2007/06/12 - 2007/06/12
147位(同エリア368件中)
吉備津彦さん
福山城と鞆の浦を散策しました
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
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イチオシ
輪郭式平山城。江戸時代は備後福山藩の藩庁であり藩主の居城であった。かつては二重の堀や瀬戸内海へ抜ける入江(入川)があったが現在は全て埋め立てられている。石垣は本丸・二の丸の一部と三の丸のほとんどが取り払われるか埋められている。二の丸南側に隣接してJR福山駅があり新幹線や福塩線のホームよりすぐ近くに城が望める。
現存する建造物として伏見櫓、筋鉄御門(共に国の重要文化財)、鐘櫓(鐘楼部が福山市指定重要文化財)がある。第二次世界大戦前に国宝であった天守と御湯殿は、昭和20年(1945年)8月8日、米軍の空襲(福山大空襲)により焼失した。現在の天守は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と同時に再建されたものである。天守内部は福山市立「福山城博物館」となっていて天守最上階の回縁からは市街を360度見渡せ晴れた日には瀬戸内海を望むこともできる福山城 名所・史跡
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福山藩水野家の墓所
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福山藩主の墓所はお城から新幹線沿いに少し西にあります。
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広島県福山市南部に残る古い町並み、鞆の浦。鞆は「とも」と読み、古代から瀬戸内海航路の要所として発展してきました。室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、そして織田信長に追い出され、毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住。さらに幕末には「いろは丸事件」発生に伴い、一時的に坂本龍馬達が立ち寄るなど、歴史的な人物とゆかりの大きい場所です。特に景観の保存がなされているわけではないが、奇跡的に幕末?昭和初期の街並みが、広範囲にわたって、そのまま残っています。鞆街並み保存研修会の調べでは、江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟あり、このうち保存ずべきは450棟とか。
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お祭りに使用した力石
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いろは丸記念館・・・開館時間終了で入館できませんでした。
池田家の蔵を改装「いろは丸」記念館として、「いろは丸」と坂本龍馬に関する展示。「いろは丸事件」は、坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船「いろは丸」と、紀州藩の蒸気船「明光丸」が衝突し、「いろは丸」が沈没した事件。坂本龍馬は「紀州藩が悪い!」として、まずは鞆の浦で紀州藩側と徹底対決しました。
最後は、長崎に舞台を移して論戦が行われ、最終的に紀州藩側が賠償することになりましたが・・・どちらの航行に過失があったかについては、どうも坂本龍馬の方が分が悪いのでは?という研究もありますいろは丸展示館 美術館・博物館
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仙酔島
鞆港のすぐ目の前。周囲5.2?の小島の周辺は遊歩道が整備され夏には海水浴場がオープンします。キャンプ場や国民宿舎仙酔島があります。仙酔島 自然・景勝地
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福山藩が1811(文化8)年に築造した階段状桟橋と、現存する日本一の高さを誇る常夜燈(1869=安政6年築)。
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イチオシ
鞆の浦
鞆の浦 自然・景勝地
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福禅寺(ふくぜんじ)は、広島県福山市の鞆の浦にある真言宗の仏教寺院。山号は海岸山、院号は千手院。境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されている。
創建は平安時代の950年頃と伝えられる。 現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年頃に建立された。
江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。 1711年に従事官の李邦彦が客殿からの眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛し、1748年に正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこす。福禅寺 對潮楼 名所・史跡
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