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JR参宮線田丸駅より徒歩10分、田丸城(たまるじょう、三重県度会郡玉城町田丸)は南北朝時代に吉野にて足利尊氏と対峙した後醍醐天皇の重臣の一人で、南朝の正当性を述べた「神皇正統記」著書で有名な北畠親房(きたばたけ・ちかふさ、1293~1354)及び顕信(あきのぶ、1320?~1380?)により築城された平山城です。<br /><br />当然ながら南朝の拠点は大和国吉野にあり、その吉野と伊勢神宮外港とを結ぶ経路上にあった田丸城は戦略上重要拠点となっていました。<br /><br />やがて南北朝が和解した後は室町幕府の体制に組み込まれ伊勢国守護大名として生き延びたものの、戦国時代には織田信長の伊勢侵攻により当主北畠具房(きたばたけ・ともふさ、1547~1580)は降伏、信長は無継嗣の具房に二男の信雄(のぶかつ、1558~1630)を養子として送り込み、天正3年(1575)家督を継がせて事実上北畠氏を奪取します。<br /><br />家督を相続した信雄はそれまでの大河内城から田丸城へ移り本拠とし三層の天守を設けるなど城郭を拡充すると共に北畠一族に対し謀略を図って殺害し自らの権力基盤を強めてゆきます。<br /><br />天正10年(1582)織田信長が明智光秀によって討たれた後、羽柴秀吉が光秀を討ち、信長亡き後の清須会議では遺領配分は信雄は尾張・伊賀・南伊勢の約100万石を相続するも天正18年(1590)小田原征伐後の論功行賞において家康の旧領へ移封を拒否した事で秀吉の逆鱗に触れ改易の憂き目に遭います。<br /><br />その後田丸城は津藩主である藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)の支配を経て徳川御三家のひとつである紀伊徳川氏の所領となり、付家老の久野宗城(くの・むねなり、1582~1625)は駿府藩主であった徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)が紀伊に転封となると1万石を以て熊野地域の押さえとして田丸城の城代を勤め代々の支配が明治維新まで続きます。<br /><br /><br />現地の説明板によれば次の内容が記されています。<br /><br />「三重県指定 史跡 田丸城跡<br /><br />田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得て、この玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。<br /><br />南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。<br /><br />室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として、伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長に次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年には、この天守閣は炎上した。<br /><br />江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に解放された。<br /><br />                平成7年3月 玉城町 」

伊勢田丸 後醍醐天皇重臣の北畠親房父子が国司を配して築いた中世城郭が戦国時代には近世城郭として信長二男織田信雄の居城となった『田丸城』訪問

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2016/04/29 - 2016/04/29

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98

滝山氏照

滝山氏照さん

JR参宮線田丸駅より徒歩10分、田丸城(たまるじょう、三重県度会郡玉城町田丸)は南北朝時代に吉野にて足利尊氏と対峙した後醍醐天皇の重臣の一人で、南朝の正当性を述べた「神皇正統記」著書で有名な北畠親房(きたばたけ・ちかふさ、1293~1354)及び顕信(あきのぶ、1320?~1380?)により築城された平山城です。

当然ながら南朝の拠点は大和国吉野にあり、その吉野と伊勢神宮外港とを結ぶ経路上にあった田丸城は戦略上重要拠点となっていました。

やがて南北朝が和解した後は室町幕府の体制に組み込まれ伊勢国守護大名として生き延びたものの、戦国時代には織田信長の伊勢侵攻により当主北畠具房(きたばたけ・ともふさ、1547~1580)は降伏、信長は無継嗣の具房に二男の信雄(のぶかつ、1558~1630)を養子として送り込み、天正3年(1575)家督を継がせて事実上北畠氏を奪取します。

家督を相続した信雄はそれまでの大河内城から田丸城へ移り本拠とし三層の天守を設けるなど城郭を拡充すると共に北畠一族に対し謀略を図って殺害し自らの権力基盤を強めてゆきます。

天正10年(1582)織田信長が明智光秀によって討たれた後、羽柴秀吉が光秀を討ち、信長亡き後の清須会議では遺領配分は信雄は尾張・伊賀・南伊勢の約100万石を相続するも天正18年(1590)小田原征伐後の論功行賞において家康の旧領へ移封を拒否した事で秀吉の逆鱗に触れ改易の憂き目に遭います。

その後田丸城は津藩主である藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)の支配を経て徳川御三家のひとつである紀伊徳川氏の所領となり、付家老の久野宗城(くの・むねなり、1582~1625)は駿府藩主であった徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)が紀伊に転封となると1万石を以て熊野地域の押さえとして田丸城の城代を勤め代々の支配が明治維新まで続きます。


現地の説明板によれば次の内容が記されています。

「三重県指定 史跡 田丸城跡

田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得て、この玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。

南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。

室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として、伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長に次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年には、この天守閣は炎上した。

江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に解放された。

                平成7年3月 玉城町 」

旅行の満足度
4.5
交通手段
高速・路線バス JRローカル
  • 熊野街道・伊勢街道標柱<br /><br />熊野街道と伊勢街道が交差する交通の要地であったことが示されています。

    熊野街道・伊勢街道標柱

    熊野街道と伊勢街道が交差する交通の要地であったことが示されています。

  • 田丸城堀

    田丸城堀

  • 田丸城石垣

    田丸城石垣

  • 田丸城内堀

    田丸城内堀

  • 田丸城大手門通り

    田丸城大手門通り

  • 大手橋<br /><br />外堀に掛かる橋を渡って田丸城に進みます。

    大手橋

    外堀に掛かる橋を渡って田丸城に進みます。

  • 大手門橋

    大手門橋

  • 玉城町庁舎<br /><br />城内に町庁舎が配され大手門橋を越えた右側建物が庁舎となります。<br />

    玉城町庁舎

    城内に町庁舎が配され大手門橋を越えた右側建物が庁舎となります。

  • 大手道

    大手道

  • 大手道石垣

    大手道石垣

  • 大手道石垣

    大手道石垣

  • 本丸方向<br /><br />突き当りを左斜め上ると本丸虎口となります。

    本丸方向

    突き当りを左斜め上ると本丸虎口となります。

  • 「田丸の町並」説明板

    「田丸の町並」説明板

  • 田丸城内堀

    田丸城内堀

  • 田丸城略史説明板<br /><br />「 玉丸城略史<br /><br />田丸(玉丸)城は延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野還幸のとき北畠親房がこれに呼応挙兵するため南勢の拠点として築いたものである。<br /><br />神領を領有するため南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦をくりかえしたが合一の後は北畠氏一族がここに居住、丸玉御所となった。<br /><br />室町末期、織田信長が伊勢攻略の時、次男信雄を伊勢国司北畠氏の養子として和睦、南勢五郡を制し、天正3年(1575)冬、信雄は大河内城から田丸城に移った。この時、田丸城を大修築し、三層天守閣を築き現在の規模を整えたが火災により天守を焼失、信雄は松ヶ島城に移った。以後、稲葉氏、藤堂氏、久野氏がこれを領したが明治維新、廃城により御料林(国有地)に編入。<br /><br />昭和3年5月にいたり村山龍平氏(旧田丸領士族・朝日新聞創始者)の篤志により旧田丸町所有地となり城山公園として、これを開放した。<br /><br />当城はいわゆる平山城の初期のものの一つであり、昭和28年三重県文化史跡に指定され、石塁など昔日の面影を今に伝え絶得ることなく現代につながる貴重な城跡である。<br />       平成8年3月<br />                     玉城町 」<br />        

    田丸城略史説明板

    「 玉丸城略史

    田丸(玉丸)城は延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野還幸のとき北畠親房がこれに呼応挙兵するため南勢の拠点として築いたものである。

    神領を領有するため南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦をくりかえしたが合一の後は北畠氏一族がここに居住、丸玉御所となった。

    室町末期、織田信長が伊勢攻略の時、次男信雄を伊勢国司北畠氏の養子として和睦、南勢五郡を制し、天正3年(1575)冬、信雄は大河内城から田丸城に移った。この時、田丸城を大修築し、三層天守閣を築き現在の規模を整えたが火災により天守を焼失、信雄は松ヶ島城に移った。以後、稲葉氏、藤堂氏、久野氏がこれを領したが明治維新、廃城により御料林(国有地)に編入。

    昭和3年5月にいたり村山龍平氏(旧田丸領士族・朝日新聞創始者)の篤志により旧田丸町所有地となり城山公園として、これを開放した。

    当城はいわゆる平山城の初期のものの一つであり、昭和28年三重県文化史跡に指定され、石塁など昔日の面影を今に伝え絶得ることなく現代につながる貴重な城跡である。
           平成8年3月
                         玉城町 」
            

  • 田丸城跡大手門<br /><br />田丸城址石標が建っている大手門が現れます。

    田丸城跡大手門

    田丸城址石標が建っている大手門が現れます。

  • 田丸城廓之図

    イチオシ

    田丸城廓之図

  • 二の門跡

    二の門跡

  • 代官屋敷跡

    代官屋敷跡

  • 田丸城跡説明板

    田丸城跡説明板

  • 田丸城跡写真・縄張図

    田丸城跡写真・縄張図

  • 三の丸跡<br /><br />現在は玉城中学校の校舎が建っています。<br /><br />

    三の丸跡

    現在は玉城中学校の校舎が建っています。

  • 本丸虎口

    本丸虎口

  • 田丸城本丸虎口説明板

    田丸城本丸虎口説明板

  • 虎口

    虎口

  • 「門の礎石と石列」説明板

    「門の礎石と石列」説明板

  • 虎口<br /><br />正面は低い石垣で塞がれており、本丸側の段に上がるには低い石垣に沿って進みます。

    虎口

    正面は低い石垣で塞がれており、本丸側の段に上がるには低い石垣に沿って進みます。

  • 虎口

    虎口

  • 本丸石垣<br /><br />見事な野面積みの石垣が並んでいます。

    本丸石垣

    見事な野面積みの石垣が並んでいます。

  • 堀切<br /><br />本丸と北の丸を遮断する堀切が認められます。(本丸見学後改めて確認したい)

    堀切

    本丸と北の丸を遮断する堀切が認められます。(本丸見学後改めて確認したい)

  • 本丸虎口と門

    本丸虎口と門

  • 本丸虎口と門説明板

    本丸虎口と門説明板

  • 本丸虎口<br /><br />虎口に設置の門の礎石跡が認められます。

    本丸虎口

    虎口に設置の門の礎石跡が認められます。

  • 礎石跡<br /><br />虎口に設置された門の礎石跡が示されています。

    礎石跡

    虎口に設置された門の礎石跡が示されています。

  • 本丸跡<br /><br />

    本丸跡

  • 天守台跡<br /><br />本丸の北の丸側に近い奥に石垣で覆われた天守台が認められます。

    天守台跡

    本丸の北の丸側に近い奥に石垣で覆われた天守台が認められます。

  • 村山龍平翁歌碑<br /><br />本丸入ってすぐ右側に朝日新聞創設の村山龍平翁自筆の歌碑が建っています。

    村山龍平翁歌碑

    本丸入ってすぐ右側に朝日新聞創設の村山龍平翁自筆の歌碑が建っています。

  • 村山龍平翁歌碑

    村山龍平翁歌碑

  • 村山龍平翁説明板<br /><br />国から払下げた田丸城地を買い取り町に寄付した翁として記されています。

    村山龍平翁説明板

    国から払下げた田丸城地を買い取り町に寄付した翁として記されています。

  • 小和田哲男氏記念植樹<br /><br />静岡大学教授で歴史学者である小和田哲男氏の記念植樹が認められます。

    小和田哲男氏記念植樹

    静岡大学教授で歴史学者である小和田哲男氏の記念植樹が認められます。

  • 櫓跡

    櫓跡

  • 市街展望<br /><br />櫓台跡から市街を一望します。<br /><br />

    市街展望

    櫓台跡から市街を一望します。

  • 本丸風景<br /><br />櫓台跡から本丸石垣を見据えます。

    本丸風景

    櫓台跡から本丸石垣を見据えます。

  • 天守台<br /><br />本丸の奥に配された天守台石垣が認められます。

    天守台

    本丸の奥に配された天守台石垣が認められます。

  • 天守台跡<br /><br />天守台へは石垣で造られた中央部の石段を上がって行きます。

    天守台跡

    天守台へは石垣で造られた中央部の石段を上がって行きます。

  • 天守台跡<br /><br />跡地の周囲はコの字形に1mほどの高さで更に石垣が積まれています。<br /><br />

    天守台跡

    跡地の周囲はコの字形に1mほどの高さで更に石垣が積まれています。

  • 天守台跡<br /><br />コの字形に積まれた石垣には奥に配された石段を利用します。

    天守台跡

    コの字形に積まれた石垣には奥に配された石段を利用します。

  • 天守台跡<br /><br />

    天守台跡

  • 天守台跡

    天守台跡

  • 北の丸方向<br /><br />天守台跡の奥から北の丸方向を望みます。

    北の丸方向

    天守台跡の奥から北の丸方向を望みます。

  • 玉城中学校校舎<br /><br />天守台跡から本丸虎口と共に三の丸跡に建てられた玉城中学校校舎を一望します。

    玉城中学校校舎

    天守台跡から本丸虎口と共に三の丸跡に建てられた玉城中学校校舎を一望します。

  • 天守台跡<br /><br />天守台後方の石積み部から石段方向を捉えます。

    天守台跡

    天守台後方の石積み部から石段方向を捉えます。

  • 市街展望<br /><br />天守台石積み部から再度市街風景を捉えます。

    市街展望

    天守台石積み部から再度市街風景を捉えます。

  • 二の丸方向<br /><br />本丸跡の東側には二の丸が広がっています。

    二の丸方向

    本丸跡の東側には二の丸が広がっています。

  • 二の丸方向<br /><br />

    二の丸方向

  • 堀切<br /><br />本丸と二の丸とは敵の進攻を抑止する堀切となっており、土橋のみ通行することができます。

    堀切

    本丸と二の丸とは敵の進攻を抑止する堀切となっており、土橋のみ通行することができます。

  • 堀切<br /><br />土橋から右側を見ると本丸と二の丸が遮断される空堀が見て取れます。

    堀切

    土橋から右側を見ると本丸と二の丸が遮断される空堀が見て取れます。

  • 堀切<br /><br />左側を見れば空堀の先は玉城中学校のグランドと繋がっています。

    堀切

    左側を見れば空堀の先は玉城中学校のグランドと繋がっています。

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 搦手門通路<br /><br />大手門に対して裏門に相当する搦手門への通路と思われます。

    搦手門通路

    大手門に対して裏門に相当する搦手門への通路と思われます。

  • 二の丸富士見台<br /><br />中学校寄りの地に高台が認められます。

    二の丸富士見台

    中学校寄りの地に高台が認められます。

  • 富士見台近景<br /><br />高台は富士見台と称され物見の設備があったようです。

    富士見台近景

    高台は富士見台と称され物見の設備があったようです。

  • 二の丸風景

    二の丸風景

  • 三の丸虎口<br /><br />二の丸と三の丸とを繋ぐ虎口で富士見門を経て往来があったと思われます。

    三の丸虎口

    二の丸と三の丸とを繋ぐ虎口で富士見門を経て往来があったと思われます。

  • 玉城中学校グランド

    玉城中学校グランド

  • 本丸虎口<br /><br />本丸側より虎口を窺います。

    本丸虎口

    本丸側より虎口を窺います。

  • 野面積み石垣

    野面積み石垣

  • 北の丸堀切<br /><br />本丸から北の丸へは堀切で遮断され僅かに土橋で渡れるようになっています。

    北の丸堀切

    本丸から北の丸へは堀切で遮断され僅かに土橋で渡れるようになっています。

  • 城山稲荷神社鳥居<br /><br />鈎型の食い違いとなっている堀切を過ぎると、現在は城山稲荷神社となっている北の丸に入ります。

    城山稲荷神社鳥居

    鈎型の食い違いとなっている堀切を過ぎると、現在は城山稲荷神社となっている北の丸に入ります。

  • 北の丸跡案内板<br /><br />

    北の丸跡案内板

  • 北の丸跡土塁<br /><br />周囲には北の丸を取り囲む土塁が巡らされています。

    北の丸跡土塁

    周囲には北の丸を取り囲む土塁が巡らされています。

  • 奉納された鳥居

    奉納された鳥居

  • 城山稲荷神社拝殿<br /><br />現在業者によって修復作業が行われています。

    城山稲荷神社拝殿

    現在業者によって修復作業が行われています。

  • 城山稲荷神社本殿

    城山稲荷神社本殿

  • 北の丸堀底<br /><br />城山稲荷神社本殿の背後の北端は急峻な堀底となっていますが、当時は城郭を取り囲んた水堀の一部と思われます。

    北の丸堀底

    城山稲荷神社本殿の背後の北端は急峻な堀底となっていますが、当時は城郭を取り囲んた水堀の一部と思われます。

  • 北の丸堀底

    北の丸堀底

  • 北の丸堀底

    北の丸堀底

  • 城山稲荷神社境内風景

    城山稲荷神社境内風景

  • 本丸「打込みハギ」石垣<br /><br />画面左側石垣は形状から見れば「全体的に打込みハギ」と思われ、一度「野面積」にて積まれた石垣がその後積み直しをした際「打込みハギ」を取り入れたものと思われます。

    本丸「打込みハギ」石垣

    画面左側石垣は形状から見れば「全体的に打込みハギ」と思われ、一度「野面積」にて積まれた石垣がその後積み直しをした際「打込みハギ」を取り入れたものと思われます。

  • 本丸「野面積」石垣<br /><br />他面の「打ち込ハギ」石垣と比較すれば主として初歩的な「野面積」となっており、南北朝から戦国時代初期に積まれたものと思われます。<br />

    本丸「野面積」石垣

    他面の「打ち込ハギ」石垣と比較すれば主として初歩的な「野面積」となっており、南北朝から戦国時代初期に積まれたものと思われます。

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 堀切<br /><br />本丸(右側)と北の丸(左側)を隔てる堀切から石段を下りて堀底に出られすます。

    堀切

    本丸(右側)と北の丸(左側)を隔てる堀切から石段を下りて堀底に出られすます。

  • 堀切<br /><br />本丸(手前)と北の丸(向う側)をわけ隔てる長い堀切が走り、その先の水堀まで達していたと思われます。

    堀切

    本丸(手前)と北の丸(向う側)をわけ隔てる長い堀切が走り、その先の水堀まで達していたと思われます。

  • 三の丸井戸水源<br /><br />三の丸跡は玉城中学校敷地に相当しここには「金明水・銀明水」と称する井戸水源があったとする標柱が見られます。

    三の丸井戸水源

    三の丸跡は玉城中学校敷地に相当しここには「金明水・銀明水」と称する井戸水源があったとする標柱が見られます。

  • 二の丸石垣<br /><br />玉城中学校グランドから二の丸石垣を捉えます。当時は三の丸から富士見門を経て二の丸へ繋がっていたと思われます。

    二の丸石垣

    玉城中学校グランドから二の丸石垣を捉えます。当時は三の丸から富士見門を経て二の丸へ繋がっていたと思われます。

  • 富士見門(長屋門)<br /><br />当該門は田丸城にあった8つの城門のうちのひとつで、二の丸と三の丸とを繋ぐ場所に設置されていました。明治初年に民間に移されたものを昭和59年に町が譲り受け当地に移築復元されたものです。

    富士見門(長屋門)

    当該門は田丸城にあった8つの城門のうちのひとつで、二の丸と三の丸とを繋ぐ場所に設置されていました。明治初年に民間に移されたものを昭和59年に町が譲り受け当地に移築復元されたものです。

  • 富士見門(長屋門)説明板

    富士見門(長屋門)説明板

  • 蓮池跡<br /><br />かつての池は現在よりも規模が大きかった、あるいは外堀と繋がっていたのかもしれません。<br />

    蓮池跡

    かつての池は現在よりも規模が大きかった、あるいは外堀と繋がっていたのかもしれません。

  • 北の丸内堀<br /><br />かつては城郭を取り囲む水堀で、廃城後は堀は埋め立てられたと思われます。

    北の丸内堀

    かつては城郭を取り囲む水堀で、廃城後は堀は埋め立てられたと思われます。

  • 北の丸外堀跡<br /><br />内側の水堀を二重に取り囲む外堀が廃城後は一部埋め立てられ道路と化したと思われます。<br /><br />

    北の丸外堀跡

    内側の水堀を二重に取り囲む外堀が廃城後は一部埋め立てられ道路と化したと思われます。

  • 北の丸外堀跡

    北の丸外堀跡

  • 北の丸内堀跡<br /><br />

    北の丸内堀跡

  • 北の丸外堀跡<br /><br />一部の外堀には水が流れておりかつての水堀の雰囲気が出ています。

    北の丸外堀跡

    一部の外堀には水が流れておりかつての水堀の雰囲気が出ています。

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