岐阜市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
加納城(かのうじょう、岐阜県岐阜市加納)は慶長5年(1600)の関ケ原合戦の結果西軍に属した織田秀信(おだ・ひでのぶ=織田信長の孫、1580~1605)が関ヶ原合戦で敗れ、その結果高野山に追放され、併せて岐阜城が翌年破却、それに代わる城郭として家康自ら縄張を行い、本多忠勝を普請奉行とし近隣の大名を動員のもと、岐阜城の城館を移すなどしたいわゆる天下普請の平城です。<br /><br />初代城主は家康の娘(亀姫・二代将軍秀忠の異母姉で母親は築山殿)婿にあたる奥平信昌(おくだいら・のぶまさ、1555~1615)で上野国甘楽郡3万石から加増を受けて10万石を以て入城します。<br /><br />奥平氏は三河国作手(つくで)とその周辺を支配する有力国衆の一人で、戦国時代初期から西進する今川氏、東進する松平氏、南進する武田氏がそれぞれ東三河を自分の勢力下に組み込もうとして互いに対峙、各国衆たちは自領の安堵を優先するために時の政治環境を見ながら巧みに主家を替えていました。<br /><br />奥平氏も当然ながら他国衆と同様に状況に応じて主家を替え、元亀年間における信玄の三河進攻を機に武田信玄に仕え信玄死後も勝頼に仕えるも設楽原合戦での大敗を機に将来の展望に期待できず、当主貞能(さだよし、1537~1599)は徳川家康に密かに接近し帰順することを伝えます。<br /><br />家康はこの申出に対し、本領などの安堵のほか娘亀姫と嫡男貞昌との婚姻を起請文にして約束、その後奥平氏は甲斐新府城普請に際し勝頼から法外な要求が出たことを機に勝頼を見限り家康に奔り、奥平氏の離反に怒った勝頼は奥平氏が差しだしていた人質3名を処刑にします。<br /><br />天正3年(1575)、貞昌は家康の命により長篠城主となるも長篠の戦いでは1万5千もの大軍を率いた勝頼の猛攻を受ける事になりますが城を死守したことで織田・徳川軍を勝利に導いたとして信長より激賞され信昌の名前を賜ります。<br /><br />そもそも奥平氏の出自は上野国甘楽郡で初代と思われる氏行(うじゆき)が上野国甘楽国司であったようで六代目の定政(さだまさ)の時に鎌倉幕府崩壊、定政は新田義貞に従って武蔵七党の児玉党を率いて南朝方として転戦するも九州で戦死となります。<br /><br />後継の定家は上野国では新田勢は次第に駆逐され、奥平氏としての立場は極めて窮屈な場所となったため、定家の息子の一人である貞俊(さだとし)は上野国を出奔し外戚を頼って流れ着いたのが三河国作手で、この地で郷民を従え勢力を蓄えその後の奥平氏の発展の足掛かりとなったと伝えられています。<br /><br /><br />本丸南虎口の内側に建てられた説明板には次の通り記されています。<br /><br /><br />「 国 史 跡  加 納 城 跡<br /><br />徳川家康は、慶長6年(1601)3月、娘婿の奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)を加納城主として10万石を与え、また亀姫(かめひめ)の化粧田として2千石を給した。<br /><br />築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。本丸、二之丸、三之丸、厩(うまや)曲輪、南曲輪(大薮曲輪)などを備え、関ケ原戦後初の本格的城郭であった。<br /><br />加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治2年加納城第16代城主、永井肥前尚服(なおこと)が版籍を奉還し、加納城は同年7月14日に廃藩に至った。加納城跡は、この本丸ほかは二之丸北側の石垣をわずかに残している。<br /><br />                   岐阜市教育委員会」

美濃岐阜 武蔵七党児玉党の後裔とも推され東三河国衆ながら長篠の戦いで武功をあげ家康娘婿として大名に列し天下普請の奥平信昌居城『加納城』訪問

7いいね!

2016/07/17 - 2016/07/17

674位(同エリア1061件中)

0

34

滝山氏照

滝山氏照さん

加納城(かのうじょう、岐阜県岐阜市加納)は慶長5年(1600)の関ケ原合戦の結果西軍に属した織田秀信(おだ・ひでのぶ=織田信長の孫、1580~1605)が関ヶ原合戦で敗れ、その結果高野山に追放され、併せて岐阜城が翌年破却、それに代わる城郭として家康自ら縄張を行い、本多忠勝を普請奉行とし近隣の大名を動員のもと、岐阜城の城館を移すなどしたいわゆる天下普請の平城です。

初代城主は家康の娘(亀姫・二代将軍秀忠の異母姉で母親は築山殿)婿にあたる奥平信昌(おくだいら・のぶまさ、1555~1615)で上野国甘楽郡3万石から加増を受けて10万石を以て入城します。

奥平氏は三河国作手(つくで)とその周辺を支配する有力国衆の一人で、戦国時代初期から西進する今川氏、東進する松平氏、南進する武田氏がそれぞれ東三河を自分の勢力下に組み込もうとして互いに対峙、各国衆たちは自領の安堵を優先するために時の政治環境を見ながら巧みに主家を替えていました。

奥平氏も当然ながら他国衆と同様に状況に応じて主家を替え、元亀年間における信玄の三河進攻を機に武田信玄に仕え信玄死後も勝頼に仕えるも設楽原合戦での大敗を機に将来の展望に期待できず、当主貞能(さだよし、1537~1599)は徳川家康に密かに接近し帰順することを伝えます。

家康はこの申出に対し、本領などの安堵のほか娘亀姫と嫡男貞昌との婚姻を起請文にして約束、その後奥平氏は甲斐新府城普請に際し勝頼から法外な要求が出たことを機に勝頼を見限り家康に奔り、奥平氏の離反に怒った勝頼は奥平氏が差しだしていた人質3名を処刑にします。

天正3年(1575)、貞昌は家康の命により長篠城主となるも長篠の戦いでは1万5千もの大軍を率いた勝頼の猛攻を受ける事になりますが城を死守したことで織田・徳川軍を勝利に導いたとして信長より激賞され信昌の名前を賜ります。

そもそも奥平氏の出自は上野国甘楽郡で初代と思われる氏行(うじゆき)が上野国甘楽国司であったようで六代目の定政(さだまさ)の時に鎌倉幕府崩壊、定政は新田義貞に従って武蔵七党の児玉党を率いて南朝方として転戦するも九州で戦死となります。

後継の定家は上野国では新田勢は次第に駆逐され、奥平氏としての立場は極めて窮屈な場所となったため、定家の息子の一人である貞俊(さだとし)は上野国を出奔し外戚を頼って流れ着いたのが三河国作手で、この地で郷民を従え勢力を蓄えその後の奥平氏の発展の足掛かりとなったと伝えられています。


本丸南虎口の内側に建てられた説明板には次の通り記されています。


「 国 史 跡  加 納 城 跡

徳川家康は、慶長6年(1601)3月、娘婿の奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)を加納城主として10万石を与え、また亀姫(かめひめ)の化粧田として2千石を給した。

築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。本丸、二之丸、三之丸、厩(うまや)曲輪、南曲輪(大薮曲輪)などを備え、関ケ原戦後初の本格的城郭であった。

加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治2年加納城第16代城主、永井肥前尚服(なおこと)が版籍を奉還し、加納城は同年7月14日に廃藩に至った。加納城跡は、この本丸ほかは二之丸北側の石垣をわずかに残している。

                   岐阜市教育委員会」

交通手段
高速・路線バス 私鉄
  • 本丸北側<br /><br />埋め立てられた水堀本丸北側には「野面積」と称される石垣が加納城遺構としてしっかり見て取れます。

    本丸北側

    埋め立てられた水堀本丸北側には「野面積」と称される石垣が加納城遺構としてしっかり見て取れます。

  • 加納城周辺地図<br /><br />名鉄加納駅から徒歩で約20分の位置に在ります。

    加納城周辺地図

    名鉄加納駅から徒歩で約20分の位置に在ります。

  • 加納城・城下町案内<br /><br />

    加納城・城下町案内

  • 加納城・城下町案内板

    加納城・城下町案内板

  • 17世紀後半頃の加納城城郭配置図

    17世紀後半頃の加納城城郭配置図

  • 加納城説明板

    加納城説明板

  • 本丸北側石垣<br /><br />石垣前の堀は全て埋め尽くされています。

    本丸北側石垣

    石垣前の堀は全て埋め尽くされています。

  • 史跡「加納城跡」本丸の石垣説明

    史跡「加納城跡」本丸の石垣説明

  • 本丸北側石垣

    本丸北側石垣

  • 本丸北側石垣

    本丸北側石垣

  • 本丸北側虎口

    本丸北側虎口

  • 本丸南側虎口脇(左側)<br /><br />本丸を囲む土塁が虎口脇から取り囲みます。

    本丸南側虎口脇(左側)

    本丸を囲む土塁が虎口脇から取り囲みます。

  • 加納城本丸虎口

    加納城本丸虎口

  • 本丸北側虎口脇(右側)

    本丸北側虎口脇(右側)

  • 本丸西側<br /><br />土塁が本丸を取り囲んでいます。

    本丸西側

    土塁が本丸を取り囲んでいます。

  • 本丸中央部

    本丸中央部

  • 本丸中央部

    本丸中央部

  • 本丸中央部

    本丸中央部

  • 本丸中央部

    本丸中央部

  • 本丸南虎口側

    本丸南虎口側

  • 加納城跡説明

    加納城跡説明

  • 凸型本丸見取図<br /><br />

    凸型本丸見取図

  • 本丸南門

    本丸南門

  • 本丸南門<br /><br />埋められた水堀が今では駐車場となっています。

    本丸南門

    埋められた水堀が今では駐車場となっています。

  • 本丸南側

    本丸南側

  • 本丸大手門

    本丸大手門

  • 本丸南側石垣

    本丸南側石垣

  • 本丸南側石垣

    本丸南側石垣

  • 本丸中央部

    本丸中央部

  • 本丸土塁内側

    本丸土塁内側

  • 本丸土塁内側<br /><br />本丸西側に今でも残っている土塁は容易に登れません。

    本丸土塁内側

    本丸西側に今でも残っている土塁は容易に登れません。

  • 本丸土塁内側

    本丸土塁内側

  • 本丸土塁内側

    本丸土塁内側

この旅行記のタグ

7いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP