2017/01/28 - 2017/02/08
5位(同エリア133件中)
風に吹かれて旅人さん
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(細久手宿から大湫宿の途中天狗塚展望台から御嶽山)
事の始まりは、いつも行きつけの花フェスタ公園の写真撮りの帰り
御嶽宿(岐阜)のひなまつりのチラシを見つけお聞きして。
http://4travel.jp/travelogue/10548472
http://4travel.jp/travelogue/10249129
ひな祭りで御嶽宿界隈を散策しながら、
地元の方といろんな話を聞かせてもらいました。
亜炭の採掘地で住宅地の陥没などの問題という悪いレッテル。
中山道御嶽宿の国道21号が北を通り、
最近は中山道御嶽宿の南に国道21号のバイパスでき
高速道路の御嶽インターできて、その上に道の駅まで
昔は、門前町で宿場があり賑わいを見せたが
今は、様かわりして静寂な・・・。
7年前から、花フェスタの帰りに、ここでコーヒーを飲みながら
写真撮ったの確認しながら宿場.御嶽宿での一時。
中山道御嶽宿を起点に
少しのんびりと旅するために、いろいろ考え訪ねてみました。
そんな中、ここで着物の撮影会が4年前からありました。
その際に今年初めて会うカメラ仲間に再会できる・・・。
しかし、今回は、その日を避けての内容を濃くしての旅日記。
花フェスタ記念公園へ近道で細い路、天龍寺を通り過ぎ
土砂降りの雨で、花フェスタを変更して戻って天龍寺へ
2017今回は、「明智光秀」は美濃源氏・明智家の長男として
美濃国可児郡 (現在の岐阜県可児市)の明智城で生まれました。
一方、2年前に書いた兼山町(現在の岐阜県可児市)
戦国の若獅子森蘭丸も、ここ可児市が同じ生誕地。
織田信長のもとで共に活躍したが、
(本能寺の変)”戦国”という時代の波に翻弄された。
そんな地元の英雄を
2015若獅子森蘭丸に引き続き明智光秀。
●「明智光秀」ゆかりの明智城跡・明智一族の菩提寺天龍寺など
●御嶽宿・中山道みたけ館・願興寺・商家竹屋(竹屋資料館)など
●細久手宿・尾張藩定本陣「大黒屋」・庚申堂など
●天狗塚展望台・琵琶峠の石畳
●大湫宿・神明神社~高札場・虫籠窓の家・観光案内所(丸森)など
************御嶽宿を元にして.あちらこちら散策******************
2014伏見宿.女郎塚.洞興寺.御嶽宿.津島神社..御嵩城址公園は本陣山
美濃中山道 御嵩宿と伏見宿をゆく
http://4travel.jp/travelogue/10847936
2015可成寺.兼山歴史民俗資料館.常照寺.西念寺.蘭丸ふる里の森へ
戦国の若獅子森蘭丸の生誕地&美濃十六宿の中山道御嵩宿を歩く
http://4travel.jp/travelogue/10971886
2016御嶽宿.願興寺.愚渓寺・
真冬の三寺(御嵩町の願興寺.愚渓寺・岐阜市の大龍寺)巡り
http://4travel.jp/travelogue/11097337
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
目的地・花フェスタ記念公園へは広大な土地を歩くには、
土砂降りのような雨で大変なので、
行く途中に天龍寺がありましたので、
2年前に、同じ戦国乱世に生きた森蘭丸
今回は、天龍寺.明智氏歴代の墓所.美濃 明智城址
「明智光秀」を訪ね歩いてみようと思いました・明智駅 (可児市) 駅
-
名鉄明智駅
名鉄広見線の存続の是非が問われて
この駅前に案内板があると思い
これからどう進むか考えるが
案内板は、どこに無く
ただ、カメラも私も濡れるばかり。 -
初代・明智頼兼が出家して建立したと言われ
明智氏の菩提寺.東栄寺でした。
東栄寺が大きくないので、東にある天龍寺に譲った・
東栄寺から明智一族の菩提寺を譲られた天龍寺。
岐阜県可児市瀬田1242。
先ほど訪ねた名鉄明智駅より徒歩15分。 -
天龍寺
岐阜県可児市にある曹洞宗の寺院。
明智氏歴代の墓所がある。
武将・明智光秀といえば本能寺の変(1582年)
で主君を討った「逆臣」の印象が強いが、
ゆかりの地で生誕地と有力視される。
明智家は戦国時代になるまでの215年間、
この土地を守り続けました。
戦国時代には日本の歴史を動かした
大人物、明智光秀を輩出を讃え
毎年6月には「光秀供養祭」が行われています。 -
花フェスタ記念公園へは通り道ですが
ここへは10年近くなるかな?
こんな立派になっているは驚きです・
記憶では、こんなに参道は舗装されず
混雑していて駐車も少なく
ただ通りすがりに立ち寄ったようで
カメラに収めず、印象が薄かったが
こうして、明智光秀をテーマにすると
何故かカメラを向けました・ -
天竜寺には日本一大きな(184cm)明智光秀の位牌があります、
誰一人見えないのでスルー -
青雲山天龍寺
-
この突き当たりの右側に明智氏歴代の墓所
この参道も、時折川のように流れ込む
シューズも雨で濡れ冷たく困りましたが・
駐車して、次は
光蓮寺の東側が明智城址公園となっていて、
そこから山へ入る。天龍寺 寺・神社・教会
-
この前の道は、違います。
この左側の狭い道です。
読み違え、破れていった七人の大々武将
(今川義元、武田勝頼、北条氏政、
明智光秀、浅井長政、柴家勝家、真田幸村)、
「なぜ天下つかみ損ねたのか」 考え深く思います。
明智光秀は美濃源氏・明智家の長男として
美濃国可児郡 (現在の岐阜県可児市)の明智城で生まれました。
そして十一歳で城主となり、
落城する(二十九歳)までの三十年近くを
ここ「可児郡」 で過ごしていたと考えられています。
断定でないのです・ -
この石畳を
右側がよそのお宅なのでご注意を.
左側明智城址公園 -
案内説明版も見にくく..枝葉で邪魔で見づらい・
明智氏は美濃国主の土岐氏の流れのある一族で、
可児郡三千貫余りを所領としていました。
康永元年(1342年)、
明智次郎長山下野守頼兼は美濃の玄関口に当たる
当地に城を築いて周辺地域の防衛に当たりました。
その城こそが明智城で、別名を長山城と言います。
しかし当時の城は桃山時代のように
素晴らしい天守がある訳ではなく、
城主達が住む館の他には櫓や蔵などがある
実践的な砦のような造りでした。 -
大手道を登ると大手門があり、
山の谷間に作られた大手道は登るのに、
雨と足元がよくないので
また、滑りやすいから・・・。
誰も通らず、不気味な様子で野良犬がいるとかで
もう少し、上がってみました。 -
城址には本丸跡や曲輪・土塁などの遺構が
比較的良好な状態で保存されており、
自然の地形を生かした典型的な中世の山城で、
明智城址散策道として整備され、
現在は、遊歩道が整備され、
春から秋にかけてはハイキングコース。
また、機会があったら一周しようと思いました・ -
イチオシ
ここから晴れていれば
森蘭丸の金山城が見えるのですが。 -
ここは、
美濃守護・土岐頼康は、東美濃統治の要として、
弟の土岐頼兼を明智荘に配置しました。
土岐氏は元々は東美濃の出でしたが、
西美濃の分家が宗家になったことから。
明智荘を支配することになった。
土岐頼康は、土岐から明智姓を名乗るようになりました。
1556年、廃城になりました。
この年に美濃であった大事件は、
斎藤道三と義龍親子による長良川合戦です。
この戦では明智氏は中立を保っていました。
明智氏は斎藤道三の正室・小見の方の実家で、
濃姫(帰蝶)は小見の方の生んだ娘です。
よって、明智光秀と濃姫(織田信長の正室)とは..いとこ!
この時の城主は明智光安でした。
明智光安は明智光秀の叔父(父親の弟)。
光秀の父・明智光綱が若くして没し、
光秀がまだ幼かったため後見を務めていました。
長良川合戦で勝利した斎藤義龍は、明智城を攻めました。
中立を保ったのが気に食わなかったのかもしれませんが・・・
城を脱出した明智光秀は、母親の実家である
若狭国の武田氏のもとへ落ち延びました。
若狭は後に朝倉義景に乗っ取られたためその家臣となり、
そこで足利義昭と出会います。
その後、明智光秀は、
織田信長に使え家臣の中で一番出世し坂本城
身分も地位もプライドもなく、木下藤吉郎の様であれば
三日天下でなく出世頭なら磐石な政権が・・・。
長良川合戦でも中立を保った気風が
斎藤義龍は明智城を徹底的に破壊した。
それが、戦国乱世の時代に実行行動力に?
織田信長を倒して(本能寺の変)、
可児市の生まれ同じ時代を駆け巡った
森蘭丸と明智光秀の相憐れむ激突。 -
明智光秀に関しては、まだ歴史的に解らない事ばかり。
明智城は明智光秀誕生の城とされているが、
この他にも明智長山城(可児市瀬田)だとする説もあり、
また別に、同じ岐阜でも
私が時折いく、明智町は恵那市西南部の盆地
日本大正村で有名な所
http://4travel.jp/travelogue/10623066
明智光秀のゆかりの所もいろいろありました。 -
御嶽宿
現在の地名表記は「御嵩」。
宿の名前は昔は「御嶽」が使われたが、
「御嶽山」とは関係ない。
中世から「願興寺」の門前町として栄えていた町で、
また大湫宿、細久手宿への難所を控えた宿場としても賑わっていた。 -
御嶽宿本陣跡
天下分け目の戦い「関が原の戦い」に勝利した徳川家康は、
早速街道整備に取りかかり、
慶長6年(1601)に東海道を整備後、
慶長7年(1602)中山道の整備に着手した。
御嶽宿本陣であった野呂家には、
慶長7年2月24日付けの「御嶽宿伝馬掟朱印状」が届けられている。
後に江戸から49番目の宿場となる御嶽宿はいち早く宿場として指定された。 -
中山道みたけ館
この御嵩の文化財や資料の収集・保管・調査研究をする
とともに、広く一般に公開し、
さらに郷土の歴史に関する学習活動の拠点として、
中山道みたけ館(御嵩町郷土館)は位置づけられます。
1階は図書館で2階が郷土を紹介する郷土館になっており、
先史時代から現代までを歴史の流れに沿って展示、解説。 -
左下の様子をカメラに収めようと
図書館の方に聞けば
三人で対応してもらったから
問い合わせに時間がかかったのか
調べてますとのこと
館内を一回りしても、解らないので断念しました・ -
二階へ
マンモスの裏には、
今でいうと、ひな祭りが飾ってあると思ったが
これから準備で
何時ものところには何もありませんでした・ -
二階の様子を撮りなから
中山道みたけ館 美術館・博物館
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2階が郷土を紹介する郷土館
この先は、撮影NGです。 -
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商家竹屋(竹屋資料館)
平成15年3月に開館した。
現在は「中山道御嶽宿商家竹屋」と名づけられ、
御嶽宿の資料館として利用されている。
明治10年ごろの建築とされるが、
江戸時代の様式を色濃く残す建物で、
商家としての機能が分かりやすい。
商家竹屋は本陣の野呂家の分家が経営していた。中山道御嶽宿 商家竹屋 名所・史跡
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商家竹屋(竹屋資料館)
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商家竹屋(竹屋資料館)
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商家竹屋(竹屋資料館)
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商家竹屋(竹屋資料館)
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商家竹屋(竹屋資料館)
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商家竹屋(竹屋資料館)
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商家竹屋(竹屋資料館)
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商家竹屋(竹屋資料館)
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御嵩の町は「願興寺」の門前町として発展してきた町で、
「名鉄・広見線」が通って、交通が良く、裁判所なども置かれ、
町並は結構大きい宿場、本陣や商屋が残る。 -
大寺山願興寺(蟹薬師・可児大寺)
天台宗祖「最澄」が東国巡錫の砌、この地に布施屋を建立し、
自刻の薬師如来を奉納安置したのが起源とされる。
その後、一条天皇の皇女とされる行智尼が最澄自刻の薬師如来を
朝夕と礼拝されていたところ、
南西の尼が池から数千の沢蟹の背に乗った
一寸八分の金色の尊像が顕現したという。
これが天聴に達し、勅命により七堂伽藍が建立された。
その後、多くの僧、権力者、
そして何よりも民衆に支えられて現存している。
現在、本堂並びに、本尊薬師如来及び日光月光両脇持、
四天王像、十二神将、釈迦如来三像、阿弥陀如来立像、
坐像の24体が国指定の重要文化財に指定されている。 -
大寺山願興寺
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大寺山願興寺
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大寺山願興寺
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大寺山願興寺
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願興寺は、
瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人)を庇護していたため
瞽女たちの聖地にもなっているのだそうだ。
大寺瞽女については、次のような逸話が残っている。
「行智尼が京都から連れてきた3人の侍女が
金色の薬師如来像をぜひ拝んでみたいと、
決して開けてはいけないと行智尼から戒められていた
厨子の扉を開けてしまった。
金色の薬師如来像のあまりのまぶしさに思わず閉ざした3人の目は、
それっきり開かなくなってしまい、
行智尼が念仏を唱えてもかなうことはなかった。
行智尼は目の見えなくなった3人の侍女に、
楽器の演奏を教え、3人の侍女は、
薬師様を讃える歌をうたいながら三味線を弾き、
近くの村の家を回った。
彼女たちはこのあたりでは大寺瞽女(おおてらごじょ)と呼ばれ、
瞽女の始まりと言われている。」 -
願興寺」山号は「大寺山(おおてらさん)」で
「蟹薬師」として知られている。 -
名鉄広見線の御嵩駅
御嵩駅 駅
-
地域住民を中心に宿場町の保存や、まちの賑わいづくりが進む御嶽宿。
平成22(2010)年には、「御嶽宿わいわい館」と
「御嶽宿さんさん広場」がオープンし、
住民や観光客の憩いの場として活用されている。
平成20(2008)年からは景観修景作業に取り組み、
その成果が評価され、
平成23(2011)年度には国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞した。
「みたけ華ずし」や、新ご当地グルメ「元祖みたけとんちゃん」など、
地域住民が中心となった特産品の開発も活発だ。
当時の面影を偲ばせる宿場町には、
新しい魅力もどんどん顔を見せはじめている。 -
「御嶽宿わいわい館」
観光おもてなし施設「御嶽宿わいわい館」 グルメ・レストラン
-
毎年来てますので
これくらいにして、 -
大湫、御嶽間は4里半(17.7km)もあり、
両宿からの要望もあって、慶長15年に新しく細久手宿が設けられた。
細久手=ほそくて.大湫=おおくて
の様に、久手とは、湿地帯で沼が多かったのでしよう。 -
以前は、大湫から細久手へ行く10年前でしょうか
この様な施設はなかった・
また、大黒屋も目に止まらず、素通りしました。
この公民館も大黒屋も一変して
公民館の先にある瑞浪市の説明版には
「標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目(距離約九十二里)、
京から二十二番目(距離約四十二里)に位置する宿場です。
中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿までの道程が
四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、
尾張藩によって設置されました。
慶長十一年(1606)の開宿当初は、七軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、
その後放火により全焼し、
慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。
宿場の規模については、
天保十四年(1843)の記録に「町並み三町四十五間(約四百十メートル)、
家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人」の記録があります。
細久手宿は、仮宿の全焼のほか、
寛政十四年(1802)、文化十年(1813)、安政五年(1858)の
三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。
現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。」とある。細久手宿 名所・史跡
-
ハイカーたちが、中山道旅しながら
二人の方にお目にかかりました。
一人は、東海自然歩道をブログで名古屋市の職員の方
いろいろお聞きして、名刺交換を
これから大湫から大井宿・恵那駅へ向かわれるので
大湫宿また、お会いしましょうと別れました。
もう一人は、女性で若い方でした
大湫から細久手へ瑞浪駅へ
瑞浪地元の方で、いい天気で歩くのが好きな方
大きなリュックを背負い。
立ち話して、お気おつけてと言いながら大黒屋へ向かった・ -
上段が
湿地帯で山に挟まれた小さな宿で、経営的には苦しく、尾張藩の援助があった。
尾張藩が独自に本陣を設け、これが今に残る「大黒屋」である。
下は、本陣 脇本陣などは、昔の趣はなく細久手宿は、大黒屋だけ。
また、枡形はつくられず、上町と下町に弓形が施される。
宿場街道として珍して道、 -
この街道宿場..大黒屋を見のこと
江戸時代からの旅籠です。
今も旅籠として営業されている細久手で一軒の宿泊施設です。
江戸時代から残る建物で、
尾張徳川家が他の大名との相部屋を嫌ったために
尾張藩の定本陣に定められていた。
うだつ、玄関門、式台、上段の間をはじめ各部屋もそのまま保存され、
往時の面影を色濃く残す旧家です。細久手宿大黒屋 名所・史跡
-
日向ぼっこされてる方、大黒屋の女将酒井房子さん
何か話しかけられ、お聞きしましたら女将の生涯
岐阜の師範学校今の岐阜大学へ行こうとしたら戦争で満州へ
など、昔の細久手宿のこと...いろいろ話していただいたが
先を急ぐ旅ですが、静かに聞いてましたら
途中、日陰で寒くなったので、中に入りましょうと・・・。
すると中に入ると、さらに奥へと消えて大黒屋のご主人が
ご主人にお聞きしたら、女将さんはお元気で、
「何歳になられますか」と聞けば大正12年生まれ
女将から頂いた。
晩秋の細久手宿 酒井房子
遠き幼き日、「行って参りました」。学校から帰ると、
磨りへった上がり端(はな)にカバンを据えて
表に出ると、手拭いをかぶった母が石ころ道の端に莚(むしろ)を敷いて、
茶色になった豆の枝を並べ、
木槌で叩いて白い実を出して居る。西を向いても東を見ても、
猫の子一匹通っていない静かな里の秋であった。
子供心にも寂しいなあと其の光景が昨日のように鮮明に脳裏に残っているが、
今の細久手宿の表通りは、あの頃とはまったく様相が変わってしまった。
車の騒音に明け暮れている
毎日で、子供や年寄りは危なくて仕様がない。
中山道はその昔、徳川幕府がその成立と同時に重要道路として造られ、
出来たのが慶長8年、
東は大湫、西は御嵩で、其の間がすこし遠すぎるため、
その後、7年遅れて細久手宿が設けられた。
江戸から数えて48番目の宿である。
此のあたりは尾張藩の領地で、大黒屋は尾張藩指定の本陣で
ある。少し下手に公儀の本陣、脇本陣があったけれども、
今はもう跡形もない。安政5年に起きた3回
目の大火で細久手宿は、一軒を残して、あと焼けてしまった。
かねがね私の家は何年に建ったのかなと思っていた矢先、
大修理の時、縁の下から「安政6年12月
吉日米九合清七」と書いた木片が出てきたので、
築後150年と云うことがはっきりした訳である。
きっちり建てこんでいた町並み、
宿場風情を残す重々しい格子戸のある家も、
次々壊されて、もう、大黒屋だけになってしまった。
文化10年の記録によると、1日の通行人が550人、
宿屋の25軒とあるので、往時の賑やかさを想像することが出来る。
現在は約60軒、人口180人と減ってしまい、
このありさまは現在の社会情勢を反映して寂しい限りである。
明治、大正と、だんだんさびれて、
この草深い山里を訪れる人も少なく、
置き忘れられたような寒村に
一時期終戦を前後して亜炭の採掘により、
方々から人々が集まってきて、少しは活気のあった時代に、
人に薦められて大黒屋の扉を開いたのが昭和26年4月、
料理旅館として営業を始めたわけである。
私は若かったし、其の商売が嫌だった。
其れでもいつしか仕方なく、いらっしゃいませ、
が口に出るようになり、いろいろ覚え、身を粉にしてよく働いた。
あれから幾星霜、時は移り変わり、亜炭が石油になり、
土地ブームが来て、結構其の後も忙しかった。
そして東海自然歩道が出来、東から西から、
それぞれ歩いて来て此処で一泊し、
また歩いて中山道を完歩する人が増えた。
なかには、方々の道を歩くけれど恵那から細久手の間が
一番昔の面影が残ってよいと云って、この街道を探索される人も多い。
私は元々、秋はもの淋しくて気が滅入ってしまうからあまり好きではない。
紅葉した山々を背に、すすきの穂が旅立ちの前に風になびいている。
熟れた柿の実が夕日に美しく照り映えている。
好きなコスモスが、もう少しの命と語りかけるように咲いている。
振り返ると私も此の地に生を受け85年。
知らぬ間に老いてしまった。
其の内、皆さんと同じように中山道を歩いてみたいな、
と思っていたが今では足が弱ってしまい、
思いもかなえられそうになく残念である。
山の木々も高くなり遠望もできなくなったけれども、
春には春の花が咲き、秋には秋の実が熟れる。
そしてなにより、人情味豊かなこの山里が好きである。
瑞浪市日吉町細久手 大黒屋 0572-67-2518 -
ご主人からいろいろ説明を
観光客が少なく経営も先々難しい。
後継者問題、建物の管理維持の負担増
還暦を過ぎたご主人も母親の面倒も。 -
ここの空間は、知り合いの方が写真の個展を
-
すると、私は次に弁天池へ
ご主人は、地図を用意して
いい場所を教えてもらいました。
一つは、天狗塚の展望台
車を置いて、少し歩かなければなりません。
もう一つは、琵琶峠の石畳
地図でペンで印てもらったので
その道を進むことにして、
弁天池は、季節的に花が咲いてないからパスして。 -
恵那市から美濃加茂市
大井宿から太田宿までの間
旅籠、大黒屋は現在も旅館を経営していて、
ここしかなく、営業を止められたら、
中山道を歩けなくなってしまう。
簡素で静かな細久手宿も、
タイムスリップした感があります・ -
宿場のモニュメントが置かれている。
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左は、八百津か近道になるのかな
右は、大久手昔はこう書いてたかな大湫宿へ
杜若(カキツバタ)の弁財天の池
ピンク色の蓮の花が咲いていた弁財天の池
今の時期なも咲いてないので先に進めば
瑞浪モーターランドというサーキットがある.
細久手は、鉄道から遠く、大きな国道も通らず、
静かな町で落着いた町となっている。
建物はほとんど建替えられて、本陣も脇本陣も残っていない。
唯一尾張藩が別に本陣として定めた、
「大黒屋」が往時の姿を残している。
人通りはほとんどなかったが、
道も狭くて、トラックがすれ違うのに難儀していた。
そんな細久手を後にして天狗塚へ -
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琵琶峠 名所・史跡
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大湫宿 名所・史跡
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