2018/05/24 - 2018/05/25
1位(同エリア1577件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記376冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,068,825アクセス
- フォロワー141人
「江の島」の後編は、宗像三女神の長女 多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)を祀る「奥津宮」と江の島の最強パワースポット「岩屋洞窟」を中心にレポします。
中津宮から先は参詣者も疎らになり、マイペースでのんびりした散策が愉しめます。また、奥津宮までの道中は見所が満載です。それらのほとんどが江戸時代の奉納品であり、江の島弁財天信仰の篤さが窺えるものばかりです。
厳かな聖域「岩屋洞窟」は江島神社の発祥の地でもあり、江の島観光のハイライトでもあります。有料ですが、第一岩屋は見応えがあります。洞窟以外にも巨大な亀石などの見所もあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 私鉄
PR
-
江の島大師
奥津宮に向かう道中には、見所が満載です。江の島植物園を過ぎて階段を下ると現われます。
江の島には552年を起源とする神仏習合の金亀山与願寺があり、また、814年には弘法大師 空海が参拝し、社殿を創建したと伝わります。しかし、明治時代の廃仏毀釈や神仏分離令により、金亀山与願寺の神道部分は江島神社となって存続する一方、寺院部分は廃され、僧侶は全員神職となりました。
江の島大師は、旅館「江の島館」跡地に、江の島から寺院が廃されて百数十年を経た1993年、平成大弁財天で有名な高野山真言宗最福寺(鹿児島市)の関東別院として創建されました。
ドーム状の本堂に祀られる本尊の赤不動像は、高さが6mあり、室内での大きさは最大級だそうです。 -
一遍上人成就水の石碑
小路の脇の草木の間に小さな石碑が姿を現します。
藤沢市に総本山がある「時宗」の開祖 一遍上人が、この地を遊行した旧跡です。一遍は、1282(弘安5)年、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとしますが、8代執権 北条時宗に阻止され、片瀬で布教を行いました。一遍は、飲料水不足にあえぐ島民を救うため、そこに島井戸を掘り当てたと伝えられています。また、一遍の直筆とされる「一遍成就水」の額は、今でも江島神社に残されているそうです。
件の井戸は石碑の背後の板塀で囲われた民有地の中にあり、今も水を湛えているそうです。手前のトタン板で覆われたものは、井戸ではありません。右側の石碑には「蓮華池」と刻まれているそうですが、その遺跡も民有地内にあります。 -
山二つ
大きな海蝕洞の天井部分が断層に沿って崩落した跡地で、上から見ると瓢箪のようにくびれ、山が2つに分断されているように見えます。
眼下には「長磯」と名付けられた隆起海蝕台が開け、その絶景に圧倒されます。
残念ながら、正面にあるはずの伊豆大島は霞んでいます。 -
山二つ
この辺りの道の脇には赤茶色の関東ローム層が露出しています。ローム層は火山灰の鉄分が酸化して赤茶色となったものです。江の島のローム層は富士山と箱根火山の噴火によるものです。 -
群猿奉賽像庚申供養塔(市指定文化財)
三尸由来の猿ならば「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿なのですが、この塔には36匹もの猿が浮き彫りされています。中には、烏帽子を被り、扇を持って唐人曲芸を披露している猿までいます。
こうしたことから、三尸に因むものではなく、猿の本尊である山王神を讃え、祝ったものとされ、江戸時代中~後期の作と推定されています。基壇は岩座のように造られ、塔身の基座に蛇が巻き付いているのは弁財天信仰に因みます。 -
群猿奉賽像庚申供養塔
猿は古来、日枝山王神社の使者として知られています。『新編相模風土記稿』によると、下ノ宮の絵馬堂の近くに山王神社が祀られていたとあり、それに奉納する意味でこの庚申供養塔が建てられたものと考えられています。 -
群猿奉賽像庚申供養塔
日輪や月輪が彫られ、三申らしきものも彫られていますが、文字などは一切ありません。ひたすら猿の軍団です。
庚申とは干支のひとつです。例えば高校野球で知られる「甲子園球場」も干支から名付けられており、十干の「甲」と十二支の「子」は双方の始まりです。偶然、球場が干支の始まりの年に完成されたことに因んで命名されています。 -
群猿奉賽像庚申供養塔
基座には蛇が巻き付いています。
説明では「蛇=龍」として弁財天信仰の表れとしています。
一方、庚申信仰の三尸は、三彭・尸虫・尸鬼・三虫などとも言います。宮中医官である鍼博士 丹波康頼が編纂した『医心方』には、三虫は長虫(ヘビ類の俗称)・赤虫(オオユスリカ・アカムシユスリカの幼虫)・蟯虫(袋形動物線虫綱の寄生虫)を指す寄生虫とあります。このことから、蛇は三虫の長虫を表わしているとも考えられます。
基壇も岩座と言うよりも、蛇の集団とする方が腑に落ちます。庚申・山王・弁財天信仰が習合したものとは考えられないのでしょうか? -
奥津宮 手水舎
この手水舎は東京の材木問屋 熊野屋安兵衛が奉納したもので、銅板葺、流造のものです。また、四方転びの柱が用いられているのも特徴です。
因みに、「四方転び」とは、四隅の柱が上方に向かってやや傾斜していることを指します。 鐘楼などに多い形です。 -
奥津宮 手水舎
水盤には、大きく神紋「向かい波三つ鱗」が浮き出ています。
北条時政にまつわる「龍神伝説」が江島神社の神紋の起こりとなったと伝えられていますが、この伝説については龍宮の処で紹介いたします。 -
奥津宮 手水舎
口から水を注ぐ青銅製の亀は、東京在住の青山建作氏が1979年に参拝30周年を記念し、多年蓄積された浄財を充てて奉納されたものです。 -
奥津宮 手水舎
足元を見ると、亀を柱の礎石にしています。
亀と説明されていますが、耳があり、龍の顔をしているため「蓑亀」と思われます。 -
奥津宮 石鳥居
手水舎の先に小さな石造りの鳥居が見えてきます。
『吾妻鏡』によると、1182(養和2)年に源頼朝が藤原秀衡調伏のために八臂弁財天と共に京都 高雄の文覚上人に命じて奉納した石鳥居です。
度々修復が繰り返されてきましたが、2004年の台風で破損し、根巻が新材で補修されています。 -
力石
日本一の力持ちと呼ばれた「三ノ宮卯之助」が奉納した力石です。
「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれており、弁財天の祭礼に詣でた人々の前で力競技を行った時のものとされています。重さ80貫(320kg)あり、表面には盃状穴のような穴があり、お賽銭が入れられています。
日本一の力持ちと謳われた卯之助は、岩槻藩(埼玉県越谷市)に生まれ、力を見せ物に諸国を興行し、11代将軍 家斉の前で芸を披露しています。
面白いのは、自分の名を刻んだ力石を各地に残していることです。 江の島の他、鶴岡八幡宮や川崎大師、富岡八幡(江東区)、出身地越谷の三野宮香取神社、遠くは長野県諏訪大社、大阪天満宮でも確認されています。 -
亀石
「鎌倉四名石」と言われた亀石で、別名「蔵六石」と呼ばれます。
江戸内外の事件録である斎藤月琴(幸成)著『武江年表』の記事に、「文化三年、弁秀堂何某弁才天を信じ金光明最勝王経を書写し、清浄の地へ納めんとして上へ置くべき石を求めしに、はからずして亀の形したる石を得たり(竪三尺横二尺)。江の島へ奉納す」とあります。
こうした亀甲紋は柱状節理の断面に現れる典型的な模様ですが、江の島では産しないため、他所から持ち込まれたものと思われます。 -
奥津宮
奥津宮は、江の島霊場発祥の地である岩屋に最も近い場所にあり、本宮または御旅所(おたびしょ)と呼ばれてました。龍神伝説の本尊の避暑地であり、岩屋に海水が入り込む4~10月の期間は岩屋の本尊がここに遷座したと伝わります。
祭神には、神仏分離以降、宗像三女神の長女 多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)を祀ります。 -
奥津宮
龍王(左)と天女(右)が描かれた杓子は、弁財天の琵琶に見立てたものです。
同じく宗像三女神が祀られる厳島神社がある宮島のお土産は、杓子が定番となっており、つながりを感じます。 -
奥津宮 本殿
壮麗を極めたという本殿は、1841(天保12)年に火災により焼失しています。現在の本殿は、その翌年に再建されたものです。また、2011年に本殿が170年ぶりに改修されています。
ご神体の大きな鏡が見えます。鏡は太陽の依代でもあります。鏡そのものの語源は「カガミ」である事から、蛇(=龍)の古語である「カカ・カガ」が付随します。「カガの目」とは「蛇の目」であり、それが「鏡」となっています。
しかし、古来、金属器が導入する以前の鏡とは「水」を指しました。水鏡には、自分の姿や顔が映し出されますが、それとは別に太陽や月を映し出すものでもありました。その水こそ、この江の島では「海」そのものだったのではないでしょうか? -
奥津宮 本殿
本殿の木鼻です。
左側は、「獅子」と「波に揉まれる麒麟」です。こうした麒麟の木鼻は珍しいと思います。
右側は、「松と鶴」のようです。鶴が逆立ちする姿も珍しいものです。 -
奥津宮 拝殿
拝殿の向拝には、「荒波に抗う蓑亀」の彫刻があります。
神仙思想では、亀は天を支え物を背負うとされ、不老不死の仙人が住む蓬莱山は大きな亀の背中に載り海に浮かんでいます。このように中国では、亀は神の使いとされています。
日本では、蓑亀は亀の中でも長寿亀として吉祥文の代表とされています。しかし、江戸時代になると亀文様は霊獣といった権威が薄くなり、単なる長寿繁栄のおめでたい文様という扱いになりました。 -
奥津宮 拝殿
背中に藻を付けて蓑のようになっており、眼光が鋭く耳や牙があり、龍の顔をしていため「蓑亀」です。「玄武」に近いかもしれませんが、甲羅に蛇が巻き付いていない、あるいは尾が蛇でないことから、「蓑亀」とされています。
因みに、龍宮城へ行った浦島太郎が乗っていたのが「蓑亀」です。 ですから、「蓑亀」は「宝亀」とも言われます。 -
奥津宮 拝殿
蓑亀の雄には耳があるそうなので、両方とも雄です。
対にしているのは、阿吽と言うことかもしれません。
とすれば、こちらは吽形ということになりますが…。 -
奥津宮 拝殿
拝殿の天井には、「八方睨みの亀」と呼ばれ、どの方向から見てもこちらを睨む亀の絵が描かれています。1803(享和3)年に江戸の絵師 酒井抱一が描いたものですが、現在のものは片岡華陽画伯(抱一の末流)の筆による復元画です。
正面向きの亀を桐材に金箔を押し、強い線で描がき、胡粉や緑青、丹色で彩色されているという原画(非公開)は、泰安殿に保管されています。 -
奥津宮 拝殿
こちらが、本物の「八方睨みの亀」です。さすが琳派、背景は金箔です。そっくりですので、丁寧に模写されていることが窺えます。
酒井抱一は、姫路藩主 酒井忠以の実弟に当たり、尾形光琳に傾倒し、琳派の装飾的な画風を受け継いで発展させました。代表作『風雨草花図』や『月に秋草図屏風』は重文に指定されています。
何故、酒井抱一がここに亀の絵を奉納したのかは不詳です。元々、亀は長寿の象徴であり、延命長寿は弁財天の福徳の一つでもあり、江の島は不老長寿の蓬莱山としても人気がありました。
また、亀は龍や蛇と共に水に深く関係することから水神の使いとされ、弁財天の神使でもあります。更に、宗像三女神は海の神でもあります。総合的に鑑みて、拝殿には亀が相応しかったということかもしれません。
この写真は、次のサイトから借用させていただきました。
http://www.fujisawa-miyu.net/enoshima/map/b17_01.html -
奥津宮
石燈籠一対は、1846(弘化3)年の奉納です。
こちらは、奥津宮に向かって左側の燈籠です。 -
奥津宮
台座には、蓑亀に乗った浦島太郎が彫られています。 -
奥津宮
竿には、龍が巻き付いています。 -
奥津宮
右側の燈籠です。
地震対策も万全です。台座に載せられた石燈籠は4本の足で支えられ、地震が起きた際には燈籠自体が自由に揺れ、揺れを吸収できる構造になっています。この仕組みは、現在の超高層ビルの免震構造にも活かされています。
「温故知新」とはよく言ったものです。 -
奥津宮
台座には、龍宮の乙姫が彫られ、左側の浦島太郎と対になっています。
奥津宮のある西側は、昔から全く地震を感じなかったことから「地震知らずの山」とも呼ばれ、岩屋に属する部分が一つの巨岩から成り立っているからと言われていましたが、関東大震災では奥津宮の本殿は倒壊寸前まで揺り動かされたそうです。 -
奥津宮
中台や竿には玉を持った龍が彫られています。 -
山田検校座像
1917(大正6)年に筝曲山田流の流祖 山田検校を顕彰して建てられました。碑の文言は幸田成行(露伴)の撰です。山田検校は1757(宝暦7)年に江戸で尾張藩宝生流能楽師三田了任の子として生まれました。名は勝善。幼くして目が不自由になりますが、山田黒松に生田流の筝を学び、後年に山田流を興しました。浄瑠璃の旋律を取り入れて人気を呼び、多くの門弟を持ち、その功績で検校を授けられています。代表作の一つ『江の島曲』は、江の島に滞在して作ったと伝わります。
当初の座像は太平洋戦争で供出され失われましたが、鋳型が発見されたことから山田流筝曲協会が再建し、2004年に除幕式が行われました。再建した銅像は高さ96cmあり、検校の晩年の姿とされています。 -
龍宮(わだつのみや)
岩屋洞窟の真上に建立された、祭神に龍宮大神を祀る祠です。
1993年に崇敬者の篤志によって建立されました。龍宮大神は、口に龍珠をくわえています。江の島は、隆起以来、龍神の坐す処となり、古来、龍神信仰は弁財天信仰と習合されてきました。その密接な結び付きは、『江島縁起』を始め『太平記』等にも記されています。
「わだつみ」という言葉は、万葉集に頻繁に登場しており、語源は「海(わた)つ霊(み)」とされ、海の神を指す海神のことです。今では海そのものを意味するようになっています。
『太平記』によると、源頼朝の正室 政子は子孫繁栄を祈願するために岩屋に参拝しました。祈願を終えた夜、不思議な事に政子のもとに弁財天が現れました。そして「願いを叶える」と約束し、弁財天は大蛇になって海に消えたとあります。 -
龍宮 天女と五頭龍の伝説
昔々、鎌倉の深沢山中の巨大な湖に五頭龍が棲みつき、村人を苦しめていました。龍は、山を崩し、洪水を起こし、疫病をはやらし、そして生贄として子供まで食べていました。
ある日、黒雲が天を覆い、大地震が起きて高波が村を襲いました。大地は10日間揺れ、揺れが収まると今度は海底が大爆発を起こし、岩を吹き飛ばすとそこには小さな島が生まれました。これが江の島です。すると雲から美しい天女が現れました。五頭龍は様子を伺っていましたが、美しい天女に一目惚れし結婚を申し込みます。しかし天女は龍の悪行を理由に断りました。やがて、諦めきれない龍は改悛することを約束し、天女も結婚を受け入れました。その後、五頭龍は日照りには雨を降らせ、台風を防ぎ、津波を押し返すなど、約束通り村を守りました。しかしその度に体は衰えていき、最期を悟った龍は片瀬山(竜口山)となって村を守るようになりました。天女は江の島の弁財天として、五頭龍は江の島の向かいにある「龍口明神」に祀られています。 -
龍宮
祠の中には祭壇があります。
『太平記』には、北条時政と龍神にまつわる伝説が記されています。
鎌倉時代初期、北条時政は江の島に35日間参籠し、子孫の繁栄を祈願しました。その満願の夜、赤い袴に柳裏の衣を着けた端巌美麗な女御が忽然と時政の前に現れ、「汝が前世は箱根法師である。六十六部の法華経を書写し、それを六十六箇国の霊地に奉納した善根によって、再びこの地に生を得たのであるから、汝の子孫は末永く日本の主となって栄華を誇るがよろしい。但し、その挙動が政道に違うようなところがあれば、七代を過ぎずして滅びるだろう」と言い捨てて去りました。
その姿を見やると、端麗であった女御は、忽ち20丈ほどの大蛇となって海中に潜っていきました。その跡には、大きな鱗が3枚落ちており、時政は祈願成就を喜び、この三鱗をもって旗印の紋としました。 -
龍宮
北条氏の滅亡は9代 高時の時代でした。
『太平記』によると、高時は「危機感がなく、田楽にうつつをぬかし、闘犬に興じ」と記されています。また、「7代が過ぎ9代目に入ったので、そろそろ滅亡の時がきた」と記されています。これは、北条時政と龍神の伝説での約束事を暗示しているようにも思えます。
北条氏の世継ぎには、奇妙な事があります。4代 時氏は、父 泰時より先に死んでおり、執権にもなっていません。実質的に継いだのは時氏の子 経時でした。故に、時氏を除くと8代になります。
また、経時と時頼は兄弟であり、2人で1代と数えると、北条氏は大蛇の暗示通りに7代で滅んだことになります。「正しい行いをしなければ7代以上は続かない」というお告げが「当たった」と言えます。
1333(元弘3)年、新田義貞が鎌倉に攻め入ります。この時、義貞は「龍神に祈願して稲村ヶ崎を突破した」と伝えられています。北条時政は、子孫繁栄のため江の島に参籠し龍神から3枚の鱗を得ましたが、その子孫は行いが悪かったため、龍神に祈った義貞によって滅ぼされたということになります。 -
も組繋鳥居
岩屋洞窟の参道にある土産店の途中には、風変わりな意匠の鳥居があります。柱や貫、額束には組印と思しき、鱗紋を彷彿とさせる江戸文様がびっしりとあしらわれています。根巻に「も組」とあることから、江戸火消しの華「も組」が関東大震災からの復興のために奉納したもののようです。
「も組」は銀座周辺を担当していたことから、分銅銀流しの纏(まとい)でした。その「分銅銀流し」をデフォルメした意匠と思われます。 -
魚見亭
相模湾を一望する絶好のロケーションに建つ、創業140年を誇る「江の島磯料理」の老舗です。海の幸が豊富、かつ味にも定評があるお休み処です。180席ある、大型飲食店です。
お店があるのは、江の島観光のハイライト「岩屋洞窟」へ下りる階段の手前です。お店のルーツは、観光客の通り道にあったため、手荷物の一時預かり所として営業が始まったそうです。 -
魚見亭
全席オーシャンビューですがテラス席もあり、海岸から地平線まで広がる海を堪能できます。「湘南の潮風」を浴びながら味わえるのが、創業当初から受け継がれている「秘伝の味」だそうです。なるほど、ここでしか味わえない訳です。
人気ニューは、「江の島丼」です。煮サザエを細切れにして親子丼のように玉子でとじた丼飯です。 -
魚見亭
定番の「生しらす丼」です。
毎朝、腰越漁港より直送される「生しらす」を使ったメニューです。炊きたてのご飯とひんやりと瑞々しい生しらすのバランスが絶妙です。
食べ方は、シラスの上に載っている生しょうがをしょうゆに溶き、それをしらすにかけます。
ぶりぶりで少しほろ苦い生しらす特有の食感と味が愉しめます。 -
魚見亭
こちらは、「ハーフ丼」です。
しらす丼は生しらすだけでも釜揚げだけでも少し飽きてしまいますが、ここはハーフ丼があるため、贅沢にも生と釜揚げの両方が味わえます。 -
稚児ヶ淵
眼下に見られるのが、1923(大正12)年の関東大震災で1mほど隆起した海蝕台地です。その一画に立つ「龍灯」は、かつては灯台の役目を果たしていました。
手前にある「稚児ヶ渕句碑」は、風化が激しく、年代・作者共に読み取ることができませんが、「むかしむかし散るや さくらの稚児ヶ渕」と書かれています。
稚児ヶ淵は「かながわの景勝50選」に選ばれており、鎌倉では「十王岩の展望」、「光明寺裏山の展望」、「稲村ヶ崎」が景勝に選定されています。 -
富士山と烏帽子岩
晴れた日には、富士山が臨める絶景が広がります。うっすらと富士山の輪郭が浮かんでいます。左手前にある「サメの背びれ」を彷彿とさせる岩が、サザンオールスターズの楽曲でおなじみの「烏帽子岩」です。
烏帽子岩は、茅ヶ崎のシンボルでもあり、茅ヶ崎海岸沖1.2kmの海上にあります。「姥島(うばしま)」と呼ばれる岩礁群のひとつです。市が行った測量結果によると、高さ12.4mあります。名の由来は、平安貴族が被っていた「烏帽子」に似ていることに因みます。「乳母島」とも記され、古くは「筆嶋」とも呼ばれていました。
姥島は、300万年前から600万年前に海底の地層が隆起してできたとされます。注目されはじめたのは、江戸時代に庶民の行楽として行われた「江の島詣」がきっかけだそうです。往時の参詣者も、当方のように海上に特異な形の岩礁を見つけ、話題にしたのでしょう。浮世絵師 安藤広重が描いた『江の嶋詣岩屋之図』には、富士山を借景にした「姥島」が確認できます。
「烏帽子岩」の文献での初見は、17世紀中頃です。茅ヶ崎村と小和田村の間で領海権を巡る争いがあり、その際、江戸幕府は境界線の目印をこの「烏帽子岩」に定めたとの記録があります。太平洋戦争後は、米軍駐屯兵の射撃の格好の的になり、全体が痩せて今の形になったそうです。
サザンオールスターズの楽曲では、『チャコの海岸物語』や『夜風のオン・ザ・ビーチ』、『希望の轍』、『HOTEL PACIFIC』の歌詞に登場します。 -
稚児ヶ淵
稚児ヶ淵の名は、1659(万治2)年の中川喜雲著『鎌倉物語』などに見られる鶴岡相承院の稚児 白菊がこの淵に投身したことに由来します。
昔、鎌倉建長寺広徳院に自休蔵主という僧侶がおりました。ある日、自休は江の島へ百日詣に出かけ、同じく江の島へ詣でていた相承院で学問を学ぶ白菊という稚児に出会いました。それ以来、自休は白菊のことが忘れられず、思いを認めた手紙を幾度も送りましたが、なしのつぶてでした。
やがて、白菊は自休の思いに追い込まれ、悩みました。ある夜、白菊は江の島へ渡り、扇子に歌を認め、それを島の渡守りに渡し、「私を訪ねる者があればこれを渡してください」と言い残して淵から身を投じました。
白菊を訪ねた自休がこの扇子を開いてみると「白菊を忍ぶ里の人とはば 思い入り江の島とこたへよ」「うきことを 思い入り江の島かげに すてる命は波の下草」とありました。これを見た自休は「白菊の花のなさけのふかき海に ともに入り江の島ぞうれしき」と詠い、白菊の後を追ったと言います。
この地には、大正時代初期まで白菊の碑があったそうです。 白菊と言うと女性のように思えますが、今で言う「LGBT」による悲恋物語です。 -
稚児ヶ淵
「稚児ヶ淵伝説」を大衆に知らしめたのは、伝説をモチーフに4代目鶴屋南北が1817(文化14)年に創作した歌舞伎『櫻姫東文章』です。歌舞伎では、自休がいざ身を投げる段になると気後れし、心変わりを恨んで下さるなと淵を見下ろすと、淵の底から怨念の炎が赤々と燃え上がり、やがて自休の魂が一羽の白鷺となり、月明かりの夜空に飛び立っていきました。
その17年後、高僧になった自休は、諸般の事情から剃髪出家を望む、やんごとなきお方の息女 桜姫と出会います。自休が薄幸の桜姫に授戒すると、生まれつき開かずにいた桜姫の左手が開き、中から自休の名が記された香箱の蓋が零れ落ちました。その香箱こそ、白菊との身投げの際に互いの名を記して取り交わした形見の品でした。桜姫が白菊の生まれ変わりと悟った自休は、その因果に慄きます。
やがて、今度こそ共に死のうと桜姫に言い寄る自休でしたが、誤って桜姫に殺されてしまうというストーリーです。 -
岩屋洞窟
洞内の崩落により1971年の閉鎖後、1993年に公開が再開されていましたが、2017年10月の台風21号による甚大な被害により再び閉鎖されていました。しかし、奇跡的に、187日ぶりの2018年4月28日から営業を再開しました。GWに何とか間に合わせるような突貫工事だったようです。
今回のような深刻な被害が発生したのは初めてのことだそうで、高潮時に台風の直撃が重なったのが主な原因とされています。岩屋洞窟の入口近くの階段が一部崩落した他、転落防止用の柵が脱落。波が洞窟の最深部まで流れ込み、照明設備や料金所の小屋が壊れ、岩石などが洞内に流入するなどの被害が出ました。岩屋洞窟復旧にかかった費用は約1億5千万円だそうです。
こうした神聖な領域にも、地球温暖化の皺寄せがきているのです。 -
岩屋洞窟
稚児ヶ淵から更に進んで岩屋洞窟へ向かいます。岩屋洞窟は、6千年の歳月を掛けてできあがった自然の驚異が味わえるスポットです。
江島神社の岩屋は、源頼朝が戦勝祈願をしたり、奈良時代には役小角、平安時代には空海や円仁、その他、日蓮上人や一遍上人らが修行をなされた場所と伝わります。中でも空海がここに籠った際には、弁財天が姿を現したと伝わります。
江島神社にあるもうひとつのご利益「縁切り」を求めて参拝される方も多いスポットです。パートナーの浮気やギャンブル癖なども悪縁のひとつです。悪縁を断ち切り、良縁を授かることができるパワースポットです。 -
岩屋洞窟
入口は、鎌倉 長谷寺の弁天窟に比べ観光地化されてしまい、チープでがっかりです。少し潜った所から入口を振り返った景色をアップしておきます。
岩屋は波が浸食されてできた海蝕洞で、奥行き152mの第一岩屋と奥行き56mの第二岩屋の2つの洞窟で形成されています。このうち江島神社発祥の地とされているのは第一岩屋の方で、552年(欽明天皇13年)に御神体を安置したことが江島神社の創建と伝えられています。 -
岩屋洞窟 与謝野晶子の歌碑
洞窟に入り、最初に見られるのがこの歌碑です。
江の島を愛した与謝野晶子は、1911(明治44)年にこの地を訪れて歌を詠んでいます。
「沖つ風 吹けば またたく 蝋の灯に しづく散るなり 江の島の洞」(『青海波』)。『青海波』は出産や子育ての苛烈さをひしひしと感じさせる作品のひとつです。
照明がきつく歌碑の文字自体は読み難いのですが、水面に映る文字ははっきりしています。
また、この他にも、「片瀬より 白き羊の 歩むごと なみの寄りゆく 秋の江の島」 や「江の嶋や 蘭の花ほど 青みたる 波がしら立つ 桟橋のもと」など、江の島を詠んでいます。 -
岩屋洞窟
謠曲『江島』は、弁財天影向の縁起を説いた曲です。
欽明天皇13年、相模国江野の海上に島が湧き出て、福徳円満の願いを叶える弁財天が影向せられたことで勅使が下されます。そこに現われた老漁夫は勅使の尋ねに応じて島の成り立ちを語り、その功徳を讃歎した後、自分はこの島の鎮守である弁財天の夫神の五頭龍王、即ち龍口明神であると言って消えました。やがて弁財天が十五童子を伴って出現し、勅使に如意宝珠を捧げると、五頭龍王も現われ、国土の守護を誓いつつ昇天しました。
弁財天は白蛇を飾る宝冠を戴き、一蓮葉に乗って右手に剣、左手に宝珠を捧げ、延命長寿、怨敵退散、財宝満足の利得を施すといいます。 -
岩屋洞窟
はじめのうちは照明が灯されていますが、洞内には別の受付があり、そこで手燭を受け取り、そこから先はロウソクの灯りを頼りに歩を進める趣向です。尚、混雑が見込まれる時にはロウソクの貸し出しは中止され、照明が灯されます。ロウソクは15分程しか灯っていません。 -
岩屋洞窟
第一岩屋を暫く進むと、途中で2手に分かれています。
分岐に佇むのは、八臂弁財天坐像です。
いずれも最奥部で行き止まりですので、Uターンします。
まず、左側に進みます。 -
岩屋洞窟
このように宇賀神も祀られています。
弁財天と一体の神として、雨を降らし、穀物を育てる神です。 -
岩屋洞窟
手前から2つ目が龍神像、その先に弁財天坐像、如意輪観音坐像、馬頭観音坐像と並びます。
誰がどんな目的で奉納したものかは、説明がありません。 -
岩屋洞窟
手前にある、首のないのが大黒天立像です。
これは台風の被害によるものではないそうです。
その隣は、十一面観音立像です。その先に、千手観音立像などが並びます。 -
岩屋洞窟
最奥部の中央には更に洞窟が延びています。この先は、富士山の人穴(富士宮市の溶岩洞窟で、肋骨や乳房のような岩の突起があるためこの名がある)に続いているそうです。距離にして80Km程あります。
2代将軍 源頼家の命で富士山の人穴を探検した武将 新田(仁田)忠常は、災難に遭いながらもこの岩屋から地上に戻ることができたとの逸話があります。 -
岩屋洞窟
洞窟の左脇には、「日蓮の寝姿石」があります。日蓮が寝そべる姿を彷彿とさせる岩です。
日蓮にまつわる逸話があります。日蓮が幕府や他の宗派を批判して鎌倉幕府の逆鱗に触れ、龍ノ口の刑場で斬首されかけた時、江の島の方角から「月のような光りもの」が飛んできて九死に一生を得たと伝えられます。隕石でも落ちたのか、これも不思議な逸話です。
因みに、日蓮が連行される際、鶴岡八幡宮で「八幡大菩薩!あなたは法華経を信仰する者を守る使命があるのに、何故私を救わないのか」と叱咤したそうです。八幡大菩薩がこれはなんとかせねばと考え、神通力を使ったとも伝わります。 -
岩屋洞窟
分岐点まで戻り、次は右側へ進みます。その行き止まりにある石の祠こそが、552年の江島神社の発祥の地となるパワースポットです。
因みに、『日本書紀』は、552年は百済から仏教が伝えられた年としています。当方は538年(ゴミ屋が拾った仏様)と習いましたが、諸説あるようです。もし『日本書紀』説が正しければ、江島神社の発祥の年と仏教伝来が同じ年ということです。偶然の一致でしょうか? -
岩屋洞窟
祠を守護する狛犬は、吽形は子犬を抱きしめ、阿形は授乳中の大変珍しいものです。不思議なことに、江の島は随所に「母性」を感じさせる場所です。 -
岩屋洞窟
狛犬も、どこかアジアンテイストというかエスニックなお顔立ちをなされています。
以前、兵庫県の須磨寺で拝見した、東南アジアから持ち込まれた狛犬に雰囲気がよく似ています。
こちらが、須磨寺の狛犬です。
https://4travel.jp/travelogue/10880153 -
岩屋洞窟
第二岩屋に向かう途中はポッカリと口を開けており、そこから海が臨めます。 -
岩屋洞窟
第一岩屋の参拝を終えて第二岩屋に移動する際は、洞窟の外にある海抜10m程に設けられた遊歩道を進みます。断崖絶壁にできた海蝕洞であることが実感できる場所です。
全長128mのオープンスペースで、天気が良ければ相模湾や富士山、箱根、伊豆方面の景色が見られます。
因みに、左側にある穴が先ほど洞窟の中から海を臨んだ場所です。 -
岩屋洞窟 亀石
上の写真で皆さんが見下ろされているのが、この「亀石」です。
荒波に揉まれている「亀のような石」が見られます。説明書には「地元片瀬の中村石材の先代『中村亀太郎』がノミをふるった」とあります。確かに亀そのものの形をしており、沖に向かって泳いでいるように見えます。
満潮時に近かったため、波が引いた一瞬を狙って撮りました。干潮時は難なく全体が見られます。 -
岩屋洞窟 イソヒヨドリ
スズメ目ツグミ科に分類されます。アフリカとユーラシア大陸に広く分布し、和名通り海岸や岩山などで多く見られます。磯や岩場に生息し、ヒヨドリに似ていることが和名の由来ですが、分類上はヒヨドリ科ではなくツグミ科です。
体長は23cm程です。雄は頭部から喉および背部が青藍色、胸腹部がレンガ色のような赤褐色、翼と尾は黒っぽいグレーと色分けされています。
「ホイピーチョイチュウ」といった複雑な鳴き方をしますが、ツグミ科特有の声量があり、とても綺麗な音色の囀りです。 波の音と囀りがとても耳にやさしいBGMになります。 -
岩屋洞窟
第二岩屋は第一岩屋よりも浅く、天井も高くなっています。 -
岩屋洞窟
ネット情報では岩屋の行き止まりには龍の彫刻と雷太鼓が置かれているとありましたが、色が変化するライトに照らされた小石があるだけです。
少し引いて眺めると、「天女と五頭龍の伝説」を想像させる龍と天女の影絵が見られます。伝説を知らなければ、龍が人を襲っているとしか思わないかもしれません。
恐らく、位置的に台風の被害を最も受けたのが第二岩屋と思われます。まだ、準備中と言うことのようです。恐らく子供向けの趣向だと思いますが、どんなアトラクションが準備されるのか乞うご期待です! -
岩屋洞窟
往路はもう一本ある洞窟を辿ります。
こちらは、照明も暗く、天井も低く、若干ですがアドベンチャー気分が味わえます。 -
江の島シーキャンドル
江の島の最上部にあるサムエル・コッキング苑には、ランドマークの江の島展望灯台があります。
上にいくほど太くなるフォルムと天辺に突き出た避雷針から、「ロウソクみたい」ということでニックネームは「江の島シーキャンドル」です。
1882(明治15)年にアイルランド人貿易商サムエル・コッキング氏が建設した「コッキング植物園」が、関東大震災の崩壊後に「江の島植物園」として藤沢市営となり、2003年に展望灯台の建て替えに伴ってリニューアルオープンしました。園内には、発掘されたコッキング植物園温室跡、藤沢市と姉妹都市・友好都市となっている各市のメモリアル広場があります。また、藤沢市指定の天然記念物が4種あります。 入場及び展望灯台は有料です。
また、江の島は、「日本の近代博物学発祥地」とされています。その理由のひとつがサムエル・コッキング苑にあります。コッキング氏が江の島山頂部に画期的な熱帯植物園を完成させたからです。
また、東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは、1877(明治10)年に江の島に日本最初の臨海実験所を開所しました。
これらの事柄が日本の近代博物学発祥地と呼ばれるようになった由縁です。 -
江の島 片瀬西海岸
復路は、海苔ようかんの元祖 中村屋羊羹店の先を左折し、表参道への抜け道を辿ります。この道は、朱の二ノ鳥居の所で表参道と合流します。多少のアップダウンはありますが、階段で無い分、歩き易かったです。
途中、これから向かう片瀬西海岸にある「新江の島水族館」が見下ろせる高台を通ります。
突堤の先には.「白灯台」の姿も見られます。 -
弁財天仲見世通り
この通りは、一日中、人の流れが絶えることはありません。
これでも平日の午後ですから、吃驚ポンです。 -
無事、青銅の鳥居まで戻ってまいりました。
この続きは、問柳尋花 鎌倉紀行⑨新江ノ島水族館(エピローグ)でお届けいたします。
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