2007/08/04 - 2007/08/05
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マローズさん
寿永4年2月17日丑の刻、源義経軍150騎は暴風雨の中、摂津渡部浜を出立、翌日早朝、阿波勝浦に上陸し、その日の内に讃岐に進軍、引田馬宿に宿営した。
19日午前8時頃には早くも高松牟礼に到着。軍勢は加勢もあり、300余騎に拡大していた。
新田堀江で本隊を二分し、本隊は平家陣所の総門を目指し、佐藤継信らの別動隊約30騎は赤牛崎(あかばざき)から屋島へと進行した。
平家方はこれを大軍と思い込み、海上の船へと逃れ、総門一帯は源氏軍が占領する。
平家軍は伊予攻めに出ていた平家方の田口教能軍一千騎が到着するまでの時間稼ぎに、攻めては引き、攻めては引きの牽制戦術を取る。が、一部の血気にはやった兵が上陸し、本格的な交戦を行ってしまい、他の兵も釣られて攻撃してしまう。この時、義経軍四天王と言われた佐藤継信や鎌田光政等が討たれてしまう。
その夜、義経らは瓜生ヶ丘の西林寺(旧西林寺)に本陣を置く。ここで弁慶は義経に出す陣中料理を作る際、地蔵をまな板代わりに使用している。
20日も両軍は一進一退の攻防だったが夕刻、両軍が休憩していた際、建礼門院の侍女で美人の玉虫前が乗る小舟が舳先に扇を立て、源氏軍の浜に近づき、扇の的を射るよう挑発。そこで17歳の弓の名手、那須与一崇高が見事射貫いたが、その直後、味方からの要請により、不本意ながら、平家方についていた兄・那須六郎実高の主、伊賀十郎兵衛家員をも射殺してしまう。
無抵抗の家員を殺された平家軍は激昂し、再び攻撃をしかける。この中で、平家の悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が兜の錣(しころ)の引っ張り合いを行う「景清錣引き」や、海面に落とした弓を、家来の制止を振り切って拾い上げた「義経の弓流し」が起こる。
21日早朝になると平家軍は、当地に到着するであろう田口勢と連携して瓜生ヶ丘を背後から襲う計画を立て、海上を志度に向かう。
しかしこれを察知した義経は伊勢三郎義盛に田口教能を降伏させるよう、説得するため走らせた。義経自らは志度を目指して進撃する。
結局、平家軍は再び海上に逃れることになる。
その日の夕方、田口降伏の報が平家軍に入り、平家は屋島を放棄し、長門へと逃れて行った。これが屋島合戦のあらまし。
屋島周辺の合戦史跡は自治体が古くから「源平屋島合戦史跡ガイドマップ」に纏めているが、最も巡りやすい順路を設定したので紹介したい。
各史跡の詳細解説は写真のキャプションやクチコミページにて。
[古高松コース]
高松市高松町周辺を「古高松」という。ここは義経軍が当時島だった屋島に渡った地。住宅地故、駐車場所探しに苦慮するが、屋島中町と屋島東町の境界の東町側にある広大な空き地に駐車した。
その南方には相引川が東西に流れているが、合戦時、川の岸は「相引の浜」と呼ばれ、進軍してきた義経が屋島に渡る手段とルートを南側の浜で思案した。
北岸の道を西進して行けば、琴平電鉄の鉄橋西に架かる東照宮橋があり、南袂の西側に「相引川」の源平史跡看板が建っている。
そこから県道150号を南下し、県道155号と交わる交差点を東に折れると、すぐ南側の地蔵堂横に「義経鞍掛松跡」がある。義経が屋島へ渡る手段を思案していた際、鞍を掛けた松があった場所で、現在は何代目かの松が植栽されている。
そこからは相引川北岸の道に戻り、東進して行くと、赤牛橋手前のY字路角に「赤牛崎」の史跡看板が建っている。合戦時、ここは小岬で、付近にいた赤牛を渡らせた所、浅瀬だったことが分かったので、ここから源氏軍は屋島へと渡った。
[牟礼回遊コース]
高松市牟礼町牟礼に移動し、「石あかりロード」北端の西側(与一橋南側)にある「源平駐車場」に駐車すると良い。
与一橋東袂から昔は海だった川沿いの道を北上すると、流路が西向きに変わる地点の川床に、与一が扇の的目がけて矢を放った「駒立岩」がある。
与一橋東側交差点の南西角にある空き家の一角には、与一が矢を射る前に神明の加護を祈った「祈り岩」がある。
そこから県道36号を南下すると、すぐ東側に庵礼西国三十三観音霊場第六番石仏の祠と「景清錣引き伝説」の看板がある。
更に南下して行った所の牟礼交差点のやや南方西側に、平家一の強弓・平教経の矢に佐藤継信が射られて倒れた地「射落畠」がある。
その南、マルヨシセンター駐車場南角の四差路を左折し、最初の顕著な四差路を右折、すぐ先の保育所手前のT字路は左折、突き当たりを右折すると、車道終点の左手に倉庫がある。そこから左折して畑の野良道を進んでいくと、南北に長いビニールハウス北側に「義盛塚」の祠がある。ここは義経の側近の一人、伊勢三郎義盛の陣所跡ではないかと言われている。
保育所手前のT字路まで戻ると左折、水路を越えてから最初のT字路を右折、歩道橋で国道11号を渡って南西に進み、牟礼川を渡った所で左折、地蔵橋の先のY字路を南東に進むと、源氏軍が陣を敷いていた瓜生ヶ丘の石碑がある。しかし丘陵は開発で殆ど崩されている。
そこから南西にJR高徳線を越え、西進して行った先で南北に走る道路に出ると左折、菜切公民館のある分岐で右折し、区画整理された住宅街入口のY字路を右後方に折り返すと、そこは源氏ヶ丘とも呼ばれた旧西林寺跡一角で、菜切地蔵堂が建つ。
弁慶はここに安置されていた地蔵の背をまな板代わりに菜を切り、味噌仕立ての菜汁を義経に出した。しかし弁慶の包丁疵が残る地蔵は昭和期、徳島県内に移されたという。
そこから北東に自然の歩道を下りて行き、勝手踏切を渡り、東西に走る車道に出ると、屋島変電所東の「長刀泉」に寄る。
弁慶が炊事をする際、きれいな水場がなかったので、長刀の石突で地面を掘り、清水を得たという。
次は前述の東西の道路を西に進み、押しボタン信号で国道11号を渡ると、道は佐藤継信墓所の側面に突き当たる。墓所には同じく四天王・鎌田光政塚碑の五輪塔もあるが、皆、正保2年(1645)、平田池の箇所にあったのを、池の築造時に現在地に移したもの。
そこから琴電勝橋踏切を渡り、Y字路を右折、平家総門跡、義経弓流し跡を経て北上して行き、合戦時、焼け残った本堂の門扉で佐藤継信の亡骸を瓜生ヶ丘まで運んだ洲崎寺に到る。ここには継信の鎧片袖が寺宝として伝わっている。
更に北上すると源平駐車場へと帰り着く。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車
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屋島東町の駐車場所から望む屋島の冠ヶ嶽(経塚あり)だったか。
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相引川・・・合戦当時は屋島と本土との間の海峡で、赤牛崎付近が浅瀬だった。干潮時、東西に海水が引くことから、浜辺は「相引の浜」と呼ばれたが、源平合戦の決着がなかなかつかず、「相引いた」から、という由来説もある。
相引川 自然・景勝地
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義経鞍掛松跡(地蔵堂の左側)・・・義経が屋島の対岸に到着し、如何にして屋島に渡るか思案していた際、鞍を掛けた松跡。
源義経鞍掛松 名所・史跡
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赤牛崎跡・・・義経が鞍掛松側で思案していると、付近に複数の赤牛がいることに気づいた。そこで赤牛を海峡に追いやってみると、赤牛崎から渡って行った。
「牛が渡れるのなら馬も渡れるはず」と、源氏軍はその浅瀬を渡った。が、この逸話は「平家物語」にはない。屋島寺に残る「源平合戦縁起」に記されているもの。 -
駒立岩(右側)・・・那須与一は祈り岩で神明の加護を祈った後、海中に数十メートル入った所にあった駒立岩に乗り、80メートル先の扇の的を射った。
「矢は浦響くほどに長鳴りして、あやまたず、扇の要際一寸ばかりを射て、ひふっとぞ射切ったる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ落ちたる。」駒立岩 名所・史跡
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玉虫の前のことを「源平盛衰記」では、「建礼門院の后立の御時千人の中より選出せる雑司に玉虫の前といい、舞の前とも申す。雲のびんづらの眉、花のかおばせ雪の膚、絵に書くとも筆も及びがたし。」と、その美貌を絶賛している。
源平屋島合戦の史跡 名所・史跡
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祈り(いの里)岩・・・与一が駒立岩から矢を射る前に神明の加護を祈念した岩。
当初、義経は矢を射る役を畠山重忠に命じた。しかし重忠は固辞し、那須十郎為高を推した。が、その十郎も一の谷の戦い時の傷が完治していないからと、弟の与一宗高を推薦した。17歳で小兵の色白の与一は、伊勢三郎義盛らに「早く射よ!」と急かされ、断れない状況に追いやられた。
因みに与一の墓は徳島県にもあり、一族子孫も多数いる。祈り岩 名所・史跡
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景清錣引き伝説地・・・与一が無抵抗の伊賀十郎兵衛家員を射たことに怒った平家軍は、源氏軍に攻めかかるが、その中で悪七兵衛景清は最も勇猛で、大長刀を振り回し、源氏軍に襲い掛かり、美尾屋十郎の太刀を払い落とした。景清は逃げようとする十郎の兜の錣を熊手で引っ掻け、引っ張り合いが始まる。
とうとう錣は引きちぎれ、十郎は逃げ出し、味方の馬の陰に隠れて、景清から逃れることができた。
この時、景清は十郎に対して「何と首の強さよ」と感心し、十郎も景清に対して「腕の強さよ」と感服したと言われるが、これは平家物語の創作だろう。景清錣引伝説 名所・史跡
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射落畠・・・合戦初日、源氏軍に焼き払われた総門跡に平家一の強弓、平教経が500人を引き連れて押し寄せ、矢合戦が始まった。教経は義経の姿を必死に探し求め、矢を放つ。そこに義経をかばって義経軍四天王の佐藤継信が立ちはだかり、射貫かれて倒れた。その地を射落畠という。
義経は涙を流しながら、言い残すことはないかと継信に尋ねると、継信は故郷の老母のことと、主君の栄達を見れずに死ぬことが寂しいと言ったという。
義経とその関係者に厳しい「吾妻鏡」でも、この継信の忠義心は称えている。射落畠 名所・史跡
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義盛塚・・・伊勢三郎義盛はこの地では亡くなっていないので、これは陣所跡ではないかと言われている。
車利用時は白羽公民館の所に駐車できるが、塚への道は反対の西側にある。 -
瓜生ヶ丘・・・・この辺りから菜切地蔵堂周辺まで昔は丘陵で、源氏軍が陣を敷いていた。「吾妻鑑」には「柴山」という名称で記されている。
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瓜生ヶ丘碑から菜切地蔵堂にかけての道
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菜切地蔵堂・・・瓜生ヶ丘近辺には水場がなかったので、弁慶が長刀の石突で「長刀泉」を掘り出し、水を汲み、地蔵堂の地蔵の背をまな板代わりにして、長刀で菜を切り、味噌仕立ての菜汁を義経に出した。
義経は差し出された菜汁を前に「弁慶がこしらえし菜(名)は武蔵坊」と言うと、弁慶は「それを知りつつ九郎(食らう)判官」と返し、周囲の兵が爆笑したという。
因みに現在祭られている地蔵は、元の地蔵が徳島県に移されて以降、新たに建立されたもの。 -
弁慶が掘った長刀泉を後世、井戸にしたもの。
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佐藤継信墓・・・元、平田池の地にあったのを、正保2年、現在地に移し、寛永12年、高松藩主・松平頼重が新たに碑を建立した。
昭和6年5月には継信から30代目の子孫、山形県在住の佐藤信古氏が墓所を大改修し、佐藤氏念祖碑や鎌田光政塚碑を建立した。佐藤継信の墓・太夫黒の墓 名所・史跡
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墓守の猫か
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太夫黒墓・・・義経は継信の菩提を志度寺の覚阿上人に弔わせたが、その際、上人に、後白河上皇から賜った馬「太夫黒」を贈った。太夫黒が亡くなると継信の墓所に墓を建てたが、平田池築造時、一緒に現在地に移された。
昭和63年10月には、太夫黒出生地の岩手県千厩町から農協の墓参団が参り、墓の横に「太夫黒供養之碑」を建立した。 -
佐藤氏念祖碑
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継信墓所の西にある讃岐国国造の始祖、神櫛王墓。藩政時代、墓所は廃れていたので、明治2年、高松藩知事・松平頼聰が神祇官の許可を得て再営にかかり、翌年完成し、宮内庁所管の陵墓守部を置いた。
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平家陣所の総門跡・・・寿永2年9月、六万寺を安徳帝の行在所として平家は、庵治街道沿いに総門を設置し、源氏の侵攻に備えた。
藩政期、源平史跡の顕彰に努めた高松藩主・松平頼重はここに衡門を建てた。
明治36年には陸軍大将・野津道貫題額で黒木堂撰書の高さ3.8メートルの総門碑が建立された。総門 (源平屋島合戦古戦場) 名所・史跡
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総門守か
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義経弓流し跡・・・・景清らの錣引が行われていた頃、義経は海中に馬を乗り入れ、戦っていたが、船から平家の越中次郎兵衛盛嗣が熊手で襲い掛かってきた。それを太刀で払っているうち、脇に抱えていた弓を海面に落としてしまう。
盛嗣はそれをからめとろうとしたが、義経は家来の制止も聞かず、矢の飛び交う中、拾おうとした。その義経を源氏方の小林新五宗行が助け、盛嗣の船に飛び乗って格闘した。
その甲斐もあって、義経は弓を拾い上げることができ、宗行は褒美を賜った。
義経は必死に拾おうとした理由として、叔父の義為のような強い弓ならいざ知らず、弱い弓と平家側に笑われると敵の士気にもかかわること故、と語っている。弓流しの跡 名所・史跡
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眺海山円通院洲崎寺・・・合戦時、牟礼の浜一帯は焼け野原となっていたため、忠死した佐藤継信の亡骸を焼け残っていた洲崎寺本堂の戸板に乗せ、瓜生ヶ丘まで運び、寺の僧に読経して貰った。
合戦後、義経が寺を再建した。寺宝に継信の鎧片袖や太夫黒の轡がある。
合戦当時、寺は近くの「寺の内」という地にあったのではないかと言われている。洲崎寺 寺・神社・教会
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