2016/12/31 - 2017/01/01
127位(同エリア334件中)
むしころさん
行きたいところだった場所へ連休を利用して行くことにしました。
一つ目は福山城
二つ目は大山祇神社
三つ目は宮島にある厳島合戦の関連史跡
毎日天気も良くて日中の気温が15度くらいあって暖かく、過ごしやすかったです。
(全国的にそうだった模様)
まずは福山市を満喫した1、2日目。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 交通
- 5.0
PR
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羽田から13:15分発 飛行機で広島空港へ 14:45着
リムジンバスで福山へ(15:05発 16:10着 1350円)
ホテルに到着
部屋は綺麗でベッドも大きくて居心地よかったけど、壁であった・・・
ああ、残念~~~!!!!
城側はおそらくツインの部屋とかだと思われる。ベッセルイン福山駅北口 宿・ホテル
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お城に来てみた。
各城下町によるお正月の飾りが展示されていました。福山城 名所・史跡
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松が石によって支えられている図
福山城 名所・史跡
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伏見御殿の跡
秀吉の伏見城からもってきた館を移転したそうな。 -
本丸の南西、駅側にあるのが筋鉄御門(重要文化財)
これも伏見城から持ってきたらしい。
入母屋造り、本瓦葺き、脇戸付き。
柱の角に筋金、扉にも数十本の筋金が打ち込まれているためこの呼び名がついたそうです。 -
虎口
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伏見櫓(重要文化財)
伏見城にあった「松の丸東櫓」です
元和8年(1622年)に水野勝成が福山城を築城するにあたり、将軍秀忠が移築させたそうです。 -
福山城鐘櫓(市重要文化財)
築城当時から存在し、始めは杮葺きか桧皮葺だったのですが明治以降荒廃が酷く度々補修をして原型をとどめていなかったそうです。
昭和54年に銅板葺きで修復し今に至る
当初は時の鐘と半時(一時間)の太鼓と、緊急招集の太鼓をうっていたらしい。
石見国の大森銀山の応急監督を命ぜられたこともあり、素早く人々を集めたい時はこの鐘が大いに役立った模様
本丸の中に鐘櫓があるのは全国的に例がないので、貴重な文化財だそうです。
現在は、全自動装置により、朝6時、正午、夜6時、夜10時に鐘がなるそうだ。福山城 名所・史跡
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天守のさらに北、少し低いところにも何かの建てもの跡がある。
福山城 名所・史跡
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天守台の石垣はこんな感じです。
福山城 名所・史跡
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天守台の北東側にある東御門跡
福山城 名所・史跡
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ホテルに戻ってきた。
丁度今立っている場所付近はかつてお堀でした。
それにしても美しいなあ
(これが部屋から見られたら最高だったなあ~~)福山城 名所・史跡
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南側、駅前の石垣はとても高いです。
福山城 名所・史跡
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お城のマップだ
とりあえずかつて内堀に囲まれていた場所を一周してみよう。 -
お城の北側に稲荷神社があって、西側の隣の小山にまた神社がありました。
昔は川を挟んでいたようです。
備後護国神社ってかいてある -
すこし歩くとまた神社 て。
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備後護国神社だった。
備後護国神社 寺・神社・教会
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おお、、、真っ暗・・・
明日お詣りに行こう -
歩いて南下。
なんだありゃ。
突然ヨーロッパになった。 -
どうやら結婚式場らしい。
にしても完成度が高い。 -
やっぱり自分はこっちのほうが好き。
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三原城を思い出す。
石垣が線路の下になっちゃっている図。
福山城三之丸西御門櫓台跡 -
スーパーで買ってきた穴子の天ぷら。
明日は休みみたいなので明日の分含め多めに色々買って来ました。ベッセルイン福山駅北口 宿・ホテル
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ふふふ
穴子の天ざるそばができたぞ。
天ぷら、トースターで焼けたらもっと美味しかったな。ベッセルイン福山駅北口 宿・ホテル
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1月1日!あけましておめでとうございます!
朝からお城へ (現在9時)
お城を東側から登って分かれ道を北側に行くと東揚楯御門跡福山城 名所・史跡
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天守の東側にある二の丸に行けます。
福山城 名所・史跡
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二の丸
福山城 名所・史跡
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お、なにやら像が
福山城 名所・史跡
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福山城 名所・史跡
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福山藩初代藩主の水野勝成さんでした。
福山城 名所・史跡
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天守
五重六階地下一階、それと二重三階の付櫓をもつ複合天守
城号は敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城(てきおいさんすじゃくいんひさまつじょう)だそうです。別名は葦陽城
昭和41年の復原です。福山城 名所・史跡
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水野さんの前は広島藩の福島正則公が治めていて
改易になり、水野さんが入り福山藩ができた
ちなみに福山城は明治6年に廃城となり、
天守閣、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿を除いてほとんど取り壊されました。
さらに昭和20年の戦災により天守閣と御湯殿を消失。
現存なのは伏見櫓と筋鉄御門です。福山城 名所・史跡
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元日から天守の博物館は開館!入館料は200円(JAFの割引で160円だった)。内部の撮影不可。
地階のお城の模型が良かった。
歴代藩主の流れとか(水野→松平→阿部)
歴代藩主の書画もいろいろあって、特に阿部さんの書画がすばらしかった。かなりの文化人だった。
老中として有名な阿部正弘さんは7代目の福山城主だった。
天守の展望台より南側、駅方面。
南側はかつて三の丸、大手門、家老屋敷などがあった場所です。福山城 名所・史跡
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これは、東側
かつて御屋形、家老屋敷、北御門がありました。福山城 名所・史跡
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北側
神社とか小山がある
あと、縄張り図だと北側に吉津川が流れていて、どんどん池っていうため池があった。
右手前にある福寿会館のあたりには「五千石蔵」があって非常用の米を大量に備蓄していたようです。福山城 名所・史跡
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西側。
かつては水野勝成隠居後の館がありました。あと西御門
右手前の小丸山(ただの森に見える)には「焔硝蔵」(えんしょうぐら)=火薬庫がありました。福山城 名所・史跡
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天守西側にある棗木御門跡から北に抜けて、護国神社へ。
宮本武蔵腰掛石だって、本当か??備後護国神社 寺・神社・教会
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駅南側のバス停近くにこんな地図が!!
福山城のかつての縄張りが分かる!
こういう地図があるととても街歩きが楽しくなります。
作ってくれた人に感謝。福山駅 駅
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ここにも石垣の名残が
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さて、これから鞆の浦へ行くぞ。
チケット売り場ってのがあったから中の人に聞いたらこのバスとは違う会社の売り場らしく、バスの中で払えばよいとのこと。
10:51だったので11:00のバスに乗りました。
所要時間は30分ほどで、料金は520円 -
鞆の浦観光情報センター前でバスを降りて、地図とか入手
待ち歩きのイヤホンガイドがあったので借りてみました。(500円)
全部で62の音声案内が入ってました。
はじめは龍馬宿泊所跡へ。(桝屋清右衛門宅)
いろは丸事件のときにすでに幕府から命を狙われていた龍馬の隠れ部屋があるらしい。龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅 名所・史跡
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ここが入り口かな
龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅 名所・史跡
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右側の屋根が短くて、左側が長~~くなっている
これは家を大きく見せるためにこうしたつくりになっているそうです。龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅 名所・史跡
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福禅寺 対潮楼
福禅寺 對潮楼 名所・史跡
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朝鮮通信使の李邦彦が「日東第一形勝」と賞賛したそうです。(1711年)
そして朝鮮通信使を迎え入れる際は毎回ここに宿泊できるように手配していたのですが、一度手違いで宿泊できなかったことがあり、そのときは怒って帰ってしまったそうです。福禅寺 對潮楼 名所・史跡
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次は圓福寺
ここはかつて大可島城でもあった。
1342年時点ですでに城があって戦国時代には村上水軍がこの城を拠点に鞆の浦一帯の海上権をにぎっていたそうな。
境内のある場所は小高くなっていてかつては本当に島だった。江戸時代の始めに埋め立てられて陸続きになっています。円福寺 寺・神社・教会
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弁天島と仙酔島
鞆の浦から船で行けるようになってます。円福寺 寺・神社・教会
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手前の弁天島は別名「百貫島」です。
この別名はある悲しい話から呼ばれるようになったそうです。
鎌倉時代、近江の正道という侍が厳島神社に参拝し、帰る途中弁天島の近くで太刀を海中に落としてしまい、
「銭百貫目をほうびに太刀を見つけてくれ」
と鞆の浦の漁師に呼びかけました。
しかし皆はこの海にはフカ(サメ)がいると知っていたので、協力しませんでした。
正道は「鞆の浦には勇気のない者ばかり」と言ったため、1人の若者が皆の名誉のため海に潜り、太刀を見つけて戻りました。
しかし下半身はフカに食べられていて、やがて息を引き取ったそうです。
正道は若者の供養のために銭百貫目で弁天島に11層の石塔婆を建てました。
現在でも塔婆が残っており、「文永8年(1271)年6月25日」と銘が残っているそうです。
・・・・・鮫、いるの??ここ・・・気になる円福寺 寺・神社・教会
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海沿いに歩いていって渋い建物が沢山ある場所に来ました。
ここは太田家住宅太田家住宅 (鞆七卿落遺跡) 名所・史跡
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今日は閉まっております。
太田家住宅 (鞆七卿落遺跡) 名所・史跡
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雁木。
ここで船の積荷を降ろします。21段あるそうです。
昔は本当に木だった
雁木という名前は、雁が飛ぶ姿に見えたとか、杭が雁に見えたとか諸説あるらしい。 -
いろは丸展示館
坂本龍馬らの船「いろは丸」と紀州藩の船「明光丸」が衝突事故を起こし、この鞆の浦の地で事件の賠償交渉をしました。
衝突現場はここよりも南東の場所だったのですが一番近くて大きい港だったので当事者たちはここに上陸して交渉を始めたそうです。
この展示館で沈没現場から引き上げられた物品とかがみられるらしい。
料金は200円です。
いろは丸は今も海に沈んでいるらしい!!いろは丸展示館 美術館・博物館
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きれいだな。
基礎部分を入れると10mあるそうです。
ニシン油で火を燃やしました。常夜燈 名所・史跡
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遠くに見える波止場は江戸時代のものだそうです。
1791年(寛政3年)に最初の波止を造ったのですが20年で壊れてしまい、
1810年、高砂の御影屋松右衛門が修理と改築をしました。
1824年に工事が終わって、総長は144mになりました。
この工事には膨大な費用がかかったのですが、鞆奉行の下宮左門が頑張って何とか捻出したそうです。 -
素敵な住宅街を北へ行くと交差点のところにこんなのがあった
沼名前神社への道案内に清正公当儀(?)って書いてある
加藤清正公と何か関係あるのかなあ? -
鞆城跡へ向かう
道の途中、階段を登った先にある地蔵院は二の丸跡地に建っています。
山門は1700年代のものです。 -
今歩いている道は三の丸があったらしい。
一部の石垣が移転されて、見られるようになっている模様。
鞆城は毛利氏によって築かれて、福島正則によって整備されたそうです。 -
これが三の丸の石垣
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そして本丸へ!
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本丸についた。
ここから見える景色についての図。←これがあると嬉しい。 -
見晴らしが良い。
公園になっていて、ベンチもあったからここでお昼食べました。 -
鞆城についての説明。
元和元年(1615年)の一国一城令に先立って廃城になったそうだ。鞆城跡 名所・史跡
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石垣に使われていた石かな??
ちなみに本丸のところに建っている鞆の浦歴史民俗資料館は本日お休みだった。鞆城跡 名所・史跡
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次は南下して淀姫神社へ来た
鞆城跡から歩いて15分くらいでした。淀媛神社 寺・神社・教会
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そこから平賀源内生祠へ向かう途中、焚場跡(たでばあと)ってのがあった。
焚場は船底に着いた貝とか藻を燻して取る作業(これを焚(た)でる、というらしい)をする場所です。 -
このときは、水面が高くてよく分からない状態であった。
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最初気づかなくて通り過ぎたけど
入り口って書いてあります。 -
そしてまた歩いて登って
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平賀源内生祠へ着いた。
平賀源内生祠 名所・史跡
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高松藩出身の平賀源内は、諸国遍歴中に、鞆を訪れ、溝川家に寄宿したのですが、この時、陶土を発見して源内焼の製法を伝えたそうです。
源内は、土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るようにと言い残し去ったそうです。
溝川家はその後この陶土で一財を成し、宝暦14年(1764)にこの生祠をつくりました。平賀源内生祠 名所・史跡
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そこからさらに上に登ると医王寺の仁王門
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医王寺 寺・神社・教会
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さらに上に太子殿があるらしい。
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一つ一つ階段に数字が書いてあって583段目に到着。
でも途中でいくつか数字が飛んでいたような・・・・ -
太子殿からの景色。
鞆の街を一望できます。
1826年にシーボルトもツツジや松の観察でここを訪れたことがあるらしい。 -
再び下に戻って鐘を見て
医王寺 寺・神社・教会
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寛永20年(1642)に水野勝成さんが寄進した鐘らしい
そして平成6年に修理したようだ。医王寺 寺・神社・教会
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桃林山慈眼院医王寺は弘法大師の開基と伝えられていて
本尊は木造薬師如来立像で県の重要文化財医王寺 寺・神社・教会
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本堂
貞享2年(1685)四代目藩主、水野勝種の再建医王寺 寺・神社・教会
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医王寺から今度は東へ向かう。ちょっと下り坂
すぐに明圓寺明圓寺があります
戦国時代末期の織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、ここの住職の長存が毛利方として戦ったそうです。明圓寺 寺・神社・教会
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このお寺の鐘は戦争中の金属回収を免れたそうです。
寛永21年(1644)に作られました。 -
お寺がいっぱい
次は阿弥陀寺(あみだいじ)
お堂の中に永禄年間につくられた2.6mの大仏さまが鎮座しております阿弥陀寺 寺・神社・教会
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つぎ 南禅坊
安土時代の天文年間に創建
この山門(鐘楼門)の鬼瓦のところ、猿が彫られていて
「仏法を守らぬものは立ち去る」という意味が込められているとか。南禅坊 寺・神社・教会
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猿と、鳥の羽が彫られてた。
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さらに進むと
山中鹿之助首塚
なぜここにあるのか。。。
天正6年(1578)岡山県の高梁川の阿井の渡で討たれた鹿之助の首が鞆城に送られ、鞆にいた室町幕府最後の将軍・足利義昭が首実験したと伝えられているから、
らしい。
ちなみに高梁川の阿井の渡には胴塚があるようだ。山中鹿之助首塚 名所・史跡
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首塚の前にあるのは静観寺 臨済宗のお寺だ。
ご本尊が松上げ地蔵さま だって。
厄除け祈願受付と並べて書いてある「ナイショのお願い」ってのが気になる・・・ -
首塚とささやき橋の説明
もはや文字が薄くて読みにくい。。
首塚の近くにあるささやき橋(30cmくらいしかなくて案内がなければただの道路の凸にしかみえない)
悲恋の話がある橋なんだそうです。
応神天皇のころ(1500年以上前)、百済から王仁博士(わにはかせ)が、大陸の進んだ文化や技術を伝える渡来人の一行と共に来日。その一行が鞆の浦に寄港した時、“接待官”として武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)を派遣。“官妓”として江の浦(えのうら)を派遣。
二人は恋に落ちてしまい夜な夜なこの橋のところで会っていたのですが、上官に知られることとなり、後ろ手を縛られて海に沈められてしまいました。
その後、橋のたもとで、毎夜、和多利と江の浦の“ささやき声”が聞こえると噂されるようになって、この橋は「ささやき橋」と呼ばれるようになったそうです。ささやき橋 名所・史跡
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つぎは沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)
地元の人には祇園さんと呼ばれて親しまれているそうです。
この日も初詣の人がちらほら沼名前神社 寺・神社・教会
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海上安全祈願の神社なんだ
沼名前神社 寺・神社・教会
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沼名前神社 寺・神社・教会
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沼名前神社 寺・神社・教会
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森下仁丹創始者、森下博氏の銅像。
祖父は鞆の「撫屋(なでや)」号森下家12代茂右衛門の3男として生まれ、ここの神社の宮司・大宮家に婿養子に入って沼名前神社の宮司になり、お父さんも跡を継いで宮司だったそうです。
実家の森下家の跡継ぎが途絶えたので祖父が一家を連れて森下家に戻ったので博氏は宮司のほうへ進まなかったようだ。沼名前神社 寺・神社・教会
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鳥衾(とりぶすま)形鳥居
鳥居の一番上の棒のところ、端っこに胸を張った(?)鳥が形どられているのです。
寛永二年(1625年)、福山藩 水野2代勝俊が長男勝貞誕生に当り、その息災延命の為に寄進したと言われてます。
肥前の職人の手によるそうです。
九州といえば、勝俊の妹がお隣の肥後の清正公の継室になっているからちょっと関係あるのかな?沼名前神社 寺・神社・教会
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沼名前神社のとなりにあったのが小松寺
平重盛公ゆかりのお寺。
足利尊氏や足利義昭も訪れているのか。小松寺 寺・神社・教会
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正法寺
正法寺 寺・神社・教会
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お地蔵さんがかわいらしかったです。
このお庭もなんだかイイ。心やすらぐなあ。
本堂をお参りしてちょっとゆっくりしました。正法寺 寺・神社・教会
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安国寺
鎌倉時代(1270年代)建立で、室町時代に足利尊氏によって安国寺と改称されました。
その後一時衰退していたお寺を安国寺恵瓊が復活させたそうです。
昭和にも整備されて今に至るとのこと。
恵瓊の手による枯山水の庭園は拝観料150円払って中に入るとみることができるようだ。備後安国寺 寺・神社・教会
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南東へ歩いて小烏神社へ
鞆鍛冶の氏神様
古戦場にもなりました。 -
小烏神社 寺・神社・教会
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イヤホンガイドを返して福山駅まで戻る
今の時間は16時40分
駅の北東側に物見櫓跡発見 -
夜ご飯をホテルで食べてもう一度お城を見に行った
静かだな~~ -
夜のお城も見納めだ~。
それにしてもかっこいいな、きれいだな。
明日は尾道です。
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