1980/04/28 - 1980/05/04
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ノスタルジアさん
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この頃になるとまとまった休みが取れなくなって旅行に出掛けられるのは、ゴールデンウイーク、お盆休みぐらいだった。ゴールデンウイークを控え、何処かいい所はないか、と探していたらガイドブックでトルコのカッパドキアを思わせる仏ヶ浦の写真が目に止まりここに行く事にした。ついでに津軽半島、角館も予定に入れた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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昭和55年5月1日(木)弘前市 長勝寺 三門
長勝寺は、曹洞宗の寺院で山号は太平山。本尊は釈迦如来。津軽家最初の菩提寺で、日光東照宮と並び称される江戸時代初期の代表的な建造物。
津軽家の先祖大浦光信の死後、その子盛信(大浦城主)が亡き父のため享禄元年(1528年)種里(現在の鯵ヶ沢町)に創建。慶長15年(1610年)二代信枚公が弘前城築城とともに現在地に移したとされている。
5月に入ったのにみぞれ混じりの冷たい雨、旅に出てからずーっと悪い天気、早々に次の目的地津軽半島に向かう事にした。弘前から奥羽線で青森、青森から津軽線に乗った。車内の暖房はストーブで暖かった。丁度、通学時間帯で女子高生たちが乗っていて会話を聞いていたが、会話の中身は全く解らず、解かったのは「んだ、んだ。」だけだった。 -
昭和55年5月1日(木)今別町 ユースホステル本覚寺
昭和58年9月30日でユースホステルは廃業された。夕食の刺身が美味しかった記憶が強く残っている。 -
昭和55年5月1日(木)今別町 ユースホステル本覚寺 宿泊スタンプ
始覚山本覚寺は、明暦3年(1657)、安長上人によって開かれた浄土宗の寺で、阿弥陀如来を本尊としている。当寺の第五世住職貞伝上人は、名僧の誉れ高く、地域の産業振興にも尽くした人物。漁師の生活を安じた貞伝上人が、境内の多門天堂に祈願し、経を書いた石を念仏読経とともに、海に投げいれ昆布を根付けさせたといわれ、当地方では、今別昆布は貞伝上人の賜わり物とされており、また、ただ取るだけでなく育てる漁業の先駆者ともいわれている。創建年には諸説あり一説には天元年間(978~983)に開かれたのが始まりとされ江戸時代に入り安長上人によって再興され、明暦3年に寺院として認められ始覚山本覚寺の寺号を授かったとされている。太宰治の小説「津軽」の舞台の1つでもある。
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昭和55年5月2日(金)龍飛埼灯台
龍飛埼灯台は、青森県津軽半島の竜飛崎の突端に立つ白亜円形の大型灯台。周辺は津軽国定公園に指定され、津軽海峡から北海道も望める風光明媚の地。また日本の灯台50選にも選ばれている。
塗色構造 白塔形 、灯質 群閃白光 毎20秒に2閃光 、光度 47万カンデラ 、光達距離 23海里 (約 44 km)、塔高 13,72m、灯高 119m 、初 点 灯 昭和7年7月1日 -
昭和55年5月2日(金)龍飛埼灯台
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昭和55年5月2日(金)龍飛埼灯台
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昭和55年5月2日(金)龍飛埼
竜飛崎は、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある、津軽半島の最北端、津軽海峡に突き出た岬である。龍飛崎と表記することもある。津軽国定公園の一部。
名前はアイヌ語のタム・パ(tam-pa 刀の上端)からの転訛(てんか)で、「突き出た地」の意味だという説があり、タムパを"龍が飛ぶ"と当て字したといわれている。表記には「竜/龍」及び「崎/埼/岬」という揺らぎがあり、竜飛埼、龍飛岬などとも言われる。北海道の白神岬とは津軽海峡を挟んで19.5キロメートル -
昭和55年5月2日(金)龍飛埼
https://www.youtube.com/watch?v=xjyPxRAZs3U
https://www.youtube.com/watch?v=Ma-XZPUfEN8
1977年の石川さゆりのヒット曲で「津軽海峡・冬景色」の歌詞の一節(歌詞の中では竜飛岬と表記されている)に唄われているので、そのイメージを求めて訪れたが、季節が違ったせいかイメージ通りでは無かったので、青函連絡船廃止の年、1988年(昭和63年)2月に札幌雪祭り、富良野、ニセコのスキー旅行の往復に乗船した。歌のイメージ通りであったが、函館行きの船上デッキでイメージに合わない女性が石川さゆりに成りきって「津軽海峡・冬景色」を歌っているのを見て笑ってしまった。 -
昭和55年5月2日(金)竜飛崎で
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昭和55年5月2日(金)竜飛崎 工事中の青函トンネル
青函トンネルは、全長53.85キロで海底トンネルとしては世界最長。掘削は1964年、北海道側で始まり、2年後に本州側も掘削を開始。87年に完成し、翌88年3月、青函連絡船に代わってJR津軽海峡線が開通した。函館と新青森を結ぶ特急は約30分でトンネルを走り抜ける。 -
昭和55年5月2日(金) 小泊港で
今別町から竜飛崎、そして小泊までヒッチハイクで来た。田舎で交通量はゼロ状態でたまにしか来ないが、そのたまにしか来ない車は必ず乗せてくれたお蔭で昼頃には小泊に着き民宿に飛び込んで予約して夕陽が美しく見れる、と評判の小泊岬を目指した。岬へは南回りの県道111号線で行くのが普通だが、道路では無いが眺めの良い海岸線を徒歩で向かった。 -
昭和55年5月2日(金)小泊港
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昭和55年5月2日(金)小泊岬南灯台
小泊岬は津軽半島の西側から日本海へ突き出た岬で熊野権現を祀ることから別称権現崎。海岸一帯は断崖で雄大な海岸風景が展開する。 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬南灯台
塗色構造 白塔形 、灯質 等明暗白光 明3秒暗3秒 Iso W 6s 、
光達距離 14海里 、塔高 13メートル 、灯高 78m、初点灯 昭和39年11月 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬から
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昭和55年5月2日(金)小泊岬
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昭和55年5月2日(金)小泊岬で
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昭和55年5月2日(金)小泊岬で
岬からは北海道、南に津軽富士の岩木山、十三湖などのパノラマ景色を楽しむこともできたがあいにく少し霞んでいて鮮明では無かったのが惜しまれた。 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬で
小泊岬は日本海に沈む夕陽の美しさで知られていたので日の入りまで待つ事にした。 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬で
岬に着いたのが14時過ぎ、日の入りが18時37分、それまで待つのが大変だった誰か観光客でも来れば話し相手になって時間を潰せたのに誰も来なかったので、ただ周囲をぶらぶらして過ごした。ポルトガルのロカ岬でも長時間日の入りを見るために待ったが、岬のスケールが違うせいかとにかく退屈な時間を過ごした。 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬で
17時過ぎになって見上げる空は青空だが、水平線上から雲が雲が立ち込めて来た。このまま時間が経てば夕陽は雲の中に沈んで形は崩れ、夕焼けも期待したものにならなくてがっかりするのが予想出来たので宿に帰る事にした。 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬から小泊港
いざ小泊港に戻るとなったら急に不安が募ってきた。出合う人も無く日が暮れてしまったら街灯もない道なき道を歩かなければならないのである。海岸沿いに歩いて来たので岩がゴロゴロしていて足元が不安定で2時間程掛かるのである。 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬から小泊港
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昭和55年5月2日(金)小泊岬北灯台
塗色構造 白塔形 、灯質 単閃白光 毎4秒に1閃光 Fl W 4s 、光達距離 13海里
塔高 10m、灯高 89m、 初点灯 昭和6年2月 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬から小泊港 番屋
必死になって小泊港に急いでいたら往路では気付かなかった番屋が見えて来て煙突から煙りが出ているので中に誰かいる、と分かり港までどれくらい掛かるか尋ねるためにノックしながら戸を開けた。
番屋は漁師が漁の間に泊まりこんだり、作業をしたりする小屋。 -
昭和55年5月2日(金)小泊岬から小泊港 番屋で
中には3人の漁師さんがいて干物のホッケを肴に茶碗酒で一杯やっていた。事情を話し始めると遮られて中に入って飲んで行け、と言われ寅さんの気分になった。
酒は極端に弱く眠くなるので口を付ける程度だったが、代わりに勧められた七輪で焼いた干物のホッケが美味しくて「美味しい、美味しい。」と言ったら、それならと「もっと食べろ。」と言って計5尾も焼いてくれた。美味しくてお腹が空いていたせいか全部食べた。日が暮れて来たのでそろそろお暇したいと言ったら、「心配するな、港はすぐそこだからゆっくりして行け。」と引き留められ番屋を出たのは8時近くだった。
撮った写真を送ると葉書が届き「ホッケを用意して待っているから来年また番屋に来ないか。」と書かれていたが行かず仕舞いだった。寅さんならきっと再訪するだろうが、自分は寅さんと違ってマドンナに巡り合わなかったからである。
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