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JR紀勢線ショートカットライン上を走る伊勢鉄道鈴鹿駅下車徒歩約20分、神戸高校に隣接する神戸城(かんべじょう・三重県鈴鹿市神戸本多町)は北伊勢の名門である亀山城主関盛政(せき・もりまさ)の長男盛澄(もりずみ)が正平22年(1360)に分家して沢城(神戸城の南西約500m)を築城して神戸氏と称し、同城は初代の盛澄以降4代具盛(とももり)と続き、天文年間(1532~1555)に具盛は現在の地に築城したと伝えられています。<br /><br />永禄10年(1567)伊勢侵攻を始めた織田信長は伊勢国に勢力を誇っていた北畠氏や神戸氏を降し、北畠氏には二男の織田信雄(おだ・のぶかつ)を、そして神戸氏には三男の織田信孝(おだ・のぶたか)を養子として送り込み事実上伊勢国を織田氏の統治に組み込みます。<br /><br />天正8年(1582)本能寺の変により信長が横死、秀吉が明智光秀を討って信長遺領を決める清須会議を開催、主導権を取った秀吉の意向により岐阜城に国替えとなりますが、秀吉に敵対する柴田勝家(しばた・かついえ、1522?~1583)、滝川一益(たきがわ・かずます、1525~1586)とともに反秀吉同盟を結び対抗します。<br /><br />しかしながら、賤ケ岳の戦いで柴田勝家が敗れ北ノ庄でお市の方と共に自害、頼みとする勝家滅亡後は秀吉に因果を含められた兄織田信雄によって知多半島内海にて信孝は自刃させられます。<br /><br />慶長5年(1600)関ケ原の戦いで西軍方に属した滝川雄利(たきがわ・かつとし、1543~1610)は改易、替って一柳直盛(ひとつやなぎ・なおもり、1564~1636)が5万石にて入部、寛永13年(1636)一柳氏の伊予国西条転封後は慶安3年(1650)石川総長(いしかわ・ふさなが、1605~1661)が入封して三代支配が続き、享保17年(1732)石川総茂(いしかわ・ふさしげ、1671~1733)が常陸国下館に転出すると本多忠統(ほんだ・ただむね、1691~1757)が河内国西代より1万5千石で転入し荒廃した神戸城の修復に務め以降7代に亘り小藩ながら維新まで支配が続きます。<br /><br /><br />本丸跡に建てられた説明板には次の通り紹介されています。<br /><br />「 神戸城跡 昭和十二年十二月十四日指定<br /><br />伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は南北朝時代(十四世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代1550年代にはこの地に神戸城を築いて移った。<br /><br />神戸氏七代目友盛は北伊勢に威を振ったが、信長軍侵攻により永禄11年(1568)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。<br /><br />信孝は天正8年(1580)ここに金箔の瓦を用いた五層の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後岐阜に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通じて天守閣は造られず石垣だけが残された。<br /><br />江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統が入国する。本多氏の治世140年間七代忠貫まで続き、明治8年(1875)城は解体される。<br /><br />その後は堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に非運の武将を偲ぶことができる。<br />                <br />                  鈴鹿市教育委員会」

伊勢鈴鹿 信長の北伊勢経略によって亀山城主関氏の庶流神戸氏は不本意ながら和議を結び迎え入れた三男信孝が整備拡張し天守を配した『神戸城』訪問

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2016/04/29 - 2016/04/29

244位(同エリア598件中)

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35

滝山氏照

滝山氏照さん

JR紀勢線ショートカットライン上を走る伊勢鉄道鈴鹿駅下車徒歩約20分、神戸高校に隣接する神戸城(かんべじょう・三重県鈴鹿市神戸本多町)は北伊勢の名門である亀山城主関盛政(せき・もりまさ)の長男盛澄(もりずみ)が正平22年(1360)に分家して沢城(神戸城の南西約500m)を築城して神戸氏と称し、同城は初代の盛澄以降4代具盛(とももり)と続き、天文年間(1532~1555)に具盛は現在の地に築城したと伝えられています。

永禄10年(1567)伊勢侵攻を始めた織田信長は伊勢国に勢力を誇っていた北畠氏や神戸氏を降し、北畠氏には二男の織田信雄(おだ・のぶかつ)を、そして神戸氏には三男の織田信孝(おだ・のぶたか)を養子として送り込み事実上伊勢国を織田氏の統治に組み込みます。

天正8年(1582)本能寺の変により信長が横死、秀吉が明智光秀を討って信長遺領を決める清須会議を開催、主導権を取った秀吉の意向により岐阜城に国替えとなりますが、秀吉に敵対する柴田勝家(しばた・かついえ、1522?~1583)、滝川一益(たきがわ・かずます、1525~1586)とともに反秀吉同盟を結び対抗します。

しかしながら、賤ケ岳の戦いで柴田勝家が敗れ北ノ庄でお市の方と共に自害、頼みとする勝家滅亡後は秀吉に因果を含められた兄織田信雄によって知多半島内海にて信孝は自刃させられます。

慶長5年(1600)関ケ原の戦いで西軍方に属した滝川雄利(たきがわ・かつとし、1543~1610)は改易、替って一柳直盛(ひとつやなぎ・なおもり、1564~1636)が5万石にて入部、寛永13年(1636)一柳氏の伊予国西条転封後は慶安3年(1650)石川総長(いしかわ・ふさなが、1605~1661)が入封して三代支配が続き、享保17年(1732)石川総茂(いしかわ・ふさしげ、1671~1733)が常陸国下館に転出すると本多忠統(ほんだ・ただむね、1691~1757)が河内国西代より1万5千石で転入し荒廃した神戸城の修復に務め以降7代に亘り小藩ながら維新まで支配が続きます。


本丸跡に建てられた説明板には次の通り紹介されています。

「 神戸城跡 昭和十二年十二月十四日指定

伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は南北朝時代(十四世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代1550年代にはこの地に神戸城を築いて移った。

神戸氏七代目友盛は北伊勢に威を振ったが、信長軍侵攻により永禄11年(1568)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。

信孝は天正8年(1580)ここに金箔の瓦を用いた五層の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後岐阜に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通じて天守閣は造られず石垣だけが残された。

江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統が入国する。本多氏の治世140年間七代忠貫まで続き、明治8年(1875)城は解体される。

その後は堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に非運の武将を偲ぶことができる。
                
                  鈴鹿市教育委員会」

旅行の満足度
4.0
交通手段
高速・路線バス JRローカル
  • 伊勢鉄道鈴鹿駅<br /><br />JR紀勢線のショートカットとして伊勢鉄道が走っており、名古屋~鳥羽を走る快速「三重」の停車駅として高架の鈴鹿駅があります。

    伊勢鉄道鈴鹿駅

    JR紀勢線のショートカットとして伊勢鉄道が走っており、名古屋~鳥羽を走る快速「三重」の停車駅として高架の鈴鹿駅があります。

  • 鈴鹿ガイドマップ<br /><br />鈴鹿駅から西方に市役所を経て神戸城跡に進みます。

    鈴鹿ガイドマップ

    鈴鹿駅から西方に市役所を経て神戸城跡に進みます。

  • 旧制神戸中学校正門

    旧制神戸中学校正門

  • 旧制神戸中学校正門説明板

    旧制神戸中学校正門説明板

  • 神戸城跡二の丸・三の丸跡<br /><br />廃城に伴い現在では二の丸及び三の丸の殆どが神戸高校の敷地となっています。

    神戸城跡二の丸・三の丸跡

    廃城に伴い現在では二の丸及び三の丸の殆どが神戸高校の敷地となっています。

  • 神戸公園入口

    神戸公園入口

  • 神戸城址石標

    神戸城址石標

  • 神戸城跡天守台跡

    神戸城跡天守台跡

  • 神戸城跡説明板

    神戸城跡説明板

  • 神戸城跡天守台石垣

    イチオシ

    神戸城跡天守台石垣

  • 天守台跡

    天守台跡

  • 天守台跡

    天守台跡

  • 本丸跡風景<br /><br />天守台から本丸広場を一望します。

    本丸跡風景

    天守台から本丸広場を一望します。

  • 天守台石垣

    天守台石垣

  • 神戸城公園風景

    神戸城公園風景

  • 神戸城跡水堀

    神戸城跡水堀

  • 内堀渡橋<br /><br />内堀を繋ぐ朱色に染められた復元渡橋が配されています。

    内堀渡橋

    内堀を繋ぐ朱色に染められた復元渡橋が配されています。

  • 神戸城内堀風景

    神戸城内堀風景

  • 神戸城復元渡橋

    神戸城復元渡橋

  • 神戸城跡本丸石垣

    神戸城跡本丸石垣

  • 神戸城跡本丸土塁<br /><br />天守台から南方向に残っている土塁が東西に走っています。

    神戸城跡本丸土塁

    天守台から南方向に残っている土塁が東西に走っています。

  • 本丸跡広場<br /><br />本丸南側に築かれた土塁から広場を通して天守台方向を一望します。

    本丸跡広場

    本丸南側に築かれた土塁から広場を通して天守台方向を一望します。

  • 本丸土塁<br /><br />本丸南側には土塁が1.5mの幅を以て東西に走っています。

    本丸土塁

    本丸南側には土塁が1.5mの幅を以て東西に走っています。

  • 神戸城公園風景<br /><br />公園として堀と散歩道が見事に整備されています。

    神戸城公園風景

    公園として堀と散歩道が見事に整備されています。

  • 神戸城公園<br /><br />整備された散歩道と水堀を通して本丸石垣が東西に築かれています。

    神戸城公園

    整備された散歩道と水堀を通して本丸石垣が東西に築かれています。

  • 二の丸・三の丸跡<br /><br />かつての神戸城の二の丸並びに三の丸が現在で神戸高校の敷地となっており、往時の城郭とは程遠い風景です。

    二の丸・三の丸跡

    かつての神戸城の二の丸並びに三の丸が現在で神戸高校の敷地となっており、往時の城郭とは程遠い風景です。

  • 神戸城天守台跡石垣

    神戸城天守台跡石垣

  • 二の丸・三の丸跡<br /><br />今では市街化され、神戸高校の敷地と化した二の丸・三の丸跡には何ら遺構は残されていません。

    二の丸・三の丸跡

    今では市街化され、神戸高校の敷地と化した二の丸・三の丸跡には何ら遺構は残されていません。

  • 神戸城本丸天守台石垣<br /><br />野面積みという素朴で逞しい石積みが印象的です。

    神戸城本丸天守台石垣

    野面積みという素朴で逞しい石積みが印象的です。

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