2016/04/29 - 2016/04/29
173位(同エリア315件中)
滝山氏照さん
JR津駅より山交バス10分三重会館下車徒歩5分、津城(三重県津市丸之内本丸)は外様大名ながら徳川家康から絶大な信任を受けていた築城の名人として広く知られている藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)が伊勢・伊賀を支配する領主となり伊賀上野城を支城とし城代を置く一方津城を本城とした平城です。
高虎は弘治2年(1556)近江国藤堂村出身で浅井長政のもと姉川の戦いで足軽として初陣、その後は主君を変えて羽柴秀長に見込まれ300石で召し抱えら、秀長に従い数々の合戦で武勲をあげます。
秀長病死後は豊臣秀吉に仕え、秀吉亡き後は徳川家康を主君として数多くの合戦で戦功をあげ更なる信頼を得るなか持ち前の築城技術を発揮し外様大名ながら家康の側近として活躍します。
慶長13年(1608)家康命によって豊臣方動向を監視するとして伊勢国一部・伊賀国の領主として初代藩主となり20万石(最終的に32万4千石)の大名の地位に上り詰め、以降藤堂氏の津藩は改易されることなく明治維新を迎えるまで260年間続きます。
津駅観光案内所で入手した「津城跡」と題するパンフレット(津市教育委員会、平成23年9月21日刊行)には詳細に亘り説明されています。(一部掲載省略)
「【津城の成立】
織田信長による伊勢侵攻に伴い、上野城(河芸町上野)に本拠を構えていた弟の織田信包は低湿地であった安濃川下流のデルタ地帯に新たに城を築きます。
天正8年(1580)に完成したこの城が津城のルーツとなります。ここは、北を安濃川、南を岩田川の両河川に挟まれた場所で、戦略的には防御を重点を置いた城といえます。
城の設計図である「縄張図」や、当時の状況がわかる遺構は今に残りませんが、江戸時代に描かれた天正期とされる絵図には、現在の津城石垣に近い描写や、江戸時代以降の津城には存在しない「局丸」などが描かれ、その歴史を探る上で貴重な資料となっています。
【富田氏の治世】
信包退去後の津城には富田氏が入ります。
富田知信・信高の親子二代にわたる治世は関ケ原の戦いを挟んだ約20年間に及び、慶長13年(1608)の藤堂高虎の入府によって城主が替るまで続きました。
富田氏時代の津城の事蹟としては、関ケ原の戦いの前哨戦として、西軍の毛利秀元ら3万余りの大軍に包囲された「安濃津城籠城戦」が有名です。1700人程度と言われる城兵の八割近くが津町の義勇兵で、富田氏家臣団だけでなく町民も籠城して戦った津町の総力戦でした。
この時、徳川方に与していた信高は、「会津攻め」で上杉氏討伐のために不在で、若武者緋威の具足に兜の緒を締めて勇敢に戦ったといわれる夫人(宇喜多忠家の娘)の武勇伝が残っています。大軍相手に落城することなく、和睦して開城した信高は、一身田の専修寺から高野山に入り、その後の関ケ原の戦いの東軍勝利を受けて敗走した西軍に替わり津城に復帰します。
しかし、この戦いで津町のほとんどが灰燼に帰し、津の町は壊滅的な打撃を受けました。
【藤堂高虎の入府】
慶長13年(1608)、将軍徳川家康の命により、藤堂高虎が伊予国今治から伊勢・伊賀の領主としてこの地に入ります。幕府が開かれて5年過ぎたこの頃も、大坂には依然として大きな力を持った豊臣家が続いており、幕府の支配が確立・安定していたとはいえません。家康は、豊臣方の監視の役割を担わせるため、高虎をその最前線の伊勢・伊賀両国に配置したと考えられます。外様大名でありながら、将軍家康からの厚い信望を得た高虎は、20万石の石高を持つ大名として両国を支配することになります。
【高虎による城の整備】
慶長16年(1611)になって、幕府の命による各地の諸城修築に携わってきた高虎が、自らの居城である津城と伊賀上野城の修築に着手します。
津城の修築は、単に城の修理にとどまらず、城下町を含めた新たな津の街の建設にほかならないものでした。
高虎の津城修築はは、本丸を東と北に拡充して高い石垣を構築し、北側石垣の両端(丑寅・戌亥の方角)に三重櫓を新設し、本丸周囲を櫓と多聞櫓で囲んだ戦略性の高い城郭としました。また、東西の内堀の中に東之丸と西之丸の郭を設け、本丸への出入口となる場所には堅牢な鉄門を設けています。内堀は広く、その外側の二之丸には役所や重臣の屋敷を配し、更にその外周に外堀を巡らせる構造としました。
城下町は、それまで海岸沿いに通っていた参宮街道を城下に引き入れて東側の外堀に沿うように城下を通し、往来する人々の流れを作り出し、城下町であるとともに宿場町としての整備を進めて町の活性化を図りました。
津城の最大の特徴は、本丸北側に残る石垣に代表される直線的な稜線を持った石垣と、幅の広い内堀です。これは高虎の城づくりの特徴とも言えるもので、石垣の上に建つ白壁の櫓が堀の水面に映える姿は、まさしく「水堀」と言える姿でしょう。
今は北側にわずかに内堀が残るのみとなっていますが、かつては本丸を取り囲んでいたその規模は、最も広い南側(現在の津警察署付近)で100mほどの幅がありました。
【堀と石垣】
津城を特徴づける堀は、たいへん広い幅を持って本丸を囲む内堀と、その外側の二之丸の周囲を巡る外堀の二重構造になっています。まるで「回」の字のように、本丸を中心として巡らされていました。更にその外側には「天然の堀」ともいえる安濃川と岩田川が城の北と南を流れています。安濃川下流域で海に近い低湿地にある津城の地理的な環境を利用し、人工的な二重の堀に加えて、河川をを城の防御施設として取り込んだ高虎の巧みな築城術が目を引きます。特に、南側の岩田川と外堀を繋ぎ、満潮時には海水も入るようにしたところは「鯔堀」と呼ばれ、海魚が堀の水面を跳ねる姿をとらえた名前となって入ます。
また、石垣にはその構築方法によって時期差が認められます。天守台にはやや古い築造を示す石積みが残りますが、基本的には「打込接(うちこみはぎ)」と呼ばれる接合面を打ち欠いで石材同士の接点を増やし、空いた所に石(間詰石)を込めます。石垣の隅部分には「算木積(さんきづみ)」と呼ばれる長方形の石材と長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を持たせた積み方が用いられています。」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル
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津城内堀石垣
国道23号(伊勢街道)と県道42号の交差点は津城の北東隅にあたり交差点に面した百五銀行の建物脇には内堀石垣の一部が保存されています。 -
説明板
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津城隅櫓
昭和33年に戦後復興のシンボルとして建設された模擬隅櫓は公園化された津城の顔となっています。 -
津城丑寅三重櫓跡
北側の丑寅三重櫓跡から模擬隅櫓を捉えます。 -
北側石垣と内堀
往時はこの石垣に沿って東に丑寅三重櫓が西に戌亥三重櫓が配されその間は多聞櫓が軒を連ね、平時は物資の倉庫として使われていたそうです。 -
北多聞櫓説明
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お城公園入口
外堀は埋められ城郭規模は縮小現在では整備され公園となっています。 -
東鉄門(ひがしくろがねもん)枡形
津城本丸の東側に位置する虎口で外門の東黒門、内門の東鉄門からなる枡形で、それぞれの門では通行人を監視していました。 -
東黒鉄門枡形説明
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丸の内本丸
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津城跡説明板
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津城本丸跡
本丸には中部に噴水が設置されすっかり公園化された状態となっています。 -
藤堂高虎騎馬像
前知行地の四国今治城にも高虎の乗馬姿の像が配されています。 -
藤堂高虎説明板
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津城本丸跡
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伊勢街道説明板
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天守台裏側
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天守台石垣
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本丸石垣
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本丸石垣
石垣のしたの広場は児童公園となりさまざまな施設が設置されています。 -
本丸内堀
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西ノ丸内堀
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高山神社入口
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西ノ丸南西内堀
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西ノ丸方向
土橋を渡って西ノ丸へ進みます。 -
内堀風景
土橋から東側の内堀を一望します。 -
西ノ丸虎口
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二ノ丸庭園
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津城跡説明板
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入徳門
文政3年(1820)第十代藩主は藩士やその子弟を教育するためとして藩校として有造館を創設し、その講堂の正門がこの門でした。 -
入徳門説明
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本丸跡庭園
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本丸西面石垣
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西鉄門跡虎口
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西鉄門虎口説明
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戌亥三層櫓跡
本丸西側石垣と北側石垣を内側から捉えます。隅櫓として戌亥三層櫓があったとされます。 -
本丸北面石垣内側
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高山神社
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高山神社説明板
「 高山神社
当神社の御祭神は、津藩の藩主で、つのまちを拓かれ津市民の御祖神(みおやかみ)仰き敬まわれておいでの藤堂高虎公であります。高虎公は外様大名ながら家康公の特に信任厚い側近として、後世に残る数々の偉業をなしとげ武将としては戦国の世を連戦、連勝、負け戦しらずで通し満身創痍ながらも75年にわたる輝かしい生涯を終えられました。
御祭神のこの恩頼(みたまのふゆ)をお授けいただくため毎月5日(祭神のご命日に因んで)には開運除災・長寿招福の特別祈願を斎行いたしております。
詳しいことは社務所 TEL225ー8558
FAX 同 上
お問い合わせ下さい 」 -
絵馬説明
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高山神社拝殿
明寺9年(1876)の創始で、当初は安濃郡下部田村広明(現津市)の八幡神社境内に在った物を明治36年(1903)に津城跡の本丸跡に遷宮、昭和20年(1945)の空襲で社殿は全焼、その後復興するも昭和44年(1969)公園整備のため、本丸跡から内堀埋立地の現在地に移された経緯があります。 -
高山神社拝殿内部
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高山神社扁額
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高虎
出世酒として「高虎」と銘打つ一斗樽が拝殿に献上されています。 -
境内風景
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高山神社石標
石碑に彫られた記事によれば藤堂高虎を祭神とし、社名は高虎の諡(おくりな)に由来するとのことです。明治10年の創始で津城本丸から戦後現在の地に移されたそうです。
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