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玉縄城(たまなわじょう、神奈川県鎌倉市城廻)は明応4年(1495)謀略によって大森氏を追放し居城の小田原城を奪取した北条早雲(ほうじょう・そううん、当時は伊勢宗瑞)が次なる狙いである相模国制覇のため相模最大のライバルである三浦氏攻略の策としてそれまでの砦を大改修した難攻不落の山城です。<br /><br />ご存じの通り、三浦氏は平安時代後期から三浦半島の衣笠に拠点を置く名門豪族で、治承4年(1180)伊豆配流の源頼朝が平氏に反旗を翻した際いち早く三浦義明(みうら・よしあき)以下一族が挙兵し頼朝を支援したことから鎌倉幕府創立以来義明嫡男義澄(よしずみ)は頼朝の厚い信頼を得る中宿老として活躍します。<br /><br />然しながら頼朝が死去すると家督を継いだ二代将軍頼家は頼朝のようなカリスマ性はなく御家人の統制難しく遂に有力御家人による合議制が採用され、その中で軍事力低いながらも、外戚であることを背景に北条氏が台頭、巧妙な策略を以て有力御家人が次々と排斥され一族もろとも没落してゆきます。<br />                <br />宝治元年(1247)当主三浦義村(みうら・よしむら)の頃、執権時頼(ときより)と争うことになり(宝治合戦)、結果北条氏の勝利に終わり、敗れた三浦氏は滅亡、ただ三浦一族でありながら北条氏と縁戚関係にあったため三浦方として参戦しなかった佐原盛時(さわら・もりとき)は旧三浦氏の家督を相続し再興を許されたもののかつての評定衆のメンバ-でもなく以降三浦氏は御内人という執権北条氏の臣下として幕府内で一族の延命を繋ぎます。<br /><br />元弘年間足利尊氏が鎌倉幕府に対し挙兵すると三浦氏当主である三浦時継(ときつぐ)は息子高継(たかつぐ)とともに足利方に付き、正慶2年(1333)鎌倉幕府が倒れ建武政権が成立後に発生した中先代の乱では時継は首謀者の北条時行(ほうじょう・ときゆき)方に付いたため処刑されますが、高継は尊氏方に残り時行ら反乱者を鎮めるなど戦功を挙げます。<br /><br />足利尊氏と弟の直義(ただよし)との間で起こった観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では高継の息子高通(たかみち)は直義方に属し、直義没後も新田氏と呼応して鎌倉将軍府を脅威を与えますが、鎌倉を回復した尊氏により相模守護職を剥奪され追放され三浦一族は一時的に没落します。<br /><br />然しながら将軍足利尊氏没後の貞治3年(1363)になると、鎌倉公方に就任した足利基氏(あしかが・もとうじ)によって直義方に属し信濃に追放されていた上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)が赦免され鎌倉公方を補佐する関東管領に迎えられると、高通も赦免され相模守護に復帰することになります。<br /><br />室町時代中頃、高通の孫高明(たかあき)の代に関東管領を解任された上杉禅秀(うえすぎ・ぜんしゅう)の反乱が勃発、これに加担したとして鎌倉公方足利持氏により相模守護を奪われ、永享10年(1438)に永享の乱が起きると高明の子時高(ときたか)は父の代に相模守護を解任されたことを恨み、鎌倉公方持氏を裏切り鎌倉府を攻め滅ぼします。<br /><br />享徳の乱では時高は扇谷上杉氏の重臣として三浦郡から鎌倉郡にかけて支配地を拡げますが、時高には嗣子がなく主家の扇谷上杉持朝(うえすぎ・もちとも)二男高教(たかのり)を養子に迎え、後に高教は上杉氏に復帰したため時高は高教の子義同(よしあつ)を養子とします。<br /><br />しかし後に時高の晩年に実子が誕生すると時高と義同との関係がぎくしゃくし時高は実子に家督継がせたく義同の殺害を試みますがこれを察知した義同は足柄に逃れ身を隠します。<br /><br />明応9年(1500)剃髪した義同は道寸(どうすん)と名を変えて母方の実家大森氏の支援を受けて時高の居城である新井城を攻撃し時高を殺害して晴れて三浦氏の家督を手中にし、新井城には嫡男義意(よしおき)を配し自らは岡崎城主として相模国の領土拡大をめざします。<br /><br />永正10年(1513)、北条早雲は当主の三浦道寸の居城である岡崎城を攻めたて、これに敗れた道寸は弟道香が逗子を支配する住吉城に逃げ込みますが押し寄せる北条氏に対抗できず道香は自刃、道寸は嫡男義意居住する新井城へ逃れ同城に籠り後詰を待つことになります。<br /><br />新井城は三方を海に囲まれた半島にあって難攻不落の要害の地に在り小田原北条氏も簡単に攻略できず、そこで早雲は無理な城攻めを避けて新井城の包囲網を巡らして長期戦の構えを採ります。<br /><br />同時に早雲は道寸の出身にあたる関東管領歴任の山内上杉氏の庶流で相模並びに武蔵南部に勢力を持ち、かつて権現山合戦で敗戦した扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が支援に駆けつけることを想定し、これを阻止すべく鎌倉の北方に砦規模の玉縄城を大改修して扇谷上杉軍の襲来に備えます。<br /><br />同年扇谷上杉氏当主の命を受けて江戸城主太田資康(おおた・すけやす)は甥の道寸の窮地を救うべく新井城に向かいますが、早雲は玉縄城で資康軍を撃退させ資康は討死します。<br /><br />永正13年(1516)、とうとう上杉朝興(うえすぎ・ともおき)自らが軍勢を率いて道寸救援に赴きますが早雲はまたもや玉縄城で朝興軍を撃退、勢いに乗って新井城への一斉攻撃を開始、新井城は3年間に及ぶ籠城で兵糧尽き果てており道寸と義意は自刃し将兵は城から討って出て玉砕するに至り、この結果により小田原北条氏は相模国平定を実現、次の目ステップである武蔵南部への展開に舵を取ることになります。<br /><br />さて天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めでは玉縄城主北条氏勝(ほうじょう・うじかつ)は玉縄衆を引き連れ山中城にて秀吉軍を迎え撃ちますが見事に敗退し、玉縄城に戻った氏勝は玉縄城死守の為籠城を決意します。これに対し徳川家康は天下は秀吉により平定されつつあって勝ち目のない戦さであると諭し降伏を勧め、氏勝もこれを受入れ開城することになります。<br /><br />家康の関東入部後は家康側近の本多正信(ほんだ・まさのぶ)所領を経て譜代の長沢松平の居城となるも元禄16年(1703)長沢松平氏が上総国大多喜へ転封となり玉縄城は廃城となります。<br /><br /><br /><br /><br />七曲坂を上った「植木1号市民緑地」と題された玉縄城の絵図が描かれた説明板記載内容は下記の通りです。<br /><br />「玉縄城は、永正9年(1512年)北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれました。天然の要害となる丘陵に空堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城で、「東国無双の名城」でした。当時をしのぶ地形は、七曲り、太鼓櫓址、諏訪壇、ふんわり坂などに残っています。玉縄城主として特に有名なのは不敗の名将、黄八幡の北条綱茂です。その一門は玉縄衆と呼ばれ、武家の古都、鎌倉を守る活躍も行いました。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めのとき、六代城主氏勝は徳川家康の説得で無血開城し、その後天領となり、元和5年(1619年)に廃城となりました。」

相模大船 「東国無双の名城」と称され小田原攻めの際百戦錬磨の武将上杉謙信及び武田信玄も攻略できなかった天然要害を備え難攻不落の『玉縄城』訪問

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2016/09/04 - 2016/09/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

玉縄城(たまなわじょう、神奈川県鎌倉市城廻)は明応4年(1495)謀略によって大森氏を追放し居城の小田原城を奪取した北条早雲(ほうじょう・そううん、当時は伊勢宗瑞)が次なる狙いである相模国制覇のため相模最大のライバルである三浦氏攻略の策としてそれまでの砦を大改修した難攻不落の山城です。

ご存じの通り、三浦氏は平安時代後期から三浦半島の衣笠に拠点を置く名門豪族で、治承4年(1180)伊豆配流の源頼朝が平氏に反旗を翻した際いち早く三浦義明(みうら・よしあき)以下一族が挙兵し頼朝を支援したことから鎌倉幕府創立以来義明嫡男義澄(よしずみ)は頼朝の厚い信頼を得る中宿老として活躍します。

然しながら頼朝が死去すると家督を継いだ二代将軍頼家は頼朝のようなカリスマ性はなく御家人の統制難しく遂に有力御家人による合議制が採用され、その中で軍事力低いながらも、外戚であることを背景に北条氏が台頭、巧妙な策略を以て有力御家人が次々と排斥され一族もろとも没落してゆきます。
                
宝治元年(1247)当主三浦義村(みうら・よしむら)の頃、執権時頼(ときより)と争うことになり(宝治合戦)、結果北条氏の勝利に終わり、敗れた三浦氏は滅亡、ただ三浦一族でありながら北条氏と縁戚関係にあったため三浦方として参戦しなかった佐原盛時(さわら・もりとき)は旧三浦氏の家督を相続し再興を許されたもののかつての評定衆のメンバ-でもなく以降三浦氏は御内人という執権北条氏の臣下として幕府内で一族の延命を繋ぎます。

元弘年間足利尊氏が鎌倉幕府に対し挙兵すると三浦氏当主である三浦時継(ときつぐ)は息子高継(たかつぐ)とともに足利方に付き、正慶2年(1333)鎌倉幕府が倒れ建武政権が成立後に発生した中先代の乱では時継は首謀者の北条時行(ほうじょう・ときゆき)方に付いたため処刑されますが、高継は尊氏方に残り時行ら反乱者を鎮めるなど戦功を挙げます。

足利尊氏と弟の直義(ただよし)との間で起こった観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では高継の息子高通(たかみち)は直義方に属し、直義没後も新田氏と呼応して鎌倉将軍府を脅威を与えますが、鎌倉を回復した尊氏により相模守護職を剥奪され追放され三浦一族は一時的に没落します。

然しながら将軍足利尊氏没後の貞治3年(1363)になると、鎌倉公方に就任した足利基氏(あしかが・もとうじ)によって直義方に属し信濃に追放されていた上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)が赦免され鎌倉公方を補佐する関東管領に迎えられると、高通も赦免され相模守護に復帰することになります。

室町時代中頃、高通の孫高明(たかあき)の代に関東管領を解任された上杉禅秀(うえすぎ・ぜんしゅう)の反乱が勃発、これに加担したとして鎌倉公方足利持氏により相模守護を奪われ、永享10年(1438)に永享の乱が起きると高明の子時高(ときたか)は父の代に相模守護を解任されたことを恨み、鎌倉公方持氏を裏切り鎌倉府を攻め滅ぼします。

享徳の乱では時高は扇谷上杉氏の重臣として三浦郡から鎌倉郡にかけて支配地を拡げますが、時高には嗣子がなく主家の扇谷上杉持朝(うえすぎ・もちとも)二男高教(たかのり)を養子に迎え、後に高教は上杉氏に復帰したため時高は高教の子義同(よしあつ)を養子とします。

しかし後に時高の晩年に実子が誕生すると時高と義同との関係がぎくしゃくし時高は実子に家督継がせたく義同の殺害を試みますがこれを察知した義同は足柄に逃れ身を隠します。

明応9年(1500)剃髪した義同は道寸(どうすん)と名を変えて母方の実家大森氏の支援を受けて時高の居城である新井城を攻撃し時高を殺害して晴れて三浦氏の家督を手中にし、新井城には嫡男義意(よしおき)を配し自らは岡崎城主として相模国の領土拡大をめざします。

永正10年(1513)、北条早雲は当主の三浦道寸の居城である岡崎城を攻めたて、これに敗れた道寸は弟道香が逗子を支配する住吉城に逃げ込みますが押し寄せる北条氏に対抗できず道香は自刃、道寸は嫡男義意居住する新井城へ逃れ同城に籠り後詰を待つことになります。

新井城は三方を海に囲まれた半島にあって難攻不落の要害の地に在り小田原北条氏も簡単に攻略できず、そこで早雲は無理な城攻めを避けて新井城の包囲網を巡らして長期戦の構えを採ります。

同時に早雲は道寸の出身にあたる関東管領歴任の山内上杉氏の庶流で相模並びに武蔵南部に勢力を持ち、かつて権現山合戦で敗戦した扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が支援に駆けつけることを想定し、これを阻止すべく鎌倉の北方に砦規模の玉縄城を大改修して扇谷上杉軍の襲来に備えます。

同年扇谷上杉氏当主の命を受けて江戸城主太田資康(おおた・すけやす)は甥の道寸の窮地を救うべく新井城に向かいますが、早雲は玉縄城で資康軍を撃退させ資康は討死します。

永正13年(1516)、とうとう上杉朝興(うえすぎ・ともおき)自らが軍勢を率いて道寸救援に赴きますが早雲はまたもや玉縄城で朝興軍を撃退、勢いに乗って新井城への一斉攻撃を開始、新井城は3年間に及ぶ籠城で兵糧尽き果てており道寸と義意は自刃し将兵は城から討って出て玉砕するに至り、この結果により小田原北条氏は相模国平定を実現、次の目ステップである武蔵南部への展開に舵を取ることになります。

さて天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めでは玉縄城主北条氏勝(ほうじょう・うじかつ)は玉縄衆を引き連れ山中城にて秀吉軍を迎え撃ちますが見事に敗退し、玉縄城に戻った氏勝は玉縄城死守の為籠城を決意します。これに対し徳川家康は天下は秀吉により平定されつつあって勝ち目のない戦さであると諭し降伏を勧め、氏勝もこれを受入れ開城することになります。

家康の関東入部後は家康側近の本多正信(ほんだ・まさのぶ)所領を経て譜代の長沢松平の居城となるも元禄16年(1703)長沢松平氏が上総国大多喜へ転封となり玉縄城は廃城となります。




七曲坂を上った「植木1号市民緑地」と題された玉縄城の絵図が描かれた説明板記載内容は下記の通りです。

「玉縄城は、永正9年(1512年)北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれました。天然の要害となる丘陵に空堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城で、「東国無双の名城」でした。当時をしのぶ地形は、七曲り、太鼓櫓址、諏訪壇、ふんわり坂などに残っています。玉縄城主として特に有名なのは不敗の名将、黄八幡の北条綱茂です。その一門は玉縄衆と呼ばれ、武家の古都、鎌倉を守る活躍も行いました。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めのとき、六代城主氏勝は徳川家康の説得で無血開城し、その後天領となり、元和5年(1619年)に廃城となりました。」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 大船駅周辺・地図<br /><br />JR大船駅西口側に出ると周辺地図が掲示されており、この地図にて玉縄城跡の位置を確認します。

    大船駅周辺・地図

    JR大船駅西口側に出ると周辺地図が掲示されており、この地図にて玉縄城跡の位置を確認します。

  • 玉縄城跡<br /><br />玉縄城跡地は清泉女学院となっており、バス通りから山城の地形にふさわしく坂を登ります。画像正面には直通バスの停留所が見えます。

    玉縄城跡

    玉縄城跡地は清泉女学院となっており、バス通りから山城の地形にふさわしく坂を登ります。画像正面には直通バスの停留所が見えます。

  • 清泉女学院・正門<br /><br />坂を登り切った正面が清泉女学院正門となっており、訪問時は日曜で門は閉ざされ傍らの守衛室も人影なく対応者は誰もいません。

    清泉女学院・正門

    坂を登り切った正面が清泉女学院正門となっており、訪問時は日曜で門は閉ざされ傍らの守衛室も人影なく対応者は誰もいません。

  • 玉縄城跡・看板<br /><br />正門の左側には玉縄城跡に関する案内板が掲示され、それによると「見学には事前に学校許可が必要。土・日・祝日学校行事のある日は見学不可」とのことです。

    玉縄城跡・看板

    正門の左側には玉縄城跡に関する案内板が掲示され、それによると「見学には事前に学校許可が必要。土・日・祝日学校行事のある日は見学不可」とのことです。

  • 玉縄城跡・石碑<br /><br />更に奥を望むと何やら石碑が建っており、恐らく玉縄城跡に関する石碑と思われます。<br />

    玉縄城跡・石碑

    更に奥を望むと何やら石碑が建っており、恐らく玉縄城跡に関する石碑と思われます。

  • 玉縄城跡・石段<br /><br />左側正面奥には石段が認められ、もしかすると城跡に繋がる石段かと思ってしまいます。

    玉縄城跡・石段

    左側正面奥には石段が認められ、もしかすると城跡に繋がる石段かと思ってしまいます。

  • 清泉女学院校舎<br /><br />玉縄城の主郭がどこだったのかよくわかりませんが、校舎を含む敷地はかなり広いように見え、城郭の広がりは大規模だった様子がわかります。

    清泉女学院校舎

    玉縄城の主郭がどこだったのかよくわかりませんが、校舎を含む敷地はかなり広いように見え、城郭の広がりは大規模だった様子がわかります。

  • 清泉女学院正面道路<br /><br />正門を背にして今来た道を一望します。登校時にはバスがこの辺りまで運転して来るようです。訪問時は日曜日の為閑散とした風景です。<br /><br />

    清泉女学院正面道路

    正門を背にして今来た道を一望します。登校時にはバスがこの辺りまで運転して来るようです。訪問時は日曜日の為閑散とした風景です。

  • 清泉女学院下<br /><br />

    清泉女学院下

  • 清泉女学院下

    清泉女学院下

  • 「鎌倉・玉縄城跡を偲ぶコ-ス」案内板<br /><br />玉縄城跡訪問成果なく次に玉縄城主であった北条氏の菩提寺である龍宝寺(りゅうほうじ)を訪問すると山門の脇に玉縄城跡に関する案内板がありました。

    「鎌倉・玉縄城跡を偲ぶコ-ス」案内板

    玉縄城跡訪問成果なく次に玉縄城主であった北条氏の菩提寺である龍宝寺(りゅうほうじ)を訪問すると山門の脇に玉縄城跡に関する案内板がありました。

  • 玉縄城番匠地区<br /><br />この長屋門が残る辺りはかつて玉縄城の番匠(建築職人)が居住していた地区と言われています。

    玉縄城番匠地区

    この長屋門が残る辺りはかつて玉縄城の番匠(建築職人)が居住していた地区と言われています。

  • 長屋門正面(全景)

    長屋門正面(全景)

  • 長屋門正面(近景)

    長屋門正面(近景)

  • 鎌倉みどりこども園

    鎌倉みどりこども園

  • 玉縄城跡への道<br /><br />こども園建物の右側の細い路を入っていきます。

    玉縄城跡への道

    こども園建物の右側の細い路を入っていきます。

  • 玉縄城址緑地保全地区看板

    玉縄城址緑地保全地区看板

  • 冠木門<br /><br />玉縄城跡へと続く急峻な階段状の小路が続き、その途中には往時を偲ばせる冠木門が建てられています。

    冠木門

    玉縄城跡へと続く急峻な階段状の小路が続き、その途中には往時を偲ばせる冠木門が建てられています。

  • 七曲坂

    七曲坂

  • 玉縄城まちだより掲示板

    玉縄城まちだより掲示板

  • 市街展望<br /><br />七曲坂の途中から龍宝寺方向を一望します。かなりの高さまで登ってきたことがわかります。

    市街展望

    七曲坂の途中から龍宝寺方向を一望します。かなりの高さまで登ってきたことがわかります。

  • 七曲坂<br /><br />振り返ると擬木を施した九十九折の階段が認められ「七曲坂」と言われるわけが理解できます。

    七曲坂

    振り返ると擬木を施した九十九折の階段が認められ「七曲坂」と言われるわけが理解できます。

  • 七曲坂<br /><br />登り切った七曲坂は急峻なため自転車は降りて通行するよう注意がなされています。<br /><br />

    七曲坂

    登り切った七曲坂は急峻なため自転車は降りて通行するよう注意がなされています。

  • 植木1号市民緑地入口

    植木1号市民緑地入口

  • 玉縄城跡説明板<br /><br />七曲坂を上り暫く進むと「植木1号市民緑地」と題する玉縄城の絵図が描かれた説明板が配され、「土地所有者の好意によって」緑地として公開されているそうです。<br /><br /><br />

    玉縄城跡説明板

    七曲坂を上り暫く進むと「植木1号市民緑地」と題する玉縄城の絵図が描かれた説明板が配され、「土地所有者の好意によって」緑地として公開されているそうです。


  • 太鼓櫓址<br /><br />「植木1号市民緑地」看板の背後には切削された高台が広がり、中央には木製のテ-ブルとベンチが置かれ休憩所として使用されています。

    太鼓櫓址

    「植木1号市民緑地」看板の背後には切削された高台が広がり、中央には木製のテ-ブルとベンチが置かれ休憩所として使用されています。

  • 太鼓櫓址<br /><br />この緑地広場は現在の七曲坂ル-トと一部異なって旧道の切通を抑える為に建てられた太鼓櫓址の場所と推定されているそうです。<br /><br />

    太鼓櫓址

    この緑地広場は現在の七曲坂ル-トと一部異なって旧道の切通を抑える為に建てられた太鼓櫓址の場所と推定されているそうです。

  • 太鼓櫓址<br /><br />説明板によれば「南端の少し高くなっている」場所があり、これが太鼓櫓址と思われます。

    太鼓櫓址

    説明板によれば「南端の少し高くなっている」場所があり、これが太鼓櫓址と思われます。

  • 玉縄城鳥瞰図<br /><br />この広場には説明板が設置され、説明と共に玉縄城鳥瞰図が掲載されて往時の城郭との位置関係がよく理解できます。<br /><br />鳥瞰図の下部には「七曲坂」並びに「太鼓櫓址推定地」の説明がなされています。<br /><br />「七曲坂<br />急峻な地形の東側から直接玉縄に入るための登り口です。当時とは一部ル-トが異なり、旧道は現在、廃道になっています。現在の道の2メ-トルほど上の斜面には城に通じる旧道が一部残されています。登りきったところはコンクリ-トで補強されてはいますが堀割られています。これは虎口(城の出入り口)の名残です。<br /><br />太鼓櫓址推定地<br />従来、太鼓櫓址は道を挟んだ隣にある渋木邸だとされていました。近年の研究から市民緑地が太鼓櫓址といわれるようになりました。南端が少し高くなっています。これは七曲坂旧道の切通(堀切の堀底道)を抑えるための櫓台です。市民緑地の西側から見下ろすと小規模の平場群が階段状に展開しています。鉄砲の弾薬を貯蔵する煙硝蔵の址といわれています。昔ここに相模陣へ下る小道がありました。相模陣からから御殿の庭園などが発掘で確認されました。太鼓櫓から、北に玉縄城の本丸跡の最高地点諏訪壇、西に大手門、南に煙硝蔵址、東の崖下が七曲坂旧道です。」<br />

    玉縄城鳥瞰図

    この広場には説明板が設置され、説明と共に玉縄城鳥瞰図が掲載されて往時の城郭との位置関係がよく理解できます。

    鳥瞰図の下部には「七曲坂」並びに「太鼓櫓址推定地」の説明がなされています。

    「七曲坂
    急峻な地形の東側から直接玉縄に入るための登り口です。当時とは一部ル-トが異なり、旧道は現在、廃道になっています。現在の道の2メ-トルほど上の斜面には城に通じる旧道が一部残されています。登りきったところはコンクリ-トで補強されてはいますが堀割られています。これは虎口(城の出入り口)の名残です。

    太鼓櫓址推定地
    従来、太鼓櫓址は道を挟んだ隣にある渋木邸だとされていました。近年の研究から市民緑地が太鼓櫓址といわれるようになりました。南端が少し高くなっています。これは七曲坂旧道の切通(堀切の堀底道)を抑えるための櫓台です。市民緑地の西側から見下ろすと小規模の平場群が階段状に展開しています。鉄砲の弾薬を貯蔵する煙硝蔵の址といわれています。昔ここに相模陣へ下る小道がありました。相模陣からから御殿の庭園などが発掘で確認されました。太鼓櫓から、北に玉縄城の本丸跡の最高地点諏訪壇、西に大手門、南に煙硝蔵址、東の崖下が七曲坂旧道です。」

  • 太鼓櫓址西端風景<br /><br />突き出たこの切削部の西端から下方を見下ろすと直ぐ崖下となっており樹木が視界を遮っているため展望が確認できません。<br /><br />

    太鼓櫓址西端風景

    突き出たこの切削部の西端から下方を見下ろすと直ぐ崖下となっており樹木が視界を遮っているため展望が確認できません。

  • 焔硝蔵(えんしょうぐら)説明板<br /><br />「焔硝蔵」とは今で言えば武器弾薬庫にあたり、当時この地の南側斜面下にあったとされます。

    焔硝蔵(えんしょうぐら)説明板

    「焔硝蔵」とは今で言えば武器弾薬庫にあたり、当時この地の南側斜面下にあったとされます。

  • 焔硝蔵址方向<br /><br />

    焔硝蔵址方向

  • 玉縄城大手門跡<br /><br />大手門口跡は学校敷地のためか鉄柵により校内立入禁止となっており、鉄柵の間からの観察では入口から進むとコンクリ-ト壁に沿って通路があると思われるが詳細不明、更に上部を見れば樹木とともにフェンスが左右に配され清泉女学院のグラウンドかと想定されます。<br /><br />

    イチオシ

    玉縄城大手門跡

    大手門口跡は学校敷地のためか鉄柵により校内立入禁止となっており、鉄柵の間からの観察では入口から進むとコンクリ-ト壁に沿って通路があると思われるが詳細不明、更に上部を見れば樹木とともにフェンスが左右に配され清泉女学院のグラウンドかと想定されます。

  • 玉縄城大手門想像図<br /><br />鉄柵には大手門想像図が取り付けられています。これによると城郭を高い土塁で囲み、虎口には城門があって切通しとなっており、学校造成により埋め立てられかつて玉縄城の虎口が想像できないほどの状況です。

    玉縄城大手門想像図

    鉄柵には大手門想像図が取り付けられています。これによると城郭を高い土塁で囲み、虎口には城門があって切通しとなっており、学校造成により埋め立てられかつて玉縄城の虎口が想像できないほどの状況です。

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