2016/06/05 - 2016/06/05
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奈良の世界遺産巡り、唐招提寺の紹介です。普段は見学することが難しいとお聞きした、奥の院の西芳院の紹介です。歴代住職のお墓や、快慶作の阿弥陀仏がありました。
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- 私鉄
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再集合場所になった、唐招提寺の南大門です。待ち時間の間に撮影した、南大門の軒下光景です。柱はすべて毛ベンガラ色に彩色されていました。
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再集合場所になった唐招提寺の南大門から眺めた、国宝の建物の金堂の光景です。奈良時代建立の寺院金堂としては、現存唯一のものとされます。
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全員揃ったところで、現地ガイドさんの先導で歩いて奥の院の西方院に向かいました。そのお寺の山門を潜り、最初に目にした建物光景です。
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先程の建物は素通りし、唐招提寺・奥の院の西方院の境内の方に向かいました。鎌倉時代の寛元年間(1243〜1246年)に、慈禅によって創建されたと伝わるお寺です。
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少し雑然とした感じにも見えた、唐招提寺・奥の院の西方院の境内光景です。境内末社のような社の光景です。お寺より神社のイメージでした。
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今は現役を降りて、庭の飾りのように置かれていた手水鉢風の石造りの光景です。
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唐招提寺・奥の院の西方院の境内光景が続きます。普段は一般公開されていないお寺らしく、現地ガイドさんもめったに足を運んだことがないと話されていました。
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奈良県指定の文化財の五輪塔です。高さは2.8メートルです。唐招提寺中興二世證玄和尚の墓です。この五輪塔は、ウィキペディアの五輪塔の説明にも使われていました。石造美術の一分野として重要な位置を占めることからの代表例だったようです。
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『唐招提寺中興二世證玄和尚墓』の文字が刻まれた石碑の光景です。證玄和尚は正応五年 (1292) 鎌倉後期に入滅した人です。因みに、唐招提寺の第88世長老(住職)で律宗管長には、平成28年(2016年)4月に西山明彦師が就任されました。前任は、石田智圓・長老でした。
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同じく、證玄和尚の墓の五輪塔とその周りの光景です。教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪から構成され、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとされます。現地ガイドさんも、そのことを最初に説明されていました。
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證玄和尚の墓の五輪塔の前に置かれていた竹飾です。初めて目にした飾ですが、何かのお供え物を模した物のようにも見えました。
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證玄和尚の墓の五輪塔の上部の光景です。上から団形の空輪、半月型の風輪と三角の火輪の光景です。
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少し雑然とした、境内の光景に戻りました。その境内の各所に、数多くの石塔や墓標などがありました。
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イチオシ
石仏で作られた小山、その頂点に建つ九重石塔の光景です。『西方院石仏ひな壇』と呼んでいたネット情報もありましたが、正式名かどうかは分かりません。
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便宜上、この後は、『石仏ひな壇』と呼ばせていただきますが、雛ではなく、一体または二体の地蔵尊らしいレリーフでした。二体のものは、道祖神のイメージもありました。
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『石仏ひな壇』の下部には、石の扉が付いた部屋が設けられていました。
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九重石塔が建つ小山は、こちら側が正面になるようです。『石仏ひな壇』の表の面の光景です。
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九重石塔のズームアップ光景です。石塔の原点は、釈迦の舎利を納めたとされるインドのストゥーパにあるようです。古代インドから中国に仏教が伝来した時、ストゥーパは『卒塔婆』と音訳されました。
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『石仏ひな壇』の脇から眺めた西方院の境内の光景です。石塔や墓標の光景が続いていました。
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歴代住職のお墓が並ぶ一角の光景です。無縫塔(むほうとう)は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔です。一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名があります。
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無縫塔(むほうとう)の中にあった、一際立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。墓塔や供養塔などに使われる仏塔の一種です。中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の金塗塔が原型だとする説があります。その構造は、最上部の棒状の部分の相輪は、頂上に宝珠を載せ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がります。
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宝篋印塔の話の続きです。滅罪や延命などを願、死後に供養行う『追善』や、生前に予め供養を済ませる『逆修』などを目的とした、供養塔などとして建てられました。
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開かずの扉のように見えた山門の光景です。その近くに、由緒ある五輪塔があるために立ち寄りました。
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逆光での撮影になりましたが、江戸時代の隆光大僧正(164 9〜1724年)の五輪塔です。将軍綱吉とその母桂昌院に寺院への援助を勧めた人として知られています。分骨されたお墓の一つのようです。将軍・綱吉の急死により、隆光大僧正は江戸から追放され、大和・超昇寺で隠棲生活を送りました。こんにち、女人高野として知られる室生寺の修復には、桂昌院が2100両を寄進したと伝わります。その背後で隆光大僧正が動いたようです。桂昌院は、三代将軍家光の側室になり、五代将軍綱吉の生母となった人です。
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『護持院僧録』の文字と『大僧正隆光』の文字が刻まれた五輪塔の下部の光景です。その文字の中間に梵字がありました。護持院・隆光は、隆光大僧正とも呼ばれました。西方院は、若き日の隆光大僧正が得度出家したお寺とのネット情報もありました。
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唐招提寺の奥の院、西方院の境内光景です。唐招提寺の塔頭の一つで、大和北部八十八箇所霊場の第二十七番札所です。
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イチオシ
人がいなくなったところで、もう一度撮影した叡尊(1201〜1290年)の五輪塔の光景です。叡尊(えいそん・えいぞん)は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧で、奈良の勝宝山・西大寺を復興した人として知られます。南都七大寺の一つで、真言律宗総本山の寺院です。
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『国指定重要文化財・『・快慶作』の立札です。快慶(生没年不詳)は、鎌倉時代に活動した仏師です。運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人です。在銘の現存作が相当数残されています。
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快慶作の『阿弥陀如来立像』を拝観したお堂です。『収蔵庫』と呼ばれている建物です。内部の写真撮影は禁止されていました。快慶の作品は、銘記や関係史料から真作と判明しているものだけで40件ほどあります。
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イチオシ
快慶作の『阿弥陀如来立像』を拝観した後のお堂の光景です。扉を閉めて退出しました。快慶の法眼叙任は承元2〜4年(1208〜1210年)とされ、残された墨書から、この時期の作品とされます。
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