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JR東海道線湯河原駅北側に立地する萬年山・城願寺(じょうがんじ、神奈川県足柄下郡湯河原町)は治承4年(1180)石橋山合戦で敗れた源頼朝を平氏追手から守り自領の真鶴から安房に送り届け後に鎌倉に幕府創設に尽力した土肥実平(どい・さねひら、生誕不詳~1191?)が建てた持仏堂跡に開山された曹洞宗の寺院です。<br /><br /><br />墓地の高台に石柵で囲まれた土肥氏の墓所があり、石段上がったすぐ左側には「土肥一族の墓」と題した説明文が建っています。<br /><br />「 土肥一族の墓所 <br />         昭和30年11月1日指定 神奈川県指定史跡<br /><br />源頼朝の平家追討旗挙げの中心となり活躍した土肥次郎実平が、平家滅亡と鎌倉幕府成立の大業を成し遂げたのち、出陣した自分の信仰する持仏堂のあるこの地に、犠牲者の菩提を弔い一族の長久を祈るため城願寺を建て、鎌倉時代中期に一時衰退しましたが、室町時代に中興されたと伝えられています。<br /><br />実平は、桓武平氏良文流中村宗平(現在の神奈川県中井町)の次男です。<br /><br />石橋山の戦いで破れ、失意の頼朝を励まし山中を逃げ延びて房総へ小舟で渡海したのち、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと転戦して、下関壇ノ浦で平氏に勝利するまで戦いの連続でした。その間、惣追捕使として、瀬戸内、山陽山陰・四国地方の統治管理を続けました。<br /><br />鎌倉幕府設立後、実平は、現在の広島県三原市にある沼田荘に長男遠平と移住し、この地で亡くなりました、遺骨は分骨され、三原市米山寺に、さらに鎌倉で将軍頼朝に目通りを終えてから城願寺に葬られ、のちに遠平も沼田荘で亡くなり、同じように城願寺へ葬られたと伝えられています。<br /><br />実平の墓は、当寺や米山寺以外にも、山形県鶴岡市井岡、静岡市安養寺、小田原市谷津鳳粟院などにもあります。<br /><br />正面の墓が五輪塔(ごりんとう)。その左右に一つずつ層塔、さらに四角い宝篋印塔(ほうきょういんとう)が左右に続きます。五輪塔はどれも銘が無く、建立年や施主などは不明ですが、実平中央、向かって左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔と伝えられています。<br />  <br />      昭和27年3月吉日 <br />                 湯河原町 <br />                 土肥会 」

相模湯河原 肥沃な相模国中央部進出をめざし貴種頼朝を旗頭とした湘西豪族土肥実平が居館に配した持仏堂が起源で一族の長久を祈る『城願寺』散歩

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2018/03/11 - 2018/03/11

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR東海道線湯河原駅北側に立地する萬年山・城願寺(じょうがんじ、神奈川県足柄下郡湯河原町)は治承4年(1180)石橋山合戦で敗れた源頼朝を平氏追手から守り自領の真鶴から安房に送り届け後に鎌倉に幕府創設に尽力した土肥実平(どい・さねひら、生誕不詳~1191?)が建てた持仏堂跡に開山された曹洞宗の寺院です。


墓地の高台に石柵で囲まれた土肥氏の墓所があり、石段上がったすぐ左側には「土肥一族の墓」と題した説明文が建っています。

「 土肥一族の墓所 
         昭和30年11月1日指定 神奈川県指定史跡

源頼朝の平家追討旗挙げの中心となり活躍した土肥次郎実平が、平家滅亡と鎌倉幕府成立の大業を成し遂げたのち、出陣した自分の信仰する持仏堂のあるこの地に、犠牲者の菩提を弔い一族の長久を祈るため城願寺を建て、鎌倉時代中期に一時衰退しましたが、室町時代に中興されたと伝えられています。

実平は、桓武平氏良文流中村宗平(現在の神奈川県中井町)の次男です。

石橋山の戦いで破れ、失意の頼朝を励まし山中を逃げ延びて房総へ小舟で渡海したのち、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと転戦して、下関壇ノ浦で平氏に勝利するまで戦いの連続でした。その間、惣追捕使として、瀬戸内、山陽山陰・四国地方の統治管理を続けました。

鎌倉幕府設立後、実平は、現在の広島県三原市にある沼田荘に長男遠平と移住し、この地で亡くなりました、遺骨は分骨され、三原市米山寺に、さらに鎌倉で将軍頼朝に目通りを終えてから城願寺に葬られ、のちに遠平も沼田荘で亡くなり、同じように城願寺へ葬られたと伝えられています。

実平の墓は、当寺や米山寺以外にも、山形県鶴岡市井岡、静岡市安養寺、小田原市谷津鳳粟院などにもあります。

正面の墓が五輪塔(ごりんとう)。その左右に一つずつ層塔、さらに四角い宝篋印塔(ほうきょういんとう)が左右に続きます。五輪塔はどれも銘が無く、建立年や施主などは不明ですが、実平中央、向かって左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔と伝えられています。
  
      昭和27年3月吉日 
                 湯河原町 
                 土肥会 」

交通手段
JRローカル

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  • 城願寺・参道(全景)<br /><br />台地が迫った湯河原駅北側の城願寺へは駅南口から数分の地に在り、途中には城願寺を案内する看板が立っています。

    城願寺・参道(全景)

    台地が迫った湯河原駅北側の城願寺へは駅南口から数分の地に在り、途中には城願寺を案内する看板が立っています。

  • 城願寺・参道(拡大)<br /><br />歳月を耐えた「城願寺参道」を刻した石標からなだらかな坂道となっています

    城願寺・参道(拡大)

    歳月を耐えた「城願寺参道」を刻した石標からなだらかな坂道となっています

  • 城願寺・寺門

    城願寺・寺門

  • 城願寺・石段

    城願寺・石段

  • 城願寺・山門<br /><br />鎌倉時代後期には五山十刹に次ぐ寺格に指定され、西相模では指折りの寺院であったそうです。

    城願寺・山門

    鎌倉時代後期には五山十刹に次ぐ寺格に指定され、西相模では指折りの寺院であったそうです。

  • 城願寺・扁額<br /><br />山門上部には「萬年山」と揮毫された扁額が掲載されています。万年の世までも家柄が栄えるようにと号した持仏堂を整えたことから始まります。

    城願寺・扁額

    山門上部には「萬年山」と揮毫された扁額が掲載されています。万年の世までも家柄が栄えるようにと号した持仏堂を整えたことから始まります。

  • 城願寺・本堂(全景)<br /><br />本堂には室町時代の作と伝えられる土肥次郎実平、弥太郎遠平父子の木造座像が安置されています。<br /><br />

    城願寺・本堂(全景)

    本堂には室町時代の作と伝えられる土肥次郎実平、弥太郎遠平父子の木造座像が安置されています。

  • 城願寺・境内

    城願寺・境内

  • 城願寺・鐘楼堂

    城願寺・鐘楼堂

  • 七騎堂<br /><br />頼朝主従七名の像を安置した堂で、具体的には石橋山合戦で敗れた頼朝は数日間山中をさまよった後真鶴から海路安房へ渡ることとなり、主従八名では縁起が悪いとの理由で実平嫡子の遠平が下船、実平と頼朝の他安達藤九郎盛長、岡崎四郎義実、新開次郎忠氏、土屋三郎宗達及び田代冠者信綱の像が祀られています。<br /><br />

    七騎堂

    頼朝主従七名の像を安置した堂で、具体的には石橋山合戦で敗れた頼朝は数日間山中をさまよった後真鶴から海路安房へ渡ることとなり、主従八名では縁起が悪いとの理由で実平嫡子の遠平が下船、実平と頼朝の他安達藤九郎盛長、岡崎四郎義実、新開次郎忠氏、土屋三郎宗達及び田代冠者信綱の像が祀られています。

  • 七騎堂に建つ説明板<br /><br />下記の如く説明されています。<br /><br />「 七騎堂の由来<br /><br />伊豆に流されて二十年間、蟄居の生活を送っていた源頼朝が、源氏再興の旗挙げをしたのが今から約八百年の昔、治承四年八月二十三日である。頼朝は石橋山(神奈川県片浦村)に陣を布き、手勢三百騎で平家方の大庭景親軍三千騎と対戦したが、衆寡敵せず忽ち遁走して土肥氏の杉山に逃れ、山中の洞窟に身を隠し或いは山中の堂宇に難を避くる等、幸いにて大庭軍の眼を暗まし、八月二十八日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びたのである。この時同船したのが頼朝以下主従七騎であったので、世はこれを頼朝七騎落と呼んでいる。<br /><br />頼朝の決起によって平家が滅び、日本の王朝政治の終りを告げて武家政治の時代が開かれ、ここに日本歴史を転換させた最初の戦いが土肥郷(今の小田原から湯河原まで)を舞台として戦われ、しかもこの合戦の参謀として活躍したのが当地(現湯河原町)に居館を構え、土肥郷を領していた土肥次郎実平であったのである。<br /><br />吾が郷土の史実研究団体である土肥会に於いては、さきに郷土と縁の深いこの七騎落七武者の像を刻み、土肥氏の菩提寺城願寺境内に一宇を建立し、ここに安置することになった。七騎堂即ちこれである。<br />                  昭和四十九年四月吉日<br />                      湯河原町 土肥会 」<br />   <br />         <br />

    七騎堂に建つ説明板

    下記の如く説明されています。

    「 七騎堂の由来

    伊豆に流されて二十年間、蟄居の生活を送っていた源頼朝が、源氏再興の旗挙げをしたのが今から約八百年の昔、治承四年八月二十三日である。頼朝は石橋山(神奈川県片浦村)に陣を布き、手勢三百騎で平家方の大庭景親軍三千騎と対戦したが、衆寡敵せず忽ち遁走して土肥氏の杉山に逃れ、山中の洞窟に身を隠し或いは山中の堂宇に難を避くる等、幸いにて大庭軍の眼を暗まし、八月二十八日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びたのである。この時同船したのが頼朝以下主従七騎であったので、世はこれを頼朝七騎落と呼んでいる。

    頼朝の決起によって平家が滅び、日本の王朝政治の終りを告げて武家政治の時代が開かれ、ここに日本歴史を転換させた最初の戦いが土肥郷(今の小田原から湯河原まで)を舞台として戦われ、しかもこの合戦の参謀として活躍したのが当地(現湯河原町)に居館を構え、土肥郷を領していた土肥次郎実平であったのである。

    吾が郷土の史実研究団体である土肥会に於いては、さきに郷土と縁の深いこの七騎落七武者の像を刻み、土肥氏の菩提寺城願寺境内に一宇を建立し、ここに安置することになった。七騎堂即ちこれである。
                      昭和四十九年四月吉日
                          湯河原町 土肥会 」
       
             

  • 七軌堂に建つ「謡曲七騎落と城願寺」説明板<br /><br />更に下記の説明が記されています。<br /><br />「 謡曲『七騎落』と城願寺<br /><br />謡曲『七騎落』は鎌倉武士社会の忠節を自愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。<br /><br />石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。頼朝は祖父為義、父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするように土肥実平に命じた。<br /><br />主君の武運を開くため我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合の和田義盛に救われ、歓喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。<br /><br />城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鍵禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木像が収められている。<br />                     謡曲史跡保存会 」<br />

    七軌堂に建つ「謡曲七騎落と城願寺」説明板

    更に下記の説明が記されています。

    「 謡曲『七騎落』と城願寺

    謡曲『七騎落』は鎌倉武士社会の忠節を自愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。

    石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。頼朝は祖父為義、父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするように土肥実平に命じた。

    主君の武運を開くため我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合の和田義盛に救われ、歓喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。

    城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鍵禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木像が収められている。
                         謡曲史跡保存会 」

  • 墓地・入口

    墓地・入口

  • 「土肥一族の墓所」説明板

    「土肥一族の墓所」説明板

  • 土肥実平一族墓所(全景)<br /><br />同墓所には六十六基の墓石が配されているそうです。

    イチオシ

    土肥実平一族墓所(全景)

    同墓所には六十六基の墓石が配されているそうです。

  • 土肥実平一族墓所(近景)

    イチオシ

    土肥実平一族墓所(近景)

  • 土肥実平・供養塔<br /><br />供養塔には銘が刻されていませんが中央部には実平を祀った五輪塔、その左側には夫人、右側には息子の遠平(とおひら)の五輪塔と伝えられています。

    土肥実平・供養塔

    供養塔には銘が刻されていませんが中央部には実平を祀った五輪塔、その左側には夫人、右側には息子の遠平(とおひら)の五輪塔と伝えられています。

  • 土肥遠平・暮石<br /><br />土肥一族の墓石群の手前左側には「土肥平遠平墓」と刻された墓石があります。<br />土肥氏は桓武平氏の後裔により名前の前に『平』が記されています。

    土肥遠平・暮石

    土肥一族の墓石群の手前左側には「土肥平遠平墓」と刻された墓石があります。
    土肥氏は桓武平氏の後裔により名前の前に『平』が記されています。

  • 土肥実平一族供養塔群<br /><br />墓所には嘉元2年(1304)7月銘のある五輪の鎌倉様式の重層塔や永和元年(1375)6月銘の宝篋印塔を始め各種の墓型がそろっているのは珍しいとされます。<br /><br />

    土肥実平一族供養塔群

    墓所には嘉元2年(1304)7月銘のある五輪の鎌倉様式の重層塔や永和元年(1375)6月銘の宝篋印塔を始め各種の墓型がそろっているのは珍しいとされます。

  • 土肥実平一族供養塔群

    土肥実平一族供養塔群

  • 「土肥一族の墓所」説明板

    「土肥一族の墓所」説明板

  • 相模湾展望<br /><br />土肥氏墓所眼下には東西に広がる相模湾の景観が楽しめます。

    相模湾展望

    土肥氏墓所眼下には東西に広がる相模湾の景観が楽しめます。

  • 漕洞宗規約

    漕洞宗規約

  • 「城願寺」説明板(全景)

    「城願寺」説明板(全景)

  • 城願寺説明(拡大)<br /><br />城願寺案内板には「土肥一族の墓」の説明があります。

    城願寺説明(拡大)

    城願寺案内板には「土肥一族の墓」の説明があります。

  • 城願寺「ビャクシン」全景<br /><br />実平が手植えしたと伝えられる樹齢約800年のビャクシンが国指定天然記念物となっています。<br /><br />

    城願寺「ビャクシン」全景

    実平が手植えしたと伝えられる樹齢約800年のビャクシンが国指定天然記念物となっています。

  • 「城厳寺ビャクシン」標柱

    「城厳寺ビャクシン」標柱

  • 城願寺境内風景<br /><br />山門方向の景色を窺います。

    城願寺境内風景

    山門方向の景色を窺います。

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