2016/04/10 - 2016/04/11
286位(同エリア612件中)
経堂薫さん
江戸時代の日本には徳川将軍家を筆頭に三百諸侯のお殿様がおりました。
その数だけお城や御殿や陣屋があり、周辺に城下町が広がっていました。
お城を中心に構築された“小宇宙”城下町を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)だけで訪ね歩く旅。
今回は豊前・豊後の二国(現在の大分県)に割拠する城下町を巡りました。
その一カ所目は大分県と福岡県の県境にある海沿いの町、中津。
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の舞台の一つとなりました。
その黒田“如水”官兵衛が開き、後を受けた細川“三斎”忠興が築き、奥平家が150年にわたって治めた町。
シンボル中津城に登れば、黒田官兵衛が描いた天下統一への夢が見えるよう。
また、中津は蘭学と医学の町でもあります。
市内には医学の史料館が2つもあり、日本の近代医学が花開いてゆく過程が学べます。
そして中津といえば(?)福沢諭吉。
彼自身は中津に思い入れがあったどうか知りませんが、中津側は熱烈ラブコール!
少年時代を過ごした旧居が保存され、隣には業績を一望できる記念館が立ってます。
さらに中津の名物料理といえば鱧(はも)と唐揚げ。
戦国ロマンと維新の息吹に触れ、ご当地グルメを味わう…そんな旅です。
【中津藩】
[大名]黒田家→細川家→小笠原家→奥平家
[石高]十万石
[分類]譜代
[格]城主
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- じゃらん
PR
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羽田空港を8時ごろ飛び立ったJAL661便は9時半過ぎ、大分空港へ到着した。
初めての大分空港、思ったよりこじんまりしている印象だ。
空港バスの出発まで時間があったのでビル内をウロウロ。
1階が到着ロビーで2階が出発ロビー。
出発ロビーではカフェテリアが営業中。
3階のレストラン街は4軒あるうち2軒のみ営業。
店頭のガラスケースにある特産品メニューが旨そう。
その先の扉を出ると展望デッキ。
駐機中の旅客機を暫し眺める。大分空港 空港
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10時20分、中津行きの空港バスに乗車。
大分交通の子会社、大交北部バスが運行している。
乗客は他に数人しかおらず、リストラによる分社化も頷ける話だ。
かつてアクセス交通としてホバークラフトが大分空港と大分市や別府市を結んでいた。
一度乗りたいと思っていたのだが、残念ながら2009年に廃止されてしまった。
しかしバスですらこれほど利用者が少ないのだ。
ホバークラフトの廃止もやむを得なかったことかもしれない。大分空港アクセスバス (大分交通) 乗り物
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車窓に広がる農地は稲田ではなく、一面の麦畑。
青々とした穂が実をつけている。
さすが麦焼酎の本場だけあるなと感心。
空港バスは豊後高田、宇佐神宮を経由していく。
宇佐神宮、さすが八幡宮の総本社だけ立派な出で立ち。
またいつか訪れよう。
やがてバスは中津市内へ。
郊外のロードサイドは、どこも似たような風景が広がる。
西松屋、すき家、ココイチ、吉野家…。
全国チェーン店が幅を利かせ、利益を中央へと簒奪していく。
そんな風景に辟易しているうち、正午過ぎに中津駅へ到着した。中津駅 (大分県) 駅
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駅構内には名店街があり、お土産品などを販売している。
そこに映画のポスターが貼ってあった。
「サブイボマスク」。
寂れた地方都市に元気を取り戻すため、地元の熱血青年団員が孤軍奮闘。
しかし、その活動がSNSで拡散し、思いもかけない大混乱に見舞われていくという話。
主演は元FUNKY MONKEY BABYSのファンキー加藤。
共演は小池徹平、平愛梨、温水洋一、斉木しげる、いとうあさこ、泉谷しげる、大和田伸也ほか。
この映画、実は中津市と隣の杵築市でロケが行われた。
なので、ポスターが掲げられていたという次第。中津駅 (大分県) 駅
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ホテルに荷物を預け、さっそく街の中へ。
まずは中津駅北口から左手に見える「日ノ出町商店街」へ。
先述の映画「サブイボマスク」の舞台、道半町商店街のモデルはここ日ノ出町商店街なのだそう。 -
日ノ出町商店街はアーケード商店街。
だが、昼でも薄暗くて人影が少ない。
全国各地の駅前商店街の例に漏れず、シャッター通り化が進行している。
飲み屋さんが多いので、夜になると賑わうのかもしれない。 -
商店街の真ん中あたりに紅白の垂れ幕で仕切られた一角があった。
掲示板を見れば「お花見街コン」とある。
全国で流行している男と女の出会いの場「街コン」の会場らしい。
掲示板のポスターを見ると今日の夜に行われるとのこと。
一瞬「参加したい!」という欲望が脳裏を掠めたが。
地元の人間でもないのに参加しても詮無い話ゆえ、諦め(?)て通り過ぎる。 -
郊外型の巨大ショッピングモールをウロつくより、こうした寂れたアーケード街を歩いているほうが、たとえ店舗が一軒も開いてなくても心が落ち着く。
ことに城下町は昔ながらの老舗が多く軒を連ねているので、シンパシーはひとしお。
「日ノ出町商店街」のアーケードを抜けると仲町通りとの交差点に出た。 -
仲町通りの中ほどに佇む一軒の割烹料理店に目が止まった。
その名は「瑠璃京」、鱧[はも]料理の店とある。
というか鱧そのものが中津の名物。
新たな中津の主となった細川忠興は慶長9(1604)年、今井浦(現・福岡県行橋市今井)から腕利きの漁師たちを強制的に中津小祝へ移住させた。
その結果、あまり他の地方では食されない鱧が、中津では盛んに食べられるようになった。
次第に中津の料理人たちの手で次々と新しい鱧料理が開発され、同時に中津における鱧の漁獲量も飛躍的に向上。
こうした鱧料理の技術は中津から西日本へ広がりを見せていった。
例えば河豚漁発祥の地で知られる粭島[すくもじま](山口県周南市徳山)の漁師たちの間では「はも漁、はもの骨ぎりの開祖は、豊前中津小祝の漁師たち」との口伝が残されているという。瑠璃京 グルメ・レストラン
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数ある鱧料理の中でも鍋料理「はもチリ」は特に愛されたという。
はもチリを食べるお膳のことを「チリ台」と呼ぶほどだったそう。
それにしても、なぜ中津で「はもチリ」が愛されたのか?
理由は幾つか上げられる。
・各家庭に「橙[だいだい]」の木が植えられ、秋口に絞って保存していた「橙酢」が「チリ酢」として利用された。
・座興唄「大津絵」に高須人参、湯屋根深(葱)、相原大根、和間白菜といった材料が唄い込まれ、親しまれていた。
・中津藩が生産制限を出すほど豆腐の消費量が著しかった。
・甘口が主流な九州の醬油に比べ、中津の醬油は少し塩味が強くチリに最適だった。
日豊本線に沿って歩くと、細い水路が高架と交差している。
江戸時代からある水路で、当時は島田口のあったあたり。
橋を渡って木戸をくぐると、その先が中津の御城下となる。
その橋…日出橋があった場所が、このあたりだったそうだ。 -
日出橋を渡って島田口へ至る場所は昔「出小屋」と呼ばれていた。
以前ここは新博多町の商人が露天で営業していたところで、繁盛するうち町屋を建てるようになり、やがて一町を形成するまでになったそうだ。
最初は新博多町の上(かみ)に当たることから「上博多町」と呼ばれたが、後に「新諸町」となり、現在では再び「上博多町」と呼ばれるようになっている。 -
島田口から御城下に入ると「勢溜[せいだまる]」という広場になっていた。
勢溜は戦や火事などの災害時には人々の避難所となる大切な場所で、城下町の町割に不可欠な要所だった。
ここから中津城方面にアーケードが伸びている。
新博多町商店街。
細川時代に「十助堀」を埋めて造られた町で、城下町が形成された初期の町屋14町のうちの一町という歴史を誇る。
この先、中津城側に伸びる「博多町」に対して「新博多町」と命名されたそうだ。
アーケードの中に入ると「日ノ出町商店街」と同様、見事なまでのシャッター通り。
ことごとく閉ざされた商店の壁の中を進むうち、店を開けている洋品店を見かける。
希少な店からは「最後の一店になっても、この商店街を支え続ける」たという矜持を感じる。 -
新博多町商店街を勢溜まで引き返し、今度は西へ伸びる諸町通りへ。
城下町の風情を今に伝える古風な商店街で新博多町と同様、ここも初期町屋14町のうちの一町。
一部に武家屋敷もあったが、住人の大半は諸々の職業の職人たち。
そこから「諸町」という町名になったのだそうだ。 -
諸町通りには中津に所縁のある偉人たちの業績を記した立て看板が延々と立っている。
ひとつひとつ読み進めていくだけで、中津の歴史を丸わかりした気分になれる。
通りの中ほどに中津市歴史民俗資料館の分館、村上医家史料館がある。
村上医家の初代宗伯が寛永17(1640)年、この地に医院を開業。
その建物を元に、同家に伝わる数千点もの資料類が展示されている。村上医家史料館 美術館・博物館
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建物そのものは江戸時代以来の古民家。
受付にはドラミちゃんみたいに可愛くて頭の良さ気な女性がおり、丁寧に案内される。
内部には書物や医療器具などが所狭しと陳列されていた。
村上家七代目玄水は九州で初めて人体解剖を行った医者で、詳細を記した「解臓記」も展示されている。
見かけは小さいが中に入れば江戸から明治へと日本の医学がたどった軌跡を見渡せるほど茫洋と広い史料館といえる。村上医家史料館 美術館・博物館
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「裏に蔵がありますが、ご覧になりますか?」
ドラミちゃんからお誘いを受けた。
普段は鍵が掛かっているため、内部を見学するには開錠してもらう必要があるそうだ。
白壁で二階建ての土蔵で、入り口の前に小さな看板が立っている。
この蔵に幕末の一時期、シーボルト事件で追われていた高野長英が匿われていたという。
中に入ると江戸時代から伝わる医学関連和書の数々が、ガラスケースに収められ丁寧に陳列されている。
その中に、高野長英が持参したと伝わる蘭文(オランダ文字)の学問訓が掲げられている。
「水滴は石をも穿つ」
最後までやり抜かなければ、最初からやらないほうがよい。
現代でも通じる学問訓である。村上医家史料館 美術館・博物館
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二階へ通じる階段の先に薄い格子戸があり、その奥の部屋に長英は匿われていた。
長英は江戸後期の蘭学者、思想家で、若くしてオランダ医学を修めた秀才だった。
文政8(1825)年に長崎へ赴任し、ドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾に入門。
ところが文政11(1828)年、シーボルトが帰国する折に御禁制の日本地図などを海外に持ち出そうとしたことが発覚。
翌12(1829)年にシーボルトは追放され、大勢いた門下生たちはことごとく捕縛、断罪された。
ところが長英は何とか長崎から脱出に成功。
逃亡の途中、この土蔵に潜伏していたのだろう。
その後、長英は広島、尾道、大坂、京都を経由。
天保1(1830)年に江戸へ戻り、麹町で医院を開業した。村上医家史料館 美術館・博物館
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ドラミちゃんに礼を言い史料館を辞した。
長英は天保9(1838)年に出版した『戊戌[ぼじゅつ]夢物語』で幕府の異国船撃攘策を批判。
翌10(1939)年の蛮社の獄で北町奉行所に自首し、幕政批判の罪で永牢[えいろう](無期禁固刑)のお裁きを受ける。
ところが弘化元(1844)年、40歳の時に自ら画策した放火に乗じて小伝馬町の牢舎から脱獄に成功。
その後は宇和島藩主伊達宗城に蘭学を教授したり、江戸で高橋柳助や沢三伯の名で医業を営んだりしていた。
嘉永3(1850)年10月、長英は家宅で幕府の捕史に踏み込まれ自刃する、47歳のことだった。
諸町通りを歩きながら長英のことを考えていると「村上記念病院」という看板が目に止まった。
無論ここは村上医家が経営する病院。
江戸時代から現代へと続く、まさに医療の「大河ドラマ」的な存在だ。村上医家史料館 美術館・博物館
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諸町通りで「むろや醬油」の看板を掲げた古い商家を見かける。
板戸は閉ざされ、とっくに現役を引退した歴史的建造物か…と思いきや。
日曜でお休みしていただけで、現在でも現役バリバリのお醬油屋さんなのだ。
初代菊池安之丞が開業したのは享保元(1716)年というから、ちょうど今年で創業300周年という老舗中の老舗。
小笠原家、細川家、奥平家と代々の藩主に献上されてきた「中津の味」である。
むろや醬油の特徴は機械化で生み出される量産品ではなく、江戸時代から受け継いできた製法で手作りされていること。
国産の大豆と小麦から仕込んだ種麹を生醤油に1年間漬け込み、発酵させた諸味(醪)を圧搾して生揚[きあげ]醬油を作る「再仕込み醸造」という製法だ。
製造から瓶詰めまで全工程手作業という前近代的な醸造メーカーが、よく生き延びていられるものと思う。
周防灘から水揚げされる新鮮な海の幸やソウルフード「中津からあげ」の味わいに、むろや醬油は欠くべからざる存在なのだろう。
これぞ理想的な「地産地消」ではないか。 -
紺地に「南部まちなみ交流館」と白く染め抜かれた大きな暖簾がかかる歴史的建造物がある。
元々は江戸時代に「宇野屋」の屋号で造酒屋や米問屋として栄えた商家。
それを中津市が平成26(2014)年に文化財として保存・整備した観光拠点施設である。
柱や梁など建設当時の建材を可能な限り残し復元。
梁には「文化十二年子八月」(西暦1815年)と築年を示す墨書きが残っており、ちょうど建造から200年ほど経っていることが分かったそうだ。南部まちなみ交流館 名所・史跡
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館内には無料のお茶が用意されており、街歩きの途中で休憩するのに最適。
この建物は地域活動にも利用されていて、展示物などを眺めながら一服つけられる。
単なる休憩所にしては非常に贅沢な時間が流れる空間だった。南部まちなみ交流館 名所・史跡
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諸町通りを西、山国川に向かって歩いている。
通りが尽きる辺りに大きな寺が立っている。
自性寺、奥平藩歴代の菩提寺だ。
創建は藩祖信昌が三河国新城の領主だった時代で、当初は金剛山万松寺と称した。
その後は奥平藩の転封に付き従い、享保2(1717)年の6代藩主昌成の転封とともに中津へ。
延享2(1745)年に自性寺と改称し、現在に至る。自性寺 寺・神社・教会
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角を曲がってすぐのところに小さな入り口があった。
遥か先に大きな入り口が見えるので、そちらが自性寺の山門だろう。
ここは池大雅[いけのたいが]の障壁書画47点を中心に展示している美術館「大雅堂」の入り口。
大雅は与謝蕪村と並ぶ日本の文人画の大成者と評されている、江戸中期の画家・書家。
文人画とは教養ある知識人が心の赴くままに描いた雅趣に富む絵のことだ。
保存展示されている障壁書画は大雅夫妻が中津に滞在していた折、描いたもの。
「画禅一味、書禅一味」と称される芸術作品は、県重要文化財に指定されている。自性寺 寺・神社・教会
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しかし先を急ぎたかったので、大雅堂を見ることなく裏手の墓地へ。
そもそも本命の中津城にすら、まだお目にかかっていないのだ。
墓地の前は駐車場になっていて、その奥に一基の碑が立っている。
「田原 淳[たわら すなお] 碑」
近くに説明板もあったが、目も止めずに素通りした。自性寺 寺・神社・教会
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墓地に入る。
狭い敷地内には様々な形状をした墓石が適度な間隔を置いて立っている。
目の前に祠のような形状をした墓。
その前に立つ説明板には「河童の墓」とある。
自性寺十三代海門和尚には、女性などに取り憑いた河童を仏縁により改心させた…という伝説が残っているそうだ。
しかも寺には河童が書いた詫び状も伝わっているという。
本当に妖怪の河童だったのか?
それとも女性にまとわりつく河童に似たストーカーを追っ払っただけなのか?
真実を知りたがるの野暮というものか。自性寺 寺・神社・教会
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墓地の奥、寺の建屋の横に立派な墓が立っている。
黒田・細川の次に中津の城主となった小笠原家、その二代目藩主長勝の墓だ。
寛文8(1668)年2月、島原藩松倉家が悪行の科で幕府から改易を申し付けられた時のこと。
小笠原家は平戸藩松浦家とともに島原城受け取りの大役を命じられ、無事に御役目を完了。
その功によって長勝は豊後高田藩2万8000石を賜った。
天和2(1682)年、江戸にて37歳で病死。
江戸・広徳寺に建てた墓を後に移設したものという。自性寺 寺・神社・教会
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山国川に面した側に小高い土手が築かれている。
堤防ではなく「おかこい山」という土塁だ。
中津城は城下町の外周や場内に堀を持つ総構えの城。
外敵の侵入を阻むため、堀の本丸側に土塁を築いていたのだ。
外堀の土塁は約2.4kmにも及ぶ長大なもの。
おかこい山を切るように設置された城戸口を通過しないと城下町に入れなかった。
先ほど通った島田口のほか金谷口、廣津口、小倉口、蛎瀬口、大塚口の6か所である。自性寺 寺・神社・教会
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自性寺を出て諸町通りを西に進むと道が狭まっていく。
今度は本物の堤防に突き当たり、超えると山国川の河原に出た。
中津城築城に伴い総曲輪の西側に当たる山国川東岸一帯には鉄砲矢場、兵式調練場、外馬場が設置された。
奥平藩時代、場内の道路両側に町屋が建てられ、この地は「外馬場」と呼ばれるようになったという。
さほど護岸工事なども行われていないようで、川を包み込む風景はさほど昔と変わらないように見える。
往時、この河原で武芸に励む武士たちの姿が目に浮かぶようだ。 -
堤防の上を中津城に向かって歩く。
広い県道との交差点を渡ると右手に魚市場が見えた。
食堂でも営業しているかと思ったが、おてんと様が頭の上にある時間帯。
魚市場が動いている気配はなく、物音ひとつ聞こえてこない。
そのうち堤防から城跡方面へ下りていく道が現れた。
Y字路に立つ説明板によると江戸時代ここに山国川の船渡場「小倉口渡」があったという。
この坂を下ったところにあるのが小倉口である。
城下町外堀の西南隅にある小倉口は小倉への起点。
西側から小倉口へ入ると近接する西門から場内へ入ることのできる重要な入り口だった。
門の構造は二本の柱に横木を渡しただけの冠木門で、監視用の番所が設置されていた。
中津市歴史民俗史料館に所蔵されている『藩主帰還の図』には、対岸の小犬丸渡船場から山国川を渡ってきた藩主の乗る御座船を、外馬場から小倉口まで大勢の人が出迎える様子が描かれている。
往時は外堀に欄干を備えた立派な太鼓橋が掛かっていたそうだ。
埋め立てられ狭い水路となった今、橋は小さくなってしまった。 -
小倉口を通り過ぎ暫く行った先の角を左に曲がると、低い石垣が姿を表す。
ここが中津城の西南隅に位置する西門の跡だ。
西門は搦手門で、大手門と同じ櫓門型だったと思われる。
小倉口に最も近いため敵の侵攻を受けやすい門といえる。
それを防ぐべく堀の幅を広くとり、奥に三方を巨石で囲った『桝形』を備えている。
櫓門には武器や道具類を収めていたそうだが、明治2(1869)年10月に焼失したそうだ。
小学校低学年の男の子と女の子が4〜5人ほど、桜吹雪の舞い散る石垣の前で遊んでいる。
戦に備えて設えられた舞台装置が演出する平和な光景だった。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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西門から桝形へ向かうと左側に「汐湯」という看板が見える。
看板の上方には「割烹」の文字、下方には温泉マーク。
しかし入り口が男湯と女湯に分かれ、見た目は完全に銭湯。
しかも建物は向かって左側がスレート張りの二階棟、右側が木造三階棟と分かれている。
ここは銭湯なのか? 割烹なのか? 一体何なのか?
創業は明治15(1882)年で、最初は割烹料亭としてスタート。
銭湯は明治29(1896)年ごろ「中津海水湯」の名称で始めたそうだ。汐湯 温泉
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汐湯は汲み上げた海水を沸かしている珍しい銭湯。
白湯は40度でも熱く感じるが、海水湯は42度でも熱さを感じないまろやかさとか。
三階棟は大正時代、二階棟は昭和30年代に建て替えられたもの
風呂上がりには階上の涼み台で中津川を眺めながらビールを飲みつつクールダウンできるそう。
中津城を見物した後でひとっぷろ浴びてみようか…と思いつつ、通り過ぎる。汐湯 温泉
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汐湯三階棟の斜向かいに桝形がある。
西門の虎口(城郭への出入口)であり、石垣は状態よく保存されている。
江戸時代は石垣の上に櫓が立っていたはずだが無論、現在では存在しない。
その代わりというか、桜の木が植栽されている。
頭上から桜吹雪が舞い落ち、古風な木造建屋にハラハラと降り注ぐ。
城下町の春ならではの美しい光景だった。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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桝形を通り過ぎると左手に中津神社が鎮座している。
文久2(1862)年、江戸幕府は参覲交代や江戸藩邸定住を免除する諸緩和令を出した。
これにより江戸に置かれていた大名の妻子は帰国を許されることとなった。
中津藩も江戸藩邸から帰郷する姫君たちの住まいを建てる必要性に迫られる。
文久3(1863)年8月、本丸下ノ段西側のこの地に新居を建設し「松の御殿」と命名。
以降8年間ここで生活した姫君たちは明治4(1871)年の廃藩置県で他の場所に引き移っていった。
その後「松の御殿」は小倉県や大分県の中津市庁舎として使用されたのだが。
明治10(1877)年3月に増田宗太郎隊長率いる中津隊が西南の役に乗じて襲撃し、御殿は灰燼に帰した。
それから6年後、市内の諸宮を統合して跡地に建立されたのが中津神社というわけである。中津神社 寺・神社・教会
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天守閣の南側に中津神社の鳥居が聳立している。
東西に延びる石垣の真ん中を断ち切り、堀に橋を架け、参道を通した格好。
もちろん奥平藩時代には鳥居も参道もなく、これらは明治時代新たに設けられたものだ。中津神社 寺・神社・教会
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鳥居に向かって左側の石垣。
築城当時の石垣は今より低く、幅も狭かったそう。
また、掘側だけでなく城側にも石垣があったことも分かっている。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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石垣の真ん中を断ち切る工事をした際、中から古い石垣が顔をのぞかせた。
16世紀末頃に築城された当時の石垣と思われ、高さは根石から約6m弱、天頂の幅は約2.4m。
17世紀になると現在と同じ7mの高さにまで積み上げられ、城内側へ拡張されていった。
従って掘に面した石垣は築城当時の面影を残しているわけだ。 -
参道を出るとすぐ右手に「蓬莱園」という庭園がある。
ここには昔「蓬莱観」という、西日本屈指の大劇場があった場所。
明治15(1882)年に建築され、往時には歌舞伎役者や著名な俳優が興行を打ったという。
しかし戦時中の強制疎開で建物は取り壊され、戦後に敷地が庭園として整備されたそう。
庭園の中に劇場の名を受け継いだ喫茶スペース「ギャラリー茶論・蓬莱観」がある。
劇場時代に使われていた引き戸やケヤキの1枚戸、歌手の東海林太郎ゆかりのピアノが残されているそうだ。蓬莱園 公園・植物園
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再び鳥居をくぐって城跡へ。
右手に「獨立自尊」と刻まれたオベリスクが立っている。
その先には小綺麗に整備された池。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦などの功績により黒田長政は筑前五十二万石に移封となり、如水とともに中津を去った。
黒田家の後には細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二群の領主として入部。
忠興は中津を当初の居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。
慶長7年、忠興は居城を小倉城に変更し、元和6(1620)年に家督を忠利に譲った。
隠居した忠興は三斎と号し、翌7年に再び中津城へ。
黒田家の後を引き継ぎ、中津城や城下町の整備を進めた。
この際、用水不足を補うため場内に水道工事を行った。
山国川の大井出堰(三口)から水道を場内まで導く大工事だった。
その水を湛えたのがこの池で、鑑賞や防火用水としても使用された。
忠興の号『三斎』の名を冠して『三斎池』と命名。
現在は中津市の上水道を引いているそうだ。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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三斎池の隣にあるのが黒田官兵衛資料館。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」を当て込んで建てられた施設で、平成26(2014)年1月19日に開館。
ちなみに中津で黒田家関係の施設はここのみ。
同28(2016)年3月末に一時閉館したものの、同年4月29日にリニューアルオープン。
豊前国統治時代(1587〜1600)の黒田官兵衛の活躍などを紹介したパネルなどの資料館機能や市内観光地などへの誘導を促す観光情報発信機能に加え、中津の銘菓や特産品を取り扱う土産店、湯茶などを提供する喫茶スペースが追加されている。黒田官兵衛資料館 名所・史跡
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いよいよ天守閣へ…と、その前に。
正面に奥平神社、左手に中津大神宮が鎮座している。
城跡というより神社の境内に天守閣を後付けで拵えたような錯覚にとらわれる。
奥平神社は中津を治めた奥平家を祀った神社だ。
奥平家が歴史の表舞台に登場したのは初代貞能[さだよし]と貞昌[さだまさ]父子。
天正3(1575)年5月「長篠の戦い」での活躍だった。
武田勝頼軍1万5千人に長篠城が包囲され、城主貞昌はわずか500人で籠城、激しい攻撃に耐え続けた。
落城寸前、織田信長・徳川家康連合軍の援軍が到着。
長篠城の西方約3kmの設楽原で武田軍と織田・徳川連合軍が激突し、武田軍は大敗北。
この戦功で貞昌に新たな領地が与えられ、信長から「信」の一字が偏諱されて「信昌」と改名。
信昌は家康の長女亀姫を正室に迎え、家康の孫に当たる四男一女が誕生した。
長男家昌は奥平家を継ぎ、二男から四男は松平姓を賜り、四男の松平忠明は大阪城や姫路城の城主を務めている。
奥平家は長篠の戦いの後、新城城、加納城、宇都宮城、宮津城などを経て、享保2(1717)年に奥平家第七代昌成が中津十万石の領主として入封。
第15代昌邁まで155年にわたり中津を治めて明治維新を迎える。
長篠城籠城中に食料がなくなり「たにし」などを食べて戦い続けたことにちなみ、奥平神社では毎年5月21日ごろ「たにし祭」を行っているそうだ。奥平神社 寺・神社・教会
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奥平神社にお参りした後、いよいよ天守閣へ。
現在の天守閣は昭和39(1964)年に建設された模擬天守。
設計は東京工業大学の藤岡通夫博士で、地下1階5層5階で高さ23m、鯱1.4m、床面積延795平方m。
内部は奥平家に関する歴史的資料館。
歴代藩主が着用した鎧、天下御免白鳥の槍、陣営具、衣装、長篠合戦図、鳥居強右ェ衛門磔の図、徳川家康御宸筆の軍法事などが展示されている。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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天守閣のテッペンに立ち、中津川が海へ注ぎ込む風景を眺める。
豊臣と徳川の争いに乗じて九州を制覇した黒田官兵衛。
拠点としたのが、ここ中津城だった。
南を見れば中津川沿いに立地し、北を見れば一面に豊前海が広がり、瀬戸内海への海路が確保できる。
海に面して城下町を築ける平野が広がり、交通の便に優れた土地だった。
折あらば天下人に…という野望を抱いていた官兵衛。
大坂ー鞆の浦(広島県)ー上関(山口県)に拠点を設けてリレー形式の早船を配置し、わずか3日で大坂と連絡を取れるようにしていたそう。
ところが皮肉にも歴史は官兵衛の意図に反して流れていく。
なにせ期待していた関ヶ原の戦いが1日で終わったわけで。
しかも徳川家康から筑前52万石を与えられた息子の長政は福岡城を築城。
黒田家は中津を後に引っ越して行ったのだった。
天守閣から中津の街を眺めていると、どこか官兵衛の無念さが漂っている気がした。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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天守閣を出て城井神社の横を通り抜け中津川の川岸を辿って北側の広場へ。
以前ここには高校が立っていたそうだが現在では駐車場になっていて、市民が三三五五レジャーシートを敷いて花見に興じている。
こちらのサイドから見る中津城天守閣はスッキリと見える。
天守閣の周囲にあるのが堀と石垣、木々の梢ぐらいで、他に余計なものが見えないからかも知れない。
黒田家の後には細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二群の領主として入部。
忠興は中津を当初の居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。
慶長7(1602)年、忠興は居城を小倉城に変更し、大規模な小倉城築城を始めた。
元和元(1615)年、一国一城令が出され、忠興は慶長年間から続けていた中津城の普請を一旦中止。
小倉城以外に中津城も残してもらえるよう幕府の老中に働きかけた結果、翌年に中津城の残置が決まった。
元和6(1620)年に家督を忠利に譲った忠興は翌年に中津城へ移り、城郭や城下町の整備を本格的に進めた。
元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格ゆえ、同年に本丸と二の丸の間にある堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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こちら側から石垣を眺めると、途中で積み方が変わっているのが分かる。
真ん中のy字から右側が黒田孝高(如水)時代、左側が細川忠興(三斎)時代のもの。
積み方は黒田側が野面積、細川側が打込みはぎ積。
両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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堀端に黒田如水の像が石垣を背に立っている。
いや、如水自身はあぐらをかいて座っている姿なのだが。
折あらば天下人に…という野望を抱いていたといわれる官兵衛。
ところが期待していた関ヶ原の戦いが、なにせ1日で終わったわけで。
像に浮かぶ表情を眺めていると、どこか官兵衛の無念さが感じ取れる気がした。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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左側の小さな櫓は城主の馬具等を格納する大鞁櫓[だいひやぐら]。
これもまた天守閣とともに復元再建された櫓である。
明治3(1870)年、中津藩は維新政府に廃城を願い出て許された。
翌年、殿舎の一部と松の御殿を除き、城門や櫓などを取り壊す。
この裏には福沢諭吉の進言もあったと伝わっている。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」
『学問のすゝめ』に出てくる有名な言葉だが、「人の上」の象徴たる御城の破却を進言したのは「言動一致」だったというべきか。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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中津城を後にして城下町を散策する。
城の東側に市民プールがあるのだが、そこの地名は姫路町。
黒田孝高が中津へ入封した際、播磨国姫路から随行した職人や商人が住んだ町というのがその由来。
南側に進むと京町。
城下町を整備した際「京のように町の中心にしたい」という意図と、京からの移住者が多く住んでいたことが由来だと言われている。
たまたま武家屋敷風の建物を見かけて近づいてみたら、単なる公民館だった。
その先に石垣が見えたので近づいてみたら、小学校の校門だった。
しかし、単なる校門ではない。
ここに中津城の大手門があったのだ。 -
中津城三の丸の東端に位置する大手門(追手門)は「馬出無しの桝形虎口」だったという。
だが、現在では大手門に連なっていた石垣のみが保存され、大手門そのものは現存していない。
記録によると大手門の桝形は前方と左右の三方を巨石で囲んだもの。
奥行き約十三間(23m)、幅約三・三間(6m)、面積約43坪(138平方m)。
騎馬武者であれば約30騎(供武者60人を含む)、徒士武者であれば約250人を収容できたという。
桝形の前方右側には黒田如水によって滅ぼされた犬丸城の古材木を使って作られたと伝わる「矢倉門」型の門があったそう。
大手門の破却も福沢諭吉の進言に基づく一環だったのだろう。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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大手門跡から中津駅方面へ。
京町の隣は古博多町、道を南下していくと新博多町のアーケード商店街に出る
その手前、また別の古びたアーケードを見かけた。
寂れている…というより、既に役割を終えた感が強い小さな商店街。
ここから目と鼻の先に大型ショッピングモールがあり、そちらに消費者は吸い寄せられていくのだろう。
新博多町のアーケードも近い将来、ここみたいになるのだろうか?
アーケードという折角のファシリティ、往時の賑わいを取り戻す…とまではいかなくとも活用の手立てはないものだろうか。 -
中津市内の逍遥を終え、今宵の宿「グランプラザ中津ホテル」へ。
駅周辺には全国チェーンのビジネスホテルが立ち並んでいる。
その中で中津唯一のシティホテルとして孤軍奮闘といった感じ。
宿泊代が目が飛び出るほど高いわけでもなく、ホテルとしてのクオリティが低いわけでもないので、チェーンホテルよりこちらを選んで正解だった。
ロビーを見た印象は特にブライダル関係に力を入れている様子。
宿泊より宴会での利用が多いのは地方のシティホテルに共通した事項だろう。
夕食は外出せず、ホテルのレストランを利用した。
チョイスした「松花堂御膳」は美味しかったし、内装の雰囲気も好印象。
サービスもキビキビしていて総合的に好評価。
ただ、日曜の夜だったせいか他に来客もなく寂しい晩餐。
どこか、もったいない気がした。グランプラザ中津ホテル 宿・ホテル
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ホテルのチェックアウトタイムは午前11時。
早起きし、それまでの間に再び中津の町を散策する。
月曜の朝8時、既に町は動き出している。
日ノ出町商店街を通り、裏路地をくぐり抜け、寺町へ。
寺町はどこの城下町にもある共通の都市施設。
都市周辺部に多くの寺院を固めて配置することにより、敵が攻め込んできた際に町を防御する役割を担うとともに、前線の拠点としての機能を担っていた。
中津城の場合は総曲輪の東側にあり、島田口から北東方面の蛎瀬口にかけての城下防備を目的に設けられている。
黒田入封以前からある地蔵院・安随寺、黒田藩時代に開基の合元寺・大法寺・円応寺・西蓮寺、細川藩時代の普門院・宝蓮寺・本伝寺、小笠原藩時代の円竜寺・浄安寺、そして奥平藩時代の松厳寺と計12寺が
ある。 -
ちょうど通学時間帯ということもあり、子供たちが集団を組んで小学校へ向かっている。
年長者のリーダーが年少者たちを率いて道を進む姿は、昔も今も変わらないのだろう。
そんな寺町の中でひときわ目を引く寺があった。
「合元寺」、別名「赤壁寺」。
天正15(1587)年、黒田孝高が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移し、空誉上人を開山に迎えて建立した浄土宗西山派の寺院だ。
天正17年4月、黒田氏の入国に反対した前領主の宇都宮鎮房が中津城内で謀殺された。
その際に中津城を脱出した鎮房の従臣たちは、この合元寺を拠点に黒田の手勢相手に奮戦。
しかし従臣たちは片っ端から斬り伏せられ、その血で壁一面が赤く染まったという。
以来、門前の壁は何度白く塗っても血が染み出してくるため、ついに赤く塗ったという。
今でも庫裏の大黒柱に刀痕が点々と残され、激戦の様子を今に伝えているそうだ。
戦士した宇都宮家の家臣たちは合葬され、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀られている。
ちなみに空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったと伝わり、文武の道に秀で、世人の崇敬が篤かった。
このため後事を恐れた黒田長政は慶長16(1611)年、空誉上人を福岡城内で誘殺したという。
いずれにせよ、壁の色そのままに因縁めいた寺に違いない。合元寺(赤壁寺) 寺・神社・教会
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合号寺から北に進むと、またも大きな寺がある。
「円応寺」。
天正15(1587)年に黒田孝高の開基によって建立された浄土宗の寺院だ。
開山は真誉上人見道大和尚。
慶長5(1600)年、見道和尚は黒田氏に従って福岡へ移り、同名の円応寺を開いている。
ここで有名なのは境内の「河童の墓」と伝わる五輪塔。
この墓、実は河童ではなく、宇都宮鎮房に一の太刀を浴びせた野村太郎兵衛祐勝のものだと伝わっている。
ちなみに野村祐勝は黒田二十四騎の一人で、「黒田節」母里多兵衛の異母弟である。
さらに北進すると「西蓮寺」がある。
天正16(1588)年に光心師によって開創された浄土真宗本願寺派の寺院。
光心師は黒田孝高の末弟で、俗名を「黒田市右衛門」という。
父の黒田職隆[もとたか]が亡くなった折に出家した。
孝高が播州から中津に入封した際に随伴し、西蓮寺を建立して初代住職となった。
以来400年以上に亘り現在の二十代住職まで法灯を伝えている。
現在の本堂は天保4(1844)年に再建されたもの。
金剛棟札を見ると発起人は8歳の童子「播磨屋助次郎」とある。
失われた本堂を再建するため、助次郎が山国川から小石を運んでいるのを耳にした総代の小畑親民が深く感激して再建に尽力したそう。
本堂が再建された際は当時の藩主だった奥平第八代昌服が茶会を催している。西蓮寺 寺・神社・教会
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寺町からまっすぐ北進して港を目指すうち「船場町」という一角に入り込む。
小笠原藩時代は「侍町」と呼ばれていたが、奥平藩時代になると帆船が頻繁に出入りするようになり「運上場[うんじょうば]」(徴税所)が設置される。
この町も一部の武家屋敷を残して「港」に関係する人々が住む商人町となり「船場町」と呼ばれるようになったという。 -
船場町からさらに北へ向かう。
中津の古代地名は上小路(南側)、中小路(中心部)、下小路(北側)の三地区に分かれていた。
近世に入ると市町村制が敷かれ中津市も町名が割り振られたが、下小路の名称はそのまま残された。
この下小路あたりを一番地として中津市の地番が振られていったという。
やがて道は堤防に突き当たり、石段を登ると眼下に船溜りが広がった。
この一番地に隣接する小さな港は藩政時代、藩主参勤の御座船「朝陽丸」と随行する御用船の係留港。
このため「御船寄[おふなより]」「御船入れ」などと呼ばれる由緒正しい港だった。 -
御船寄から堤防を超えて戻ると、そこは広い神社の境内。
闇無浜[くらはしはま]神社という。
第十代崇神天皇の御代、天平の太宰小弐藤原広嗣謀反の折、朝廷が遣わせた征西将軍が朝敵退散を祈願したのが由来。
宝亀2(771)年の疫病、延暦9(790)年の天災、天慶4(941)年の藤原純友の乱、弘安4(1281)年の元寇など国難に見舞われるたび祈願を捧げ神威が顕れたという。
このため黒田、細川、小笠原、奥平と歴代の中津藩主は社殿の造営や修復を行い、神輿や神宝などを奉献するなど崇敬の篤い神社だったそうだ。 -
闇無浜神社から南へ。
途中、細い川が流れている。
細川藩時代に町割りした際、川を堀として利用したことから「堀川」と呼ばれるようになり、この一帯も「堀川町」と命名された。
奥平藩時代になると堀川町は拡張されて南と北に分割。
明治以降は堀川を埋め立て町屋を作り、現在の姿になった。 -
碁盤の目のように整然と区切られた城下町ならではの街並みを歩く。
ただ、諸町通りのような江戸時代の商家や武家屋敷は見かけない。
古い家屋は結構あるが、どれも明治以降に建てられたと思しきものばかり。
やはり福沢諭吉が中津城の破却を進言した顰みに倣い、中津の人々は江戸時代の建物を惜しげもなく建て替えたのだろうか?
そんなことを考えているうち「留守居町」という町に出た。
小笠原時代からの町名で、藩の役職名「留守居役」に由来しているそう。
道の右側に連なる臙脂色の重厚な土塀の向こう側には立派なビルが。
その先には古民家の茅葺き屋根が土塀の上に顔を覗かせている。
ここが福沢諭吉の記念館と旧宅である。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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残念ながら開館時間の午前9時には少し早い。
記念館の前を素通りし、道を挟んだ向かい側の福澤公園で時間を潰す。
公園の面積は5200平方m(約1576坪)。
公園の横には観光バスを何台も収容できる広大な駐車場が広がる。
その先にレストハウス「福澤茶屋」の幟[のぼり]がはためいている。
食事処兼土産物屋だが、時間的に人の気配は全く感じない。
視線を公園に戻すと幾つかの四角形を組み合わせた文様を、地面に石で描いた一角がある。
この地は福澤一家が大坂から中津に戻って最初に住んだ家が立っていた場所。
今残っている旧居は後年になって移り住んだものという。
その最初に住んだ家の間取りを、ここに石組で復元。
しかも明治10(1877)年、諭吉自身が記憶を紐解いて図面を引いたそうだ。
昭和46(1971)年、この宅跡と旧宅が国史跡文化財の指定を受けている。
しかし石で間取りを再現することにどんな意味があるのかよく分からない。
福澤諭吉に対する中津市民の篤信ぶりの顕れなのだろうか?福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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午前9時、開館したので門の中に入る。
ところが受付に誰もいない。
庭の掃除をしてる人が何人かいるが見向きもしない。
月曜の朝イチからやって来る客など迷惑な存在なのだろう。
そのうち掃除している人が気付いて近寄ってきた。
中に受付の担当者を呼びに行ったが見当たらなかった様子。
結局その庭掃除していた女性が受付で捥りをすることに。
これはもう全く以って時間の無駄と言うほかない。
まぁ、先ほど見た大型観光バスの駐車場を例に取るまでもなく。
普段はドッと押し寄せるツアー客と校祖所縁の地を巡礼する慶大関係者だけで運営費を余裕で賄える裕福な施設なのだろう。
福澤諭吉と何の縁もゆかりもない一介の個人旅行者が冷たくあしらわれるのも自明の理。
福沢諭吉は封建社会を親の仇のごとく憎悪していたが、どうやら福澤記念館は殿様商売のようだ。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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有難いことに中へ入れてもらえたので、さっそく旧宅へ向かい外観を眺める。
木造藁葺きの平屋建てで間口二間半、奥行十五間ほど。
旧宅と言いつつもピッカピカに整備されている。
屋根は藁葺きだが軒先は瓦葺き
土壁はまるでプリンのように滑らかなクリーム色をしている。
ここは大坂から来た諭吉が少年から青年時代まで過ごした家。
諭吉は早くから学問を志して中津を出たので十数年しかいなかったのだが。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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福澤家自体も明治初頭に東京へ転居。
その後は親戚の渡辺氏が居住し、次いで旧藩主奥平家の所有となった。
明治43(1910)年に同家から寄贈を受けた中津市が、以来管理している。
中へ入れば今でも誰かが住んでいるんじゃないかと錯覚するほどの小綺麗さ。
なぜか縁側に糸車が置かれていて、思わずガンジーを連想してしまった。
福澤諭吉の旧宅でガンジーを連想するとは、その思想に共通項でもあるのだろう。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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少年の頃、勉強部屋に使っていたという土蔵が庭に立っている。
諭吉が自ら手直ししたそうで安政元(1854)年に長崎へ遊学する19歳ごろまで、中で米を搗いたり、二階の窓辺で勉強していたという。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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土蔵の中に入ると左側に急傾斜の梯子段。
エッチラオッチラ上っていくと、薄暗い屋根裏部屋で窓の明かりを頼りに勉学に勤しむ諭吉少年の像があった。
ただし、手前に柵があって像には近寄れない。
賽銭のつもりか書見台との間に小銭が散らばっている。
福沢諭吉は神様ではないし、拝んだところでどれだけご利益があるのかは分からない。
しかし「学問のすゝめ』の著者に神頼みするとは筋違いもいいところ。
諭吉少年像に心があるなら(俺を拝むぐらいなら勉強しろ)と思っているに違いない。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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旧宅と福澤記念館の間に銅像が立っている。
オリジナルは諭吉を敬愛する彫刻家の和田嘉平治が昭和5(1930)年に制作。
当初は交詢社の談話室や慶應義塾の会議室に設置されていたそう。
昭和9(1934)年に中津へ引き取られ、現在地に据えられたという。
ところが戦時中、何と金属供出の憂き目にあって消失!
現在の銅像は終戦後の昭和23(1948)年、和田の手で改めて作られ、同じ台座の上に設置されたものだ。
それにしても明治維新の生んだ偉人の一人ともいうべき福澤諭吉の胸像すら砲弾に変えてしまった大東亜戦争とは一体なんだったのだろう。
慶大の校章は2本のペンの打っ違い。
だが胸像の供出は皮肉なことに「ペンは剣よりも弱し」を証明してしまったことにならないか?福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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アレコレ考えながら福澤記念館の入口をくぐると、またしても正面に福澤翁の胸像。
そういえば駅前広場にも銅像が立っていたし、ビジネスホテルの屋上にも像らしきものの影が。
これじゃ中津は奥平藩ではなく、まるで福澤藩だったようではないか?
そんな戯言はさておき、福澤記念館の中を見て回る。
この記念館は昭和5(1930)年5月、昭和天皇の御大典記念事業として建設。
庭の胸像も、この時に制作されたものだろう。
昭和50(1975)年11月、福澤諭吉生誕140周年を記念して現在地に移転、新築された。
少なくとも中津城の模擬天守より立派な建物なのは間違いない。
しかも模擬天守は保有していた奥平家が赤字で維持管理できなくなり、最近になって手放したという。
やはり中津の領主は奥平家から福澤家に代替わりしていたようだ。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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記念館は2階建て。
1階は諭吉の一生を時系列的に展示し、2階は諭吉の多彩な側面を様々な資料をもとに考証している。
とはいえ、たかだか150〜160年ほどの歴史が並んでいるだけなので中津城ほどの高揚感は湧き上がってこない。
展示品の中に代表的著作の一つ『学問のすゝめ』がガラスケースに収められている。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」
冒頭に登場する有名な一節。
だが「云えり」とあるように福澤の造語ではない。
アメリカ独立宣言の一節を独自の解釈の元に翻訳したものと伝わっている。
確かに人は生まれた瞬間こそ平等だが、その次の瞬間から格差の渦の中へと投げ込まれていく。
人の上や下に人を造るのは、天じゃなく人自身ってことが前提の言葉なのだろう。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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そろそろ帰ろうかと思い出口へ向かったその時、視界の片隅に飛び込んできたものが!
福澤諭吉といえば…壱万円札! ?もちろん記念館にも展示されている。
福澤翁の描かれた壱万円札は2種類ある。
昭和59(1984)年から使用された「D券」と、平成16(2004)年から使用されている「E券」。
いずれも通し番号が「A000001B」…つまりこの世に2番目に生まれた貴重な壱万円札というわけだ。
ちなみに「A000001A」…最初に世に出た一万円札は東京日本橋にある日本銀行貨幣博物館が所蔵している。
それにしても「諭吉」といえば1万円を指す隠語にもなっている昨今。
格差社会を生む根源ともいうべきオカネの肖像に「天は人の上に人を造らず」と唱えた福澤翁が描かれるのは歴史の皮肉というほかない。
中津城の展示内容は大昔の代物で現代社会と隔絶しており、ある意味「フィクション」として楽しめる内容。
一方ここ百数十年来のものである福澤記念館のそれは現代社会を形成した源流ともいえる。
昨今の日本で起こっている様々な諸問題を考える上で切り離せないもの。
観光施設というより現代日本の原点として、社会の歪を矯正するために立ち返る施設なのかもしれない。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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福澤記念館を後にし、大江医家史料館へ向かう。
途中「豊後町」という町があった。
中津築城初期の町屋14町のうちのひとつという古い町。
大友義統[よしむね]が配流され家臣が浪人し、このあたりに集まってきたのが町名の由来だ。
義統は戦国時代を代表するキリシタン大名、大友宗麟[そうりん]の嫡男。
豊後と豊前東半分を所領していたが、朝鮮出兵で大失態を演じたため秀吉に所領を召し上げられた。
大友氏が豊後国を本拠にしていたからこそ「豊後町」と命名されたのであり、中津が豊前国に属している証ともいえるだろう。 -
豊後町から大江医家史料館に向かって南下していくうち鷹匠町に入る。
細川忠興が盛んに鷹狩りを行っていたというのが町名の由来。
ちなみに鷹匠町の東側も餌指町[えさしまち]という鷹狩りにちなんだ町名だ。
この一帯は中津城総曲輪内の東南に位置する武家屋敷町。
江戸時代の建物そのものは少ないが道の両側に白壁が続き、武家屋敷の雰囲気を醸している。 -
そのような街並みの中、江戸時代に建てられた一軒の古民家がある。
それが大江医家史料館。
代々中津藩の御典医を務めた大江家の屋敷を史料館にしたもので、現在の建屋が出来たのは幕末の1860年。
明治時代に待合室や診察室を設ける改築が施されているが、御典医屋敷の面影を残す貴重な建物だ。
大江医家は宝暦8(1758)年、初代大江玄仙が藩医になったことから始まり、以後七代にわたって続いた。
初代玄仙と三代元和泉は長崎で南蛮医学や蘭方医学を、五代雲沢は華岡流外科術を習得。
また、雲沢は藩医を務める傍で医塾を開き、明治時代に入ると中津医学校の校長を務めたという。
昭和60(1985)年に市文化財に指定される。
平成13(2001)年に最後の当主、七代忠綱が逝去。
故人の意思により土地と建物が中津市に寄贈された。
平成15(2003)年度に半解体工事を行いリニューアル。
平成16(2004)年7月に村上医家史料館に次ぐ第2の医家史料館としてオープンし、今に至っている。大江医家史料館 美術館・博物館
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玄関から中に入ると土間になっており、靴を脱いで座敷に上がるスタイル。
受付には、こざっぱりとした中年男性の姿。
大江医家の末裔の方だろうか?
ここは大江医家の所蔵品だけでなく中津に残されている医学と蘭学の膨大な資料から、主に中津と医学・蘭学との関わりに主眼を置いた展示を展開している。大江医家史料館 美術館・博物館
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歴史の教科書にも登場する『解体新書』が展示されていた。
安永3(1774)年に出版された初版本だ。
杉田玄白とともに翻訳に従事した前野良沢は中津藩出身。
享保8(1723)年、藩医前野東元の養子
だが、解体新書に良沢の名前は記されていない。
理由は幕府からお咎めがあった場合、先輩で盟主格の良沢に累を及ぼさないよう配慮したためと見られているそうだ。大江医家史料館 美術館・博物館
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展示の中に田原淳の業績を展示する一角があった。
自性寺の駐車場で碑を見かけながら、つい素通りしてしまった人物だ。
田原は国東市出身の病理研究者で、心臓ペースメーカーの生みの親とも言われている偉人。
その業績を見ていると、背後から上品な老婦人に挨拶された。
大江家ご当主の御母堂だろうか?
「裏庭に薬草園がありますので是非そちらもご覧になってください」
その言葉に従って裏庭に回ると、多種多様な薬草が植栽された畑が広がっている。
老婦人の慎ましさの中に優雅さが漂う立ち振る舞いは、大江家の家訓「医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す」(医療は無条件に善なのではなく、医者次第で善にも悪にもなるから、医師は常に謙虚に患者のために尽くすべきである)を体現されているかのよう。
まだ早春で緑より耕土の目立つ薬草園を眺めながら、そんなことを想った。大江医家史料館 美術館・博物館
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中津駅方面へ向かって歩くと、細い水路に架かる小さな橋。
かつてこの水路は城下町と城外を隔てる堀だった。
この橋を渡れば中津の城下町とサヨナラすることになる。
感慨とともに何の変哲もない水路を眺めつつ、橋を渡った。 -
橋を越えて広い道路を進むうち、正面に中津駅が姿を現した。
福澤翁の全身像が背を向けて立っているのが見える。
中津で見るべきものをあらかた見た気になっていたが。
歴史民俗資料館も黒田官兵衛資料館も見ていないし、汐湯で入浴もしていない。
思えば鱧も中津からあげも食べていない。
これはまた来ないといけないかも…。
そう思いつつ、チェックアウトするためホテルへ戻った。福沢諭吉像 名所・史跡
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