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愛知の名城巡りです。続日本百名城に選ばれた吉田城と、幕末の偉人の一人、渡辺崋山所縁の田原城の紹介です。最初に向かったのは豊橋に位置する吉田城です。1506年に牧野成時(古白)が、今川氏親(義元の父)の命で築城しました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018梅雨、三河の名城(1/8):吉田城(1):豊川に架かる吉田大橋、橋から眺めた吉田城

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2018/06/12 - 2018/06/12

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旅行記グループ 2018梅雨、三河の名城巡り

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旅人のくまさん

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愛知の名城巡りです。続日本百名城に選ばれた吉田城と、幕末の偉人の一人、渡辺崋山所縁の田原城の紹介です。最初に向かったのは豊橋に位置する吉田城です。1506年に牧野成時(古白)が、今川氏親(義元の父)の命で築城しました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
私鉄

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  • 豊橋駅前からは、今は全国的に珍しくなった路面電車に乗って吉田城跡にやって来ました。かつての三の丸跡に建つ豊橋市公会堂の正面光景です。 国の登録有形文化財の建築物です。大正デモクラシーの最中に豊橋市でも公会堂建設を望む声が上がり、1922年(大正11年)に建設案が市議会に提出されました。1930年に中村與資平の設計で建設が開始され、翌1931年(昭和6年)に竣工しました。(同上)

    豊橋駅前からは、今は全国的に珍しくなった路面電車に乗って吉田城跡にやって来ました。かつての三の丸跡に建つ豊橋市公会堂の正面光景です。 国の登録有形文化財の建築物です。大正デモクラシーの最中に豊橋市でも公会堂建設を望む声が上がり、1922年(大正11年)に建設案が市議会に提出されました。1930年に中村與資平の設計で建設が開始され、翌1931年(昭和6年)に竣工しました。(同上)

  • 右斜め前から眺めた、豊橋市公会堂の建物光景です。外観はロマネスク様式を基調とし、スペイン風の円形ドームは、スパニッシュ・コロニアル・リバイバルという、1910~1920年代にカリフォルニア州で流行したスペイン統治時代の建築様式の復興を試みたスタイルとされます。鉄筋コンクリート造りです。(同上)

    右斜め前から眺めた、豊橋市公会堂の建物光景です。外観はロマネスク様式を基調とし、スペイン風の円形ドームは、スパニッシュ・コロニアル・リバイバルという、1910~1920年代にカリフォルニア州で流行したスペイン統治時代の建築様式の復興を試みたスタイルとされます。鉄筋コンクリート造りです。(同上)

  • 屋上の右側に位置するドーム屋根のズームアップ光景です。設計者の『中村與資平(1880~1963年)』は、静岡県の浜松市生まれ、明治期から昭和期に活躍した建築家です。東京帝大の建築学科を卒業し、朝鮮、旧満州および静岡県などで、数多くの銀行や公共建築の設計を手掛けたことで知られます。(同上)

    屋上の右側に位置するドーム屋根のズームアップ光景です。設計者の『中村與資平(1880~1963年)』は、静岡県の浜松市生まれ、明治期から昭和期に活躍した建築家です。東京帝大の建築学科を卒業し、朝鮮、旧満州および静岡県などで、数多くの銀行や公共建築の設計を手掛けたことで知られます。(同上)

  • 屋上の左側に位置するドーム屋根のズームアップ光景です。設計者の『中村與資平は1905年(明治38年)、東京帝国大学建築学科を卒業後、辰野金吾(1854~1919年)と葛西萬司(1863~1942年)の共同経営による辰野葛西建築事務所に入り、建築家としての社会人スタートを切りました。(同上)

    屋上の左側に位置するドーム屋根のズームアップ光景です。設計者の『中村與資平は1905年(明治38年)、東京帝国大学建築学科を卒業後、辰野金吾(1854~1919年)と葛西萬司(1863~1942年)の共同経営による辰野葛西建築事務所に入り、建築家としての社会人スタートを切りました。(同上)

  • 先程のドーム屋根の方綿に置かれていた鷲像の初代です。今は地上に下りましたが、羽を休めることなく豊橋市公会堂のPRに活躍しています。像の前の説明プレートには、1931年(昭和6年)の創建当時の像と紹介されていました。(同上)

    先程のドーム屋根の方綿に置かれていた鷲像の初代です。今は地上に下りましたが、羽を休めることなく豊橋市公会堂のPRに活躍しています。像の前の説明プレートには、1931年(昭和6年)の創建当時の像と紹介されていました。(同上)

  • 東側から眺めた、豊橋市公会堂の建物側面光景です。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月、豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際に豊橋市役所の機能が移転したほか、1948年(昭和23年)から1952年(昭和27年)までは豊橋中央公民館として、1969年(昭和44年)から1979年までは1階部分が市民窓口センターに使用されました。(同上)

    東側から眺めた、豊橋市公会堂の建物側面光景です。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月、豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際に豊橋市役所の機能が移転したほか、1948年(昭和23年)から1952年(昭和27年)までは豊橋中央公民館として、1969年(昭和44年)から1979年までは1階部分が市民窓口センターに使用されました。(同上)

  • 同じく、東側から眺めた、豊橋市公会堂の建物側面光景です。その背後に見えるのは、豊橋市役所の庁舎です。地上8階の西館は1979年(昭和54年)2月に竣工し、地上13階の東館は1993年(平成5年)6月に竣工しました。いずれも吉田城跡の三の丸に位置します。(同上)

    同じく、東側から眺めた、豊橋市公会堂の建物側面光景です。その背後に見えるのは、豊橋市役所の庁舎です。地上8階の西館は1979年(昭和54年)2月に竣工し、地上13階の東館は1993年(平成5年)6月に竣工しました。いずれも吉田城跡の三の丸に位置します。(同上)

  • 『国登録文化財・豊橋市公会堂』のタイトルがあった立看板の光景です。豊橋市市制25周年を記念し、1931年(昭和6年)に建てられたことなどが紹介されていました。建築様式の特徴のほか、建築面積は1202平方メートルであることなども紹介されていました。(同上)

    『国登録文化財・豊橋市公会堂』のタイトルがあった立看板の光景です。豊橋市市制25周年を記念し、1931年(昭和6年)に建てられたことなどが紹介されていました。建築様式の特徴のほか、建築面積は1202平方メートルであることなども紹介されていました。(同上)

  • 『豊橋市公会堂催事案内』の表示があったガラス張りの掲示板の光景です。6月17日の日曜日にチャリティー芸能大会が行われるポスターが掲示してありました。(同上)

    『豊橋市公会堂催事案内』の表示があったガラス張りの掲示板の光景です。6月17日の日曜日にチャリティー芸能大会が行われるポスターが掲示してありました。(同上)

  • 公会堂横の歩道の緑樹帯の中に建てられていた古い石標の光景です。『御即位大典』の文字が刻まれていました。大正天皇ではなく、昭和天皇の測位記念のようでした。ただし、公会堂の建築時期からの推測です。(同上)

    公会堂横の歩道の緑樹帯の中に建てられていた古い石標の光景です。『御即位大典』の文字が刻まれていました。大正天皇ではなく、昭和天皇の測位記念のようでした。ただし、公会堂の建築時期からの推測です。(同上)

  • 『国登録文化財・豊橋市公会堂』の外観見学の後、北側からの吉田城・鉄櫓の撮影のため、西北方面に向かって歩きました。その途中にあった『とよはし物語館』の表示があった掲示板の光景です。豊橋市役所の東館13階にあり、市電模型や写真展示などががあるようです。(同上)

    『国登録文化財・豊橋市公会堂』の外観見学の後、北側からの吉田城・鉄櫓の撮影のため、西北方面に向かって歩きました。その途中にあった『とよはし物語館』の表示があった掲示板の光景です。豊橋市役所の東館13階にあり、市電模型や写真展示などががあるようです。(同上)

  • 豊橋市役所の西北に位置する『豊城中学校』の校舎の光景です。吉田城は、地名が吉田から豊橋市に代わった後、『豊橋城』とも呼ばれるようになりました。それに因む名前の中学校のようです。ネット検索しましたら、1947年(昭和22年)4月に豊橋市立中部第二中学校として開校、1948年(昭和23年)10月に豊橋市立豊城中学校に改称されたと紹介されていました。(同上)

    豊橋市役所の西北に位置する『豊城中学校』の校舎の光景です。吉田城は、地名が吉田から豊橋市に代わった後、『豊橋城』とも呼ばれるようになりました。それに因む名前の中学校のようです。ネット検索しましたら、1947年(昭和22年)4月に豊橋市立中部第二中学校として開校、1948年(昭和23年)10月に豊橋市立豊城中学校に改称されたと紹介されていました。(同上)

  • 豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の南側の橋の袂付近の光景です。国道1号は、東京都中央区から大阪府大阪市北区に至る一般国道です。ルートは旧東海道をほぼ踏襲した、現代の東海道となっています。(同上)

    豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の南側の橋の袂付近の光景です。国道1号は、東京都中央区から大阪府大阪市北区に至る一般国道です。ルートは旧東海道をほぼ踏襲した、現代の東海道となっています。(同上)

  • 豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の上から眺めた豊川の上流方面の光景です。豊川は、愛知県北設楽郡設楽町段戸山(標高1,152m)に源を発し、南流して愛知県東部の山間部を流れ、長篠城址付近で宇連川を合わせ豊橋平野に流れます。豊川市行明町付近で豊川放水路を分け、豊橋市の西部でこれと再度合流しながら三河湾(渥美湾)に注ぎます。(同上)

    イチオシ

    豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の上から眺めた豊川の上流方面の光景です。豊川は、愛知県北設楽郡設楽町段戸山(標高1,152m)に源を発し、南流して愛知県東部の山間部を流れ、長篠城址付近で宇連川を合わせ豊橋平野に流れます。豊川市行明町付近で豊川放水路を分け、豊橋市の西部でこれと再度合流しながら三河湾(渥美湾)に注ぎます。(同上)

  • 中州のように水面上に顔を出した細長い岩の上にいた、カワウ(川鵜)さんの姿のズームアップ光景です。休憩の場所と、エサ取りの場所を兼ねているお気に入りの場所のようでした。(同上)

    中州のように水面上に顔を出した細長い岩の上にいた、カワウ(川鵜)さんの姿のズームアップ光景です。休憩の場所と、エサ取りの場所を兼ねているお気に入りの場所のようでした。(同上)

  • 豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の上から眺めた吉田城の『鉄櫓(くろがね・やぐら)』の光景です。まだ半分以上が木々に隠れましたので、更に橋を北側に進むことにしました。鉄櫓は、吉田城唯一の再建造物として、昭和29年(1954年)に本丸西北隅に復興された三重櫓です。(同上)

    豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の上から眺めた吉田城の『鉄櫓(くろがね・やぐら)』の光景です。まだ半分以上が木々に隠れましたので、更に橋を北側に進むことにしました。鉄櫓は、吉田城唯一の再建造物として、昭和29年(1954年)に本丸西北隅に復興された三重櫓です。(同上)

  • 豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の上から眺めた吉田城の『鉄櫓』の光景です。ほぼ全体の姿を撮影することができました。吉田城は、築城当初は今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれました。(同上)

    豊川に架かる、国道1号の吉田大橋の上から眺めた吉田城の『鉄櫓』の光景です。ほぼ全体の姿を撮影することができました。吉田城は、築城当初は今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれました。(同上)

  • 同じ場所から、カメラアングルを縦にしての撮影です。永正2年(1505年)に宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町。現在の同市馬見塚町とは位置が異なります)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したのが始まりとされます。戦国時代には三河支配の重要拠点の一つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしました。(同上)

    イチオシ

    同じ場所から、カメラアングルを縦にしての撮影です。永正2年(1505年)に宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町。現在の同市馬見塚町とは位置が異なります)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したのが始まりとされます。戦国時代には三河支配の重要拠点の一つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしました。(同上)

  • 徳川家康は、永禄8年(1565年)に吉田城を攻略し、配下の酒井忠次を置きました。天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴い、池田輝政が15万2千石で入城し、城の拡張と城下町の整備を行いました。現在見られる吉田城は、この時に原型が形成されたようです。(同上)

    イチオシ

    徳川家康は、永禄8年(1565年)に吉田城を攻略し、配下の酒井忠次を置きました。天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴い、池田輝政が15万2千石で入城し、城の拡張と城下町の整備を行いました。現在見られる吉田城は、この時に原型が形成されたようです。(同上)

  • 少しだけズームアップした、吉田城の『鉄櫓』の光景です。明治初年に撮影された写真には、『鉄櫓』とともに、破却されて今は無い、川手櫓、入道櫓、武具櫓や北御多門なども写っていました。廃城になったのは、1871年(明治4年)でした。(同上)

    少しだけズームアップした、吉田城の『鉄櫓』の光景です。明治初年に撮影された写真には、『鉄櫓』とともに、破却されて今は無い、川手櫓、入道櫓、武具櫓や北御多門なども写っていました。廃城になったのは、1871年(明治4年)でした。(同上)

  • 吉田大橋の上から眺めた、豊川の上流方面の光景です。東海地区は、既に梅雨入りしていましたが、絶好の見学日和でした。白い雲が出ていましたが、青空が広がっていました。(同上)

    吉田大橋の上から眺めた、豊川の上流方面の光景です。東海地区は、既に梅雨入りしていましたが、絶好の見学日和でした。白い雲が出ていましたが、青空が広がっていました。(同上)

  • 吉田城の対岸方面のズームアップ光景です。最初は、左手に見える小高くなった場所を目指しました。しかし、相当に時間がかかりそうなことと、整備された道もないようでしたから、橋の上にいる時に早々に諦めました。(同上)

    吉田城の対岸方面のズームアップ光景です。最初は、左手に見える小高くなった場所を目指しました。しかし、相当に時間がかかりそうなことと、整備された道もないようでしたから、橋の上にいる時に早々に諦めました。(同上)

  • 南岸(左岸)に戻る途中、豊川大橋の上から眺めた下流方面の河岸散策路の光景です。緩い傾斜で積まれた石垣の護岸の上にありました。こちら側から吉田城跡に入場できそうでしたから、折り道を探すことにしました。(同上)

    南岸(左岸)に戻る途中、豊川大橋の上から眺めた下流方面の河岸散策路の光景です。緩い傾斜で積まれた石垣の護岸の上にありました。こちら側から吉田城跡に入場できそうでしたから、折り道を探すことにしました。(同上)

  • 中学校の敷地境に張り巡らされたフェンスの先に、オブジェが見えました。『豊城』を意味するらしい、『HOJO』の文字が記された地球儀を若い男女二人で頭上に掲げたデザインのようでした。フェンスに説明文がありましたが、この写真からは、文字が読み取れませんでした。河岸散策路への下り道は、この近くの橋の袂にありました。(同上)

    中学校の敷地境に張り巡らされたフェンスの先に、オブジェが見えました。『豊城』を意味するらしい、『HOJO』の文字が記された地球儀を若い男女二人で頭上に掲げたデザインのようでした。フェンスに説明文がありましたが、この写真からは、文字が読み取れませんでした。河岸散策路への下り道は、この近くの橋の袂にありました。(同上)

  • 豊川沿いの散策路に降り立った後、振り返って見上げた豊川大橋の光景です。豊川の下流方面の眺めも見えました。あまり離れていない下流にも橋が見えましたが、ネットで確認しましたら『豊橋(とよばし)』の名前でした。(同上)

    豊川沿いの散策路に降り立った後、振り返って見上げた豊川大橋の光景です。豊川の下流方面の眺めも見えました。あまり離れていない下流にも橋が見えましたが、ネットで確認しましたら『豊橋(とよばし)』の名前でした。(同上)

  • 豊川沿いの散策路の前方光景です。舗装・整備された道路でした。吉田大橋の上からは、散策路を歩く人の姿を見かけましたが、下りた後に出遭った人はいませんでした。街路灯はありませんでしたから、夜に通る人もなさそうでした。(同上)

    豊川沿いの散策路の前方光景です。舗装・整備された道路でした。吉田大橋の上からは、散策路を歩く人の姿を見かけましたが、下りた後に出遭った人はいませんでした。街路灯はありませんでしたから、夜に通る人もなさそうでした。(同上)

  • 散策路の右手に見えた、両側に石垣が積まれた場所の光景です。かつての水門跡のようでした。水路跡らしい先は、コンクリートで塞がれていました。下草が綺麗に刈り込まれた時の写真とともに、『水門跡』であることを記したネット情報も目にしました。岡崎城なども川を利用して物資を城内に運んでいましたが、水門跡が残る城は愛知県では吉田城だけとも紹介されていました。(同上)

    散策路の右手に見えた、両側に石垣が積まれた場所の光景です。かつての水門跡のようでした。水路跡らしい先は、コンクリートで塞がれていました。下草が綺麗に刈り込まれた時の写真とともに、『水門跡』であることを記したネット情報も目にしました。岡崎城なども川を利用して物資を城内に運んでいましたが、水門跡が残る城は愛知県では吉田城だけとも紹介されていました。(同上)

  • 豊川沿いの散策路の光景が続きます。前方に障害物らしいものが見えましたが、通行止めにはなっていないようでした。この辺りでは、右手に城跡の石垣が続いていました。(同上)

    豊川沿いの散策路の光景が続きます。前方に障害物らしいものが見えましたが、通行止めにはなっていないようでした。この辺りでは、右手に城跡の石垣が続いていました。(同上)

  • 障害物が見えていた付近の山側の光景です。場内からの排水路らしいものが残っていました。勝が器物は、その排水路に架かる小さな橋の石像の欄干でした。(同上)

    障害物が見えていた付近の山側の光景です。場内からの排水路らしいものが残っていました。勝が器物は、その排水路に架かる小さな橋の石像の欄干でした。(同上)

  • 豊川沿いの散策路の山手川の光景です。休憩用の腰掛らしい、上が平らな石が並んでいました。この辺りの吉田城の石垣は、近年に積み直されたような、切込み接ぎ(豆腐積)の新しい石積でした。(同上)

    豊川沿いの散策路の山手川の光景です。休憩用の腰掛らしい、上が平らな石が並んでいました。この辺りの吉田城の石垣は、近年に積み直されたような、切込み接ぎ(豆腐積)の新しい石積でした。(同上)

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