2018/06/12 - 2018/06/12
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旅人のくまさんさん
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三河の名城の田原城紹介の続きです。各種の縄張り図も目にすることができましたが、地元の生徒さん達の労作の百分の1縮尺の田原城模型も大いに参考になりました。かつては、海城と言ってよい城址でした。(ウィキペディア、田原市関連公式サイト)
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『田原藩領内地図(天保5年3月写)』のタイトルがあった田原藩全域図の光景です。西の先端が伊良湖岬になるようです。東南に飛び地があり、東北には姫島(飛馬嶋)が記されていますが、今は干拓地です。伊勢街道が南を通っているようですから、伊良湖から海路での伊勢参りがあったようです。現代では、伊良湖から鳥羽まではフェリーで55分です。(同上)
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こちらの渥美半島の地図には、『平安・鎌倉時代渥美郡の神領国衙領』のタイトルがありました。『国衙領(こくがりょう)』は、平安時代中期頃以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語です。国衙は国の役所を意味します。地図上の赤字で12箇所の国衙領が、緑色で御厨郷が記されていました。(同上)
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『田原城復元模型図(縮尺:1/100)』のタイトルが展示品です。地元の高校当たりが取り組んだ模型のようでした。氏名は記してありましたが、学校名はありませんでした。現在復元されている桜門や二ノ丸櫓のほか、本丸御殿らしい建物群もありました。(同上)
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正面から眺めた、『田原城復元模型図』の光景です。背後に見える写真は、吉胡貝塚の6層になった貝塚の断面写真で、復元模型図とは関係していません。正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図には、城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています。(同上)
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イチオシ
『田原城復元模型図』の部分的なズームアップ光景です。写真の中央奥に見えるのが、再建されている『二ノ丸櫓』、その左に、同じく再建されている『桜門』が見えています。先ほど紹介した『正保城絵図』は、幕末の同文庫の蔵書目録『増補御書籍目録』に131鋪の所蔵が記録されています。現在、『田原市博物館』では、63鋪の正保城絵図を所蔵しているようです。(同上)
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先程の部分的なズームアップ光景の奥の方のズームアップ光景です。中央に見えているのが二層櫓に見える『二ノ丸櫓』です。先ほど紹介した『正保城絵図』は、1986年(昭和61年)、国の重要文化財に指定されました。今は、国立公文書館の資料をネット検索・閲覧ができるようです。(同上)
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『本丸』部分のズームアップ光景です。北に『萱門』、南に『格子門』、『不浄門』に通じる『腰曲輪』方面にも門がありました。縄張図に名前は記されていませんでしたが、この写真の中央やや左に見える門です。(同上)
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赤く小さな橋が架けられたエリアの光景です。全体図では一番北側になる部分です。赤い橋の右側が『藤田曲輪』、左側が『本丸』になります。『藤田曲輪』の手前(東側)が『腰曲輪』で、その東南端に『藤田門』がありました。(同上)
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複製らしい『徳川家康寄進状』と、その解読文書の紹介です。永禄8年(1565年)5月、家康は長仙寺に本陣を置き、今川側の田原城を攻め落としました。そのことに対する、長仙寺に対する令状と寄進の文書でした。内訳書は石川勝正が書いたことも紹介されていました。家康がまだ松平を名乗っていた、桶狭間の戦いから5年ほどの時代です。(同上)
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レプリカではなく、オリジナル品らしい『甲冑」の展示です。胸に『日の丸に三』の文字がありました。推測ですが、城主の『三宅』の略字かも知れません。田原藩には、三宅一族の家老もいたようです。(同上)
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イチオシ
同じく、レプリカではなく、オリジナル品らしい『甲冑」の展示です。胸に紋所らしい三葉の紋がありました。『丸に剣片喰(けんかたばみ)』紋のようです。片喰は酢漿草、鳩酢草とも書き、その優雅な形状からか古来から人気がありました。文様としては平安、鎌倉時代から車や輿に多く用いられていました。片喰は荒地や畑に群生する繁殖力の強い雑草の一種で、子孫繁栄を意味するとも言われています。日本十大紋の一つで、桐紋に次いで広く愛用されています。『 丸に剣片喰』は城主の三宅氏の紋です。(同上)
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『田原城(巴江城、今宮城)』のタイトルがあった説明文の光景です。折り目から見て、冊子がコピーされた資料かと思いましたが、最後まで目を通しましたら、学芸員の方の発掘調査や遺跡復元の経験を踏まえた、貴重な資料でした。『概要』の解説の始まりは、田原城の立地の紹介です。この地にはじめて築城したのは戸田宗光で、三河の国の守護職の一色氏の勢力下にあった時代と説明されていました。見出しの要約に、築城が1480年、廃城が明治時代で、立地場所は標高16メートル、比高13メートル、規模が380メートル×240メートルと紹介されていました。(同上)
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『田原城(巴江城、今宮城)』のタイトルがあった説明文の続きです。上部の写真には、『田原城絵図(元禄13年:1700年)』のタイトルがありました。右側が北になる絵図で、かつての縄張りが記されていました。平成5~6年にかけての藤田曲輪の発掘調査、本丸と二ノ丸の間のかき上げ土塁と空堀、本丸跡が現在の巴江神社になったことなども紹介されていました。(同上)
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『田原藩行列図』のタイトルがあった色絵の光景です。長い絵巻を適宜分割して複写されているようでした。田原藩で家老まで務めた渡辺崋山の筆になるもので、愛知県指定の文化財でした。1844年(天保4年)に描かれたものです。『客参録』が文化財への指定名称のようです。(同上)
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8枚並べられた古地図の複写のようです。それぞれに名前が付されているようでした。右下の古地図は『三河国渥美郡東ヶ谷村』、左下の古地図には『三河国渥美郡谷ノ口村』の表示がありました。図も文字も原図は墨で記されているようでした。(同上)
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『黒河湿地・植物群落』のタイトルがあった、写真入りのこの地の貴重な動植物の紹介です。『黒河(くろがわ)湿地』は、愛知県指定の天然記念物です。写真紹介されていたのは、右上から時計回りに、シデコブシ、ハッチョウトンボ、ヤチナナギ、トウカイコモウセンゴケ、シラタマホシクサと、サクラバハンノキでした。右下の説明文に、『黒河湿地』の所在地は田原市大久保町黒河、天然記念物指定は昭和46年(1971年)2月、指定面積は5462平方メートルです。写真はありませんでしたが、オオサンショウウオも生息しているようです。(同上)
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『藤七原(とうしちばら)湿地・植物群落』のタイトルがあった、写真入りのこの地の貴重な植物の紹介でした。こちらは、田原市指定の天然記念物です。同じように右上から時計回りにシデコブシ、ミズギク、ハナショウブ、サワシロキクノ(サワシロギク:沢白菊の誤?)、シデコブシ(花のアップ)でした。1500株を超え、シデコブシの群生としては有数の規模と紹介されていました。田原町衣笠から椿沢にかけての5417平方キロほどの湿地です。(同上)
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『二ノ丸櫓』の中から眺めた、田原町博物館の中庭光景です。『二ノ丸櫓』は、本丸御殿などとともに1872年(明治5年)に解体され、田原町博物館の建設にさきがけ、1989年(平成元年)に二の丸跡の発掘調査がされましたが、遺跡は何も見付かりませんでした。大正時代に『二の丸跡』から『三の丸跡』にかけての公園整備が行われ、現在中庭に残る石垣も、この時に積み直されたようです。(同上)
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樹の間から見える建物は、『二ノ丸櫓』のようです。緑の若葉は、楓のようです。大きくはありませんが、格式が高い唐門が設けられていました。西側からの眺めになるようです。その唐門の上に二階部分が見えていました。(同上)
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『田原城跡』のタイトルがあった案内標識の光景です。平成17年(2005年)に田原市教育委員会名で建てられたものです。説明文には田原城の略史と特徴、下の方に歴代城主名が紹介されていました。左上の図面は『田原城の曲輪等の名称」と題した縄張図、右上の写真が、現存した時代の『明治はじめの二ノ丸櫓』のモノクロ写真です。(同上)
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こちらも『『田原城跡』のタイトルがあった案内標識です。城跡の見どころの一つ、石垣写真が紹介されていました。田原城には、1600年代初頭の野面積の石垣も残っています。かつては、城の周囲に海が入り込んでいました。(同上)
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内側から眺めた『桜門』の光景です。ネット情報では、『田原城にしては、少し立派過ぎる門』などの書き込みがありました。見方は、人それぞれですが、地元としては、文献調査や発掘調査などを基に、精魂込めて再建した『桜門』のようです。(同上)
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低い石垣の上に置かれていた、井桁の光景です。木材ではなく石材でした。その下に水溜りが見えていましたから、井戸跡のようです。見落としたのかも知れませんが、付近に標識類は見当たらなかったようです。(同上)
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外から眺めた『田原市博物館』の光景です。左手方面に見えるのが、本館などの建物、右端に側面が見えるのは収蔵庫兼展示館の『二ノ丸櫓』です。写真中央に、入口の冠木門が見えました。(同上)
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側面から眺めた、再建された『二ノ丸櫓』の光景です。現在、内部が文化財の貯蔵庫と展示場として使われています。こちらの面に唐破風がありましたが、なぜか、輪郭は読み取れるものの、出入口や窓はありませんでした。二階部分には、格子(連子)窓がありました。(同上)
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野面積の石垣の脇に建てられていた標識の光景です。『二ノ丸櫓(文化財収蔵庫)』の文字が記されていました。石垣の上の建物は、戦後に再建されたものです。石垣の原型は江戸時代の初めのようですが、その後に積み直されたようです。(同上)
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『二ノ丸櫓(文化財収蔵庫)』の石垣と、その上部に少しだけ見える再建された『二の丸櫓』の光景です。石垣には、田原市北部で産出する石灰岩も置く使われているようです。(同上)
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縄張図には、『通用門』と記してあった簡易な門の光景です。『三の丸』の西南に位置する門です。扉のない四柱門でしたが、文献調査などを基に選定された門の超式のようです。(同上)
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先程の通用門を潜って、左手方面(北側)に進んだ光景です。本丸方面には空堀と石垣で防御されていたようですから、出入りはこの『通用門』と、腰曲輪を通って『多門』があるだけのようでした。『通用門』が簡易な様式なのも、本丸方面への通路がないためかも知れません。(同上)
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薄紫の花を咲かせた、『ガクアジサイ(額紫陽花)』の光景です。今が丁度季節の花です。アジサイ科アジサイ属の落葉低木で、ガクアジサイは西洋に渡り、手毬咲の西洋アジサイの原種になったとされます。(同上)
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