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柴田勝家生誕の地と伝わる、『下社城址』の紹介です。現在は明徳寺となっています。『生年については諸説ありますが、張州府誌』によれば、柴田勝家は大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で生まれたと記されています。

2016梅雨、柴田勝家所縁の地(6/9):明徳寺(1):下社城址・明徳寺、勝家生誕碑、本堂

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2016/06/14 - 2016/06/14

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旅行記グループ 2016梅雨、柴田勝家所縁の地

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旅人のくまさん

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柴田勝家生誕の地と伝わる、『下社城址』の紹介です。現在は明徳寺となっています。『生年については諸説ありますが、張州府誌』によれば、柴田勝家は大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で生まれたと記されています。

  • 『下社城址』の明徳寺の北側の光景です。こちらの扉は閉まっていましたから、時計回りに東側を通って南側の出入口に向かうことにしました。柴田勝家が大名となり、越前北ノ庄城に移ったことにより廃城となったとされる『下社城址』です。<br />

    『下社城址』の明徳寺の北側の光景です。こちらの扉は閉まっていましたから、時計回りに東側を通って南側の出入口に向かうことにしました。柴田勝家が大名となり、越前北ノ庄城に移ったことにより廃城となったとされる『下社城址』です。

  • 明徳寺の南側の出入口に向かう途中の光景です。道路脇の梅園の光景です。『下社城址』に到着する前に、柴田勝家のことを少し紹介しておきます。『張州府誌』に基づき大永2年(1522年)と紹介した生年ですが、大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあります。

    明徳寺の南側の出入口に向かう途中の光景です。道路脇の梅園の光景です。『下社城址』に到着する前に、柴田勝家のことを少し紹介しておきます。『張州府誌』に基づき大永2年(1522年)と紹介した生年ですが、大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあります。

  • 梅園の光景です。収穫されずに落ちた実が根元に集められていました。勝家は、戦国時代の武将・柴田勝義の子といわれますが、確実な資料は残されていません。若い頃から信長の父の織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したとされます。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、信秀の子の織田信行(信勝:1536~1557年)に家老として仕えました。信秀は、信長の弟になります。

    梅園の光景です。収穫されずに落ちた実が根元に集められていました。勝家は、戦国時代の武将・柴田勝義の子といわれますが、確実な資料は残されていません。若い頃から信長の父の織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したとされます。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、信秀の子の織田信行(信勝:1536~1557年)に家老として仕えました。信秀は、信長の弟になります。

  • 明徳寺の東方面を回って、南面にやって来ました。見晴らしの良い高台の光景になりました。勝家は、天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いで、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てました。萱津の戦いです。勝家の華々しい武功の始まりです。

    明徳寺の東方面を回って、南面にやって来ました。見晴らしの良い高台の光景になりました。勝家は、天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いで、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てました。萱津の戦いです。勝家の華々しい武功の始まりです。

  • 明徳寺の入口に到着しました。この坂道からも境内に向かうことができますが、石碑が建つ石段がある正面出入口に向かいました。石段を使ってだけでの出入りでは、日常生活が大変ですから、勝手口として設けられた通りでしょうか。現在では、車での出入りにも使われているようでした。

    明徳寺の入口に到着しました。この坂道からも境内に向かうことができますが、石碑が建つ石段がある正面出入口に向かいました。石段を使ってだけでの出入りでは、日常生活が大変ですから、勝手口として設けられた通りでしょうか。現在では、車での出入りにも使われているようでした。

  • 正面から眺めた、『正暾山・明徳寺』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。その脇の石段を登った先が山門です。境内の南面になります。『暾』は、『まるい朝日』という意味とされます。

    正面から眺めた、『正暾山・明徳寺』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。その脇の石段を登った先が山門です。境内の南面になります。『暾』は、『まるい朝日』という意味とされます。

  • 西側になる、左手前から眺めた『正暾山・明徳寺』の石碑の光景です。側面には、昭和49年(1974年)110月の建立の日時と、施主の柴田一族の末裔らしい方の名前がありました。

    西側になる、左手前から眺めた『正暾山・明徳寺』の石碑の光景です。側面には、昭和49年(1974年)110月の建立の日時と、施主の柴田一族の末裔らしい方の名前がありました。

  • 東側になる、右手前から眺めた『正暾山・明徳寺』の正面入り口付近の光景です。近代工法で積まれていますが、お城の石垣にも遜色のない造りです。

    イチオシ

    東側になる、右手前から眺めた『正暾山・明徳寺』の正面入り口付近の光景です。近代工法で積まれていますが、お城の石垣にも遜色のない造りです。

  • 少し離れた場所から眺めた、『正暾山・明徳寺』の参道入口の光景です。立派な石垣と白い塀に守られた山門が中央にありました。

    少し離れた場所から眺めた、『正暾山・明徳寺』の参道入口の光景です。立派な石垣と白い塀に守られた山門が中央にありました。

  • 2箇所に分かれた石段の中間地点にあった山門の光景です。山門の先に、次の石段が見えていました。格式の高さを感じさせる山門光景です。

    2箇所に分かれた石段の中間地点にあった山門の光景です。山門の先に、次の石段が見えていました。格式の高さを感じさせる山門光景です。

  • 左側の手水舎の屋根よりも高く見えた、『下社城址』の石碑です。右手前に見えるのは、咲き終わったサツキ(皐月)の花のようです。同じツツジ科のツツジ(躑躅)との見分け方では、いつも迷います。

    左側の手水舎の屋根よりも高く見えた、『下社城址』の石碑です。右手前に見えるのは、咲き終わったサツキ(皐月)の花のようです。同じツツジ科のツツジ(躑躅)との見分け方では、いつも迷います。

  • 愛知県名で建てられた、『下社城址』の石碑のズームアップ光景です。 下社城の築城は、勝家の父といわれる柴田勝直(伊賀守)によるものとされ、築城時期は文明年間~永正年間(1460年~1500年頃)のようです。この石標は大正4年(1915年)に設置されたものです。<br />

    愛知県名で建てられた、『下社城址』の石碑のズームアップ光景です。 下社城の築城は、勝家の父といわれる柴田勝直(伊賀守)によるものとされ、築城時期は文明年間~永正年間(1460年~1500年頃)のようです。この石標は大正4年(1915年)に設置されたものです。

  • 手水舎の水盤の光景です。側面に大きく『漱水』の文字が刻まれていました。注ぎ口は、型通りにブロンズ製の龍の口でした。

    手水舎の水盤の光景です。側面に大きく『漱水』の文字が刻まれていました。注ぎ口は、型通りにブロンズ製の龍の口でした。

  • 『柴田勝家出生地』のタイトルの立看板と、『柴田勝家公誕生地』の石碑があった付近の光景です。本堂に向かう表参道の左手でした。

    イチオシ

    『柴田勝家出生地』のタイトルの立看板と、『柴田勝家公誕生地』の石碑があった付近の光景です。本堂に向かう表参道の左手でした。

  • 名古屋市教育委員会名で建てられた、『柴田勝家出生地』のタイトルの立看板です。諸説ある柴田勝家の生誕ですが、享保3年(1530年)と紹介されていました。諸説の中では、一番後の生誕日のようです。

    名古屋市教育委員会名で建てられた、『柴田勝家出生地』のタイトルの立看板です。諸説ある柴田勝家の生誕ですが、享保3年(1530年)と紹介されていました。諸説の中では、一番後の生誕日のようです。

  • 『柴田勝家公誕生地』の文字が刻まれた石碑の光景です。斜めに割れてしまわないか、少し心配な石碑でした。ひょっとしたら、一度割れたものが修復されたのかも知れません。

    『柴田勝家公誕生地』の文字が刻まれた石碑の光景です。斜めに割れてしまわないか、少し心配な石碑でした。ひょっとしたら、一度割れたものが修復されたのかも知れません。

  • 石段の踊り場から見上げた、『正暾山・明徳寺』の本堂の光景です。ぴったりと、表参道の中心線に沿った位置に建っていました。

    石段の踊り場から見上げた、『正暾山・明徳寺』の本堂の光景です。ぴったりと、表参道の中心線に沿った位置に建っていました。

  • 石段の上から見下ろした山門の光景です。境内は高い石垣の上にありますから、周囲に頑丈な金属製の柵が設けてありました。

    石段の上から見下ろした山門の光景です。境内は高い石垣の上にありますから、周囲に頑丈な金属製の柵が設けてありました。

  • 立派な枝振りの庭木と、見晴らしのいい場所に建つ鐘楼の光景です。この丘の上で撞かれる鐘の音は、遠くにまで響き渡りそうです。

    立派な枝振りの庭木と、見晴らしのいい場所に建つ鐘楼の光景です。この丘の上で撞かれる鐘の音は、遠くにまで響き渡りそうです。

  • 別の角度から眺めた、鐘楼の光景です。撮影した場所の加減で、先程の庭木が主役を外れ、鐘楼が主役になりました。

    別の角度から眺めた、鐘楼の光景です。撮影した場所の加減で、先程の庭木が主役を外れ、鐘楼が主役になりました。

  • 明徳寺の境内に建つ十王堂の建物光景です。戦前の十王堂は、明徳寺の北西の荒幡にありましたが、第二次大戦中の空爆で吹き飛ばされました。戦後(昭和24年)に再建されましたが、区画整理時に行き場所がなかったのか、荒幡から明徳寺境内に移されました。明徳寺とは無関係に、『十王堂奉賛会』の人々が管理しているようです。

    明徳寺の境内に建つ十王堂の建物光景です。戦前の十王堂は、明徳寺の北西の荒幡にありましたが、第二次大戦中の空爆で吹き飛ばされました。戦後(昭和24年)に再建されましたが、区画整理時に行き場所がなかったのか、荒幡から明徳寺境内に移されました。明徳寺とは無関係に、『十王堂奉賛会』の人々が管理しているようです。

  • 色が褪せてしまった、『十王堂』の扁額の光景です。十王堂に祀られている十王像は真っ黒の木像でしたが、昭和45年(1970年)に着色されました。新しく見えますが、室町時代の頃の作と伝わります。

    色が褪せてしまった、『十王堂』の扁額の光景です。十王堂に祀られている十王像は真っ黒の木像でしたが、昭和45年(1970年)に着色されました。新しく見えますが、室町時代の頃の作と伝わります。

  • 第二次大戦中の空爆と十王堂の絵です。その下に記された説明文の前半を紹介します。『昭和十九年三月二十四日、アメリカ軍爆撃機B29、名古屋方面大空襲の際、当村各地に爆弾多数を投下せり。その一発は十王堂近くに落下爆発し、堂宇跡形もなく飛散せしも、仏像は一体も欠けることなく、又損傷もなく、一ヶ所に集まりておられるを発見せられたり』、というものです。村の被害を身代わりになってくれたと有り難がられたようです。

    第二次大戦中の空爆と十王堂の絵です。その下に記された説明文の前半を紹介します。『昭和十九年三月二十四日、アメリカ軍爆撃機B29、名古屋方面大空襲の際、当村各地に爆弾多数を投下せり。その一発は十王堂近くに落下爆発し、堂宇跡形もなく飛散せしも、仏像は一体も欠けることなく、又損傷もなく、一ヶ所に集まりておられるを発見せられたり』、というものです。村の被害を身代わりになってくれたと有り難がられたようです。

  • 『下社城址』から眺めた、名古屋市街の光景です。眼下に『下社城址碑』が見える、東南方面の光景です。

    『下社城址』から眺めた、名古屋市街の光景です。眼下に『下社城址碑』が見える、東南方面の光景です。

  • 同じく、『下社城址』から眺めた、名古屋市街の光景です。撮影した方角を失念しましたが、撮影した順序から言えば、南方面になるようです。

    同じく、『下社城址』から眺めた、名古屋市街の光景です。撮影した方角を失念しましたが、撮影した順序から言えば、南方面になるようです。

  • 『下社城址』から眺めた、名古屋市街の光景が続きます。中央から右端奥に向かって、国道302号線の高架道路が見える西南方向になります。

    『下社城址』から眺めた、名古屋市街の光景が続きます。中央から右端奥に向かって、国道302号線の高架道路が見える西南方向になります。

  • 正面奥に見えるのは、庫裏の光景です。左手には、神社や寺院に付き物の『ソテツ(蘇鉄)』がありました。通路の脇は芝生が敷き詰めてありました。

    正面奥に見えるのは、庫裏の光景です。左手には、神社や寺院に付き物の『ソテツ(蘇鉄)』がありました。通路の脇は芝生が敷き詰めてありました。

  • 『正暾山』の山号が記された扁額の光景です。随分と手間をかけ、金色がたっぷりの扁額です。親鸞聖人の鸞によく似た、随分難しい文字の落款がありました。

    イチオシ

    『正暾山』の山号が記された扁額の光景です。随分と手間をかけ、金色がたっぷりの扁額です。親鸞聖人の鸞によく似た、随分難しい文字の落款がありました。

  • 境内で咲いていた、濃い茜色の『アジサイ(紫陽花)』の花の光景です。今は梅雨時、紫陽花の花を町のあつらこちらで見掛ける時期です。

    境内で咲いていた、濃い茜色の『アジサイ(紫陽花)』の花の光景です。今は梅雨時、紫陽花の花を町のあつらこちらで見掛ける時期です。

  • 境内で咲いていた、白色に近い、薄紫色の紫陽花の光景です。薄く緑色が残っていますから、まだ咲き始めの花でした。

    境内で咲いていた、白色に近い、薄紫色の紫陽花の光景です。薄く緑色が残っていますから、まだ咲き始めの花でした。

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