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霊泉寺(れいせんじ、静岡県静岡市清水区興津井上町)は甲斐戦国大名武田晴信(信玄)(たけだ・はるのぶ(しんげん)、1521~1573-以下「信玄」と呼称統一)を義父とする武田家親族衆筆頭で、甲斐国南部にあたる河内(かわうち)を治める穴山信君(梅雪)(あなやま・のぶただ(ばいせつ)、1541~1582-以下「梅雪」に呼称統一)は反対する嫡男義信を廃した信玄が駿河国への侵攻を進める際、先鋒として駿河国へ侵攻し駿府を一夜で陥落せしめ、その後は安倍・庵原の両郡支配を背景に駿河国東部統治の中心地とした江尻城主であった頃の天正9年(1581)に開基した臨済宗妙心寺派の寺院です。<br /><br />穴山氏は新羅三郎信光から10代、武田の祖信義(のぶよし、1128~1186?)から7代目の信武(のぶたけ、1303~1359)の六男である義武(よしたけ、?~?)が巨摩郡逸見郷穴山村(現韮崎市・JR中央本線に同名の駅あり)に所領を得て穴山氏と称したことに始まります。<br /><br />その後の穴山氏は子嗣に恵まれず本家武田氏より養子を迎えて名跡を保つ状況が二度もあり、従って穴山氏は武田氏の浮沈に影響されやすく応永23年(1416)における「上杉禅秀の乱」(関東管領を更迭された上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に反抗して挙兵)では武田信満(たけだ・のぶみつ)は禅秀側に与したため禅秀敗北により持氏の討伐に抗しきれず信満は自刃に追い込まれます。<br /><br />他方穴山氏養子となった満春(みつはる)は禅秀の乱に加担せず、後難を恐れて出家して高野山に逃れ、乱後の甲斐国は公方持氏に繋がる逸見氏の影響力が絶大で、一時武田氏と穴山氏は不遇の時期を迎えます。<br /><br />しかしながら鎌倉公方持氏(もちうじ)と対立軸にある将軍義満(よしみつ)は持氏方の逸見有直(いつみ・ありなお)が甲斐国を押領することを嫌い、敢えて高野山にいる満春に信元(のぶもと)として還俗させ信濃の小笠原氏に支援を命じ甲斐守護大名として武田氏本家を継承させます。<br /><br />応永25年(1418)穴山氏を継いだ三代武田信介は南部氏が支配していた河内に進出、信懸(のぶとお)、信綱を経て六代当主となった信友(のぶたか、1504~1560)は天文年間(1532~1554)の初頭に甲斐国の国人を臣属に置いた武田信虎(たけだ・のぶとら)の娘(後の南松院殿)を妻に迎えこれにより自領の安泰を図り、居館を南部から河内の中心地下山に移し次第に河内領の独立的支配を強めてゆきます。<br /><br />その嫡子梅雪も信玄の二女(後の見姓院殿)と結婚するなど武田氏との婚姻関係が一層深まり、今川氏没落を契機に信玄の絶大なる信頼を背景に徳川家康との外交折衝窓口として重要な役割を果たします。<br /><br />梅雪は自領の河内に隣接している駿河国には今川氏時代から外交交渉などに深く関わっており、今川領を制圧後興津川と並行して走る身延道を望む横山城主を兼ねていたことから対岸の地に霊泉寺を創建したのは理にかなっていたと思われます。<br /><br /><br />霊泉寺の奥まった墓地の一角に移設された梅雪の供養塔の傍らに設置の説明板には次のように描かれています。<br /><br />「 由緒<br /><br />当山開基穴山梅雪公は甲州武田氏の一族で母は武田信玄の姉 夫人は信玄の娘である。<br /><br />天正三年(1575)八月から天正十年(1582)二月まで八年間、清水江尻城主であった。<br /><br />天正九年六月所領であったこの地に寺領を寄進して霊泉寺を創立して翌十年六月宇治田原に没した。<br /><br />当山に所蔵する宝物は静岡県重要指定文化財として永残されている。<br /><br />       平成十二年八月<br />               霊泉寺二十八世住職 穴山円照 謹立 」<br /><br />

駿河興津 武田信玄が嫡男義信を廃して今川駿河領攻略には自領の河内から先鋒として駿府を制圧し駿河東部を統治した穴山梅雪開基の『霊泉寺』散歩  

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2018/03/11 - 2018/03/11

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滝山氏照

滝山氏照さん

霊泉寺(れいせんじ、静岡県静岡市清水区興津井上町)は甲斐戦国大名武田晴信(信玄)(たけだ・はるのぶ(しんげん)、1521~1573-以下「信玄」と呼称統一)を義父とする武田家親族衆筆頭で、甲斐国南部にあたる河内(かわうち)を治める穴山信君(梅雪)(あなやま・のぶただ(ばいせつ)、1541~1582-以下「梅雪」に呼称統一)は反対する嫡男義信を廃した信玄が駿河国への侵攻を進める際、先鋒として駿河国へ侵攻し駿府を一夜で陥落せしめ、その後は安倍・庵原の両郡支配を背景に駿河国東部統治の中心地とした江尻城主であった頃の天正9年(1581)に開基した臨済宗妙心寺派の寺院です。

穴山氏は新羅三郎信光から10代、武田の祖信義(のぶよし、1128~1186?)から7代目の信武(のぶたけ、1303~1359)の六男である義武(よしたけ、?~?)が巨摩郡逸見郷穴山村(現韮崎市・JR中央本線に同名の駅あり)に所領を得て穴山氏と称したことに始まります。

その後の穴山氏は子嗣に恵まれず本家武田氏より養子を迎えて名跡を保つ状況が二度もあり、従って穴山氏は武田氏の浮沈に影響されやすく応永23年(1416)における「上杉禅秀の乱」(関東管領を更迭された上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に反抗して挙兵)では武田信満(たけだ・のぶみつ)は禅秀側に与したため禅秀敗北により持氏の討伐に抗しきれず信満は自刃に追い込まれます。

他方穴山氏養子となった満春(みつはる)は禅秀の乱に加担せず、後難を恐れて出家して高野山に逃れ、乱後の甲斐国は公方持氏に繋がる逸見氏の影響力が絶大で、一時武田氏と穴山氏は不遇の時期を迎えます。

しかしながら鎌倉公方持氏(もちうじ)と対立軸にある将軍義満(よしみつ)は持氏方の逸見有直(いつみ・ありなお)が甲斐国を押領することを嫌い、敢えて高野山にいる満春に信元(のぶもと)として還俗させ信濃の小笠原氏に支援を命じ甲斐守護大名として武田氏本家を継承させます。

応永25年(1418)穴山氏を継いだ三代武田信介は南部氏が支配していた河内に進出、信懸(のぶとお)、信綱を経て六代当主となった信友(のぶたか、1504~1560)は天文年間(1532~1554)の初頭に甲斐国の国人を臣属に置いた武田信虎(たけだ・のぶとら)の娘(後の南松院殿)を妻に迎えこれにより自領の安泰を図り、居館を南部から河内の中心地下山に移し次第に河内領の独立的支配を強めてゆきます。

その嫡子梅雪も信玄の二女(後の見姓院殿)と結婚するなど武田氏との婚姻関係が一層深まり、今川氏没落を契機に信玄の絶大なる信頼を背景に徳川家康との外交折衝窓口として重要な役割を果たします。

梅雪は自領の河内に隣接している駿河国には今川氏時代から外交交渉などに深く関わっており、今川領を制圧後興津川と並行して走る身延道を望む横山城主を兼ねていたことから対岸の地に霊泉寺を創建したのは理にかなっていたと思われます。


霊泉寺の奥まった墓地の一角に移設された梅雪の供養塔の傍らに設置の説明板には次のように描かれています。

「 由緒

当山開基穴山梅雪公は甲州武田氏の一族で母は武田信玄の姉 夫人は信玄の娘である。

天正三年(1575)八月から天正十年(1582)二月まで八年間、清水江尻城主であった。

天正九年六月所領であったこの地に寺領を寄進して霊泉寺を創立して翌十年六月宇治田原に没した。

当山に所蔵する宝物は静岡県重要指定文化財として永残されている。

       平成十二年八月
               霊泉寺二十八世住職 穴山円照 謹立 」

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • メモリアルガ-デン清水入口<br /><br />霊泉寺が経営主体となった「メモリアルガ-デン清水」の入口に脇に霊泉寺の案内板が立ち、その内容としては「穴山梅雪が開基、高僧速伝宗販老子を招き開山」とした由です。

    メモリアルガ-デン清水入口

    霊泉寺が経営主体となった「メモリアルガ-デン清水」の入口に脇に霊泉寺の案内板が立ち、その内容としては「穴山梅雪が開基、高僧速伝宗販老子を招き開山」とした由です。

  • 霊泉寺案内板<br /><br />「メモリアルガ-デン清水」入口には霊泉寺を案内する掲示板が立っています。

    霊泉寺案内板

    「メモリアルガ-デン清水」入口には霊泉寺を案内する掲示板が立っています。

  • 霊泉寺入口<br /><br />暫く歩くと小道が直進と共に左折する霊泉寺への道が見られます。

    霊泉寺入口

    暫く歩くと小道が直進と共に左折する霊泉寺への道が見られます。

  • 霊泉寺参道

    霊泉寺参道

  • 霊泉寺・寺標<br /><br />石標には「江尻城主 當山開基 穴山梅雪公御廟」と刻されています。

    霊泉寺・寺標

    石標には「江尻城主 當山開基 穴山梅雪公御廟」と刻されています。

  • 霊泉寺・本堂<br /><br />どう見ても手狭な寺域ですが本堂が配されています。

    霊泉寺・本堂

    どう見ても手狭な寺域ですが本堂が配されています。

  • 六角堂霊廟

    六角堂霊廟

  • 霊泉寺裏山<br /><br />霊泉寺社務所の方に尋ねた結果裏山の墓にあるとのことです。<br />

    霊泉寺裏山

    霊泉寺社務所の方に尋ねた結果裏山の墓にあるとのことです。

  • 「穴山梅雪公墓所」看板<br /><br />梅雪供養塔の前面には穴山梅雪墓を示すさび付いた看板が立っています。尚「梅雪」は法名で天正8年に剃髪して「梅雪斎不白」と号し、一般には「穴山梅雪」として称されています。

    「穴山梅雪公墓所」看板

    梅雪供養塔の前面には穴山梅雪墓を示すさび付いた看板が立っています。尚「梅雪」は法名で天正8年に剃髪して「梅雪斎不白」と号し、一般には「穴山梅雪」として称されています。

  • 穴山梅雪供養塔<br /><br />昭和42年10月に穴山梅雪顕彰会によって「江尻城主・霊泉寺開基、穴山梅雪公380年祭」が同寺において執り行われたそうです。

    穴山梅雪供養塔

    昭和42年10月に穴山梅雪顕彰会によって「江尻城主・霊泉寺開基、穴山梅雪公380年祭」が同寺において執り行われたそうです。

  • 穴山梅雪供養塔<br /><br />法名は「霊泉寺殿古道集賢大居士」と称されています。

    イチオシ

    穴山梅雪供養塔

    法名は「霊泉寺殿古道集賢大居士」と称されています。

  • 穴山梅雪供養塔

    穴山梅雪供養塔

  • 穴山梅雪供養塔(近景)

    穴山梅雪供養塔(近景)

  • 穴山梅雪供養塔(側面)<br /><br />供養塔の側面には梅雪が宇治田原にて殺害された「天正十年 六月二日」が刻されています。

    穴山梅雪供養塔(側面)

    供養塔の側面には梅雪が宇治田原にて殺害された「天正十年 六月二日」が刻されています。

  • 穴山梅雪由緒<br /><br />簡単な説明が記載されているだけです。

    穴山梅雪由緒

    簡単な説明が記載されているだけです。

  • 霊泉寺歴代住職ぼ墓石

    霊泉寺歴代住職ぼ墓石

  • 興津海岸展望<br /><br />高台に設置された梅雪墓所からは遥か彼方に興津の海洋が展望されます。

    興津海岸展望

    高台に設置された梅雪墓所からは遥か彼方に興津の海洋が展望されます。

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