2016/01/10 - 2016/05/02
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サンフランさん
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妙心寺、大徳寺の禅寺の枯山水の鑑賞。冬の特別公開とかで、未公開の庭が見れる。ところが撮影禁止!撮影禁止には納得がいかない。
作庭思想の基盤となった神仙思想とはいかなるものか? 禅宗は室町・江戸時代に庶民に広がった。「神仙は真人、神人であって遥か東方海上にある蓬莱(ほうらい)、方丈、えいしゅうという三神山に住んでいる。神仙人は深山幽谷に住むと信じられ神仙の蓬莱山は亀や鶴の形をしているという古代の思想がある。近世にかけても三神山を現した庭園は基本庭園様式となって定着していた。」(中根金作、京都の庭と風土)
禅寺に存在する枯山水を参観鑑賞した。石には宗教的な意味がある。三尊石といわれる石組みは仏像の姿であった。
妙心寺、大徳寺を見終わり、ほかにも枯山水はある。3月になって暖かくなってきたので、天気のいい日に岩倉へ出かけた。
4月中旬、大徳寺真珠庵が公開されるとのポスターをみて大徳寺へ再び大徳寺へ、ところが行ってみたら公開されていない! 残念だが、堀川を下ったところにあるを本法寺の巴の庭をたずねた。
5月、さらに一休寺を拝観。龍安寺と同種類の抽象平庭式枯山水庭園、大徳寺東庭、真珠庵東庭、円通寺、一休寺東庭、正伝寺のうち非公開の真珠庵を除いて全て見終わった。まだまだ枯山水庭園はある。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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1月10日 JR花園駅にやってきました。
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妙心寺へ
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大伽藍です。ちなみに竜安寺は妙心寺の末寺に当たります。
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伽藍を眺めながら
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やってきたのは霊雲院
冬の特別公開があるはずです。 -
ところが臨時休業! 何か寺の法事があるらしい。
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仕方がなく、隣の退蔵院へ
妙心寺の塔頭 -
退蔵院は常時公開されています。
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退蔵院の由緒
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方丈の庭は枯山水の名庭
室町後期の枯山水
作庭は狩野元信と伝えられる。方丈西側にある鞘の間に面している。百坪足らずですが、写実的に作られた。石組みの庭石は宇多野、なるたき付近の山中から産出する黄茶褐色の山石。 -
これだ!
方丈西側にある鞘の間に面した枯山水の庭は狩野元信の作とされている。百坪足らず、写実的手法の名作。石組みの庭石は宇多野、鳴滝付近の山中から産出する黄茶褐色の山石で、平安時代に多く用いられた。」(中根金作、京都の庭と風土) -
手水鉢
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肝心の庭は見難い!
枯れ滝、蓬莱山、、亀島、石橋からなる。角度が悪くて見づらいが、中央は亀島、右の奥にあるのが石橋、正面の築山が蓬莱山であろう。 -
石橋は2枚かかっているはず。
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こちらの道内へは立ち入り禁止
この障子戸をあけて庭を鑑賞することはできない。 -
鞘の間の北側には「隠し茶席」と称する茶室があり、この席に通う伝いの
飛び石が軒うちに配置される。(中根金作、京都の庭と風土) -
残念な鑑賞で、....
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方丈を去る
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余香院へ
みごとに並べられた延段 -
最近の作と見られる石庭
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これも「虎の子渡し」?
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大刈り込みから3段の滝が落ちる、中根金作作、昭和の池泉回遊式(水野克比古、京都名庭園)
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この橋の平石は遠州好み?
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退蔵院由緒
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2月11日
天気に誘われて再び妙心寺へ -
霊雲院は今日は開いています。
但し、全面撮影禁止 -
書院南の庭園(国の史跡、名勝)は、室町時代、相国寺の子建西堂(しけん さいどう)の作庭といわれる。(「都林泉名勝図会」)。縮小蓬莱枯山水式庭園と呼ばれている。狭い庭面に、枯滝と蓬来山水(鶴の石組)を兼ねた20個ほどの石組による。石は、抽象的に組まれているといわれる。(妙心寺霊雲院のページ)
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臥雲(がうん)の庭
子建作の石庭、創庭当初1528年からの面影を残しているのは、古書院南側の6坪:当初小書院の建坪は約27坪で、それを取り巻く70坪の庭園が造られていた。両翼のそろった鶴の作例はこれ以外にない貴重な石組み。その後、1543年、天皇参禅のため新書院が増築されて、庭園の一部を残して大半が取り壊された。最初は鶴亀ともにそろった庭であったが、1693年、方丈の拡張や廊下の架設などで亀の石組みは取り壊されて、鶴を残すだけの狭い庭になった。(大山平八郎、龍安寺石庭7つのなぞ)
復元図? 写真撮影禁止のため寺の絵葉書より。絵葉書は500円也。
現物は惨憺たる荒れ方です。枯山水の特徴である小石はすべて取り払われ、土がむき出しに出ている。残っているのは残念ながら石組みのみです。大山氏は子建を龍安寺の石庭の作庭者と推定しているが、一寸違うのではないかと思わざるを得ない。 -
「本堂南庭」は、苔地に枝ぶりのよい松が植えられているが、見る価値はあるのかな?
子建の初心に思いをはせながら残念な気持ちで、霊雲院をさる。 -
東海庵にも庭園がある。残念ながら非公開。
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1814年に東睦和尚が作庭した3神山(蓬莱、方丈、えい州)を表す3つの築山が設けられている庭がある」とされている。
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東海庵の横を進む。
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京都の5山のひとつではないそうだが、妙心寺の塔頭は多い。妙心寺の塔頭が並んでいます。
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次の機会に参観とする。
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妙心寺からバスで大徳寺にやってきました。大徳寺の庭園を見ずに京都の庭を体験したことにはならない。(野田正彰、京都の花の名庭散歩)
なるほどなるほど、...
期待できそうです。 -
門前にある大徳寺納豆の店
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黒い納豆です。
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大徳寺は団体が!
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臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺も大伽藍です。
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大徳寺方丈へ
特別公開です。残念ながら撮影禁止 -
方丈は江戸初期建立の国宝。
1636年ごろに建築されたもので大徳寺住持、天祐和尚のときである。「大徳寺誌」には方丈庭園は天祐和尚の作であると書かれている。また小堀遠州であるとも言うと書いている。(中根金作、京都の庭と風土) -
大徳寺方丈庭園
近世の枯山水庭園の特色を示す大規模な庭園
盛り砂は、天皇陛下がこられたときにくずし、石庭の上に敷かれるとのこと。
この方丈庭園は都林泉名勝図会をもとに中根金作氏が昭和29年秋に復元工事を行っている。「東庭の庭石は、青石と鴨川の川石が主体、滝口上にある山形椿は大徳寺では日光椿と呼び、茶人が珍重する名花」(中根金作、京都の名庭百選)
写真はパンフレットより -
亀島から鶴は遠い!
「庭園は方丈建物の南面から東面にかけて鍵形に造られている。南面が主庭となり東面が側庭となっている。南庭は方丈前の広い空間に東西に長く、枯山水の景色をつくり、背後に高い築地塀を一直線に設けて境内との区切りを付けている。築地べいの東側は芳情の東側を走る溝の石垣で止まっている。この溝と方丈建物東側とのあいだに東庭がある。」(野田正彰、京都の花の名庭散歩)
正面の唐門は聚楽第の遺跡と伝わる国宝。(パンフレット) -
ガイドは東庭が小堀遠州作であるとしていた。方丈の東庭は、7−5−3の庭といわれる石庭
撮影禁止のため下手なスケッチ -
石の数はどう数えても21個ある.。 数え方によっては22個。但し、石が下でつながっているのかも? 偶然にも大徳寺の塔頭寺院は22ある。 石の周囲には苔地が作られている。竜安寺石庭の作者は、小堀円周という説があるらしい。これを見るとうなずける。
南庭との境辺りの方丈から眺めると遠近法が使われていることが判る。それも竜安寺石庭に見受けられること。当初は比叡山が借景として使われていた。その点も竜安寺石庭で考えられている。あまりにも共通点が多い。 -
大仙院へ
大仙院にて沢庵和尚は宮本武蔵に剣道を指南したとある。枯山水庭園は室町時代の代表的な庭園とされる。 -
右手、真珠庵は非公開です。こちらの庭も名庭か?残念!
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真珠庵の由緒
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真珠庵の建物をにらみながら
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大仙院の門をくぐります。
大仙院も撮影禁止 -
写真が撮れないので、パンフレットより
叡山石をガイドは比叡山と解説していた!
大仙院は1509年、正法大聖国師(しょうほうだいしょうこくし)が開創。枯山水庭園は開祖国師が自らの手で築かれた庭である。室町時代の禅の現れとして他に類を見ない構想を備えている。方丈の建物も庭園同様に国師が自らの手で築かれた」(大仙院パンフレット) -
庭は書院の建物東側で庫裏とを結ぶ縁廊下で二分されている。北側庭は深山幽谷の景色。北側上段に北隅には二個の巨大な立石を据えた滝口。渓流の東側には中島、五葉松が植えられている蓬莱島」(野田正彰、京都の花の名庭散歩)
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南側は湖水の景色
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縁側より蓬莱山方向
その東側には低い築山を造って数個の庭石で、大滝の後方にはさらに遠山に滝が落ちる様。大滝の手前には低く石組みされて渓流が激しく岩をかんで流れるさま。
たて石のしたには石橋
大滝の西側に大小2島―方丈・えい洲の神仙山 -
亀島
写真は寺のパンフレットより -
大仙院を出て西へ
弧逢庵
小堀遠州が建てた12畳の忘筌席(ぼうせんせき)の茶室と庭園は近江八景の庭ともえい州八景の庭とも言われ、遠州作の茶庭として知られている。国宝の茶碗喜左衛門井戸がある」(大仙院パンフレット) -
門前からの延段がつづく
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残念ながらここも非公開
弧逢庵は小堀遠州のゆかりの庵。庭はもちろん遠州の作庭。特別公開がまちどうしい。 -
弧逢庵まえの道
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2月21日
再び大徳寺に
高桐院は紅葉の名所らしい。 -
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こちらもみごとな延段
参観は秋にすることとした。 -
信長の公廟!
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龍源院
このご門は創建当時のもののようだ!
大徳寺南派本庵。大友義長、畠山義元などにより創建。創建当初の建物。(大徳寺パンフレット)
龍源院は大徳寺の塔頭では最も古いとされる。名勝の庭園が期待できる。 -
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写真撮影OK!
方丈前の石庭(竜吟庭)
「方丈の北側、室町時代特有の三尊石組みからなる須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は洋々とした大海原を表し、石組みは陸地を表している。中央に高く突出する奇岩が須弥山(仏説では、この世界は九つの海、八つの海からなっていて、その中心が須弥山) は魏々として聳え立ち、人間はもちろん鳥も飛び交うことができない。誰一人として窺い知ることのない真実の自己本来の姿、誰もが本来備え持つ超絶対的な人格、悟りの極致を形容表現している。須弥山石の前にある板石を礼拝石といい、この理想、目的に一歩でも近づこうという信心の現れである。」(龍源院パンフレット)
立派な亀島が中央に -
「一枝坦(いっしだん)と呼ばれる白砂と石組みの庭、大海原を表した白砂の中に、独創性のある丸い苔山が、亀島を奥の石組みが蓬莱山を表している。」(水野克比古、京都名庭園)
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苔地と石組みからなる亀島
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そそり立つ蓬莱山
蓬莱山とは仙人が住む不老長寿の吉祥の島。パンフレットでは、この石組みを蓬莱山として、右隅の石組みが鶴島としている。 -
これは昭和の作!鶴島が小さすぎる。
石庭の全景は撮りにくい -
開祖堂前庭
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方丈北庭は相阿弥作といわれる石庭!もしろんこれは室町時代。相阿弥は足利義政が育てた庭師で、銀閣寺の造庭に関わったとされている。
日陰で手前が見れない。 -
「中心は3尊石組みからなる須弥山形式で、主席を大きく傾斜させて力強い。杉苔は大海原を表している。質素且つ軽妙な傑出して名庭」(水野克比古、京都名庭園)
手前が礼拝石? -
方丈の内部を参観
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この方丈の建物は室町時代のもの
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東滴壷(とうてきこ)
日本最小の石庭!
「一滴の水が小川となり、大河となる。ついには大海となるように、一滴の水の大切さ、一滴がそのまま大海につながっていることを表現している」(立て看板) -
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書院の片隅にある坪庭のような石庭
滹沱底(こだてい)
庫裏の書院南軒先にある(阿吽の石庭)で、宗祖の臨済禅師が住まわれた。河北の滹沱河より銘がある。左右の基礎石は聚楽第のものとつたえられている。」(龍源院パンフ) -
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日が翳って、先ほどの北庭が撮りやすくなっていました。
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相阿弥作といわれるこの庭
7−5−3の庭なのであろうか? 龍安寺の庭に通じるものがありそう? -
龍安寺の石庭はしばらく、相阿弥作とされてきた。いまは古い資料などにより、否定されている。
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三尊石とは!
「禅僧の社会では庭園はただ鑑賞するものではなく、御仏を将来して仏世界を意味した。と平安時代の「作定期」に書かれている。三尊石という石組みは三尊仏を意味する。中央を高く、左右を低く組む手法で、自然石に3対の仏像を表現している。(中根金作、京都の庭と風土) -
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黄梅院
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これがその庫裡
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雨がぱらぱらと降ってきました。きょうはこれまで
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3月17日
叡山電車の京都精華大駅にやってきました。 -
叡山電車の線路に沿って逆戻り、円通寺の案内板
今日は好天気、借景の比叡山も良く見えるはずだ。借景の円通寺へ -
約15分、ピカピカの住宅街を歩く。
円通寺の駐車場!
危うく通り過ぎるところだった。入り口は奥へ200m -
参道も真新しい造り!
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こちらが拝観入り口
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由緒
ここも妙心寺派、もともとは後水尾(ごみお)上皇の幡枝(はまえだ)離宮で、「そののあとに、1678?(延宝6)、霊元天皇の乳母円光院文英尼公が妙心寺第10世の景川宗隆禅師(けいせんそうりゅう)を勧請し創建。本尊の聖観世音菩薩は定朝の作と伝える。青苔におおわれた枯山水の平庭は、周囲にサザンカなど50種類の生垣をめぐらし、杉・ヒノキの木?を通し比叡山を望む借景式庭園。名勝指定。」(円通寺のホームページ) -
パンフレットより
庭園は後水尾上皇により江戸時代初期(1639年)に造られたとされる枯山水の平庭。生垣を隔てて、比叡山が借景として庭の一部となっている。さながら一枚の絵!
「幡枝離宮には、修学院離宮のように上中下の茶屋があった。しかしながら水がなかったため後水尾上皇はそののち修学院離宮を建てられた」 (円通寺のガイドテープ)
禅院となったのは修学院離宮完成後。 -
室内の奥から眺めるのがいいらしい。確かに、円通寺庭園は比叡山を借景として、比叡山が額縁の中で庭園美が自然美と一体化している!
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円通寺庭園において眺望は「借景」へと昇華する。目前の比叡山はもはや背景としての自然ではない。岡本太郎は。「借景は自然と反自然的要素を対立のまま結合する。芸術の弁証法である。」としている。室内に座すると建物の柱、杉、ヒノキの縦線及び生垣尾横線で縁取られた画面のかなたに比叡山が浮かび上がる。山頂まで約6km、仰角は7.5度、生垣の天端は俯角1度であるからほぼ眼球運動だけで認識できる」(京都造形芸術大名誉教授、尾崎忠正)
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比叡山にズーム
少し春霞で残念 -
石手全体を捉えるのは難しい。石は35個以上ある。
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左側
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中央にある平たい石は礼拝石であろうか?
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右側
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境石には飛び石が
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手水鉢
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景色は春夏秋冬で変わる。
どうやら秋がいいらしい。また来るか、.... -
京都駅で見つけた「春の禅寺一斉参観」のポスター。「7−5−3の庭」と称し、日本庭園の伝統的な石組みの基本を示す手法を持つとされる真珠庵庭園が公開される!
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4月16日
期待して大徳寺に出かけてみた。ところが着てみたら真珠庵は公開されていない! ガセネタであった! 仕方がなくよそへ回ろうと思ったが、せっかく来たので、特別公開されている黄梅院へ -
庫裏の前は緑がたけなわになっていた。庫裏は現存する禅宗寺院では最古の庫裏である。昭和60年に解体修理が行われている。(立て札、パンフレット) -
由緒
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やはりこれより撮影禁止。内部は真新しい茶室が何軒か建てられている。メンテはすばらしくいい。回廊を抜けて、直中庭(じきちゅうてい)にでる。杉苔はまだ茶色の部分があるが、緑がこい!
黄梅院 パンフレットより -
「利休66歳のときに作られたものである。秀吉公の希望による軍旗瓢箪をかたどった池を手前に、大徳寺2世徹翁和尚が比叡山より持ち帰ったと伝える不動三尊石を正面に加藤清正伝承の朝鮮灯篭を左の配した苔一面の池泉式枯山水庭園である」(黄梅院パンフレット)
スケッチには右手の瓢箪池のほうが書ききれなかった。水があっても不思議ではない庭園で、今まで見た苔地の枯山水庭園とはかなり趣が異なる。現代のようにポンプがあれば簡単に水を入れられるが、当時は考えられなかったのであろう。 -
黄梅院 パンフレットより
本堂前庭にある破頭庭は天正年間の作庭とされているが、本堂の補修工事の足場が立てられていて、まったく見れなかった。「半分手前を白川砂で、半分向かいを桂石で区切り、苔を配し、観音、勢至の二石でまとめられた簡素な庭」(パンフレット)とある。たしかに正面に大きな立石があった。
本堂の裏側にも細長い枯山水庭があったが、ここにも足場が組まれていて、鑑賞に堪えられる状態ではなかった。 -
大徳寺をでて、北大路から堀川通りへ本法寺へ
本阿弥光悦(1558−1637) など本阿弥家の菩提寺 -
日蓮宗の寺ですが、三つ巴の庭 と称される本阿弥光悦作の枯山水庭園がある。残念ながら展示品の関係で休みとか! ところが、たままた居合わせたご住職らしき方のご案内で特別に庭を見せていただくことができた。合掌
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書院の東側から南へ曲がる鍵形で、広さはおよそ200坪におよぶ。三箇所の築山で巴紋を表現していたが、わかりにくい。
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巴の3島のうち2島は、どうやらこの手前、右にあるのがそれらしい。
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「本阿弥光悦作、三つ巴の庭は3つの勾玉型の築山が巴形に見えることから名づけられた。中央の築山に組まれた枯滝は豪快で2つの滝添え石の間に斜めに置かれた水落とし石、水の流れを表現している。」(水野克比古、京都名庭園)
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ご住職のお話では、左のまる石は、「日」を示し、巴形 の池に蓮を浮かべて「日蓮」と読ませたとのこと!
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「3島の中心をなす中央のもっとも大きい島は、書院の広縁から眺めて最も距離の遠い敷地の東南に位置させて、他の2島はそれぞれ左右に中央の島から扇形に開くように、1島は南西より、、も1島は東北によって配置されている。3島が巴形となる一連の庭である。蓬莱・方丈・えい洲の3島を正しく表現した伝統的な形態を備えている。巴の模様はギリシャから伝来の紋様である。3つ巴は水が湧いて、渦をなして外にめぐる形を組み合わせている。本来、噴水、流水を意味する。光悦は3神山を3つの巴形により意匠化して、中央の大きな島に滝口を設けて新参に滝が落下し、渓流となって流れくだり滝壺に溢れてついに太古となる山水を具象化する意図があったと思われる。」(中根金作、京都の庭と風土)
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左側庭には灯篭も
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「光悦の自由闊達なる美意識には他の追従を許さないものがある。本法寺の庭にもこのような光悦の発想と独創性が発揮されている。巴の庭は書院建物の東面に作られた枯山水の庭である。」(中根金作、京都の庭と風土)
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「中央の島に滝口が造られている。小高く盛り土されたところに庭石2個を立て、その周囲の大小の石の石組みで山岳を表現している。三つ巴の庭は南北に広く展開し、書院建物の間に空間を造っている。書院の広縁に小池を設けて全体構成の要としている。小池は岸辺に当たる周囲を御影石の切り石で幾何学的に組まれている。8つ橋の池と呼び池の中に蓮の花が植えられている。蓮花を植えたのは浄土世界の七宝池の意味を持たせたもの。浄土思想を表現する。浄土思想と神仙思想の様式が混合されて作られた庭である。」(中根金作、京都の庭と風土)
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本法寺から次ぎは
つづく -
5月2日
京都より近鉄線で京田辺市にやってきました。とんちの「一休さんのまち」 -
さっそくのとんちか? 道に迷うこと、約50分!
ようやく一休寺の山門にたどり着いた。 -
見れば結構な伽藍で! その沿革は、
「当寺の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の大應国師が中国で禅を学び、帰国後禅の同情をここに建てたのがはじめである。その後、元弘の戦火で復興もならずにいたのを一級禅師が1455-56年、堂宇を再興し「酬思庵」と命名した。」 -
参道の延段は水はけを考慮したかまぼこ型。両脇のつつじ満開には少し早かった。
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一休禅師の廟を右に見て、方丈へ
この一休禅師は天皇家のかた! そのためか立派な廟が! -
庫裏の前に庭園の案内板が! 方丈庭園は1650年、前田年常が方丈を再興せる頃の築造と考えられる。文化2年に書かれた酬思庵の図に表れている。」
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南庭、平庭枯山水の庭園
庫裏をはいると右手に庭園が見える。こちらもさつきの刈り込み -
特記すべきは、この蘇鉄の山! 桂離宮の蘇鉄山をほうふつとされる。関連があるのであろうか?
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15羅漢の遊戯を擬えた東庭
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北庭は蓬莱の枯山水
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まだまだある庭は方丈の建物を取り巻いている。「作者は松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山の合作」(パンフレット)
江戸時代に入ってからの作庭で、庭園としてはかなり後のもののようだ。 -
方丈の建物を出て、右へ行くと本堂がある。
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プールのような長方形の池!浮かぶのは蓮? 水があるのなら枯山水ではなく池泉庭園も可能であったのではと思う。
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本堂は足利義教の寄進になるこの寺で最も古い建物のようで、「唐様仏殿としは山城、大和では最も古い建物」 とある。
そのほかに虎丘庵庭園があるとパンフレットに書かれていた。「室町時代の地割庭園で、作者は村田珠光と伝えられる」順路にはなかった別の建物であろうか? 非公開であったのか? こちらの本堂の庭園と間違えていた。 -
虎丘庵庭園を未損ねたのは至極残念。道に迷い、暑さと疲れで終わった一日であった。
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