2010/05/28 - 2010/05/28
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ムッシュさん
いよいよ平野部に出で、長良川、揖斐川により造られた平野部を歩きます。
加納宿(第五十三宿 日本橋より419?)
JR高山線加納駅近く。宿場町と城下町を兼ねており、美濃16宿の中でも最大の宿場だった。加納城は宿場町のすぐ南にあり、現在も本丸の石垣が残っている。
宿内は鍵状に折れ曲がっており、随所に道標や碑があり、往時を偲ばれる区間。
川渡宿 (第五十四宿 日本橋より419?)
長良川の渡しで栄えた宿場。当時洪水に苦しんでいた宿は、全体をかさ上げ工事を行った。今は、焼失と河川改修で旧家は一軒も残っていない。
美江寺宿 (第五十五宿 日本橋より422?)
宿は河渡の渡しや呂久の渡しを控えて栄えたが、濃尾地震で壊滅し当時のものは残っていない。
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左は木曽路。 て言うことは、我々は右へ。
鳥居手前の左手に道標「左木曾路」があります、京方面からは左折します。 -
【浄土真宗本願寺派市場山浄慶寺(じょうけいじ)】があります。
元は天台宗でしたが文明十八年(1486年)親鸞聖人の弟子蓮如上人に深く帰依し、浄土真宗に改宗しました。
【市場山浄慶寺沿革】
当山浄慶寺は、もとは天台宗の寺院でしたが、文明十八年(1486)五月本願寺第八世蓮如上人に深く帰依した上人直弟子である正専坊が開基した浄土真宗本願寺派の寺院です。
宗祖親鸞聖人の教えを蓮如上人は、広く民衆にわかるように御布教されました。「いかなるものをも救う本願念仏の教え」に正専坊は、歓喜帰依し、浄土真宗に転派しました。
本願寺第八世蓮如上人より名号等を賜り、文亀元年(1501)3月本願寺第九世實如上人より新筆の六字名号を拝領、元和七年(1621)九月四日、十二世准如上人より木仏・寺号を賜りました。
浄慶寺は中山道に面し、戦国時代には、尾張清洲城の織田信長と斎藤義龍・龍興との合戦、天下分け目関ヶ原合戦の前哨戦・米野の戦い、江戸時代には朝鮮通信使節団、皇女和宮下向、幕末の騒乱など、数多くの歴史上の出来事を数百年に渡り見つめてきました。 -
【細畑の一里塚】があります。
明治になって取り壊されましたが、昭和二十七年(1952年)両塚とも復元されました、江戸日本橋より数えて105里目(420km)です。
細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里十四町(約13.3キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三.三キロメートル)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている。 -
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中山道 お鮨街道
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茶所駅前に【中山道加納宿碑】があります、ここが加納宿の江戸(東)口です。
加納宿の宿長は二十一町半(約2.4km)と長く、美濃十六宿中最大の宿場。
長良川の湊町、そして加納城の城下町として栄え、熱田(名古屋)への御鮨街道追分を控え大いに賑わいました。
しかし宿並のほとんどは戦災で焼失してしまいました。
天保14年(1843年)の頃、加納宿の宿内家数は805軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠35軒、宿内人口は2,728人で尾張藩領宿高五百五十五石でした。 -
これは、通りで出くわしたあるお宅の郵便受け。
すごく見応えがあるので、写真に撮りました。
ごめんなさい。 -
こちら【加納城の大手門跡碑】
この南に加納城跡が残っている。
先が加納城址です、歩道橋手前の左手が加納城大手門跡(標柱)です。
岐阜は斎藤道三の国取り物語の舞台になった地で、織田信長は斎藤氏の居城稲葉山(金華山)城を陥し、新たに岐阜城を築城し、安土城に移るまで本拠地とした。天下を掌握した徳川家康は山城の岐阜城を廃し、平城の加納城を築城。縄張りは家康自ら行い、普請奉行は本多忠勝が勤めた、建築資材は主に岐阜城の解体材が流用され、岐阜城の天守は加納城の二の丸御三階櫓になった。 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用
【歌川広重「中山道69次、加納宿」】
広重は領下から上川手に入った辺りから、南にあった加納城を東北から見た情景を描いています。
画面の下には中山道の松並木の中を西から東に向う参勤交代の大名行列を描き込んでいます。
関ケ原の合戦に勝利し、天下の権を握った、徳川家康はそれまでの岐阜街道より、中山道がより重要であることを知りました。
そこで家康は金華山の岐阜城を廃し、中山道沿いに加納城を築城し、娘亀姫(家康の長女、築山御前の子)の婿奥平信昌に十万石を与え、中山道の管理掌握に当たらせました。しかしその後、戦略的意味は薄れ、城主永井氏の頃には三万二千石に低下しました。 -
中山道加納宿当分本陣跡(標柱)があります、宮田五左衛門が勤めました、幕末の文久二年(1862年)参勤交代が緩和され、江戸詰の大名妻子が一斉に国元に帰国した為、本陣が不足し、当分の間本陣を勤めました。
当家は明治天皇巡幸の際、御小休所になりました。 -
中山道加納宿脇本陣跡(標柱)です、延享二年(1745年)より森孫作が勤め、規模は間口9間半、奥行14間、建坪132坪でした。
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岐阜駅構内の階段沿いに設けられた壁画。
岐阜の見どころが芸術的に描かれてる。 -
なぬ!驚いたぜ!
黄金に輝き、空中に立ってるように見えるのは、織田信長の像です。
黄金に輝くジパングの天下統一に尽力した人だから。
ここは、JR岐阜駅北口です。 -
JR岐阜駅です。
丁度、可愛い幼稚園児の行列に出くわした。 -
【中山道加納宿西番所跡標柱】があります、ここが加納宿の京(西)口でした。
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【英泉浮世絵「中山道69次、川渡長柄川鵜飼舩」】
長良川は大日ケ岳に源を発し、下流は伊勢湾に注いでいます、濃尾平野を流れる木曽三川(木曽川、揖斐川)の一つです。
英泉は河渡として長柄(長良)川の鵜飼を描いています。
鵜飼は尾張藩の庇護のもとに五月から十月まで、雨天を除き、月のない暗闇の夜に行われ、漁獲された鮎の大半は尾張藩に上納され、鮎鮨にして将軍家や諸大名に献上されました。
芭蕉はこの鵜飼を見て「おもしろうて やがてかなしき 鵜飼かな」と詠んでいます。 -
長良川の土手から、西方を望む。
行く手に見える低い山々は、関ヶ原方面かな? -
山の頂上に、”岐阜城”が見えます。金華山です。(拡大するとはっきり分かる)
長良川の土手より撮影。 -
鵜飼の様子
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宿並に戻ると右手の中島時計店脇に瑞穂市指定史跡【美江寺一里塚跡標石】があります、江戸日本橋より数えて108里目(432km)
です。
美江寺は天正17年(1589年)豊臣秀吉の下知により問屋場が設けられ往還の荷物中継ぎを行い、寛永14年(1637年)美江寺宿が開設されました。
美江寺は大雨の降るたびに長良川からの逆水により宿の前後の往還が浸水し宿としての条件は劣悪でした、そして幕末の頃になると雲助、博徒、無頼漢が横行し、ガラの悪い宿場として恐れられたといいます。
天保14年(1843年)の頃、美江寺宿の宿内家数は136軒、うち本陣1、脇本陣ナシ、旅籠11軒、宿内人口は582人、幕府領(大垣藩預り)で、宿高1,300石でした。
明治二十四年(1891年)の濃尾大地震で宿並は壊滅しました -
地元の酒屋さんで、地酒、地焼酎を購入中です。
この建物も歴史ものですね。外観が貫禄有りますね。酒の布屋、濃尾地震の際宿内で唯一残った商家です。 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用
【歌川広重「中山道69次・美江寺宿」】
美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事に始まる。
犀川を新月橋で渡ります、新月橋は寛文七年(1667年)勧進によって架橋されました。
犀川(さいかわ)は墨俣城の脇を流れ、流末は長良川に落合います、秀吉は犀川の上流から加工した材木を流し、一夜にして墨俣砦を築いたといいます。
広重は美江寺としてこの犀川を描いています、画面右手の椿は満開です。
「左奥の集落は屋根だけが描かれています、これは集落を川の氾濫から守るために、周囲を堤防で囲っている為です、これを輪中(わじゅう)といいました。」 -
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【美江寺宿の本陣跡】
近くに、観世音や一里塚跡や城址がある。
美江寺宿本陣跡(標石)があります。
天正17年(1598年)豊臣秀吉の外知により美江寺に問屋場が設けられ、江戸時代の寛永14年(1637年)美江寺宿が開設されました。
それから32年後の寛文九年(1669年)、時の領主加納藩主戸田丹波守光永より問屋山本金兵衛が本陣職を命じられました、本陣建物は明治24年(1891年)の濃尾大地震で倒壊しました。 -
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この分岐点には大正?年(1921年)建立の追分道標
「右 大垣赤坂ニ至ル」「左 大垣墨俣ニ至ル」があります、
墨俣は秀吉の一夜城で知られた地です。 -
栄華を誇った美江寺も、今は【美江寺観世音堂】を残すのみ。
美江寺千手観音堂があります、天保4年(1833年)に造立された千手観音像が安置されています。
斎藤道三により岐阜に移された。
【観音堂縁起】
聖徳より天保年間にかけて徳川幕府太平の記録に中山道六十九次之内第五十四河渡宿大概帳に本陣水谷治兵衛問屋久右衛門 八兵衛庄屋水谷徳兵衛とあり本陣一軒旅籠屋大四軒中九軒小十一軒あり酒屋茶屋豆腐屋煙草屋など建ち並び西國諸大名の江戸幕府への参勤交代時には御転馬役歩行役の命令あり東へ加納一里半西へ美江寺一里七丁この荷駄の送迎旅人の往来宿泊に賑わいこの荷駄役の人達が天保十三年に銭百文づゝ寄進し道中と家内安全五穀豊穣祈願し愛染明王を奉祀す地元では馬頭観音さんと仰ぎ猿尾通稱お幕場に六間四面の堂宇を建立毎年九月十七日を祭日と定め祖先は盛大に賛仰護侍し来れりその後明治二十四年十月二十八日午前六時三十七分濃飛大震災に倒壊同二十九年九月大洪水に本堂流失す堤外中段渡船場右側に再建昭和二十年七月九日大空襲に戦禍を免る同二十二年四月新堤築造により堤内に奉遷安置同五十六年本川拡幅に伴ふ遷座となる島川東洋子氏御一家の篤志を受け現聖地三十七、三坪に奉遷新築す町民の総意と協力により工事費金壱千壱百六十五万七千円にて完成
昭和五十九甲子年九月吉日 河渡町内中
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