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三河の名城巡りの続きです。渥美半島には、日本三大古窯の『渥美窯』があり、その貴重な資料などが『二の丸展示館』の展示してありましたので、そちらの方も、出来るだけ詳しく紹介しておきました。(ウィキペディア、田原市関連公式サイト)

2018梅雨、三河の名城(6/8):田原城(3):二の丸展示館、古窯出土品、山崎遺跡出土品

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2018/06/12 - 2018/06/12

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旅行記グループ 2018梅雨、三河の名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

三河の名城巡りの続きです。渥美半島には、日本三大古窯の『渥美窯』があり、その貴重な資料などが『二の丸展示館』の展示してありましたので、そちらの方も、出来るだけ詳しく紹介しておきました。(ウィキペディア、田原市関連公式サイト)

交通手段
私鉄

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  • *『大アラコ古窯全景』のタイトルがあったカラー写真の光景です。(同上)<br />時代:全盛期は平安末期から鎌倉時代<br />所在地:田原市芦町大アラコ地区<br />遺構概要:5基の登窯、蔵骨器、経筒容器、大甕・壺・鉢・山茶碗などが出土 <br />その他:1971年(昭和46年)に国の史跡に指定

    イチオシ

    *『大アラコ古窯全景』のタイトルがあったカラー写真の光景です。(同上)
    時代:全盛期は平安末期から鎌倉時代
    所在地:田原市芦町大アラコ地区
    遺構概要:5基の登窯、蔵骨器、経筒容器、大甕・壺・鉢・山茶碗などが出土
    その他:1971年(昭和46年)に国の史跡に指定

  • *『大アラコ6号窯』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)<br />時代:全盛期は平安末期から鎌倉時代<br />所在地:田原市芦町大アラコ地区<br />遺構概要:5基の登窯、蔵骨器、経筒容器、大甕・壺・鉢・山茶碗などが出土 <br />その他:1971年(昭和46年)に国の史跡に指定、渥美窯の古窯跡の一つ。

    *『大アラコ6号窯』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)
    時代:全盛期は平安末期から鎌倉時代
    所在地:田原市芦町大アラコ地区
    遺構概要:5基の登窯、蔵骨器、経筒容器、大甕・壺・鉢・山茶碗などが出土
    その他:1971年(昭和46年)に国の史跡に指定、渥美窯の古窯跡の一つ。

  • *『向山古墳群全景』のタイトルがあったカラー写真の光景です。(同上)<br />時代:6~7世紀<br />所在地:愛知県田原市<br />遺構概要:1950年(昭和25年)から調査

    *『向山古墳群全景』のタイトルがあったカラー写真の光景です。(同上)
    時代:6~7世紀
    所在地:愛知県田原市
    遺構概要:1950年(昭和25年)から調査

  • *『田原町全域空中写真図』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)<br />撮影:1946年(昭和21年)<br />計画:田原町総務部企画課<br />調製:1984年(昭和59年)9月、中日本航空<br />

    *『田原町全域空中写真図』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)
    撮影:1946年(昭和21年)
    計画:田原町総務部企画課
    調製:1984年(昭和59年)9月、中日本航空

  • *『全国中世窯分布図』のタイトルがあった説明プレートの光景です。(同上)<br />北は山形県と宮城県が最北、南は熊本県が最難で、中部地区が密度の濃い分布図でした。政策念が分かりませんでしたが、その後に発見された場所もあるかも知れません。縄文土器が北海道から沖縄まで出土するのに対し、それより新しい時代の焼物に北限と南限があるのが不思議です。

    *『全国中世窯分布図』のタイトルがあった説明プレートの光景です。(同上)
    北は山形県と宮城県が最北、南は熊本県が最難で、中部地区が密度の濃い分布図でした。政策念が分かりませんでしたが、その後に発見された場所もあるかも知れません。縄文土器が北海道から沖縄まで出土するのに対し、それより新しい時代の焼物に北限と南限があるのが不思議です。

  • *『東海の中世窯位置図』のタイトルがあった説明プレートの光景です。(同上)<br />(材)瀬戸市埋蔵文化財センターが1993年に纏めた『東海の中世窯』が元資料であることが記されていました。

    *『東海の中世窯位置図』のタイトルがあった説明プレートの光景です。(同上)
    (材)瀬戸市埋蔵文化財センターが1993年に纏めた『東海の中世窯』が元資料であることが記されていました。

  • *『地元ブランドの先祖・渥美古窯』のタイトルの説明プレートです。(同上)<br />これまでに500基ほどが確認された、渥美半島の平安時代から鎌倉時代(12世紀初頭~14世紀頃)にかけての古窯の紹介文でした。

    *『地元ブランドの先祖・渥美古窯』のタイトルの説明プレートです。(同上)
    これまでに500基ほどが確認された、渥美半島の平安時代から鎌倉時代(12世紀初頭~14世紀頃)にかけての古窯の紹介文でした。

  • *『院内古窯』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)<br />時代:平安/鎌倉<br />所在地:愛知県田原市六連町坂<br />遺構概要:窯(1983年調査):山茶椀+甕+壺 <br />その他:現況、山林

    *『院内古窯』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)
    時代:平安/鎌倉
    所在地:愛知県田原市六連町坂
    遺構概要:窯(1983年調査):山茶椀+甕+壺
    その他:現況、山林

  • *『惣作14号窯』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)<br />時代:12~13世紀頃<br />所在地:田原市大草町惣作<br />遺構概要:1974年(昭和50年)調査<br />その他:惣作古窯から、ざれ歌が刻まれた碗が出土

    *『惣作14号窯』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。(同上)
    時代:12~13世紀頃
    所在地:田原市大草町惣作
    遺構概要:1974年(昭和50年)調査
    その他:惣作古窯から、ざれ歌が刻まれた碗が出土

  • *『窯体構造の略図:「渥美窯展」図録から作成』のタイトルの説明プレートです。<br />窯を作るのに向いた地形や、時代によって、焼物の形が変化したことなどが解説されていました。例えば小皿の場合、12世紀中頃までに山茶碗を小型化し、12世紀末から13世紀前半頃までに台が省略され、13世紀後半からは、高さが低くなったことが紹介されていました。その形状の変化で、時代区分の特定できるようです。(同上)

    *『窯体構造の略図:「渥美窯展」図録から作成』のタイトルの説明プレートです。
    窯を作るのに向いた地形や、時代によって、焼物の形が変化したことなどが解説されていました。例えば小皿の場合、12世紀中頃までに山茶碗を小型化し、12世紀末から13世紀前半頃までに台が省略され、13世紀後半からは、高さが低くなったことが紹介されていました。その形状の変化で、時代区分の特定できるようです。(同上)

  • *『山崎遺跡発掘調査のようす』のタイトルがあった、2枚の写真の紹介です。(同上)<br />『木器の出土』のサブタイトルがありました。

    *『山崎遺跡発掘調査のようす』のタイトルがあった、2枚の写真の紹介です。(同上)
    『木器の出土』のサブタイトルがありました。

  • *『渥美半島の農業はここからはじまった・山崎遺跡』のタイトルがあった説明プレートです。(同上)<br />平成元年~3年の発掘調査で見付かった、サンテパルク西側の古墳時代から奈良時代(約1700~約1300年前)の山崎遺跡です。

    *『渥美半島の農業はここからはじまった・山崎遺跡』のタイトルがあった説明プレートです。(同上)
    平成元年~3年の発掘調査で見付かった、サンテパルク西側の古墳時代から奈良時代(約1700~約1300年前)の山崎遺跡です。

  • 『山崎遺跡出土品』<br />時代:古墳時代~奈良時代<br />出土品:右側半分が木造製品、左側半分が石製品と焼物 (同上)

    『山崎遺跡出土品』
    時代:古墳時代~奈良時代
    出土品:右側半分が木造製品、左側半分が石製品と焼物 (同上)

  • (左下):『蓋付注口付鉢』:坪沢10号窯出土:13世紀頃<br />(中央付近):『山茶碗』:坪沢4号窯出土:12世紀前半<br />     :『小皿』:坪沢2号窯出土:12世紀前半<br />(その他):坪沢窯出土のようですが、詳細は不明。

    イチオシ

    (左下):『蓋付注口付鉢』:坪沢10号窯出土:13世紀頃
    (中央付近):『山茶碗』:坪沢4号窯出土:12世紀前半
         :『小皿』:坪沢2号窯出土:12世紀前半
    (その他):坪沢窯出土のようですが、詳細は不明。

  • (左手前):皿:坪沢2号窯出土:12世紀前半<br />(右手前):子持器台:坪沢2号窯出土:12世紀前半<br />(右奥):山茶碗?:坪沢窯出土?<br />(左奥):山茶碗?と小皿:坪沢窯出土?<br /> (注)背後の説明書きは、『山茶碗』についての説明です。

    (左手前):皿:坪沢2号窯出土:12世紀前半
    (右手前):子持器台:坪沢2号窯出土:12世紀前半
    (右奥):山茶碗?:坪沢窯出土?
    (左奥):山茶碗?と小皿:坪沢窯出土?
     (注)背後の説明書きは、『山茶碗』についての説明です。

  • *纏めて紹介する、坪沢窯出土の山茶碗、小皿や子持器台などの展示状況です。20点ほどが纏めて展示してありました。

    *纏めて紹介する、坪沢窯出土の山茶碗、小皿や子持器台などの展示状況です。20点ほどが纏めて展示してありました。

  • 『稲荷下遺跡出土品』<br />(右):壷:(弥生時代後期)<br />(中:下):小型壷:(弥生時代後期)<br />(中:上):手焙型土器:(弥生時代後期)<br />(左):高坏:(弥生時代後期)

    『稲荷下遺跡出土品』
    (右):壷:(弥生時代後期)
    (中:下):小型壷:(弥生時代後期)
    (中:上):手焙型土器:(弥生時代後期)
    (左):高坏:(弥生時代後期)

  • (右3点):御園遺跡出土品(弥生時代中~後期)<br />  (右)壷:後期、(中)壷:中期、(左)高坏:後期<br />(左2点):東新田経塚出土品(室町時代)<br />  (右):銅鏡、(左):白釉瓶子  

    (右3点):御園遺跡出土品(弥生時代中~後期)
      (右)壷:後期、(中)壷:中期、(左)高坏:後期
    (左2点):東新田経塚出土品(室町時代)
      (右):銅鏡、(左):白釉瓶子  

  • 『東新田経塚出土品』<br />『銅鏡』<br />(室町時代)<br />『銅鏡』のタイトルがあった展示品のピックアップ光景です。

    『東新田経塚出土品』
    『銅鏡』
    (室町時代)
    『銅鏡』のタイトルがあった展示品のピックアップ光景です。

  • (左半分):『二ひめの里刻字入山茶碗』<br />   :坪沢2号窯出土:平安時代末期<br />(右半分):『刻紋入壷破片』<br />   :嶋?森古墳出土:13世紀前期 

    (左半分):『二ひめの里刻字入山茶碗』
       :坪沢2号窯出土:平安時代末期
    (右半分):『刻紋入壷破片』
       :嶋?森古墳出土:13世紀前期 

  • 壷や碗類の展示光景です。右端の表示札から雲雀に向かって順番に『平瓶』、『副葬された須恵器(蔵王下古墳)』、『長頸瓶?』、『坏(つき)』、『高坏(たかつき)』、『長頸瓶?』のようです。すべてが、『副葬された須恵器(蔵王下古墳)』かも知れません。(同上)

    壷や碗類の展示光景です。右端の表示札から雲雀に向かって順番に『平瓶』、『副葬された須恵器(蔵王下古墳)』、『長頸瓶?』、『坏(つき)』、『高坏(たかつき)』、『長頸瓶?』のようです。すべてが、『副葬された須恵器(蔵王下古墳)』かも知れません。(同上)

  • 『貝塚断面』の写真紹介です。紐で印を付けてあるのは、この後紹介する表土の下で6層になった貝塚の境界面です。一様な深さではなく、複雑な境界となっていました。(同上)

    イチオシ

    『貝塚断面』の写真紹介です。紐で印を付けてあるのは、この後紹介する表土の下で6層になった貝塚の境界面です。一様な深さではなく、複雑な境界となっていました。(同上)

  • 先ほど紹介した写真に添えられていた『貝塚断面』のタイトルがあった説明文です。最大深さが2メートルにもなる『吉胡貝塚』の断面についての説明でした。堆積が繰り返され、6層にもなったようです。(同上)

    先ほど紹介した写真に添えられていた『貝塚断面』のタイトルがあった説明文です。最大深さが2メートルにもなる『吉胡貝塚』の断面についての説明でした。堆積が繰り返され、6層にもなったようです。(同上)

  • 標本として作成された『貝塚断面』の光景です。表土の下で6層になった貝塚は、上から(1)混礫破砕貝層、(2)混貝土層、(3)貝層、(4)混土貝層、(5)混貝礫層、(6)黄色小礫層と名付けられていました。(同上)

    標本として作成された『貝塚断面』の光景です。表土の下で6層になった貝塚は、上から(1)混礫破砕貝層、(2)混貝土層、(3)貝層、(4)混土貝層、(5)混貝礫層、(6)黄色小礫層と名付けられていました。(同上)

  • 貴重な記録写真や、発掘調査での出土品などが展示してあった展示室の光景です。殊に、貴重な縄文遺跡の『吉胡貝塚』については、知らないことが多く大いに勉強になりました。(同上)

    イチオシ

    貴重な記録写真や、発掘調査での出土品などが展示してあった展示室の光景です。殊に、貴重な縄文遺跡の『吉胡貝塚』については、知らないことが多く大いに勉強になりました。(同上)

  • 右側の写真には『昭和26年調査参加者」のタイトルがあり、12名の内の10名の氏名が記されていました。左側の説明文と写真は、この後拡大して紹介した、『縄文時代研究の聖地・吉胡貝塚』のタイトルがあった説明文と、その下に展示された写真です。(同上)

    イチオシ

    右側の写真には『昭和26年調査参加者」のタイトルがあり、12名の内の10名の氏名が記されていました。左側の説明文と写真は、この後拡大して紹介した、『縄文時代研究の聖地・吉胡貝塚』のタイトルがあった説明文と、その下に展示された写真です。(同上)

  • 『大正13年の調査:排土の上に座る清野謙次』のタイトルがあった、モノクロ写真の紹介です。清野謙次(1885~1955年)は、医学者、人類学者、考古学者、考古学・民俗学資料の収集家です。生体染色法の応用で組織球性細胞系を発見したことで知られます。はじめ考古学を目指したものの、父親が許さず、京大医学部へ進学した人です。(同上)

    『大正13年の調査:排土の上に座る清野謙次』のタイトルがあった、モノクロ写真の紹介です。清野謙次(1885~1955年)は、医学者、人類学者、考古学者、考古学・民俗学資料の収集家です。生体染色法の応用で組織球性細胞系を発見したことで知られます。はじめ考古学を目指したものの、父親が許さず、京大医学部へ進学した人です。(同上)

  • 『昭和26年調査のようす(第1トレンチ)』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。はっきりはしませんが、『吉胡貝塚』の発掘調査かも知れません。 1951年(昭和26年)、文化財保護委員会(現・文化庁)による発掘調査が行なわれ、埋葬人骨33体が出土、ほかに土器原型カメ棺、イヌ等、縄文時代の研究資料において大きな成果を得ました。(同上)

    『昭和26年調査のようす(第1トレンチ)』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。はっきりはしませんが、『吉胡貝塚』の発掘調査かも知れません。 1951年(昭和26年)、文化財保護委員会(現・文化庁)による発掘調査が行なわれ、埋葬人骨33体が出土、ほかに土器原型カメ棺、イヌ等、縄文時代の研究資料において大きな成果を得ました。(同上)

  • 『21号人骨出土状況』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。これも、1951年(昭和26年)、文化財保護委員会による発掘調査の光景のようです。1950年(昭和25年)5月、文化財保護法が制定され、吉胡貝塚は国が発掘する第1号の遺跡として選ばれました。(同上)

    『21号人骨出土状況』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。これも、1951年(昭和26年)、文化財保護委員会による発掘調査の光景のようです。1950年(昭和25年)5月、文化財保護法が制定され、吉胡貝塚は国が発掘する第1号の遺跡として選ばれました。(同上)

  • 『平成13年調査(埋葬犬と遺物の出土)』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。骨らしいものが2本出土していました。これらの成果により1951年(昭和26年)12月に国の史跡に指定されました。(同上)

    『平成13年調査(埋葬犬と遺物の出土)』のタイトルがあったモノクロ写真の光景です。骨らしいものが2本出土していました。これらの成果により1951年(昭和26年)12月に国の史跡に指定されました。(同上)

  • 『縄文学の父・山内清男が吉胡貝塚調査宿舎で作成した縄文原体の拓影』のタイトルがあった、文様を記した記録写真の光景です。右下に内の朱印が押してありました。『山内清男(すがお:1902~1970年)』は、日本の考古学研究において最も功績のあった考古学者の一人とされます。自身の研究において、『縄文』ではなく『縄紋』の文字を終生用いました。(同上)

    『縄文学の父・山内清男が吉胡貝塚調査宿舎で作成した縄文原体の拓影』のタイトルがあった、文様を記した記録写真の光景です。右下に内の朱印が押してありました。『山内清男(すがお:1902~1970年)』は、日本の考古学研究において最も功績のあった考古学者の一人とされます。自身の研究において、『縄文』ではなく『縄紋』の文字を終生用いました。(同上)

  • 『吉胡貝塚』関係の展示が多くあった展示亜質の光景です。発掘時の写真や、出土品の展示などでした。その後も1983年(昭和53年)の調査が行われ、また1993年(平成5年)から2000年にかけて史跡指定地とその周辺が公有化され、その上で2001年度から2006年度に亘る再度の調査が行われました。後に公園として整備され、2007年11月から『吉胡貝塚史跡公園』として公開されました。(同上)

    『吉胡貝塚』関係の展示が多くあった展示亜質の光景です。発掘時の写真や、出土品の展示などでした。その後も1983年(昭和53年)の調査が行われ、また1993年(平成5年)から2000年にかけて史跡指定地とその周辺が公有化され、その上で2001年度から2006年度に亘る再度の調査が行われました。後に公園として整備され、2007年11月から『吉胡貝塚史跡公園』として公開されました。(同上)

  • 数多くの石器と縄文土器の展示光景です。この写真で読み取ることができる表示札は、『石鏃』(手前中から左)、『打製石斧』(中央中)、『縄文土器破片:縄文後期』(右下)、『縄文土器破片:縄文晩期』(右上)』等です。左上の表示札2枚は読み取れませんでした。(同上)

    数多くの石器と縄文土器の展示光景です。この写真で読み取ることができる表示札は、『石鏃』(手前中から左)、『打製石斧』(中央中)、『縄文土器破片:縄文後期』(右下)、『縄文土器破片:縄文晩期』(右上)』等です。左上の表示札2枚は読み取れませんでした。(同上)

  • 『貝塚の土を分析する』のタイトルがあった説明文と、貝類からの出土品の展示です。多く見付かったのは、貝類ではハマグリやマガキ、陸獣類ではシカやイノシシ、魚類ではタイやフグと紹介されていました。やや多かったのが、貝類のアサリ、オオノガイとスガイです。(同上)

    『貝塚の土を分析する』のタイトルがあった説明文と、貝類からの出土品の展示です。多く見付かったのは、貝類ではハマグリやマガキ、陸獣類ではシカやイノシシ、魚類ではタイやフグと紹介されていました。やや多かったのが、貝類のアサリ、オオノガイとスガイです。(同上)

  • 『分析から推定される吉胡人たちの漁労生活』のタイトルがあった説明文と、貝類の展示です。分析結果から、吉胡人の漁業は、集落近くの干潟や浅瀬での貝採り、クロダイなどの刺突漁、小魚などの網漁と纏められていました。山の幸を補う役割があったとも解説されていました。(同上)

    『分析から推定される吉胡人たちの漁労生活』のタイトルがあった説明文と、貝類の展示です。分析結果から、吉胡人の漁業は、集落近くの干潟や浅瀬での貝採り、クロダイなどの刺突漁、小魚などの網漁と纏められていました。山の幸を補う役割があったとも解説されていました。(同上)

  • (右下):鉄鏃(7点)<br />(左列最下):刀子(とうす:2点)<br />(左列下2段):鹿角柄刀子<br />(左列下3段):鹿角柄短刀<br />(左列最上段):直刀

    (右下):鉄鏃(7点)
    (左列最下):刀子(とうす:2点)
    (左列下2段):鹿角柄刀子
    (左列下3段):鹿角柄短刀
    (左列最上段):直刀

  • (右下):堤瓶(ていへい)<br />(右上):横瓶(おうへい)<br />(左下):堤瓶(ていへい)<br />(左上):長頸鉗(ちょうけいかん)

    (右下):堤瓶(ていへい)
    (右上):横瓶(おうへい)
    (左下):堤瓶(ていへい)
    (左上):長頸鉗(ちょうけいかん)

  • (左図):向山1号墳石室実測図<br />(右上):向山1号墳出土品:耳環<br />(右下):向山1号墳出土品:首飾:勾玉、菅玉、切子玉、棗玉、丸玉

    (左図):向山1号墳石室実測図
    (右上):向山1号墳出土品:耳環
    (右下):向山1号墳出土品:首飾:勾玉、菅玉、切子玉、棗玉、丸玉

  • 『神明社古墳石室実測図』<br />田原市北番場、城宝寺古墳の北西、市立中部保育園南東の神明社。<br />その境内の稲荷社の後ろの墳丘の古墳:渥美半島最古級の大型横穴式石室。<br />須恵器・馬具・大刀・短刀・鉄鏃・鋏・耳環などが出土。(同上)

    『神明社古墳石室実測図』
    田原市北番場、城宝寺古墳の北西、市立中部保育園南東の神明社。
    その境内の稲荷社の後ろの墳丘の古墳:渥美半島最古級の大型横穴式石室。
    須恵器・馬具・大刀・短刀・鉄鏃・鋏・耳環などが出土。(同上)

  • 『城宝寺古墳石室』のタイトルがあった写真プレートです。城宝寺古墳(じょうほうじこふん)は、田原市田原町稗田に位置する古墳です。渡辺崋山の墓所で有名な城宝寺の境内にあります。6世紀末から7世紀初頭に築造された古墳とされ、1975年(昭和50年)、愛知県の史跡に指定されました。(同上)

    『城宝寺古墳石室』のタイトルがあった写真プレートです。城宝寺古墳(じょうほうじこふん)は、田原市田原町稗田に位置する古墳です。渡辺崋山の墓所で有名な城宝寺の境内にあります。6世紀末から7世紀初頭に築造された古墳とされ、1975年(昭和50年)、愛知県の史跡に指定されました。(同上)

  • 『縄文時代研究の聖地・吉胡貝塚』のタイトルがあった説明文と、その下に展示された写真です。『吉胡貝塚(よしごかいづか)』は、蔵王山南麓の汐川河口左岸側に位置する縄文時代晩期末葉から弥生時代前期の貝塚遺跡です、1922年(大正11年)10月と翌年3月に行なわれた京都帝国大学の清野謙次による発掘調査で、302体の縄文人骨が出土し(出土数日本最多)、その名を知られることとなりました。国指定史跡です。(同上)

    『縄文時代研究の聖地・吉胡貝塚』のタイトルがあった説明文と、その下に展示された写真です。『吉胡貝塚(よしごかいづか)』は、蔵王山南麓の汐川河口左岸側に位置する縄文時代晩期末葉から弥生時代前期の貝塚遺跡です、1922年(大正11年)10月と翌年3月に行なわれた京都帝国大学の清野謙次による発掘調査で、302体の縄文人骨が出土し(出土数日本最多)、その名を知られることとなりました。国指定史跡です。(同上)

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