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三河の名城巡りです。豊橋の続日本百名城の吉田城の見学の後、次は渥美半島にある田原城の見学です。幕末の著名な画家で、田原藩の家老にもなった渡辺崋山の出身地としても有名な名城です。(ウィキペディア、田原市関連公式サイト)

2018梅雨、三河の名城(4/8):田原城(1):豊橋鉄道で田原へ、三河田原駅から田原城へ

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2018/06/12 - 2018/06/12

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旅行記グループ 2018梅雨、三河の名城巡り

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旅人のくまさん

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三河の名城巡りです。豊橋の続日本百名城の吉田城の見学の後、次は渥美半島にある田原城の見学です。幕末の著名な画家で、田原藩の家老にもなった渡辺崋山の出身地としても有名な名城です。(ウィキペディア、田原市関連公式サイト)

交通手段
私鉄

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  • 吉田城からは路面電車で豊橋駅に戻り、豊橋駅から豊橋鉄道に乗り換えて、渥美半島にある三河田原駅に向かいました。豊橋駅から乗車した、ツツジの写真が飾られたローカル電車の光景です。豊橋市内で昼食を済ませましたので、到着は午後の2時半頃になりました。(同上)

    吉田城からは路面電車で豊橋駅に戻り、豊橋駅から豊橋鉄道に乗り換えて、渥美半島にある三河田原駅に向かいました。豊橋駅から乗車した、ツツジの写真が飾られたローカル電車の光景です。豊橋市内で昼食を済ませましたので、到着は午後の2時半頃になりました。(同上)

  • 豊橋鉄道(㈱)の三河田原駅構内の光景です。豊橋鉄道(㈱)は、名古屋鉄道(通称:名鉄)の連結子会社です。愛称・略称は『豊鉄(とよてつ)です。1924年(大正13年)3月に豊橋電気軌道株式会社として設立し、1939年(昭和14年)9月に名古屋鉄道の傘下に入りました。(同上)

    豊橋鉄道(㈱)の三河田原駅構内の光景です。豊橋鉄道(㈱)は、名古屋鉄道(通称:名鉄)の連結子会社です。愛称・略称は『豊鉄(とよてつ)です。1924年(大正13年)3月に豊橋電気軌道株式会社として設立し、1939年(昭和14年)9月に名古屋鉄道の傘下に入りました。(同上)

  • はじめて乗った豊橋鉄道ですから、豊橋までの帰りの便を確認しておきました。1時間に4本はありましたから、敢て乗車時間を決めておく必要もありませんでした。最大でも15分の待ち時間です。(同上)

    はじめて乗った豊橋鉄道ですから、豊橋までの帰りの便を確認しておきました。1時間に4本はありましたから、敢て乗車時間を決めておく必要もありませんでした。最大でも15分の待ち時間です。(同上)

  • 振り返って眺めた、三河田原駅の建物光景です。『三河田原駅』でネット検索しましたら、『愛知県田原市田原町東大浜にある、豊橋鉄道渥美線の駅。駅番号は16。田原市の中心駅で有人駅である。愛知県内の鉄道駅では最南端に位置する。豊鉄バスの伊良湖本線と接続し渥美方面へバス路線が連絡する(ウィキペディア)』と紹介されていました。(同上)

    振り返って眺めた、三河田原駅の建物光景です。『三河田原駅』でネット検索しましたら、『愛知県田原市田原町東大浜にある、豊橋鉄道渥美線の駅。駅番号は16。田原市の中心駅で有人駅である。愛知県内の鉄道駅では最南端に位置する。豊鉄バスの伊良湖本線と接続し渥美方面へバス路線が連絡する(ウィキペディア)』と紹介されていました。(同上)

  • 三河田原駅の駅前にあった『駅周辺案内図』の光景です。三河田原駅から田原城跡までは、ほぼ北向きに一直線で1キロほどと目算できました。バスやタクシーを使う必要もなく、約10分の行程は歩きに決めました。(同上)

    三河田原駅の駅前にあった『駅周辺案内図』の光景です。三河田原駅から田原城跡までは、ほぼ北向きに一直線で1キロほどと目算できました。バスやタクシーを使う必要もなく、約10分の行程は歩きに決めました。(同上)

  • 田原城址に向かって歩きながら、愛知県、かつての尾張と三河の名城について紹介します。日本百名城に選ばれたのは、尾張地区が名古屋城、犬山城、三河地区が岡崎城と長篠城のそれぞれ2箇所です。どのお城も、日本の歴史の随所に登場する日本百名城に相応しい名城ばかりです。城の遺構としては、長篠城だけが建造物の再建はありません。(同上)

    田原城址に向かって歩きながら、愛知県、かつての尾張と三河の名城について紹介します。日本百名城に選ばれたのは、尾張地区が名古屋城、犬山城、三河地区が岡崎城と長篠城のそれぞれ2箇所です。どのお城も、日本の歴史の随所に登場する日本百名城に相応しい名城ばかりです。城の遺構としては、長篠城だけが建造物の再建はありません。(同上)

  • 案内標識から地名のチェックです。城下町らしい『殿町(とのまち)』の表示がありました。続いて、尾張と三河の『続日本百名城』の紹介です。尾張地区では小牧山城、三河地区では古宮城と吉田城の2箇所が選ばれました。尾張地区では、信長所縁の清州城が選ばれなかったのが非常に残念でした。新幹線により敷地が分断され、再建された天守が、史実とは異なる位置だったのが影響したようです。(同上)

    案内標識から地名のチェックです。城下町らしい『殿町(とのまち)』の表示がありました。続いて、尾張と三河の『続日本百名城』の紹介です。尾張地区では小牧山城、三河地区では古宮城と吉田城の2箇所が選ばれました。尾張地区では、信長所縁の清州城が選ばれなかったのが非常に残念でした。新幹線により敷地が分断され、再建された天守が、史実とは異なる位置だったのが影響したようです。(同上)

  • 田原城址に向かうメインの通りから、左手に分岐した通りの光景です。三河地区では、『続日本百名城』には2箇所が選ばれましたが、選に漏れて残念だったのが、田原城でした。愛知県では、『日本百名城』と『続日本百名城』を合わせて7箇所が選ばれていますから、全国平均では上位になりますが、『残念』と思われるお城は田原城以外にもあります。(同上)

    田原城址に向かうメインの通りから、左手に分岐した通りの光景です。三河地区では、『続日本百名城』には2箇所が選ばれましたが、選に漏れて残念だったのが、田原城でした。愛知県では、『日本百名城』と『続日本百名城』を合わせて7箇所が選ばれていますから、全国平均では上位になりますが、『残念』と思われるお城は田原城以外にもあります。(同上)

  • 愛知県(尾張・三河)で日本二百名城(続を含めて)に選ばれず、『残念』と思われているお城を紹介しておきます。『絶対外せない【愛知の名城】おすすめ10選』からの紹介です。愛知県には約300の城址が残り、その中の10箇所がリストアップされていました。日本二百名城から外れたのは、長篠城、古宮城の2箇所です。やや天守等の見栄えに拘った選定の影響かも知れません。(同上)

    愛知県(尾張・三河)で日本二百名城(続を含めて)に選ばれず、『残念』と思われているお城を紹介しておきます。『絶対外せない【愛知の名城】おすすめ10選』からの紹介です。愛知県には約300の城址が残り、その中の10箇所がリストアップされていました。日本二百名城から外れたのは、長篠城、古宮城の2箇所です。やや天守等の見栄えに拘った選定の影響かも知れません。(同上)

  • 『【愛知の名城】おすすめ10選』に選ばれていたお城で、日本二百名城以外のお城は、清州城、西尾城、岩崎城、田原城と足助城の5箇所です。歴史的価値から言えば、清州城、岩崎城と田原城は、既に選ばれた日本二百名城に引けを取ることはありません。しかし、決まってしまったことは仕方がありません。『残念』と諦めるだけです。(同上)

    『【愛知の名城】おすすめ10選』に選ばれていたお城で、日本二百名城以外のお城は、清州城、西尾城、岩崎城、田原城と足助城の5箇所です。歴史的価値から言えば、清州城、岩崎城と田原城は、既に選ばれた日本二百名城に引けを取ることはありません。しかし、決まってしまったことは仕方がありません。『残念』と諦めるだけです。(同上)

  • 左手に見えてきた小高い山の光景です。地形的にも、田原城址が近付いてきたことが実感できました。小山の裾にもは、石垣が廻らされていました。左側の建物には『田原市消防団・中部分団』の表示がありました。右側に纏いの絵表示がありましたから、山車の倉庫当たりかもしれません。(同上)

    左手に見えてきた小高い山の光景です。地形的にも、田原城址が近付いてきたことが実感できました。小山の裾にもは、石垣が廻らされていました。左側の建物には『田原市消防団・中部分団』の表示がありました。右側に纏いの絵表示がありましたから、山車の倉庫当たりかもしれません。(同上)

  • 田原城址を目指して北向きに進んで来ましたが、『晩田』の信号交差点で左折しました。左折した後は、左手に石垣が続く、緩やかな上り坂でした。先ほど紹介した『殿町』の信号交差点が、田原城址の東南角付近になるようでした。この通りが、城跡の北端になるようです。(同上)

    田原城址を目指して北向きに進んで来ましたが、『晩田』の信号交差点で左折しました。左折した後は、左手に石垣が続く、緩やかな上り坂でした。先ほど紹介した『殿町』の信号交差点が、田原城址の東南角付近になるようでした。この通りが、城跡の北端になるようです。(同上)

  • 『田原城址』が近付いてきたようです。伝統的な打込み接ぎの石垣の上に、白漆喰の長塀が続いていました。鉄砲狭間も見えていました。かつての田原城の縄張りを示す石垣のようです。(同上)

    『田原城址』が近付いてきたようです。伝統的な打込み接ぎの石垣の上に、白漆喰の長塀が続いていました。鉄砲狭間も見えていました。かつての田原城の縄張りを示す石垣のようです。(同上)

  • 伝統的な打込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。通りが区画整理されているようですから、遺物の石垣ではなく、後年に積まれた石垣かも知れませんが、石材などは流用された可能性もあるようです。城壁を連想させる石垣です。(同上)

    伝統的な打込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。通りが区画整理されているようですから、遺物の石垣ではなく、後年に積まれた石垣かも知れませんが、石材などは流用された可能性もあるようです。城壁を連想させる石垣です。(同上)

  • 振り返って眺めた、長い石垣と白い長塀の光景です。これだけの石垣ですから、仮に区画整理が行われたとしても、優先的に残された石垣かも知れません。後で、地図を確認しましたら、主に巴江神社の北側の石垣になるようでした。(同上)

    振り返って眺めた、長い石垣と白い長塀の光景です。これだけの石垣ですから、仮に区画整理が行われたとしても、優先的に残された石垣かも知れません。後で、地図を確認しましたら、主に巴江神社の北側の石垣になるようでした。(同上)

  • 長い石垣と白い長塀の曲がり角付近にやってきました。この先にも、延々と石垣と長塀が続いていました。間違いなく、かつての田原城の縄張りに関係した石垣と長塀です。(同上)

    長い石垣と白い長塀の曲がり角付近にやってきました。この先にも、延々と石垣と長塀が続いていました。間違いなく、かつての田原城の縄張りに関係した石垣と長塀です。(同上)

  • この付近の道路標識の紹介です。すべて左向きの矢印で、田原市博物館、崋山会館、田原城跡と池ノ原公園が記されていました。途中、近道もあったかも知れませんが、分かりやすい本通りを歩いての到着です。(同上)

    この付近の道路標識の紹介です。すべて左向きの矢印で、田原市博物館、崋山会館、田原城跡と池ノ原公園が記されていました。途中、近道もあったかも知れませんが、分かりやすい本通りを歩いての到着です。(同上)

  • 『田原市博物館』の文字が記された門柱の光景です。道の両脇に建っていましたが、門はありませんでした。この場所は、駐車場まで車で通過する人が多いためのようです。(同上)

    『田原市博物館』の文字が記された門柱の光景です。道の両脇に建っていましたが、門はありませんでした。この場所は、駐車場まで車で通過する人が多いためのようです。(同上)

  • 木漏れ日の陰影が写り込んで、読みにくくなってしまった案内看板の光景です。6月に入り、既に書家ですから、日差しも強くなりました。この看板のタイトルは、『田原市観光MAP』、『ウォーキング・トレイル』の副題がありました。スタート地点の三河田原駅も記された地図でした。(同上)

    木漏れ日の陰影が写り込んで、読みにくくなってしまった案内看板の光景です。6月に入り、既に書家ですから、日差しも強くなりました。この看板のタイトルは、『田原市観光MAP』、『ウォーキング・トレイル』の副題がありました。スタート地点の三河田原駅も記された地図でした。(同上)

  • 先程の案内図よりは、やや小さめの案内地図の紹介です。こちらには『田原市博物館・周辺のご案内』のタイトルがありました。名称から拾い上げても『桜門』、『空堀』、『二の丸櫓』など、田原城跡らしい遺跡が幾つも記されていました。田原市博物館や巴江神社も。かつての田原城の縄張り内に位置するようでした。(同上)

    先程の案内図よりは、やや小さめの案内地図の紹介です。こちらには『田原市博物館・周辺のご案内』のタイトルがありました。名称から拾い上げても『桜門』、『空堀』、『二の丸櫓』など、田原城跡らしい遺跡が幾つも記されていました。田原市博物館や巴江神社も。かつての田原城の縄張り内に位置するようでした。(同上)

  • 再建された、冠木門の造りの入口光景です。右側の門柱に、『田原市博物館入口』の標識がありました。冠木門の先には、立派な日本庭園の光景が広がっていました。書家と言っても、まだ梅雨時、紫陽花の花も見えました。(同上)

    再建された、冠木門の造りの入口光景です。右側の門柱に、『田原市博物館入口』の標識がありました。冠木門の先には、立派な日本庭園の光景が広がっていました。書家と言っても、まだ梅雨時、紫陽花の花も見えました。(同上)

  • 冠木門を潜って、先に進みます。周りの石垣などは、田原城の遺跡の一部に間違いないようでした。木漏れ日の中に続く、頑丈に造られた木の桟道の光景です。推測ですが、『続日本百名城』を目指した施設整備だったかも知れません。それだけの価値がある田原城址です。(同上)

    冠木門を潜って、先に進みます。周りの石垣などは、田原城の遺跡の一部に間違いないようでした。木漏れ日の中に続く、頑丈に造られた木の桟道の光景です。推測ですが、『続日本百名城』を目指した施設整備だったかも知れません。それだけの価値がある田原城址です。(同上)

  • 石垣の間に設けられた長い石段の光景です。戸田宗光(全久)により、1480年頃に築城され、戸田氏の三河湾支配の拠点となった田原城です。はじめは松平氏に属し、さらに今川氏に転じました。天文16年(1547年)、戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康)を護送する任を受けましたが、敵方に寝返りました。(同上)

    イチオシ

    石垣の間に設けられた長い石段の光景です。戸田宗光(全久)により、1480年頃に築城され、戸田氏の三河湾支配の拠点となった田原城です。はじめは松平氏に属し、さらに今川氏に転じました。天文16年(1547年)、戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康)を護送する任を受けましたが、敵方に寝返りました。(同上)

  • 通路脇にあった小さな祠の光景です。戸田康光は、寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信秀に送りました。これに怒った今川義元は、田原城を攻めて落城させ、城主康光も戦死しました。その後今川氏に属する城代が入りましたが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入りました。(同上)

    通路脇にあった小さな祠の光景です。戸田康光は、寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信秀に送りました。これに怒った今川義元は、田原城を攻めて落城させ、城主康光も戦死しました。その後今川氏に属する城代が入りましたが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入りました。(同上)

  • 木漏れ日が写り込んで見難くなってしまいましたが、田原城の遺構らしい石垣のズームアップ光景です。野面積と打込み接ぎを折衷したように見えましたが、表面加工はされていないようですから、野面積と呼んだがよさそうです。(同上)

    木漏れ日が写り込んで見難くなってしまいましたが、田原城の遺構らしい石垣のズームアップ光景です。野面積と打込み接ぎを折衷したように見えましたが、表面加工はされていないようですから、野面積と呼んだがよさそうです。(同上)

  • 登って来た石段の上から、振り返って眺めた麓の光景です。石段の先には、木で作られた頑丈な桟道が続いていました。長い石段の脇には、観光用に整備されたらしい、頑丈な木の柵がありました。空堀や水濠も遺構として残りますが、城門をはじめとする建築物は、後に復元されたものです。田原城は、江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁でした。(同上)

    登って来た石段の上から、振り返って眺めた麓の光景です。石段の先には、木で作られた頑丈な桟道が続いていました。長い石段の脇には、観光用に整備されたらしい、頑丈な木の柵がありました。空堀や水濠も遺構として残りますが、城門をはじめとする建築物は、後に復元されたものです。田原城は、江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁でした。(同上)

  • 戦時の時代、防御を考慮したような石垣のようです。松平氏譜代の本多広孝が城主の時代、東三河の旗頭は、吉田城を与えられた酒井忠次でした。さらに天正18年(1590年)、家康が関東へと移封になると、代わって吉田城に入封した池田輝政(1565~1613年)の持ち城となり、田原城は重臣筆頭の伊木忠次(1543~1603年)が城主となりました。(同上)

    戦時の時代、防御を考慮したような石垣のようです。松平氏譜代の本多広孝が城主の時代、東三河の旗頭は、吉田城を与えられた酒井忠次でした。さらに天正18年(1590年)、家康が関東へと移封になると、代わって吉田城に入封した池田輝政(1565~1613年)の持ち城となり、田原城は重臣筆頭の伊木忠次(1543~1603年)が城主となりました。(同上)

  • 池田輝政の統治期に、田原城石垣の修築や曲輪の整備などが行われたと考えられています。田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、1万石そこそこと少ないながらも藩を形成しました。前方に見えているのは、再建された『桜門』です。その右手前の建物も再建された『二の丸櫓』です。(同上)

    イチオシ

    池田輝政の統治期に、田原城石垣の修築や曲輪の整備などが行われたと考えられています。田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、1万石そこそこと少ないながらも藩を形成しました。前方に見えているのは、再建された『桜門』です。その右手前の建物も再建された『二の丸櫓』です。(同上)

  • 神社の由緒を記したらしい屋根が付いた看板と、その左脇にあった『巴江神社(はこうじんじゃ)』の文字が刻まれた石標の光景です。ネット情報によれば、『祭神は児島高徳、三宅康貞、伊弉册尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのをのみこと)、事解男命(ことさかのをのみこと)で例祭日は9月16日』と紹介されていました。(同上)

    神社の由緒を記したらしい屋根が付いた看板と、その左脇にあった『巴江神社(はこうじんじゃ)』の文字が刻まれた石標の光景です。ネット情報によれば、『祭神は児島高徳、三宅康貞、伊弉册尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのをのみこと)、事解男命(ことさかのをのみこと)で例祭日は9月16日』と紹介されていました。(同上)

  • 田原市の巴江街にある『巴江神社(はこうじんじゃ)』の鳥居光景です。鳥居の正面奥に拝殿が見えていました。文化12年(1815年)6月、三宅氏12代康和が遠祖である児島高徳を江戸麹町の本邸に創祀したのが始まりと言われます。その後、三宅康和が田原城主となり、城中に二の丸社を建立、これが後の巴江神社となりました。(同上)

    イチオシ

    田原市の巴江街にある『巴江神社(はこうじんじゃ)』の鳥居光景です。鳥居の正面奥に拝殿が見えていました。文化12年(1815年)6月、三宅氏12代康和が遠祖である児島高徳を江戸麹町の本邸に創祀したのが始まりと言われます。その後、三宅康和が田原城主となり、城中に二の丸社を建立、これが後の巴江神社となりました。(同上)

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