2018/03/11 - 2018/03/11
650位(同エリア932件中)
滝山氏照さん
JR東海道線湯河原駅前広場には平安時代末期に配流先の伊豆で平氏に反旗を翻した源頼朝にいち早く一族を挙げて参陣した中村宗平の二男土肥實平(どい・さねひら、生誕不詳~1191?)の武者姿の像が夫人と共に配されています。
中村宗平は桓武平氏良文流の後裔といわれ、相模国南西部の余綾郡中村郷(小田原市東端~足柄上郡中井町)の開発領主で長男景平に中村郷を継承させ二男實平には土肥郷(湯河原町・真鶴町)を、三男宗遠には大住郡土屋郷(平塚市土屋)を、四男友平には余綾郡二宮郷(二宮町)を与えるなか息子たちはそれぞれ周辺の地に勢力を拡大します。
ご存じの通り治承4年(1180)8月に挙兵した頼朝に中村宗平は上述の息子と共にはせ参じ、山木館急襲で軍功を挙げますが石橋山合戦で多勢に無勢で敗退、平氏の探索を潜り抜け實平の所領である真鶴より頼朝を安房に逃すことに成功します。
鎌倉幕府が創設され木曽義仲や平氏との戦いが始まると實平は源範頼・義経に従って一ノ谷合戦で活躍、その後屋島及び壇ノ浦合戦でも従軍、義経が頼朝に対し挙兵すると幕府軍の先陣として他の一族と共に上洛するなど頼朝の厚い信頼を得た武将といえます。
尚實平の子遠平は平氏追討の武勲に対し安芸国沼田荘(広島県三原市・竹原市)に地頭職を与えられ、相模国早川荘の地名を名字としてその子孫が南北朝・室町時代を経て戦国大名小早川氏として活躍発展することになります。
實平像の傍らには實平と夫人の銅像建立した経緯を記した説明板があり次の如く記載されています。
「 由 来
土肥實平は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当たっては、軍監、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。
公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食量を運び、消息を伝えるなど、その心さかさかしき(源平盛衰記)は武人の妻として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものでる。」
- 交通手段
- JRローカル
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土肥實平像
JR東海道線湯河原駅前の中央広場には土肥實平と夫人の像があります。 -
イチオシ
土肥實平像
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土肥實平公並夫人像の銘板
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土肥氏館趾石碑
駅舎の北側の丘陵部に建っている勝願寺辺りから駅前広場にかけてが土肥氏の館と言われています。
石碑には次の記載があります。
「 源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)8月、その崛起にあたり湘西における箱根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山山中の巌窟など複雑なる地利と此の地の豪族土肥実平等一族並びに行実坊、永実坊・僧純など志を源家に寄せる人の和と天運に依る。
石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解爛した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である。
茲に挙兵780年を記念して土肥氏館址に碑を建立するにあたり文を需めらるにのっとって誌す。
昭和35年8月23日
神奈川県文化財専門委員 武柳学園町 石野 瑛 」 -
由来
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土肥祭ポスタ-
近隣通りには第88回土肥祭(平成30年4月1日開催)のポスタ-が見え、当日は武者行列が通りをパレ-ドするようです。
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