東山・祇園・北白川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
小堀遠州の庭園の作風をさらに知りたくて、2015年の春から青蓮院、南禅寺方丈庭園の虎の子渡し、南禅寺金地院鶴亀の庭、御香宮、滋賀院門跡、大徳寺方丈と見て歩いた。金地院、滋賀院に見られる平石の礼拝石、池泉庭園にかかる平石の橋には特徴は石にこだわった人物だとは理解できる。それはうなずけるが、庭の設計はいろいろで、遠州好みはいかなるものか? さらに、小堀遠州の庭をみて歩いた。<br /><br />2016年5月、正伝寺を拝観。龍安寺と同種類の抽象平庭式枯山水庭園、連休のその日に特に認識していなかった正伝寺庭園が訪れてみて小堀遠州の作だと知った。小堀遠州は徳川に仕えた人、この寺の方丈は伏見桃山城から移築されたもの。皿天井も伏見城から移された物で、遠州が関わったことは十分に考えられる。<br /><br />青蓮院庭園は相阿弥の原作を小堀遠州が補修したものとされている。同じく遠州が補修した庭園の代表作は、二条城二の丸庭園。2016年夏、二条城を訪れてみた。<br /><br />二条城二の丸を見て、しばらくお休みしていたが、11月の紅葉の時期に特別公開される清水寺成就院庭園へ。さらに紅葉の時期には特に美しい蓮花寺にも訪れてみた。京都本、ガイド本には小堀遠州または石川丈山作とされているが、寺でいただいたパンフレットには小堀遠州の名前はなかった! でもあきらかな遠州好みの庭である。<br /><br />

小堀遠州の庭を訪ねて京都を歩く(つづき)

10いいね!

2016/05/01 - 2016/11/23

3680位(同エリア6949件中)

1

56

サンフラン

サンフランさん

小堀遠州の庭園の作風をさらに知りたくて、2015年の春から青蓮院、南禅寺方丈庭園の虎の子渡し、南禅寺金地院鶴亀の庭、御香宮、滋賀院門跡、大徳寺方丈と見て歩いた。金地院、滋賀院に見られる平石の礼拝石、池泉庭園にかかる平石の橋には特徴は石にこだわった人物だとは理解できる。それはうなずけるが、庭の設計はいろいろで、遠州好みはいかなるものか? さらに、小堀遠州の庭をみて歩いた。

2016年5月、正伝寺を拝観。龍安寺と同種類の抽象平庭式枯山水庭園、連休のその日に特に認識していなかった正伝寺庭園が訪れてみて小堀遠州の作だと知った。小堀遠州は徳川に仕えた人、この寺の方丈は伏見桃山城から移築されたもの。皿天井も伏見城から移された物で、遠州が関わったことは十分に考えられる。

青蓮院庭園は相阿弥の原作を小堀遠州が補修したものとされている。同じく遠州が補修した庭園の代表作は、二条城二の丸庭園。2016年夏、二条城を訪れてみた。

二条城二の丸を見て、しばらくお休みしていたが、11月の紅葉の時期に特別公開される清水寺成就院庭園へ。さらに紅葉の時期には特に美しい蓮花寺にも訪れてみた。京都本、ガイド本には小堀遠州または石川丈山作とされているが、寺でいただいたパンフレットには小堀遠州の名前はなかった! でもあきらかな遠州好みの庭である。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩
  • 5月1日<br />風薫る5月、京都駅から延々とバスで、上加茂神社に近い洛北、西加茂のこちらにも平庭枯山水の庭があると知って、正伝寺にやってきました。<br />

    5月1日
    風薫る5月、京都駅から延々とバスで、上加茂神社に近い洛北、西加茂のこちらにも平庭枯山水の庭があると知って、正伝寺にやってきました。

  • 臨済宗南禅寺派のこの寺は静寂の中にある、デビット・ボウイが好んで選んだ。参道は、バス停からは数百メートルもある山道を上がる。

    臨済宗南禅寺派のこの寺は静寂の中にある、デビット・ボウイが好んで選んだ。参道は、バス停からは数百メートルもある山道を上がる。

  • ようやく庫裏に到着。かつては多くの堂宇があったことであろうが、...

    ようやく庫裏に到着。かつては多くの堂宇があったことであろうが、...

  • いまはゴルフ場の囲まれて、参道をカート道が横切ることとなった。しかしながら昔ながらのたたずまいのようだ。

    いまはゴルフ場の囲まれて、参道をカート道が横切ることとなった。しかしながら昔ながらのたたずまいのようだ。

  • 庫裏横に参観入り口がある。拝観二打<br /><br />

    庫裏横に参観入り口がある。拝観二打

  • 参観入り口から入ると、早速そこが方丈の庭である。さつきの刈り込みの七五三の枯山水<br /><br />小堀遠州の作庭、いただいたパンフレットには江戸初期の作とされている。正伝寺の創建は1282年とされている禅が伝わった頃の禅寺であるので、あとで加えられたものであろう。方丈は伏見桃山城にあった御成殿と称せられた遺構で、承応2年(1653年)に移築されたとある。<br /><br />庭園は方丈の移築時に造られたとすると晩年の作ともいえるのかも?

    参観入り口から入ると、早速そこが方丈の庭である。さつきの刈り込みの七五三の枯山水

    小堀遠州の作庭、いただいたパンフレットには江戸初期の作とされている。正伝寺の創建は1282年とされている禅が伝わった頃の禅寺であるので、あとで加えられたものであろう。方丈は伏見桃山城にあった御成殿と称せられた遺構で、承応2年(1653年)に移築されたとある。

    庭園は方丈の移築時に造られたとすると晩年の作ともいえるのかも?

  • このの特徴は、比叡山の借景。白壁の塀越しに比叡山が見える。少し春霞であったのは残念。

    このの特徴は、比叡山の借景。白壁の塀越しに比叡山が見える。少し春霞であったのは残念。

  • 左から3-5-7と並んでいる。中央の小さいさつきは遠州好みの礼拝石のさつきのバージョンだろうか?<br /><br />南禅寺方丈の石組を見ると少し離れた小さい石がある。虎の子とも言えるのかとも見える。<br /><br />この753の庭は獅子の子渡しともいわれている。

    左から3-5-7と並んでいる。中央の小さいさつきは遠州好みの礼拝石のさつきのバージョンだろうか?

    南禅寺方丈の石組を見ると少し離れた小さい石がある。虎の子とも言えるのかとも見える。

    この753の庭は獅子の子渡しともいわれている。

  • この庭は1935年に重森三令が復元している。重森は小堀遠州の作庭に疑念を示した。<br /><br />庭園の造営が伏見城から金知院への移築を経て正伝寺に移築された時とすると、小堀遠州はすでに没している。<br /><br />重森三令が正伝寺を訪れたとき刈込の間に石が据えてあった。石を動かしてみると下から明治時代の瓦のかけらが見つかった。重森三令は石を運び出している。<br />(京都新聞社、シリーズ今日の庭の巨匠たち 重森三令)<br /><br /><br /><br />

    この庭は1935年に重森三令が復元している。重森は小堀遠州の作庭に疑念を示した。

    庭園の造営が伏見城から金知院への移築を経て正伝寺に移築された時とすると、小堀遠州はすでに没している。

    重森三令が正伝寺を訪れたとき刈込の間に石が据えてあった。石を動かしてみると下から明治時代の瓦のかけらが見つかった。重森三令は石を運び出している。
    (京都新聞社、シリーズ今日の庭の巨匠たち 重森三令)



  • 秋にはこのような姿となるようだ!<br /><br /><br />

    秋にはこのような姿となるようだ!


  • 残念ながらさつきの花は色付いていなかったが、緑濃い新緑の中で、白砂にさつきの緑が際立つ。<br /><br />

    残念ながらさつきの花は色付いていなかったが、緑濃い新緑の中で、白砂にさつきの緑が際立つ。

  • きょうは5月の連休で、参観者もちらほらいたが、普段はここまで訪れる人は少ないのであろうか?<br /><br />比叡山を再びみて、正伝寺をあとにする。

    きょうは5月の連休で、参観者もちらほらいたが、普段はここまで訪れる人は少ないのであろうか?

    比叡山を再びみて、正伝寺をあとにする。

  • やはり二条城をみなくては、小堀遠州を語れない? 二条城にやってきました。<br /><br />正面の門は修築中

    やはり二条城をみなくては、小堀遠州を語れない? 二条城にやってきました。

    正面の門は修築中

  • この時期は、いまだに修学旅行の学生が多い。<br />二条城は徳川家康の邸宅であった。豊臣のレガシーを嫌った徳川は伏見城を解体して、ここにも移築が行われている。大政奉還で主権が天皇に渡ったときに、二条城も譲渡されて離宮として天皇陛下が保有したことがある。いまは京都市が保有管理している。<br />

    この時期は、いまだに修学旅行の学生が多い。
    二条城は徳川家康の邸宅であった。豊臣のレガシーを嫌った徳川は伏見城を解体して、ここにも移築が行われている。大政奉還で主権が天皇に渡ったときに、二条城も譲渡されて離宮として天皇陛下が保有したことがある。いまは京都市が保有管理している。

  • とりあえずは二の丸御殿に50年ぶりで入ってみる。なかは人形が置かれたり、さながらアミューズメントパークの様相を呈している。撮影は禁止<br /><br />この桃山式の門、外国人観光客の人気?

    とりあえずは二の丸御殿に50年ぶりで入ってみる。なかは人形が置かれたり、さながらアミューズメントパークの様相を呈している。撮影は禁止

    この桃山式の門、外国人観光客の人気?

  • 御殿を一周して、庭園に入る。<br />

    御殿を一周して、庭園に入る。

  • 「二条城二の丸庭園は、二の丸御殿の大広間の西方及び黒書院の南方に面して造られた築山林泉式である。広い池中の3個の島を配置して、蓬莱・方丈・えん州の3神山をかたどった3島一連の形態を表した典型的な庭の一つである。桃山時代から江戸時代初期の頃の作庭方法がうかがえる名作」(中根金作、京都の庭と風土)<br />と中根金作氏は絶賛している。

    「二条城二の丸庭園は、二の丸御殿の大広間の西方及び黒書院の南方に面して造られた築山林泉式である。広い池中の3個の島を配置して、蓬莱・方丈・えん州の3神山をかたどった3島一連の形態を表した典型的な庭の一つである。桃山時代から江戸時代初期の頃の作庭方法がうかがえる名作」(中根金作、京都の庭と風土)
    と中根金作氏は絶賛している。

  • 元来はこのあたりから鑑賞する庭園であったのだろう。<br /><br />二条城とその二の丸庭園は、1600年の関ケ原の合戦のあと1602年に竣工している。作事は小堀遠州のの妻の養父藤堂高虎が行っている。(野村勘治、小堀遠州 気品と静寂が豊く綺麗さびの庭)<br />

    元来はこのあたりから鑑賞する庭園であったのだろう。

    二条城とその二の丸庭園は、1600年の関ケ原の合戦のあと1602年に竣工している。作事は小堀遠州のの妻の養父藤堂高虎が行っている。(野村勘治、小堀遠州 気品と静寂が豊く綺麗さびの庭)

  • 蓬莱島であろうか? 五葉松は大きくなっていない。<br /><br />作庭時期は明確ではないが、「1602年徳川家康が二条城を築城して整備されていく過程のうちで二の丸庭園が作庭されたと思われる。1626年後水尾上皇が二条城に行幸当時の場内の模様を表した絵図に描かれている。二の丸庭園の南半分、中央の中島の南面とその西側の小島の石組みが年面しているのは建物が増築されて、庭園が改築されたためである。<br />作庭者については、古くから小堀遠州と伝えられている。小堀遠州は1624年9月から行幸御殿の普請奉行を務めていたので、作庭説は正しい。行幸御殿のが増築される際に石組みを組みなおし補修の手を加えた。庭園全体の石組みの手法、作風が同一人の感覚、手法で統一されており遠州作とされる他の庭園と手法が一致している点が多い。滝水は西加茂辺りから引き水して大宮通、一条猪熊通りを流れ北大手門橋を掛樋で城内に引き、滝口に落としていた。」<br />(中根金作、京都の庭と風土)<br />

    蓬莱島であろうか? 五葉松は大きくなっていない。

    作庭時期は明確ではないが、「1602年徳川家康が二条城を築城して整備されていく過程のうちで二の丸庭園が作庭されたと思われる。1626年後水尾上皇が二条城に行幸当時の場内の模様を表した絵図に描かれている。二の丸庭園の南半分、中央の中島の南面とその西側の小島の石組みが年面しているのは建物が増築されて、庭園が改築されたためである。
    作庭者については、古くから小堀遠州と伝えられている。小堀遠州は1624年9月から行幸御殿の普請奉行を務めていたので、作庭説は正しい。行幸御殿のが増築される際に石組みを組みなおし補修の手を加えた。庭園全体の石組みの手法、作風が同一人の感覚、手法で統一されており遠州作とされる他の庭園と手法が一致している点が多い。滝水は西加茂辺りから引き水して大宮通、一条猪熊通りを流れ北大手門橋を掛樋で城内に引き、滝口に落としていた。」
    (中根金作、京都の庭と風土)

  • その滝口が未だに健在、でもいまはポンプなどの文明の機器があるので池泉式の庭園の維持にはそれほどの苦労はないかとも思うが、江戸時代には枯山水の時期もあった!<br /><br />「江戸時代には鴨川から西加茂あたりから二股川となり今宮御旅所の東から西南い流れ、大宮通の頭町筋で埋樋となり、一条通りの半町北筋の神明町を一町ばかり東に行き、猪熊通の町筋を南に流れ、北大手門橋を掛樋で場内へ。江戸時代には滝の水が枯れてっ枯山水となっていた」昭和三年に内堀の水をモウターで用水(吉永義信 建築新書二条城)発掘調査で木樋が見つかっている。」(飛田範夫京都の庭園)

    その滝口が未だに健在、でもいまはポンプなどの文明の機器があるので池泉式の庭園の維持にはそれほどの苦労はないかとも思うが、江戸時代には枯山水の時期もあった!

    「江戸時代には鴨川から西加茂あたりから二股川となり今宮御旅所の東から西南い流れ、大宮通の頭町筋で埋樋となり、一条通りの半町北筋の神明町を一町ばかり東に行き、猪熊通の町筋を南に流れ、北大手門橋を掛樋で場内へ。江戸時代には滝の水が枯れてっ枯山水となっていた」昭和三年に内堀の水をモウターで用水(吉永義信 建築新書二条城)発掘調査で木樋が見つかっている。」(飛田範夫京都の庭園)

  • 行幸御殿は今はなく、この左、芝地になっている。橋がかけられているのがはっきりとわかる。

    行幸御殿は今はなく、この左、芝地になっている。橋がかけられているのがはっきりとわかる。

  • 巧みな滝口の石組み

    巧みな滝口の石組み

  • 桂離宮にもあった島津藩献上の蘇鉄が植えられている。<br /><br />「この蘇鉄は醍醐寺三宝院や西本願寺にも植えられた。小堀遠州の下で賢庭が担当した」(宮元健次 京都の庭を歩く)

    桂離宮にもあった島津藩献上の蘇鉄が植えられている。

    「この蘇鉄は醍醐寺三宝院や西本願寺にも植えられた。小堀遠州の下で賢庭が担当した」(宮元健次 京都の庭を歩く)

  • 五葉松はいい大きさで整えられている。<br /><br />この島は亀と鶴?<br />鶴島と亀島、蓬莱島を設け4つの木橋を架けた。(野村勘治、小堀遠州 気品と静寂が豊く綺麗さびの庭)木橋は石橋に代わっている。<br /><br />どうやら右側の島が亀島、左側の大きな島が蓬莱の島らしい。橋は3つは確認できるが、....

    五葉松はいい大きさで整えられている。

    この島は亀と鶴?
    鶴島と亀島、蓬莱島を設け4つの木橋を架けた。(野村勘治、小堀遠州 気品と静寂が豊く綺麗さびの庭)木橋は石橋に代わっている。

    どうやら右側の島が亀島、左側の大きな島が蓬莱の島らしい。橋は3つは確認できるが、....

  • 三つの島、4つの橋であるが、島一つがどうも見ずらい。鶴島は蓬莱の島の左側にあるらしい。<br /><br />4つ目の橋はどこか? わかりずらい<br /><br />

    三つの島、4つの橋であるが、島一つがどうも見ずらい。鶴島は蓬莱の島の左側にあるらしい。

    4つ目の橋はどこか? わかりずらい

  • この立石は遠州が左側の行幸御殿からの眺めを造るために建てたものだろうか? <br /><br />行幸御殿から二の丸に回廊も設けられていたらしい。行幸御殿はその後、仙洞御所に移築されて後に火災で焼失している。この場所はかつて神泉苑のあった場所で、徳川は権勢を誇示するために神泉苑をつぶして二の丸御殿を建てたらしい。<br /><br />「神泉苑を取り込んだのは幕府が朝廷の権威をはく奪するために行った工作であった。1613年の公家諸法度、1615年禁中並公家諸法度は皇族、公家を政治から外す工作で、後水尾上皇の二条城行幸もそれを周知させる目的であった。二の丸庭園は内裏のあった場所に建てられている。」(宮元健次 京都の庭を歩く)

    この立石は遠州が左側の行幸御殿からの眺めを造るために建てたものだろうか? 

    行幸御殿から二の丸に回廊も設けられていたらしい。行幸御殿はその後、仙洞御所に移築されて後に火災で焼失している。この場所はかつて神泉苑のあった場所で、徳川は権勢を誇示するために神泉苑をつぶして二の丸御殿を建てたらしい。

    「神泉苑を取り込んだのは幕府が朝廷の権威をはく奪するために行った工作であった。1613年の公家諸法度、1615年禁中並公家諸法度は皇族、公家を政治から外す工作で、後水尾上皇の二条城行幸もそれを周知させる目的であった。二の丸庭園は内裏のあった場所に建てられている。」(宮元健次 京都の庭を歩く)

  • 二の丸庭園を回り、先に進む。公開されていない御殿がある。

    二の丸庭園を回り、先に進む。公開されていない御殿がある。

  • 庭園は最近のものであろう?

    庭園は最近のものであろう?

  • 天守は大昔に落雷で焼失した。

    天守は大昔に落雷で焼失した。

  • もう一つ御殿

    もう一つ御殿

  • やんやらわからぬ枯れ山水<br /><br />こんなものいらない!

    やんやらわからぬ枯れ山水

    こんなものいらない!

  • もう一つの庭園<br /><br />門だけが古い!

    もう一つの庭園

    門だけが古い!

  • 2016年秋、11月22日<br />この年の紅葉はまずまずのようで、清水寺へ<br />右は大谷廟、左の五条坂は昔からの参拝道? 狭い道にバスも通る!<br />

    2016年秋、11月22日
    この年の紅葉はまずまずのようで、清水寺へ
    右は大谷廟、左の五条坂は昔からの参拝道? 狭い道にバスも通る!

  • 清水寺といっても今日は舞台ではありません。やってきたのは成就院です。

    清水寺といっても今日は舞台ではありません。やってきたのは成就院です。

  • 成就院庭園は春秋の二回のみ一般公開されます。この月の庭も相阿弥の作を小堀遠州が修補したとされています。中は舞台と違って、観光客はなく、全く異なる静かなたたずまい。

    成就院庭園は春秋の二回のみ一般公開されます。この月の庭も相阿弥の作を小堀遠州が修補したとされています。中は舞台と違って、観光客はなく、全く異なる静かなたたずまい。

  • 但し、撮影禁止<br />いつものごとくスケッチ<br /><br />池に浮かぶ大小2島にはそれぞれはなれて烏帽子石、雛島石は据えられている。烏<br />帽子石は陽石、男性の性器を表す。<br />(中根金作、京都の庭と風土)<br /><br />特徴はやはり男根を象徴とした烏帽子石? 烏帽子岩のとなりにあるのが、蜻蛉灯篭、右手にある灯篭が手毬灯篭とされている。小島の石は、まがき島石とされている。女陰石ではないようだ!<br /><br />島へは木橋がかけられている。小堀遠州の木橋! 二条城二の丸庭園も当初は木橋であった。(野村勘治、小堀遠州 気品と静寂が豊く綺麗さびの庭)

    但し、撮影禁止
    いつものごとくスケッチ

    池に浮かぶ大小2島にはそれぞれはなれて烏帽子石、雛島石は据えられている。烏
    帽子石は陽石、男性の性器を表す。
    (中根金作、京都の庭と風土)

    特徴はやはり男根を象徴とした烏帽子石? 烏帽子岩のとなりにあるのが、蜻蛉灯篭、右手にある灯篭が手毬灯篭とされている。小島の石は、まがき島石とされている。女陰石ではないようだ!

    島へは木橋がかけられている。小堀遠州の木橋! 二条城二の丸庭園も当初は木橋であった。(野村勘治、小堀遠州 気品と静寂が豊く綺麗さびの庭)

  • 拝観券にも庭園が!<br /><br />上のほうに描かれている大きな木は、現在はどうもないようだ。<br /><br />向こう側は湯や谷と呼ばれるところらしい。<br />

    拝観券にも庭園が!

    上のほうに描かれている大きな木は、現在はどうもないようだ。

    向こう側は湯や谷と呼ばれるところらしい。

  • どうも絵葉書のほうがいいみたいで、買ってしまった。やはり絵葉書の方が判りやすい。<br /><br /><br />

    どうも絵葉書のほうがいいみたいで、買ってしまった。やはり絵葉書の方が判りやすい。


  • 「月の庭」と呼ばれるだけあって、年二回の公開では夜のライトアップもある!<br /><br />(清水寺成就院 絵葉書)

    「月の庭」と呼ばれるだけあって、年二回の公開では夜のライトアップもある!

    (清水寺成就院 絵葉書)

  • 雪景色は春秋年二回の公開では一般人は見るすべもない。<br /><br />(清水寺成就院 絵葉書)

    雪景色は春秋年二回の公開では一般人は見るすべもない。

    (清水寺成就院 絵葉書)

  • さつきのころの絵(清水寺成就院 絵葉書)<br />左にあるのは、誰が袖手水鉢(たがそでちょうずばち)これは豊臣秀吉の寄進とされている。<br /><br />高台寺山が借景となっている。借景を入れるために垣根はひくく抑えられている。垣根の外に蟷螂があることになっているが、見当たらない。<br /><br />何かいまいち納得が行かない鑑賞で、...<br />立てられた石は遠州好みの配置、立て方だろうと思うが、<br />右手にある橋は石橋ならぬ木橋なのだ! これは遠州好みではないのではないか? 相阿弥のオリジナルを残したのあろうか? <br /><br />と考えながら茶碗坂を下った。

    さつきのころの絵(清水寺成就院 絵葉書)
    左にあるのは、誰が袖手水鉢(たがそでちょうずばち)これは豊臣秀吉の寄進とされている。

    高台寺山が借景となっている。借景を入れるために垣根はひくく抑えられている。垣根の外に蟷螂があることになっているが、見当たらない。

    何かいまいち納得が行かない鑑賞で、...
    立てられた石は遠州好みの配置、立て方だろうと思うが、
    右手にある橋は石橋ならぬ木橋なのだ! これは遠州好みではないのではないか? 相阿弥のオリジナルを残したのあろうか? 

    と考えながら茶碗坂を下った。

  • 誰が袖手水鉢<br />(清水寺成就院 絵葉書)<br /><br />この成就院庭園は中根金作氏が昭和24年・29年に補修を行っている。烏帽子石、は別のところに移動されていたらしい。修復工事で元に戻された。「現在は都林泉名勝図会の写生図とすべて一致する。ただし、そこに書かれている相阿弥作、小堀遠州補修の記事には引っ掛かりがある。<br />成就院の創建は1504~20年、後柏原天皇の勅願におり建立、1629年本院から出火伽藍を焼失させた。その後東門院の寄進により護摩堂を建立、庭は護摩堂の北裏から書院前にかけて裏山の山すそ斜面を利用して作庭されている。現況からは1624~43年の寛永年間に再建されたっと考えてゆきたい。「築山庭造伝」に描かれた庭園は少し異なる。」(中根金作 京都名庭百選)<br />

    誰が袖手水鉢
    (清水寺成就院 絵葉書)

    この成就院庭園は中根金作氏が昭和24年・29年に補修を行っている。烏帽子石、は別のところに移動されていたらしい。修復工事で元に戻された。「現在は都林泉名勝図会の写生図とすべて一致する。ただし、そこに書かれている相阿弥作、小堀遠州補修の記事には引っ掛かりがある。
    成就院の創建は1504~20年、後柏原天皇の勅願におり建立、1629年本院から出火伽藍を焼失させた。その後東門院の寄進により護摩堂を建立、庭は護摩堂の北裏から書院前にかけて裏山の山すそ斜面を利用して作庭されている。現況からは1624~43年の寛永年間に再建されたっと考えてゆきたい。「築山庭造伝」に描かれた庭園は少し異なる。」(中根金作 京都名庭百選)

  • 11月23日<br />叡山電車の三宅八幡下車<br />蓮花寺に向かう。三宅八幡神社と同じ方向!<br />

    11月23日
    叡山電車の三宅八幡下車
    蓮花寺に向かう。三宅八幡神社と同じ方向!

  • 三宅八幡神社<br />このあたりは平安の頃、小野氏が住まわれたらしい。蓮花寺は捜せどもない。道を住民に聞いて、元へ戻る。<br />

    三宅八幡神社
    このあたりは平安の頃、小野氏が住まわれたらしい。蓮花寺は捜せどもない。道を住民に聞いて、元へ戻る。

  • 高野川沿い、大原から来る若さ街道にあった。蓮花寺は延暦寺の末寺で、前田家の家臣、今枝家の寺とされている。折からの行列!

    高野川沿い、大原から来る若さ街道にあった。蓮花寺は延暦寺の末寺で、前田家の家臣、今枝家の寺とされている。折からの行列!

  • 紅葉の時期は参拝者が多い。紅葉は今がたけなわ!<br /><br />

    紅葉の時期は参拝者が多い。紅葉は今がたけなわ!

  • 庭園面積は400坪、池泉回遊式<br />であるが、樹木が多くそれほどの広さは感じられない。<br />右側の池畔のみ散策できる。<br />

    庭園面積は400坪、池泉回遊式
    であるが、樹木が多くそれほどの広さは感じられない。
    右側の池畔のみ散策できる。

  • 京都本などにはこのように書かれている。「鶴島と亀島を池中に配して石橋をかけ、前景にほさきを立てた船石を置いた構成。小堀遠州作、石川丈山作、あるいは開山の実蔵坊実俊と伝えられている。紅葉の時期は特に美しい。」(水野克比古 京都の名庭園)<br /><br />「作庭者については石川丈山とも小堀遠州とも言われている。亀島には石川丈山のてん額があるとされている。」(竹村俊則、昭和京都名所図会)<br /><br />

    京都本などにはこのように書かれている。「鶴島と亀島を池中に配して石橋をかけ、前景にほさきを立てた船石を置いた構成。小堀遠州作、石川丈山作、あるいは開山の実蔵坊実俊と伝えられている。紅葉の時期は特に美しい。」(水野克比古 京都の名庭園)

    「作庭者については石川丈山とも小堀遠州とも言われている。亀島には石川丈山のてん額があるとされている。」(竹村俊則、昭和京都名所図会)

  • 但し、寺がくれた小冊子には小堀遠州の名はない。でもこの庭は確かに遠州好み。

    但し、寺がくれた小冊子には小堀遠州の名はない。でもこの庭は確かに遠州好み。

  • パノラマ画像で

    パノラマ画像で

  • 右手の池畔から中島への石橋は間違いなく遠州好みである。<br /><br />人気の紅葉は庭の景観を邪魔している感じがする。手前に置かれた舟石は大仙院の枯山水からはじまりよくある。五葉松は成長しすぎて大きすぎる! 植え替えるのは大変なのであろう。

    右手の池畔から中島への石橋は間違いなく遠州好みである。

    人気の紅葉は庭の景観を邪魔している感じがする。手前に置かれた舟石は大仙院の枯山水からはじまりよくある。五葉松は成長しすぎて大きすぎる! 植え替えるのは大変なのであろう。

  • 左手の島の奥に見える灯篭は、金沢兼六園にある名物灯篭のレプリカらしい。<br /><br />が、拡大してみると少し形状が異なる。いずれにしてもこの寺は加賀前田家が造られたものとされている。<br />

    左手の島の奥に見える灯篭は、金沢兼六園にある名物灯篭のレプリカらしい。

    が、拡大してみると少し形状が異なる。いずれにしてもこの寺は加賀前田家が造られたものとされている。

  • 「蓮華寺は今枝近義(加賀藩前田家に仕えた家老、今枝重直の子)が父の菩提を弔うために建てた。1662年のこと。近義は木下順庵、石川丈山、狩野探幽、隠元禅師など、官営文化の担い手と交友があった。近義は桂離宮の造営にも協力したといわれる。」(高野 澄、洛北を歩く)

    「蓮華寺は今枝近義(加賀藩前田家に仕えた家老、今枝重直の子)が父の菩提を弔うために建てた。1662年のこと。近義は木下順庵、石川丈山、狩野探幽、隠元禅師など、官営文化の担い手と交友があった。近義は桂離宮の造営にも協力したといわれる。」(高野 澄、洛北を歩く)

  • 蓮花寺型灯篭は本堂の前にあった。なぜかここは撮影禁止!<br />「高さは約2メートル、6角型で急勾配の笠に板瓦の板文を刻みだしている。茶人の間にこれを模造して好むものが多い」(竹村俊則、昭和京都名所図会)<br /><br />

    蓮花寺型灯篭は本堂の前にあった。なぜかここは撮影禁止!
    「高さは約2メートル、6角型で急勾配の笠に板瓦の板文を刻みだしている。茶人の間にこれを模造して好むものが多い」(竹村俊則、昭和京都名所図会)

  • 作庭者は桂離宮の造営にも携わったとされている今枝近義、この地に移して再興した本人ではないだろうか? 1662年に寺は再建されたとある。遠州好みは桂離宮から学んだ? 小堀遠州は1647 年に没している。1662年以前は荒れていたとされていて、京都駅付近にあったとされるので、小堀遠州作とは考えずらい。

    作庭者は桂離宮の造営にも携わったとされている今枝近義、この地に移して再興した本人ではないだろうか? 1662年に寺は再建されたとある。遠州好みは桂離宮から学んだ? 小堀遠州は1647 年に没している。1662年以前は荒れていたとされていて、京都駅付近にあったとされるので、小堀遠州作とは考えずらい。

  • 小冊子に書かれた由緒

    小冊子に書かれた由緒

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この旅行記へのコメント (1)

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  • 墨水さん 2020/10/26 00:18:54
    天下太平。
    サンフランさん、今晩は。
    庭園が、お好きなようですね。
    製作者は、施主の要望を聞いてから作庭しますから、施主の要望が重要に為ります。
    どの庭園も、根底テーマが「天下太平」です。
    確かに、明治以降に庭園をいじってしまい、根底テーマが崩れた物も有りますね。
    もし、本格的に日本庭園の事が知りたいなら、礼記と荘子は読んで置くべきでしょう。
    墨水。

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