼ全域に亘って断層破壊したと考えられる、記録に残る日本最大級の地震です。(同上)
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同じく、本丸とその周りの木々の光景です。宝永地震の説明の続きです。地震の49日後に起きた、富士山の宝永大噴火は、『亥の砂降り(いのすなふり)』と呼ばれます。宝永地震の4年前(1703年)には、元号を『宝永』へと改元するきっかけとなった、『元禄地震』が発生しています。相模トラフ巨大地震の一つと推定されています。(同上)
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同じく、本丸とその周りの光景が続きます。巨大地震の話しも続きます。南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震としては、江戸時代には『宝永地震』のほか、嘉永7年(1854年)に連発した『安政東海地震』および『安政南海地震』が知られています。この安政地震については、『宝永地震の後始末地震』だった可能性も指摘されています。(同上)
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超巨大地震の再来は、エネルギーの蓄積時間の問題があります。100年では短すぎるといったオーダーでの話しです。日本を今後襲うであろう、将来の超巨大地震の見積もりにも深く関係します。もちろん、日本だけの問題ではありませんが、日本における地震発生と、連動する巨大津波、更に火山噴火の連動の危険性は、世界でも群を抜いているようです。(同上)
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環太平洋の国々では、日本をはじめとして、北アメリカのアメリカ西部、南アメリカのチリなどは、近年でも度々大地震が発生しています。日本が大地震に見舞われる確率が高いのは、太平洋側にプレート・テクトニクス論で仮定されているプレートの境界線が密集していることにもあります。ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート等がひしめいています。(同上)
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これまでの海外旅行で、いろんな国の現地ガイドさんに大地震の質問をしましたが、祖pの中でも一番印象に残っているのがポルトガルのリスボンでした。それまでは地震は起きないと信じられていた国を襲った大地震は、1755年11月1日に発生しました。この旅行ブログでも以前に紹介しましたが、現地の人にとっては青天の霹靂、それ以後の科学史を変えてしまうほどのインパクトがありました。(同上)
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巨大地震が起きる前のインドネシアやネパール旅行などでも現地ガイドさんに質問しましたが、『私たちの国では地震は起きません』との回答でした。100年単位では3世代が経過し、200年では6世代です。大地震や津波に対して、技術伝承や、被害回避のノウハウが伝わった稀な国の一つが日本でしたが、決して十分とは言えません。巨大地震の発生頻度でいえば、江戸時代は目と鼻の先です。(同上)
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『南御多門跡』の文字が刻まれた石標の光景です。かつての本丸には3箇所の門があり、二の丸との間には、この『南御多門』と『裏門』があったようです。『北御多門』は、豊川に面した腰櫓や、川手櫓方面の出入口だったようです。(同上)
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『南御多門跡』から、振り返って眺めた『本丸跡』の光景です。通路の左右に、『南御多門跡』の石垣が残っていましたが、虎口の構造になっているようでした。(同上)
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『吉田城』のタイトルがあった、まだ新しい説明看板の光景です。『吉田城略史』と『石垣と刻印』の中身出しでの説明文がありました。中央の図面は、かつての本丸と二の丸の縄張り図です。(同上)
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本丸石垣の光景です。『再建鉄櫓』を支える石垣は、池田輝政当時のものが残されたようです。その他の部分の石垣については、慶長期の名古屋城築城の際に余った石垣を転用している部分が見受けられます。石垣の中には天下普請であったことを示す各大名家の家紋などが刻まれているものが確認されています。(同上)
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左手に見える本丸石垣と、二の丸との間の空堀の光景です。落葉などで、かなり埋まってしまったようです。(同上)
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この辺りは、斜面の傾斜が緩やかに見える部分です。推測になりますが、地形上、石垣を積まずに土手が施工された部分かも知れません。右手の緩やかな斜面が二の丸側になるようです。(同上)
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イチオシ
左手に、二段に積まれた石垣がある方が本丸側になるようです。吉田城で石垣が使われているのは、本丸だけです。(同上)
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到着櫓跡の光景です。石垣で囲われた小高い部分に『到着櫓跡』の標識がありました。『到着櫓』は、『評定櫓』に近い二の丸内の櫓で、二の丸の南側を守る櫓のようです。『着到櫓』は、城内に参集した味方の軍勢や馬揃えなどを、大将が点検観察するための建物でした。(同上)
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かつての『二の丸』エリアの光景です。本丸エリアが石垣で囲われ、更に空堀で防御されていたのに対し、その外郭の『二の丸』は、主に土塁で防御されていたようです。左手に『到着櫓跡』が見えている場所です。(同上)
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『二の丸口門跡』の文字があった石標の光景です。この次に紹介する縄張り図を参照しますと、名称は記載されていませんが、二の丸と三の丸の間で、西向きに開いていた門当たりが該当するようです。東南の『評定櫓』と西北に位置する『到着櫓』の中間点になります。(同上)
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『吉田城案内図』の文字があった説明看板の光景です。かつての吉田城の縄張り図を中心に、周りに現況の写真が添えられていました。右上の写真だけは、現況ではなく明治初期に撮影された大手門です。今は現存しません。(同上)
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『豊橋公園案内図』の文字があった案内看板の光景です。イラストを用いて公園全体が表示されていました。吉田城跡の中心地は、鉄櫓が描かれた公園の左上付近です。かつての本丸がありました。(同上)
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鏡石のような大きな石の光景です。豊橋公園の入口脇の外側の位置にありました。かつての大手門筋の二の丸と、三の丸の境界辺りになるようです。ネット情報を参照しながら判断しますと、『三の丸口門跡』になるようです。(同上)
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豊橋公園の入口門の光景です。公開された公園の出入口ですから、24時間開放されているようでした。今回は、帰りの出口として利用しました。(同上)
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