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東武伊勢崎線加須駅より朝日バスにてJR鴻巣駅行約15分、騎西城(きさいじょう、埼玉県加須市根小屋)は築城年代及び築城者は不明ですが、南北朝時代において鎌倉公方と関東管領上杉氏が対立するなか、鎌倉から下総古河に拠点を移し古河公方と称した足利成氏(あしかが・しげうじ、14328~1497)が康生元年(1455)に敵対する上杉氏庶流の深谷上杉憲信(うえすぎ・のりのぶ、生没年不詳)と長尾景仲(ながお・かげなか、1388~1463)が守る騎西城を攻撃したとされ、その後同城は古河公方側の最前線基地として役割を果たします。<br /><br />戦国時代後期では関東管領に就任した上杉謙信と相模から武蔵に支配地を拡大する小田原北条氏との覇権争いに巻込まれ、謙信が越山して関東に戦いを展開すると謙信側に、謙信が帰越すると北条氏の活発な勢力伸長に呑まれて北条方に付くという迎合と離反を繰り返す諸国小領主と同様の動きに終始することになります。<br /><br />永禄12年(1569)6月越相同盟が結ばれると関東の小領主の帰属が焦点となり謙信が要求した武蔵北部六領(深谷・羽生・鉢形・成田・岩村・松山)のうち深谷・羽生が謙信側に帰属、騎西城に影響力を有する深谷上杉氏は元亀2年(1571)北条氏康死亡を機に越相同盟は崩壊、崩壊後も深谷上杉氏は謙信方に留まり、新たに同盟を組んだ北条・武田の進攻を受ける事になります。<br /><br />天正元年(1573)2月小田原北条氏の攻撃を受けて深谷城を本拠とする上杉憲盛(うえすぎ・のりもり)は耐え切れず開城小田原北条氏と和睦、天正6年(1578)憲盛死去に伴い跡目を継いだ氏憲(うじのり)に対し小田原北条氏政は養女を嫁して氏憲の室とし、小田原北条氏の体制に組み込まれていきます。<br /><br />天正18年(1590)小田原の役では上杉氏憲は重臣以下を深谷城に残し小田原城に詰めますが物量豊富な豊臣軍の包囲に耐え切れず開城し北条氏は没落、騎西城での動向は不明ですが城代以下の留守部隊が籠城していたと思われ、深谷城の降伏開城に従い開城したと思われます。<br /><br />関東移封された徳川家康は主たる重要地域に重臣を配置するなか、松井松平家松平康重(まつだいら・やすしげ、1568~1640)に2万石を以て騎西城を与え騎西藩成立、以降大久保忠常(おおくぼ・ただつね)・忠職(ただもと)父子が藩主となり寛永9年(1632)、3万石加増し5万石を以て美濃加納藩へ転封、騎西城は廃城、騎西藩は廃藩、その後当地は川越藩に帰属となります。<br /><br /><br />「 騎 西 城 跡<br /><br />騎西(私市・きさい)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。永禄六年(1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(うえすぎ・てるとら、謙信)が攻め落としている。<br /><br />徳川家康が関東に入った天正十八年(1590)、松平康重が二万石で城主となる。康重は大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている。その後、大久保忠常・忠職父子が城主となり、玉敷神社を現在に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った。寛永九年(1632)、忠職の美濃国加納城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。<br /><br /><br /><br />ー掘り出された騎西城ー<br /><br />昭和五十四年からの発掘調査により、城郭・武家屋敷跡から戦国?江戸初期の堀跡や武器・武具・生活用具が出土している。城の周囲は二重の障子堀が巡り、掘幅の最大は45メ?トルであった。激戦に備え総力で築いたことを物語っている。<br /><br />出土品は多様で、国内外の陶磁器、矢じり・鎧金具・火打金等の金属製品がある。このほか、大量の漆・木製品も出土している。漆黒の兜、金色に輝く馬の鎧、鶴文の漆椀に加え、下駄・荷札・呪符・護符など、いずれも城下の暮らしぶりを鮮やかに蘇らせる。」<br />

武蔵加須 関東の中央部に位置し古河公方方と対峙する上杉家方の境目ゆえ幾たびの戦禍に遭うも平城ながら四方を沼に囲まれた難攻不落『騎西城』訪問

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2016/02/21 - 2016/02/21

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滝山氏照

滝山氏照さん

東武伊勢崎線加須駅より朝日バスにてJR鴻巣駅行約15分、騎西城(きさいじょう、埼玉県加須市根小屋)は築城年代及び築城者は不明ですが、南北朝時代において鎌倉公方と関東管領上杉氏が対立するなか、鎌倉から下総古河に拠点を移し古河公方と称した足利成氏(あしかが・しげうじ、14328~1497)が康生元年(1455)に敵対する上杉氏庶流の深谷上杉憲信(うえすぎ・のりのぶ、生没年不詳)と長尾景仲(ながお・かげなか、1388~1463)が守る騎西城を攻撃したとされ、その後同城は古河公方側の最前線基地として役割を果たします。

戦国時代後期では関東管領に就任した上杉謙信と相模から武蔵に支配地を拡大する小田原北条氏との覇権争いに巻込まれ、謙信が越山して関東に戦いを展開すると謙信側に、謙信が帰越すると北条氏の活発な勢力伸長に呑まれて北条方に付くという迎合と離反を繰り返す諸国小領主と同様の動きに終始することになります。

永禄12年(1569)6月越相同盟が結ばれると関東の小領主の帰属が焦点となり謙信が要求した武蔵北部六領(深谷・羽生・鉢形・成田・岩村・松山)のうち深谷・羽生が謙信側に帰属、騎西城に影響力を有する深谷上杉氏は元亀2年(1571)北条氏康死亡を機に越相同盟は崩壊、崩壊後も深谷上杉氏は謙信方に留まり、新たに同盟を組んだ北条・武田の進攻を受ける事になります。

天正元年(1573)2月小田原北条氏の攻撃を受けて深谷城を本拠とする上杉憲盛(うえすぎ・のりもり)は耐え切れず開城小田原北条氏と和睦、天正6年(1578)憲盛死去に伴い跡目を継いだ氏憲(うじのり)に対し小田原北条氏政は養女を嫁して氏憲の室とし、小田原北条氏の体制に組み込まれていきます。

天正18年(1590)小田原の役では上杉氏憲は重臣以下を深谷城に残し小田原城に詰めますが物量豊富な豊臣軍の包囲に耐え切れず開城し北条氏は没落、騎西城での動向は不明ですが城代以下の留守部隊が籠城していたと思われ、深谷城の降伏開城に従い開城したと思われます。

関東移封された徳川家康は主たる重要地域に重臣を配置するなか、松井松平家松平康重(まつだいら・やすしげ、1568~1640)に2万石を以て騎西城を与え騎西藩成立、以降大久保忠常(おおくぼ・ただつね)・忠職(ただもと)父子が藩主となり寛永9年(1632)、3万石加増し5万石を以て美濃加納藩へ転封、騎西城は廃城、騎西藩は廃藩、その後当地は川越藩に帰属となります。


「 騎 西 城 跡

騎西(私市・きさい)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。永禄六年(1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(うえすぎ・てるとら、謙信)が攻め落としている。

徳川家康が関東に入った天正十八年(1590)、松平康重が二万石で城主となる。康重は大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている。その後、大久保忠常・忠職父子が城主となり、玉敷神社を現在に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った。寛永九年(1632)、忠職の美濃国加納城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。



ー掘り出された騎西城ー

昭和五十四年からの発掘調査により、城郭・武家屋敷跡から戦国?江戸初期の堀跡や武器・武具・生活用具が出土している。城の周囲は二重の障子堀が巡り、掘幅の最大は45メ?トルであった。激戦に備え総力で築いたことを物語っている。

出土品は多様で、国内外の陶磁器、矢じり・鎧金具・火打金等の金属製品がある。このほか、大量の漆・木製品も出土している。漆黒の兜、金色に輝く馬の鎧、鶴文の漆椀に加え、下駄・荷札・呪符・護符など、いずれも城下の暮らしぶりを鮮やかに蘇らせる。」

旅行の満足度
4.0
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄
  • 加須駅周辺地図<br /><br /><br /><br />

    加須駅周辺地図



  • 騎西城<br /><br />福祉センターの一角に模擬天守閣を頂いた騎西(きさい)城が認められますが本来の騎西城は平城で往時の姿とは無関係の城郭となっています。

    騎西城

    福祉センターの一角に模擬天守閣を頂いた騎西(きさい)城が認められますが本来の騎西城は平城で往時の姿とは無関係の城郭となっています。

  • 天神曲輪<br /><br />往時の城跡の一部として「天神曲輪」の標柱が立っています。

    天神曲輪

    往時の城跡の一部として「天神曲輪」の標柱が立っています。

  • 生涯学習センター玄関

    生涯学習センター玄関

  • 案内板<br /><br />騎西城内部は「郷土資料展示室」となって種々資料が展示されています。入口に立っている説明板によると実際の騎西城は空堀と土塁で造られた平屋の城跡であったとのことです。

    案内板

    騎西城内部は「郷土資料展示室」となって種々資料が展示されています。入口に立っている説明板によると実際の騎西城は空堀と土塁で造られた平屋の城跡であったとのことです。

  • 騎西の遺跡地図<br /><br />地図によれば周辺には「多賀谷氏館跡」、「道智氏館跡」及び「戸崎城跡」の遺跡の存在が認められます。

    騎西の遺跡地図

    地図によれば周辺には「多賀谷氏館跡」、「道智氏館跡」及び「戸崎城跡」の遺跡の存在が認められます。

  • 騎西城跡と現状地図比較<br /><br />往時の騎西城域と現在の地図が重なっているので位置関係が理解できます。

    騎西城跡と現状地図比較

    往時の騎西城域と現在の地図が重なっているので位置関係が理解できます。

  • 騎西城略年表

    騎西城略年表

  • 戦国時代における騎西城の地理的重要性<br /><br />古河公方側と上杉氏との勢力地図が上杉氏と小田原北条氏との勢力地図に変わる状況が窺えます。

    戦国時代における騎西城の地理的重要性

    古河公方側と上杉氏との勢力地図が上杉氏と小田原北条氏との勢力地図に変わる状況が窺えます。

  • 騎西町全図

    騎西町全図

  • 騎西城絵図

    騎西城絵図

  • 市街展望<br /><br />騎西城最上階から市街を一望します。当該城はいわゆるベランダがないので室内の窓からの視界しかありません。

    市街展望

    騎西城最上階から市街を一望します。当該城はいわゆるベランダがないので室内の窓からの視界しかありません。

  • 市街展望<br /><br />騎西城天守から県道36号(加須鴻巣線)道路を一望します。

    市街展望

    騎西城天守から県道36号(加須鴻巣線)道路を一望します。

  • 福祉センター内部風景

    福祉センター内部風景

  • 城郭風景

    城郭風景

  • 城郭風景

    城郭風景

  • 城郭風景

    城郭風景

  • 城郭風景

    城郭風景

  • 沼地跡<br />

    沼地跡

  • 模擬天守

    模擬天守

  • 天守風景

    天守風景

  • 騎西城跡説明

    騎西城跡説明

  • 騎西城縄張<br /><br />城郭の周りは沼地に囲まれていることがわかります。

    騎西城縄張

    城郭の周りは沼地に囲まれていることがわかります。

  • 城郭風景<br /><br />騎西城から生涯学習センター向を捉えます。

    城郭風景

    騎西城から生涯学習センター向を捉えます。

  • 土塁の一部<br /><br />県道加須鴻巣線(バス通り)に面して土塁の一部が残されています。

    土塁の一部

    県道加須鴻巣線(バス通り)に面して土塁の一部が残されています。

  • 土塁

    土塁

  • 私市城阯柱標<br /><br />残された土塁の上部には「私市城阯」と記された柱標が見えます。私市城は騎西城の別称です。

    私市城阯柱標

    残された土塁の上部には「私市城阯」と記された柱標が見えます。私市城は騎西城の別称です。

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