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久喜駅西口から徒歩約20分に古河第二代公方・足利政氏(あしかが・まさうじ、1462~1531)晩年の居館跡が、そして居館跡中央部には政氏を供養する五輪塔を有する寺院甘棠院(かんとういん)があります。<br /><br />享徳3年(1454)、政氏の父足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)は父持氏(もちうじ、1398~1439)を切腹に追いやった上杉一族の関東管領上杉憲忠(うえすぎ・のりただ、1433~1455)を謀殺、これにより幕府の追討を受けることになり、駿河守護今川範忠(いまがわ・のりただ、1408~1461)らに鎌倉を攻められ、康生元年(1455)成氏は下総の古河に拠点を移し以後古河公方と称されます。<br /><br />古河は地理的に水運に恵まれると共に宇都宮・小山・結城・千葉と言った成氏と通じる有力豪族が背後に控え、成氏としては敵対する山内・扇谷の両上杉氏と対峙する態勢が機能的に動かせることになります。<br /><br />然しながら成氏死後長享3年(1489)家督を継いだ政氏(まさうじ、1462~1531)は父が上杉氏と対抗する方針を捨て、実弟の顕実(あきざね、生誕不詳~1515)を敵将山内上杉顕定(うえすぎ・あきさだ、1454~1510)の養子に送り出し足利・上杉連合を作ります。<br /><br />これに対し政氏の嫡男高基(たかもと、1485~1535)は父政氏の方針に不満を持ち政氏と距離をおくようになり、一時宇都宮成綱に身をよせることになります。<br /><br />その後永正9年(1512)政氏は下野の豪族小山政長(おやま・まさなが、1498~没年不詳)を頼りこれが関東の諸侯を巻き込む争いに発展、結果として高基が古河公方の実権を掌握したことにより政氏への対応は変わりそれまで滞在してきた小山氏の祇園城を出ることとなります。<br /><br />祇園城を出た政氏は岩槻城に移り出家して「道長」と名乗り翌永正15年(1518)頃に当地にて隠居したと伝えられ、享禄4年(1531)66歳で没するまで当居館に居住していたとされます。<br /><br /><br />甘棠院を取り囲む門の横に設置の説明板には次の如く記されています。<br /><br /><br />「 足 利 政 氏 館 跡 及 び 墓<br /><br />永安山甘棠院は、鎌倉にある臨済宗円覚寺派の寺院である。<br /><br />甘棠院の総門を入ると、中門前面から寺院の西側及び北側に空堀がめぐらされ、北側には土塁も築かれている。<br /><br />ここは享徳の乱終息(文明十四年 一四八二)以後、古河公方になった足利政氏の館跡と伝えられている。<br /><br />足利政氏の父成氏(しげうじ)は、文安四年(一四四七)信濃より帰り、鎌倉公方となったが、関東管領(かんれい)山内上杉氏と抗争ののち古河(茨城県古河市)に移って古河公方と称し、伊豆の堀越公方・山内上杉氏・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏との勢力争いをつづけた。(享徳の乱)<br /><br />足利政氏は、その後、子高基・義明と不和となり、永正九年(一五一二)に小山(栃木県小山市)に移り、同十五年頃、ここ甘棠院に隠居したと伝えられる。<br /><br />境内には、「享禄四年七月十八年甘棠院殿吉山道長大禅定門」の銘を刻んだ足利政氏の五輪塔がある。<br /><br />       甘棠院の指定文化財<br /><br />       ー  省略  ー <br /><br />          <br /><br />平成三年三月二十五日<br />               埼 玉 県 教 育 委 員 会<br />               久 喜 市 教 育 委 員 会<br />               甘     棠       院  」

武蔵久喜 嫡男高基との権力争いに敗れ隠居を余儀なくされた古河第二代公方『足利政氏居館』訪問

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2016/02/21 - 2016/02/21

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26

滝山氏照

滝山氏照さん

久喜駅西口から徒歩約20分に古河第二代公方・足利政氏(あしかが・まさうじ、1462~1531)晩年の居館跡が、そして居館跡中央部には政氏を供養する五輪塔を有する寺院甘棠院(かんとういん)があります。

享徳3年(1454)、政氏の父足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)は父持氏(もちうじ、1398~1439)を切腹に追いやった上杉一族の関東管領上杉憲忠(うえすぎ・のりただ、1433~1455)を謀殺、これにより幕府の追討を受けることになり、駿河守護今川範忠(いまがわ・のりただ、1408~1461)らに鎌倉を攻められ、康生元年(1455)成氏は下総の古河に拠点を移し以後古河公方と称されます。

古河は地理的に水運に恵まれると共に宇都宮・小山・結城・千葉と言った成氏と通じる有力豪族が背後に控え、成氏としては敵対する山内・扇谷の両上杉氏と対峙する態勢が機能的に動かせることになります。

然しながら成氏死後長享3年(1489)家督を継いだ政氏(まさうじ、1462~1531)は父が上杉氏と対抗する方針を捨て、実弟の顕実(あきざね、生誕不詳~1515)を敵将山内上杉顕定(うえすぎ・あきさだ、1454~1510)の養子に送り出し足利・上杉連合を作ります。

これに対し政氏の嫡男高基(たかもと、1485~1535)は父政氏の方針に不満を持ち政氏と距離をおくようになり、一時宇都宮成綱に身をよせることになります。

その後永正9年(1512)政氏は下野の豪族小山政長(おやま・まさなが、1498~没年不詳)を頼りこれが関東の諸侯を巻き込む争いに発展、結果として高基が古河公方の実権を掌握したことにより政氏への対応は変わりそれまで滞在してきた小山氏の祇園城を出ることとなります。

祇園城を出た政氏は岩槻城に移り出家して「道長」と名乗り翌永正15年(1518)頃に当地にて隠居したと伝えられ、享禄4年(1531)66歳で没するまで当居館に居住していたとされます。


甘棠院を取り囲む門の横に設置の説明板には次の如く記されています。


「 足 利 政 氏 館 跡 及 び 墓

永安山甘棠院は、鎌倉にある臨済宗円覚寺派の寺院である。

甘棠院の総門を入ると、中門前面から寺院の西側及び北側に空堀がめぐらされ、北側には土塁も築かれている。

ここは享徳の乱終息(文明十四年 一四八二)以後、古河公方になった足利政氏の館跡と伝えられている。

足利政氏の父成氏(しげうじ)は、文安四年(一四四七)信濃より帰り、鎌倉公方となったが、関東管領(かんれい)山内上杉氏と抗争ののち古河(茨城県古河市)に移って古河公方と称し、伊豆の堀越公方・山内上杉氏・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏との勢力争いをつづけた。(享徳の乱)

足利政氏は、その後、子高基・義明と不和となり、永正九年(一五一二)に小山(栃木県小山市)に移り、同十五年頃、ここ甘棠院に隠居したと伝えられる。

境内には、「享禄四年七月十八年甘棠院殿吉山道長大禅定門」の銘を刻んだ足利政氏の五輪塔がある。

       甘棠院の指定文化財

       ー  省略  ー 

          

平成三年三月二十五日
               埼 玉 県 教 育 委 員 会
               久 喜 市 教 育 委 員 会
               甘     棠       院  」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

PR

  • 甘棠院総門<br /><br />総門に入る手前には左右に配された石門があり、足利氏家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が刻されています。

    甘棠院総門

    総門に入る手前には左右に配された石門があり、足利氏家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が刻されています。

  • 甘棠院総門(近景)

    甘棠院総門(近景)

  • 足利氏家紋<br /><br />総門上部にも足利氏の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が掲載されています。

    足利氏家紋

    総門上部にも足利氏の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が掲載されています。

  • 甘棠院説明<br /><br />総門と連なるの壁脇には甘棠院説明板があります。

    甘棠院説明

    総門と連なるの壁脇には甘棠院説明板があります。

  • 足利政氏公墓同館阯<br /><br />

    足利政氏公墓同館阯

  • 甘棠院参道と山門<br /><br />

    甘棠院参道と山門

  • 甘棠院山門

    甘棠院山門

  • 足利政氏居館空堀

    足利政氏居館空堀

  • 足利政氏居館空堀

    足利政氏居館空堀

  • 甘棠院山門<br /><br />山門に掲載されている「永安山」山額が見えます。

    甘棠院山門

    山門に掲載されている「永安山」山額が見えます。

  • 甘棠院

    甘棠院

  • 甘棠院玄関

    甘棠院玄関

  • 「足利政氏館跡及び墓」の説明板

    「足利政氏館跡及び墓」の説明板

  • 「足利政氏館跡及び墓」説明板

    「足利政氏館跡及び墓」説明板

  • 甘棠院・本堂

    甘棠院・本堂

  • 甘棠院・境内

    甘棠院・境内

  • 足利政氏館跡・空堀<br /><br />館跡の東側にも僅かながら空堀の遺構が確認されます。

    足利政氏館跡・空堀

    館跡の東側にも僅かながら空堀の遺構が確認されます。

  • 足利政氏館跡・土塁<br /><br />館跡の北側には土塁の一部が残っているのがわかります。

    足利政氏館跡・土塁

    館跡の北側には土塁の一部が残っているのがわかります。

  • 鐘楼堂

    鐘楼堂

  • 菩薩石造群

    菩薩石造群

  • 足利政氏五輪塔

    イチオシ

    足利政氏五輪塔

  • 足利政氏五輪塔一部

    足利政氏五輪塔一部

  • 足利氏家紋<br /><br />五輪塔の全部には足利氏の家紋である「丸に二引」が刻されています。

    足利氏家紋

    五輪塔の全部には足利氏の家紋である「丸に二引」が刻されています。

  • 歴代住職墓群

    歴代住職墓群

  • 甘棠院境内

    甘棠院境内

  • 足利政氏館跡

    足利政氏館跡

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