2015/10/27 - 2015/10/28
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junemayさん
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海外ではアメリカのJetblue、イギリスのeasyjet、トルコのSun Express等LCC経験があるのですが、国内ではこれまで搭乗チャンスがありませんでした。ある日インターネットでふと目に留まった大手旅行代理店募集の奄美大島ツアー。2泊のホテル代込で2万円を切るという衝撃的なお値段に、思わずぽちっとやってしまいました。成田発というのがネックですが、奄美大島ですからね。一応海外(地続きではない)だし・・・というわけで、何の下調べもなく申し込んだツアー。果たしていつもの行き当たりばったりが通じるでしょうか?!
10/26成田空港→奄美空港→名瀬
10/27名瀬→マングローブパーク→古仁屋→名瀬
10/28名瀬→奄美パーク→奄美空港→成田空港
半潜水艦から降りたら、マングローブパークからのバスで一緒だった一人旅の「旅とも」さんとばったり。さんご礁見物も一緒の船だったようですが、気が付きませんでした。彼がこれから今日泊まる古仁屋の宿に行き、そこで自転車を借りる予定だと話すのを聞いて、私も借りられないか、ついて行って聞いてみることにしました。泊まらないのに図々しいかしら???
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル バニラエア
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
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奄美大島で二番目に大きな町瀬戸内町の市街地を歩きます。街路樹というには間隔が開きすぎのような気がしますが、この丸く刈り込んだ木は何でしょう?
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道端の樹木にもオレンジとイエローの筒型の花が一杯咲いていました。こちらはいかにも南国風。
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細い緑の葉が涼し気ですね。悲しいことに名前が分からない木ばかりです。
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十字型の細長い花弁を持つこちらの赤い花も、方々で見かけました。
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港から歩くこと15分。前を行く彼が今晩泊まる宿「昭和荘」です。1泊1500円ですって。安~い! 手前にずらりと並んでいるのが、そう、貸自転車です。
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宿にあったこちらの陶器はどう見ても沖縄風ですねえ。石敢當って書いてある。
「旅とも」さんの尽力により無事に自転車をゲット。時刻は午後3時半。今からだと2時間ほどしか時間が取れませんが、瀬戸内町をぐるっと一周できるかしら?
いざ出発!! -
サイクリングの途中で瀬戸内町役場前を通過しました。町には二つのキャッチフレーズがあります。
唄と海でゆらう町
満天の星が降りそそぐ町
「ゆらう」とは、一つところにとどまるという意味だそうですよ。星空は一泊しないと無理そうですね。 -
本当は山を一つ越えた集落に、本物のサンゴで出来た塀を見に行きたかったのですが、ギアのない自転車じゃあちと難しいのだそう。折角自転車をゲットしたもののあまり奄美らしいスポットは見当たらず、町外れにある郷土館までがやっとでした。
下校途中の小学生に郷土館まで案内してもらいましたよ!!
突然展示が始まっていますが、これは加計呂麻島の外側の海にある寄路島で長年使われていたサトウキビの鉄輪圧搾機です。この機械を馬が回していたそうです。ヨーロッパでよくみかけたロバを使った粉ひきを想像してしまいました。 -
こちらは「ヤドリ」。サトウキビの畑近くに作られた簡素な作業小屋で、製糖期になると、家族がここに寝泊まりして作業に没頭したそうです。
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アマミノクロウサギ君 再び。
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瀬戸内町の名家と言えば、加計呂麻島に住んでいた西家。薩摩藩時代、島出身者が就く最高位の役職であった「与人」や戸長を代々務めた家柄で、請島、寄路島に面した側にある天然の良港伊子茂湾を拠点に、琉球との貿易も一手に引き受けていたそうです。
西家のお宝は、その殆どが太平洋戦争中に焼失してしまいましたが、わずかに残されたものが郷土館に保管されていました。
こちらは仏具の一種中央卓(ちゅうおうじょく)の上に載った鉄器。中国風に見えます。 -
瀬戸内町指定有形文化財の酒器。錫で作られているんですって。
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写真だけでしたが、西家代々の墓所には立派な墓石が並んでいました。墓石は沖縄のそれとは異なり和風に見えます。
その上には半分しか見えていないけれど銃がずらり。種子島と呼ばれた銃です。 -
石製の龍樋(りゅうひ)はなかなか見事でした。こちらも加計呂麻島の西家に残されていたものです。解説によると、龍樋は薩摩から持ち込まれたもので凝灰岩製。後方にある穴から取り込まれた水が龍の口から流れ出る仕組みになっています。高さ125cm~130cm。
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続いては、国の重要無形民俗文化財に指定されている諸鈍シバヤ(ショドンシバヤ)という踊り。こちらは加計呂麻島諸鈍村落に伝わる民俗行事で、手製のカビディラという紙のお面と、山高帽のような帽子または陣笠風の笠をかぶって踊るのが特徴(左側に立っている男性)。旧暦の9月9日に披露されます。
右側男性が身に付けているのは、旧暦8月15日に行われる油井豊年祭(油井は古仁屋から車で西に20分位にある村落名)の衣装です。こちらも仮面をつけるところが共通していますね。こちらは鹿児島県の民族無形文化財に指定されています。 -
お面が素朴でまた楽しいんだなあ・・・
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探していたものが郷土館にありました。サンゴの石塀。何か、積んであるだけっていう風に見えるんですが、すぐ崩れちゃいそうですね。大丈夫なのかなあ???
やはり実際に使われているものが見たかった。 -
薩摩の二ツ家と似ていて、基本は二つの棟から成り立っています。それぞれを「オモテ」、「トーグラ」と言います。比較的裕福な家には、他に2つの棟の間に造る「ナカヤ」、高倉式の食物倉庫「高倉」等があるそうです。それぞれの棟が別々になっているのが特徴。
「ユージンヤ」と呼ばれるトイレ、そして「サスヤ」と呼ばれる物置は母屋とは別に建てられました。 -
年季の入った泡盛の看板が良い味出していましたよ。
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大変興味深かったのは、奄美群島を含む琉球列島を統治していた琉球王府の保護の下、村落の祭祀を司っていた巫女「ノロ」のことです。特に加計呂麻島、請島、寄路島の村落では、最近まで「ノロ」による神事が行われて来たそうです。
「ノロ」の方々の写真が残されていました。巫女さん達より左側に見えるサンゴ塀の見事なことに目を奪われました! 高さ3m位ありそうですね。これが見たい! -
これは、「ノロ」が使う大型の神扇で、「ミガキ」と呼ばれています。扇の中央に赤い太陽と対の鳳凰、瑞雲などが描かれた面が「オモテ」、裏面には白い月、牡丹の花、蝶等が描かれているそうです。
色鮮やかで、沖縄の紅型を見る思いでした。 -
ノロが使った祭祀具の展示もありました。これも加計呂麻の西家のものが多いですねえ。
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ノロは女性のみの神官で世襲制。元々は琉球王府が位の高い官職の人の妻や姉妹を指名したと言われています。ノロは村落の繁栄や住民の健康、祖先の出迎え、豊穣、豊作、豊漁等の祈願を行う祭祀を取り仕切っていました。
頭に付けているのは草の冠(神カムリ)。 -
サトウキビの苗を持っているので、豊作祈願でしょうか? 太鼓をたたいている人もいますね。
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大きな扇 ミカギを使った神事が進行中です。
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沖縄で琉球王国最高の聖地斎場御嶽(せーふぁうたき)を訪れて、ノロの頂点に立つ存在である聞得大君(きこえおおきみ)について学んだのに、神事については殆ど知らないままだったので、大変興味深く写真を見て回りました。
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戦後アメリカに占領されていた奄美群島が日本に返還されたのは1953年(昭和28年)の事。加計呂麻、請、寄路に電気が引かれたのはその後の事なのだそうです。
今も自然信仰、祖霊信仰がそこここに残る3つの島をそぞろ歩いてみたくなりました。次回はきっと。 -
こちらは、琉球式の「厨子甕」(ずしがめ)。所謂骨壺ですが、琉球、奄美では死者を木棺に納めて埋葬した後、3年~5年経って掘り出し、土の中の骨を洗骨してから、改めて骨壺に入れて葬るという習慣があったのだそうです。
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厨子甕の殆どは、沖縄で作られたもので、左側のもののように釉を用いたものから右側のように素焼きのものまで様々。手の込んだ装飾が施されていて、真ん中の壺型のものは特に屋根瓦を思わせる模様が美しく、見入ってしまいました。
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奄美の自然はこんなにも豊かなのに、ほんの何日かしか滞在しない旅人の目にとまるのはほんの僅か。
自然も文化も郷土資料館のような場所でしか触れられないのは寂しいですね。 -
郷土館の入口付近にあった、ビヨウタコノキ(美容蛸の木)はマダガスカルが原産。奄美だけでなく、沖縄や小笠原でも見ることが出来るポピュラーな木です。真っ直ぐに伸びた支柱根が蛸の足に似ていることから付けられた名前だそう。
でも美容というのはどういう意味なんでしょうね? -
こちらはご存知ソテツ。ソテツには雄と雌があり、受粉させると10月から2月にかけて雌木に実がなります。
奄美では、薩摩藩がサトウキビを米の代わりに年貢として納めさせていた歴史があり、島民がサトウキビの茎を折ってなめただけで死罪という厳しい取り立てが行われてきました。略奪に近いような年貢の取り立て。毎日の食べる物にも困り、亡くなる者も多数出ましたが、飢饉の際に島民を支えたのがこのソテツです。 -
島の主食はサツマイモでしたが、ソテツの実は赤い皮を剥き、サイカシンという有毒成分を水に何度も晒すことでドク抜きした後で、残ったでんぷんを餅や粥にしたのだそうです。この水に晒す作業、なんと1、2週間もかかるんですって! 中途半端なままで終わらせて食べると、中毒になるというから命がけです。
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こちらは御馴染ヤシの木ですね。
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郷土館の内外以外では結局、奄美らしい建造物や風景を見つけられずじまいで、少々がっかりしながら町の中心に戻ります。わずか数百m沖に横たわる加計呂麻島。あの島まで行ければ、もう少し奄美らしさを感じられたかもしれません。
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瀬戸内町へき地診療所ですって。こんなに堂々と看板を出されると、複雑な心境。この看板を見るまで、ここをへき地だとは思っていなかったのですが・・・
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奄美大島の西の果て西古見までは38km。3つ並んだ小島「三連立神」の後方の海に落ちる夕日は素晴らしいけれど、足がなくてはこの絶景も拝めません。
いやあ、どこに行くのも遠いなあ・・・ -
味わい深い建物発見1
もう看板の殆どの文字が崩れ落ちゃったけれど、かろうじて「写真館」と読めます。電話54番。いつの時代の建物でしょう? -
沖縄風とは異なる瓦葺の民家です。そんなに古いものではなさそうですが、玄関扉上の欄間?が凝っています。
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町の中心にほど近い仲村屋は焼き肉屋さん。打ちっぱなしのコンクリートにカブトムシが光っています。
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ここは2本の川が平行して海へと流れ出る辺り。自転車を返却して、バス停である海の駅へ向かう最中に目にした1枚。
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宝物を探し終える前に引き返すような気分ですが、名瀬はここから43kmも先。本数の少ないバスに乗り遅れたら大変なので、そろそろ戻るとしますか・・・
というわけで、満天の星を眺める時間もなく、加計呂麻に渡ることもなく、瀬戸内町を後にしたのでした。 -
さて、あくる日は早くも最終日です。奄美大島のマンホールは規格のもので面白みはゼロでした。
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今朝は、名瀬(奄美市)の町を見下ろすおがみ山公園(標高236m)に登ろうとやってきました。
途中名瀬小学校の脇を通ります。
看板に「名小ち、いもーれ」とありますが、ちはどういう意味?
名瀬小学校 に ようこそ という意味かなあ・・・ -
小学校の前を流れる小さな永田川を渡ると、景色が一変します。
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市の保存樹木に指定されている大木の間を抜けて山道を進んでいきます。おがみ山公園は古くから島民の聖林、信仰の対象とされてきた山で、亜熱帯の木々で覆われています。
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少し坂を上ったところから見た奄美市です。本当に、日本のどこにでもありそうな町で、私が勝手に思い描いてきた奄美大島のイメージとはまるで違うんですけれど・・・
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山道を歩いていくと段々亜熱帯らしくなってきましたよ。
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これ、昨日瀬戸内町で見た美容蛸の木かしら? どれが幹で、どれが気根なのか分からないなあ・・・
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竹ではありません。ヤシです。竹もヤシもどちらも木ではないってご存知でしたか?
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途中道の分岐点に案内板があったので、左方向に進みます。
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横綱朝汐の記念碑がありました。朝汐っていつの頃の人でしょう? 朝汐(潮)太郎という四股名を持つ人は4人いるそうですが、こちらは徳之島出身の第三代の朝汐太郎。1956年(昭和31年)に初優勝したとありますから、半世紀以上前の横綱。濃い胸毛と太い眉毛が特徴のお相撲さんだったそうです。
徳之島は奄美大島と沖縄本島のちょうど中間位に位置する島で、1995年に生まれ故郷の島に彼の銅像が建てられたとのこと。 -
さて、なおもてくてくと坂道を上り、ようやく着いたところは行幸広場。10月末でも大汗をかきましたよ。
絶景が臨めそうな予感が! -
じゃ~ん! おお 随分と上ってきたんですね。眼下に奄美市(名瀬)の市街地が広がっていました。素晴らしい天気で、海の色がコバルトブルー! いかにも南の海と言った感じですね。
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宿泊中のホテルや、一昨日夜歩いたアーケードの場所も確認することが出来ました。海の中で目立っているのはフローティングドック。臥蛇Ⅱ と書かれていました。
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まだこの上にも上れそうだったのですが、素敵な下り道を見つけたので、つられて下りることにことにしました。町をぼけーっと眺めながら歩くと、足を踏み外しそうで怖いわ。
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長い階段を下りたところに1927年(昭和2年)の昭和天皇行幸を記念して建てられた、御野立所跡の記念碑がありました。御召艦山城に乗艦されていた昭和天皇がここに滞在されたのはわずか5分間だったそうです。
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どこで咲いていても、「私はここよ!」と強烈な自己アピールを送ってくるハイビスカスの花。
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山に囲まれたわずかな平地に発達してきた町だということが良く分かります。見えているトンネルは国道58号線の和光バイパス。
国道58号線って大部分は海の中を通っているってご存知でしたか? 鹿児島市から那覇市へと続く一般国道で、鹿児島市→種子島→奄美大島→沖縄本島 それ以外は全て海の中です。海の中に58の標識が続いていたら、面白いのだけれど!!! -
おがみ山から下りる途中、昨日マングローブパークで見たものよりはるかに背の高いヒカゲヘゴを何本も目にしました。
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イチオシ
奄美大島で一番感動したものと言えば、正直このヘゴだったかもしれません。人類が誕生する遥か昔から大地に根付いてきた地球の歴史の証人のような存在。
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本土とは全く異なる森を満喫しました。町の中心から行幸広場まで30分あれば到着しますので、時間が少しでも余っていたら、おがみ山詣でお勧めです。
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名瀬小学校傍まで戻って参りました。午前中はまだ時間があるので、もう1箇所参りましょうか。
私の個人的な趣味のせいもあるけれど、公共交通機関で行かれるところは少なく、またしても博物館になってしまいました。名瀬の北側、港の入口付近に位置する奄美博物館です。長浜町までしまバスを利用しました。 -
博物館には野外展示があり、奄美の昔の民家が移築されていました。
ようやく、屋外のサンゴの石垣を見ることが出来ました。実際に使われているものでないので、感激は薄いけれど、雰囲気だけは十分に味わえました。
かつては、風の強い島全土で作られ、ガジュマルの防風林と共に家を護っていました。
サンゴの石垣は隙間が多いために、風はそこを通り抜ける間にすっかり弱まってしまうのです。 -
サンゴの石垣は通常家全体を取り囲んでいました。石垣の中に入り、こちらは門の部分。ここにもサンゴが使われていました。
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昨日瀬戸内町の郷土館で民家の模型を見ましたが、こちらの民家も瀬戸内町の菅鈍集落から移築されたものです。1894年~95年(明治27年~28年)頃に建てられましたが、昭和になってから改修工事が行われています。
向かって右側がオモテ(主屋)で、左側がトーグラ(台所)です。 -
オモテには、改修工事の際に取り付けられた玄関(左)が備わっていました。元々島の民家には、玄関がなかったのだそうですよ。
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板戸の隙間から覗いてみると・・・
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意外と広いのに驚かされます。手前がオモテ(客間)、左奥がネショ(寝間)、右奥がナンド(奥座敷)と書かれていました。
ナンドは最初納戸かと思いましたが、畳が敷かれているので違うみたいです。 -
こちらは玄関から覗いた1枚。オモテの奥には床の間が設けられています。その左の棚は本土ならさしずめ神棚が置かれている場所ですが、「豊年祭奉納」と書かれたお札が下がっていました。やはり神様のいらっしゃるところのようです。
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紐で吊り下げられた大きな巻貝。何か意味がありそう・・・
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オモテとトーグラを結ぶトイマ(渡り廊下)部分です。二つの屋根の間には木をくり抜いた樋を吊るして、雨に濡れないようにしてありました。
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こちらはトーグラ。右側の部分がお茶の間で、板張りの部分がシルデ(厨)になっていました。本土なら土間にする部分が板張りだったのが興味深い。
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トーグラの屋根を見上げた1枚と
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別方向からのシルデ(厨)を撮ったものです。
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奥が煮炊きや軽作業をする「ジーヤ」、手前が物置或いは倉庫である「サスヤ」です。瀬戸内町ではあまり高倉が作られることはなかったようです。
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掘られた井戸は海岸に近かったため、飲料には不向きだったそうです。
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野外展示を出て、いかにもいかにも「ざ・南の島」と言った雰囲気の東屋の脇を通って博物館の本館に向かいます。
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薩摩と琉球の間に位置し、独自の文化圏を築いてきた奄美の歴史、文化をもう少し学びたいと思ってやってきました。
1887年に奄美歴史民俗資料館としてオープンした現奄美市立博物館です。昨日の瀬戸内町の郷土館とは異なる展示が見られるといいなあ・・・ -
まずはカエルの大きくてつぶらなブルーアイズに迎えられました。アマミイシカワガエルという日本一美形のカエルだそうです。緑色の地に黒褐色や紫褐色の斑紋が入っていますよ。鹿児島県の天然記念物に指定されている絶滅危惧種です。
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一般人なら、カエルよりも先に博物館に入ってまず目に飛び込んでくるのは、こちらの空飛ぶ船です。白い伝統衣装を着た人達が二列に座ってオールで漕いでいるのを見ると明らかに日本の船とは異なる独自のものを感じますね。
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この大きな船はクバヤといい、長さ11.4mもあります。主に遠洋航海や物資の運搬に使われたようです。漕ぎ手だけでも10人以上いますが、全部で20人以上乗れたようです。
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1階部分にはこのほかにも伝統的な小型船の展示がありました。 右側の二つの、固い木をくり抜いた舟はスブネと呼ぶ一人用の舟だそうです。珍しいですね。
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こちらはせいぜい3、4人乗りの漁船ですが、帆を立てるマストがついていました。イタツケと言って、杉の板を張り合わせて作った船で、安定性が良く、昭和30年頃まで使われていたそうです。
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私が興味を持ったのはこちらのヤコウガイ。銀白色に輝く螺鈿細工に欠かせない材料ですが、こんなに小さな貝だとは知りませんでした。
螺鈿細工と言えば平泉の中尊寺金色堂を思い出しますが、金色堂の柱や梁を飾る螺鈿細工のために、一体どれだけのヤコウガイが使われたのでしょうねえ。 -
ヤコウガイは奄美以南でしか採れないため、古くから交易品としても珍重されてきました。見事に彫られた櫛やかんざしにうっとり・・・
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続いては、昨日の郷土館と重ならない、島の動物をご紹介。写真では何とも可愛いらしい?! リュウキュウイノシシ。
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ぼけちゃったけれど・・・これが唯一のハブの写真。道端では絶対に会いたくない奴です。
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とても美しい大きな蝶ですが、美しい蝶にはとげがある・・・ではなく、毒があります。天敵から身を護るために、羽に神経毒のコノトキシンを持っているんですって。触るくらいなら大丈夫だけど、食べるなって! 蝶を食べる人はいないから、怖がらないで大丈夫ですよ。
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続いては、サンゴです。昨日2500円出して半潜水艦から眺めたサンゴとは大違いですねえ。海の中ではこんな風には見えないものなの?
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はっきり言って、「旨そう」という感想しかありません。
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トゲに触っても痛くなさそうなパイプウニ。さんご礁を住処にしています。沖縄でもよく見かけるウニだそうですが、私は初めて見ました。こちらは食べても美味しくない??
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絶滅危惧種のアオウミガメ。奄美を含む南西諸島を主な産卵場所としています。
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昨日も見たさとうきびの鉄輪圧縮機がここにもありました。昨日のものは馬力でしたが、こちらの機械は下の絵を見ると人力。子供たちが機械を回し、母親が圧縮作業を行っている最中でした。
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ささぁーと回って出て参りました。博物館前にあった木の根っこに恐るべき生命力を感じました。凄い!!
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さて、早めのランチを取ってから、奄美市のスーパー2軒(グリーンストア、ビッグ2)で購入した沢山のお土産で膨らんだ荷物を抱えてやってきたのは、最後の訪問地奄美パークです。
上記のスーパーはいずれもお土産購入にもってこいの場所。ここでしか手に入らない食べ物が一杯でした。総菜売り場には豚足がずらりと並んでいました。やはり沖縄文化圏ですね。 -
こちらは、成田に着くまでにお腹が空いたらと思い、購入した「おむすび」。沖縄のスパムのような、卵巻のような・・・これはそぼろ味ですが、他にもいくつか種類がありました。結構なボリューム。なかなかのお味でしたよ。
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さて、奄美パークの中にも、奄美の自然、文化、歴史を紹介している博物館「奄美の郷」がありました。昨日から3つ目の博物館なので、見ている方にはやや食傷気味でしょうか?
前の二つと重複しない部分だけピックアップしていきましょう。 -
奄美大島と言えば大島紬が有名ですが、庶民が着たのはもっぱらこちらのバシャキン(芭蕉衣)。芭蕉布の着物です。
バショウ科の多年草イトバショウの繊維から作った布で、薄くて、肌につかないので、夏用の着物に多く用いられました。今、こちらの女性がやっているのは、ヲヲミと言って、薄い帯状のイトバショウから繊維を一本一本離して糸にして、それを笊(ざる) の中に入れていく 作業 だそう。 -
トーグラ(台所)で気持ちよさそうに寝ているのは、夏休み中の女の子かしら?
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名瀬博物館の野外展示にあった家とは異なり、シルデの煮炊きするスペースは土間になっていました。
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ありましたよ 。ソテツの実(ナリ)の殻を割り、中の実を取り出す作業シーン。この後臼で挽いて粉にし、乾燥させてから水に晒してあく抜きを繰り返し、毒を消します。
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ノロの神事を中心とした奄美の年間祭事に欠かせないのは御供え物。
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今はスーパーでも売っているミキは元々御神酒(オミキ)から来ているようです。米を主原料に、すり下ろした生のサツマイモや砂糖を加えた乳酸菌飲料(甕に入れて 3日間発酵させる)で、豊年祭などで振舞われました。
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奄美の集落には、ミャー(宮)という広場があり、その中にアシャゲと呼ばれる神様を迎える所があります。アシャゲに供えられた盆には、海の神様と山の神様への供物が置かれていました。
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最後は妙にリアリティがあるこのおじさんで〆ることにしましょう。あまじいと呼ばれていました。
あまじいは機嫌が良いと、縁側に座ってお茶を飲みながら、奄美に伝わるケンムンの話をしてくれるんですって! ケンムンはガジュマルの木を住処としている木の霊で、本土の河童のような妖怪だそうです。 -
博物館はこの位にして、奄美パークを訪れた目的である田中一村の美術館に向かいます。その前に、一村の絵の世界を植物で再現している、「一村の杜」を散策していきましょう。
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タコノキ科タコノキ属のビヨウタコノキ。昨日瀬戸内町の郷土館前で見かけた木ですが、実がついているところは初めて見ました。
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太くて短いバナナを球状に丸めたような外観です。
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でも、この存在感、半端ないですねえ。魅了されました。
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タコノキ属の木ですので、当然根元はこんな感じ。これなら、強い風が吹いても踏ん張っていられそうです。
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こうした暖かい地方特有の松がある風景も大好きです。リュウキュウマツかしら? ソテツとは良い調和を保っていますね!
形は異なるけれど、イタリアでよく見かけた地中海松を思い出していました。 -
こちらのタコは、数え切れないほどの足の数!
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辛うじて、海が見えましたが、展望台としては低すぎる!
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で、遠くに立派な展望台のようなものが見えたので行ってみましたが、閉鎖されていました。バッチリ見えそうだったのにがっくし・・・
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タコノキ属の仲間で、沖縄でも良く見かけたアダン。ビヨウタコノキと比べて、木が斜めにひん曲がったようなイメージ。こちらは、まだ若い青い実をつけていました。
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アダンの実はパイナップルに似ていますが、食べても美味しくないそうです。
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熟すと、オレンジ色になります。
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ビヨウタコノキと比べると、全体がかしがっていて、複雑怪奇な木でしたよ。
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人工的な庭ではありましたが、つかの間の亜熱帯のジャングル探検気分を味わうことが出来ました。まあ、ここにはハブもいないので、安心と言えば安心。
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松くい虫の被害を受けた松の木がありました。マツ材線虫病によって感染すると、松の葉はこんなに赤くなり、次第に樹皮が剥けて白骨化し、立ち枯れていくのだそう。
この木はまだ樹皮を失っていないけれど、この病気に効く特効薬はないに等しいのが現状のようです。 -
サンゴの石垣見っけ! 結局のところ、博物館以外ではお目にかかることがなかったのがとても残念です。
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遠くから見ると地味だけれど、この柔らかな曲線、様々な紋様。天然ならではの趣があります。無造作に積み上げてあるだけに見えますが、滅多なことでは崩れないんだろうなあ・・・
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やってきました。奄美パーク最大のお目当ては、奄美の自然を描き続けたこちらの田中一村記念美術館です。奄美の自然と調和した群倉風のドーム3つから成っています。高倉のイメージですね。
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内部は撮影禁止のため、写真がありません。スケッチ旅行を契機に50歳で奄美に移り住んだ画家田中一村は、70歳で亡くなるまで紬工場で働きながら絵を描き続けました。生きている間は無名に近い存在でしたが、NHKの「日曜美術館」が彼を特集したことで、今では誰もが知っている画家の仲間入りをしています。と言っても、彼自身はそれを知る由もなし。
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作品は3つのドームに「幼年期から青年時代」(東京時代)、「千葉寺(千葉時代)」、「奄美」そして「襖・屏風」と分けて展示されていました。全部で83点。
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彼を有名にした奄美での作品は全部で20点。その中でも断トツに知られている「アダンの海辺」の複製が、館内の喫茶スペースに飾られていました。
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イチオシ
1969年の作品です。個人所有でしたが、2011年に彼が20年余り住んだ千葉にある千葉市美術館に寄託されました。私が一村を知ったのもこの作品がきっかけ。他にも「アダンと小舟」、「パパイヤとゴムの木」、「不喰芋と蘇鉄」などの植物やイソヒヨドリ、オオアカゲラ、ルリカケス等の鳥を描いた作品が目を惹きました。
もう一点お気に入りの赤翡翠を描いた1枚「初夏の海に赤翡翠(あかしょうびん)」にはお目にかかることが出来ませんでした。 -
こちらがネットからお借りした「初夏の海に赤翡翠」の一部です。声が出ないほどう・つ・く・し・い!!!
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田中一村を味わって、奄美大島の旅はフィナーレを迎えました。少しドギマギしている心を落ち着かせるために、な~んちゃってアイスクリームで〆ましょう。
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ハイビスカス・テースト。う~ん。あまり特徴なかったかなあ・・・
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気が付いたら、もう成田に戻る機上の人になっていました。ランダムに座席が指定されると聞いていたのですが、行きも帰りも3人掛けの真ん中だったので、バニラエア評価低くなってしまいました。
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ということで、路線バスのみでは、ちょいと、ではなく かなりきつかった奄美大島周遊の旅はこれにて終了。
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海に突き出した誘導灯が奄美大島最後の写真。16:50。バニラ・エアは定刻通り離陸。あっという間の3日間でした。次回はノロの文化を体験しに離島めぐりをするぞ!!
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