2018/06/12 - 2018/06/12
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旅人のくまさんさん
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愛知の名城の一つ、吉田城は、東海道の重要な防衛拠点でしたから、江戸幕府の老中、大坂城代、京都所司代格など有能な譜代大名が城主に選ばれ、出世城とも呼ばれていました。天下普請の巨大なお城でした。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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豊川沿いの散策路に面した石垣の光景です。修復されたものでしょうか、コーナー部分は、綺麗に成形された石材が使われた、標準的な算木積でした。その周りは、表面加工していない石が使われた野面積でした。(同上)
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表面加工がされていない石財が使われた野面積の石垣のズームアップ光景です。武骨な見た目はともかく、野面積の実用的な強度や耐候性は、長い年月で繰り返し実証済です。(同上)
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今年の沖縄旅行でも目にした、『イソヒヨドリ(磯鵯)』さんのようです。4~5メートル先でしたが、こちらを気にしていました。それでも一気に飛び立つことはありませんでした。近寄った分だけ、数メートル先に移動を繰り返していました。(同上)
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『イソヒヨドリ(磯鵯)』は、ヒヨドリの名前がありますが、ヒヨドリ科ではなくツグミ科イソヒヨドリ属の鳥さんです。この姿は、雄のようです。日本に生息するのは、亜種イソヒヨドリ のようです。(同上)
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追い詰められてしまったイソヒヨドリさんです。この後は、少し遠くまで小飛行しました。アフリカからユーラシア大陸、インドネシア、ニューギニアまで広く分布すると紹介されていました。(同上)
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途中、近代に施工された切込み接ぎの石垣もありましたが、この付近の野面積の石積は、吉田城址の遺構の石垣のようでした。(同上)
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吉田城址の遺構らしい、野面積の石垣のズームアップ光景です。部分的に補修された箇所もあったようです。写真の手前部分が苔生した古い石垣、その先が積み直された新しい石垣に見えました。(同上)
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本丸の北側に位置する、『腰曲輪跡』付近の光景です。石垣に突起部分を設けてあるのは、横矢掛りのようです。『北御多門跡』付近の防御力の強化のためでしょうか。(同上)
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石垣の脇に建てられていた、『腰曲輪跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『腰曲輪』は、吉田城の本丸背後を守るために築かれた曲輪です。(同上)
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遺構と思える石垣のコーナー部分のズームアップ光景です。過渡的な算木積のような造作でした。その周りは野面積です。石が綺麗で、積み直されたらしい雰囲気がありました。(同上)
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所々に野草が生えた、野面積の石垣のズームアップ光景です。少し気がかりだったのが、水抜きパイプは設けてありましたが、隙間にセメントが詰め込まれているように見えたことです。(同上)
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豊川沿いの北側から見上げた『鉄櫓』の光景です。現存の櫓ではなく、1954年(昭和29年)に模擬再建された櫓です。江戸時代には、天守の代わりをしていたとする説もある隅櫓です。(同上)
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同じ場所から、ズームアップした『鉄櫓』の光景です。吉田城には、天守閣はなかったとされますから、三階櫓の『鉄櫓』が天守の代用となったようです。(同上)
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北側から眺めた、『北御多門跡』の石垣と石段と、その背後に控える『鉄櫓』の光景です。石段は、かなり急な傾斜でした。普段の行き来ではなく、危急の場合の守りを考慮した造りのようでした。(同上)
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『北御多門跡』の石垣と石段の光景です。こちらは石垣が低くなった場所でしたが、石段の傾斜は急角度でした。(同上)
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内側からは石垣1段分だけ高くなった、『川手櫓跡』の光景です。『川手櫓』は、明治4年(1871年)に廃城令で破却された後、再建されていません。『本丸』の北側を護る櫓でした。(同上)
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イチオシ
逆光での撮影で、文字が読み取りにくくなりましたが、『川手櫓跡』の石標とその周りの光景です。前方に豊川が見える、本丸の北部に位置します。(同上)
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江戸時代前に、池田輝政公(1565~1613年)によって積まれたものであることが確認された石垣の上に立つ、『鉄櫓』の光景です。江戸時代の天下普請の刻印がない石垣ともされます。(同上)
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同じ場所から撮影した石垣とその上の『鉄櫓』の光景です。池田輝政公は、吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行いました。整備は11年間に亘って行われましたが、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)、照政は播州・姫路に移封されました。現存する吉田城跡は、輝政の統治下では完成しませんでした。輝政は播磨姫路藩の初代藩主となり、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことでも知られる築城の名手でした。(同上)
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『鉄櫓』の石垣のズームアップ光景です。この石垣は、吉田城の中では最も古いものとされ、池田輝政時代に積まれたものと想定されています。池田輝政が東三河4郡を統べる15万2千石の吉田城主となったのは天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封された時です。個性的な形の石材が多く見えていました。(同上)
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本丸の西側の空堀址になるようです。左手に見えるのが、本丸の西北に建つ『鉄櫓』の石垣です。(同上)
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少しだけ見える手前の石垣が『鉄櫓』、その先の石垣がそれより新しい『武具庫跡』の石垣です。角石の中腹から上部が大分膨らんでいるようでした。(同上)
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イチオシ
城内から眺めた、北側の豊川方面の光景です。前夫に見える部分が、行くことを諦めた対岸の突起部分です。(同上)
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北側から見上げた、『鉄櫓』の上層階の光景です。天守が建てられなかった吉田城では、天守の代用とされた隅櫓です。(同上)
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石垣の下から見上げた、『武具所跡』付近の光景です。その先に『鉄櫓』も見えていました。(同上)
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イチオシ
これから入城する、『北御多門跡』の石垣と石段の光景です。保存状態の良い遺構のようでした。(同上)
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先程の石段を登って、『北御多門跡』から振り返って眺めた、豊川が流れる北側方面の光景です。(同上)
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石垣の脇に建てられていた、『北御多門跡』の文字が刻まれた石標の光景です。豊川に面した本丸北側の出入口です。本丸から腰曲輪に通じていました。(同上)
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『北御多門跡』から入城した『本丸跡』の光景です。『本丸御殿は築かれましたが、天守は設けられなかったようです。(同上)
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同じく、『北御多門跡』から入城した『本丸跡』の光景です。山城を含めたお城の面積比較は難しいところですが、『吉田城』は全国屈指の巨城の一つで、城域の面積は84ヘクタール、名古屋城よりも広いとする説もあります。(同上)
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