2016/07/17 - 2016/07/17
524位(同エリア984件中)
滝山氏照さん
岐阜城(ぎふじょう、岐阜県岐阜市金華山天守閣)は金華山(稲葉山)に造られた山城で、永禄10年(1564)尾張を統一した織田信長(おだ・のぶなが、1534~1582)は念願の美濃攻略を成功させ斎藤龍興(さいとう・たつおき、1547~1573)から奪取し、それまでの縄張を破却し新たに築城したとされます。
この年信長はそれまでの本拠である小牧山城から移転し城を「稲葉山城」から「岐阜城」に、町名を「井ノ口」から「岐阜」に改め、天正4年(1576)岐阜城を嫡男信忠に譲るまでの間、「天下布部武」の朱印を用いて天下統一をかかげ、楽市楽座の奨励を積極的に推進し城下町の発展に尽くします。
天正10年(1567)本能寺の変にて上洛中の信長及び信忠が死亡、明智光秀を打ち破った秀吉が主催するいわゆる清洲会議にて信長遺領の配分が決められ、岐阜城には信長三男の神戸(織田)信孝が伊勢神戸城から移ります。
文禄元年(1592)信長の嫡孫にあたる織田秀信(おだ・ひでのぶ、1580~1605)が安土城から入城するも、慶長5年(1600)関ケ原合戦の前哨戦の際に家康軍に攻められ開城、翌年廃城となり天守閣、櫓、石垣等を加納城築城に当り移築となります。
現地で入手したパンフレットには下記の通り紹介されています。
「 岐阜城 信長公・道三公ゆかりの城
岐阜城は、かつて稲葉山城と称していました。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは,
永禄10年(1567)(一説には永禄7年)8月、不出世の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。
しかし、慶長5年(1600)8月、関ケ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。
翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。
現在の城は、昭和31年7月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、三層四階構造で延べ461.77m2、棟高17.7mの威容を誇ります。」
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
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岐阜城遠景
JR岐阜駅又は名鉄岐阜駅からバスで約15分、岐阜公園・歴史博物館前」下車しますと前方に岐阜城が視野に入ります。 -
岐阜城
岐阜城へはロープウエイを利用(料金往復1080円)し約5分程度で到着します。 -
岐阜公園
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岐阜公園風景
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岐阜城跡説明板
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伝一ノ門跡説明板
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国盗り物語岐阜城絵図
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岐阜城の歴史説明板
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馬場跡説明板
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堀切(切通)説明板
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伝二ノ門説明板
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岐阜城跡図
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天守への道
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天守への道
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イチオシ
長良川展望
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岐阜城天守
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お城時計
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お城時計説明板
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岐阜城の由来説明板
「 岐 阜 城 の 由 来
鎌倉時代の建仁元年(1201)、幕府の執事二階堂山城守行政が軍事目的のためにここに初めて砦を築いたと伝えられているが、稲葉山城として日本史に大きく登場してくるのは斎藤道三以後のことです。
斎藤道三は天文8年(1539)2月に稲葉山城を修築して入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主となりました。
永禄10年(1567)織田信長は斎藤龍興と戦って稲葉山城を落し、9月新城主として入城しました。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、楽市場を保護し、「天下布武」の朱印を用いるなど天下統一の本拠地としました。永禄12年に宣教師ルイス・フロイスが岐阜城を訪れ、その壮麗さに驚いたことを書簡に記して本国ポルトガルへ送り、西洋にまで岐阜城のことが知られるようになりました。
その後、織田信忠・神戸信孝・池田元助・池田輝政・豊臣秀吉が岐阜城主となりましたが、慶長5年(1600)8月23日岐阜城主織田秀信は西軍の豊臣方に味方して東軍の徳川と戦い、福島正則・池田輝政に攻められて開城しました。慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣・櫓などは取り壊されて加納城に移築され、江戸時代には金華山頂に天守閣が建てられることはありませんでした。
明治43年(1910)木造の模擬城が建てられましたが、昭和18年(1943)焼失しました。その後、観光岐阜のシンボルとして、また安土桃山時代の華麗な城郭を再現したいという岐阜市民の熱意と浄財により昭和31年に現在の三層四階の天守閣を再建しました。
平成9年(1997)大改修工事を行い、織田信長の頃の壮麗な天守閣の姿を再現しました。
平成13年3月
岐 阜 市 」 -
イチオシ
市街展望
長良川方向を一望します。霞がかかって展望がはっきりしません。 -
市街展望
天守から長良川方向を一望しますが、霞がかかりはっきり見えません。 -
天守内部
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織田信長公説明板
天守内部に「織田信長公」と題する詳細な説明文が掲げてあります。 -
織田信長公略年表
同様に天守内部には「織田信長公の略年表」と題する説明文も掲示されています。 -
天守入口
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天守と石垣
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猪警戒ポスタ−
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伝太鼓櫓跡・説明板
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織田信長居館跡
金華山の西麓には信長の居館があって、入口には冠木門が設置され信長居館の入口としています。 -
冠木門(かぶきもん)説明
発掘調査では門の跡が発見されたことはなく実際の型式は不明ですが居館が建てられていた往時の雰囲気を伝えるため設置しています。 -
居館への石畳階段
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信長居館跡
二・三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下と言われています。 -
信長居館跡説明板
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居館跡案内図
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巨石配列図
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居館虎口
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居館跡
居館の奥は発掘調査中の風景となっており、全面的な発掘完了が待たれます。 -
居館跡
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信長公以前の居館説明板
信長入城以前は斎藤道三、義龍、龍興らの居館としてこの地に建てられていました。 -
居館跡
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居館跡風景
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