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盛岡城(もりおかじょう、岩手県盛岡市内丸1)は天正18年(1590)、天下統一を果たした豊臣秀吉から所領の安堵を受けた南部信直(なんぶ・のぶなお、1546~1599)が慶長2年(1597)に嫡男利直(としなお)に不来方に築城を命じ慶長年間に完成した東北では珍しい総石垣の城として著名です。<br /><br />そもそも南部氏は前九年の役並びに後三年の役で活躍した源氏の棟梁八幡太郎義家の実弟である新羅三郎義光を遠祖とする清和源氏の流れで、義光は後三年の役の軍功により常陸介、甲斐守と出世を果たします。<br /><br />義光の二男義清(よしきよ)はその子清光(きよみつ)とともに常陸国から甲斐国に移り祖父義光が在任中居住していた巨摩郡に移り後の甲斐源氏の発展の基礎を築きます。<br /><br />清光の二男は武田氏の初代当主として武田信義(たけだ・のぶよし、1128~1186)と名乗り甲斐源氏の旗頭として一時は源頼朝を凌ぐ勢力にまで発展、然しながら平家に反旗を翻し初めての武家政治を鎌倉にて開いた頼朝は甲斐源氏の伸長を脅威に感じ、信義の協力者である長男一条氏を誅殺する一方、信義を頼朝の一御家人の扱い並みに冷遇し、併せて彼の息子一族を個別に厚遇と弾圧を巧妙に仕組み甲斐源氏の勢力分散を図ります。<br /><br />その中で信義二男で甲斐加賀美郷に本拠を置く加賀美遠光(かがみ・とうみつ、1143~1230)は当初より親頼朝方として石橋山合戦に参戦、やがて頼朝鎌倉入府以降御家人として頼朝から高い信頼を得た武将となります。<br /><br />南部氏の初代光行は遠光の三男で、甲斐富士川の南部領に所領が在った事から自らを南部氏と名乗りますが、文治5年(1189)頼朝が奥州平泉藤原氏討伐に従軍し側近として仕え、戦後はその戦功により奥州糠部郡五郡(現在の岩手県北部)を与えられたと思われます。<br /><br />そして建久2年(1191)10月、光行は家臣73名を引連れ八戸浦に入国し現地の豪族たちの歓迎を受け住居の提供を受けながら、翌年春に三戸に平ヶ崎城を築き地頭代を配置し、後に鎌倉に戻り没した光行の奥州における家督は二男の実光(さねみつ)が継いだとされています。<br /><br /><br />城郭の一角には盛岡城の紹介が以下の通り記されています。<br /><br /><br />「 国指定史跡 盛岡城跡<br /><br />          所 在 地 盛岡市内丸1番地他<br />          指定年月日 昭和12年4月12日<br /><br />盛岡城は、三戸から不来方(こずかた)に居城の移転を決定した南部信直(なんぶ・のぶなお;盛岡藩初代藩主)が、1597年(慶長2年)に嫡子利直(としなお:2代藩主)を総奉行(そうぶぎょう)として築城を始めたと伝えられ、翌1598年(慶長3年)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。<br /><br />城の縄張は豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二ノ丸・三ノ丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(うちくるわ)(御城内(ごじょうない))としています。<br /><br />さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の重臣たちの屋敷を配置して外曲輪(そとくるわ)としました。また、外曲輪の北側と東側の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(とうくるわ)(総構(そうかま)え)が配置されています。<br /><br />築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の1633年(寛永10年)に南部重直(しげなお)(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。<br /><br />盛岡城は、明治の廃藩置県の後1872年(明治5年)に陸軍省所管となり、1874年(明治7年)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しました。<br /><br />その後、1906年(明治39年)に近代公園の先駆者である長岡安平(ながおかやすへい)の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。<br />2006年(平成18年)には開園100年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。」<br />

陸中盛岡 九戸政実の叛乱で窮地に追い込まれ秀吉支援により統一を果たした甲斐源氏後裔である南部信直が三戸から移転して築城の総石垣『盛岡城』訪問

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2015/08/10 - 2015/08/10

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滝山氏照

滝山氏照さん

盛岡城(もりおかじょう、岩手県盛岡市内丸1)は天正18年(1590)、天下統一を果たした豊臣秀吉から所領の安堵を受けた南部信直(なんぶ・のぶなお、1546~1599)が慶長2年(1597)に嫡男利直(としなお)に不来方に築城を命じ慶長年間に完成した東北では珍しい総石垣の城として著名です。

そもそも南部氏は前九年の役並びに後三年の役で活躍した源氏の棟梁八幡太郎義家の実弟である新羅三郎義光を遠祖とする清和源氏の流れで、義光は後三年の役の軍功により常陸介、甲斐守と出世を果たします。

義光の二男義清(よしきよ)はその子清光(きよみつ)とともに常陸国から甲斐国に移り祖父義光が在任中居住していた巨摩郡に移り後の甲斐源氏の発展の基礎を築きます。

清光の二男は武田氏の初代当主として武田信義(たけだ・のぶよし、1128~1186)と名乗り甲斐源氏の旗頭として一時は源頼朝を凌ぐ勢力にまで発展、然しながら平家に反旗を翻し初めての武家政治を鎌倉にて開いた頼朝は甲斐源氏の伸長を脅威に感じ、信義の協力者である長男一条氏を誅殺する一方、信義を頼朝の一御家人の扱い並みに冷遇し、併せて彼の息子一族を個別に厚遇と弾圧を巧妙に仕組み甲斐源氏の勢力分散を図ります。

その中で信義二男で甲斐加賀美郷に本拠を置く加賀美遠光(かがみ・とうみつ、1143~1230)は当初より親頼朝方として石橋山合戦に参戦、やがて頼朝鎌倉入府以降御家人として頼朝から高い信頼を得た武将となります。

南部氏の初代光行は遠光の三男で、甲斐富士川の南部領に所領が在った事から自らを南部氏と名乗りますが、文治5年(1189)頼朝が奥州平泉藤原氏討伐に従軍し側近として仕え、戦後はその戦功により奥州糠部郡五郡(現在の岩手県北部)を与えられたと思われます。

そして建久2年(1191)10月、光行は家臣73名を引連れ八戸浦に入国し現地の豪族たちの歓迎を受け住居の提供を受けながら、翌年春に三戸に平ヶ崎城を築き地頭代を配置し、後に鎌倉に戻り没した光行の奥州における家督は二男の実光(さねみつ)が継いだとされています。


城郭の一角には盛岡城の紹介が以下の通り記されています。


「 国指定史跡 盛岡城跡

          所 在 地 盛岡市内丸1番地他
          指定年月日 昭和12年4月12日

盛岡城は、三戸から不来方(こずかた)に居城の移転を決定した南部信直(なんぶ・のぶなお;盛岡藩初代藩主)が、1597年(慶長2年)に嫡子利直(としなお:2代藩主)を総奉行(そうぶぎょう)として築城を始めたと伝えられ、翌1598年(慶長3年)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。

城の縄張は豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二ノ丸・三ノ丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(うちくるわ)(御城内(ごじょうない))としています。

さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の重臣たちの屋敷を配置して外曲輪(そとくるわ)としました。また、外曲輪の北側と東側の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(とうくるわ)(総構(そうかま)え)が配置されています。

築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の1633年(寛永10年)に南部重直(しげなお)(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。

盛岡城は、明治の廃藩置県の後1872年(明治5年)に陸軍省所管となり、1874年(明治7年)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しました。

その後、1906年(明治39年)に近代公園の先駆者である長岡安平(ながおかやすへい)の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
2006年(平成18年)には開園100年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。」

旅行の満足度
4.5
交通手段
高速・路線バス JRローカル

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  • JR盛岡駅舎<br /><br />観光案内所で盛岡城跡へ行く交通手段を問合せ市内循環バスに乗車します。

    JR盛岡駅舎

    観光案内所で盛岡城跡へ行く交通手段を問合せ市内循環バスに乗車します。

  • 盛岡城跡公園<br /><br />循環バスにて約8分、「盛岡城跡公園」で下車すると高く積まれた石垣が視野に入ります。位置関係としては城郭の西側に来ているようです。<br /><br />当公園は明治23年(1890)に城跡地を南部家が政府から払下げを受け、明治36年(1903)から岩手県が公園整備計画に着酢し、長岡安平の設計により明治39年9月15日岩手公園として開園、平成18年(2006)岩手公園開園100周年を機に愛称を「盛岡城跡公園」としています。<br />

    盛岡城跡公園

    循環バスにて約8分、「盛岡城跡公園」で下車すると高く積まれた石垣が視野に入ります。位置関係としては城郭の西側に来ているようです。

    当公園は明治23年(1890)に城跡地を南部家が政府から払下げを受け、明治36年(1903)から岩手県が公園整備計画に着酢し、長岡安平の設計により明治39年9月15日岩手公園として開園、平成18年(2006)岩手公園開園100周年を機に愛称を「盛岡城跡公園」としています。

  • 盛岡城跡公園案内図<br /><br />バス停の通り側に立てられた城跡公園案内図で城郭内部を確認します。東西を中津川と北上川で挟まれ、南から本丸・二ノ丸・三ノ丸で繋がった連郭式の城であることがわかります。

    盛岡城跡公園案内図

    バス停の通り側に立てられた城跡公園案内図で城郭内部を確認します。東西を中津川と北上川で挟まれ、南から本丸・二ノ丸・三ノ丸で繋がった連郭式の城であることがわかります。

  • 盛岡城見取図と写真<br /><br />案内板には明和3年(1766)当時の見取図及び明治初期の本丸写真が掲載されています。

    盛岡城見取図と写真

    案内板には明和3年(1766)当時の見取図及び明治初期の本丸写真が掲載されています。

  • 盛岡城石垣<br /><br />東北では珍しく総石垣の城で、しかも豊臣秀吉の欧州仕置き後に建設始めたこともあり、石積み方法も「切り込みハギ」という完成された工法が採用され、近代的な築城技術が施されています。

    盛岡城石垣

    東北では珍しく総石垣の城で、しかも豊臣秀吉の欧州仕置き後に建設始めたこともあり、石積み方法も「切り込みハギ」という完成された工法が採用され、近代的な築城技術が施されています。

  • 榊山稲荷曲輪石垣<br /><br />左右の石垣が交差する最も重力が掛かる角部は算木積みで切込みハギにて稜線も明確に積み直されています。

    榊山稲荷曲輪石垣

    左右の石垣が交差する最も重力が掛かる角部は算木積みで切込みハギにて稜線も明確に積み直されています。

  • 盛岡城説明板

    盛岡城説明板

  • 盛岡城見取図等<br /><br />基本構成としては城郭は旧北上川と中津川の合流点に突出した小丘陵に配され、城郭の北側を囲むように堀を巡らせています。

    盛岡城見取図等

    基本構成としては城郭は旧北上川と中津川の合流点に突出した小丘陵に配され、城郭の北側を囲むように堀を巡らせています。

  • 二ノ丸西側石垣<br /><br />本丸西側に井戸跡があったという石垣を捉えます。

    二ノ丸西側石垣

    本丸西側に井戸跡があったという石垣を捉えます。

  • 盛岡城由来<br /><br />当初は不来方(こずかた)城と呼ばれていましたが、南部信直がそれまでの本拠九戸城から当地に築城するにあたり「盛り上がり栄える岡」を願って盛岡城に改称したことに始まります。

    盛岡城由来

    当初は不来方(こずかた)城と呼ばれていましたが、南部信直がそれまでの本拠九戸城から当地に築城するにあたり「盛り上がり栄える岡」を願って盛岡城に改称したことに始まります。

  • 坂下門跡<br /><br />かつては城郭の西側に流れていた旧北上川を筋違橋で渡り、坂下門を潜ってなだらかな坂を登って帯曲輪入口に吹上門跡がありました。<br /><br />

    坂下門跡

    かつては城郭の西側に流れていた旧北上川を筋違橋で渡り、坂下門を潜ってなだらかな坂を登って帯曲輪入口に吹上門跡がありました。

  • 吹上門跡

    吹上門跡

  • 吹上門跡<br /><br />正面方向は石段を登って本丸へ、左方向は二ノ丸へそして右方向は腰曲輪を経て淡路丸へそれぞれ繋がっています。

    吹上門跡

    正面方向は石段を登って本丸へ、左方向は二ノ丸へそして右方向は腰曲輪を経て淡路丸へそれぞれ繋がっています。

  • 二ノ丸方向

    二ノ丸方向

  • 淡路丸方向へ

    淡路丸方向へ

  • 腰曲輪(こしぐるわ)跡石碑

    腰曲輪(こしぐるわ)跡石碑

  • 腰曲輪遺構変遷説明板

    腰曲輪遺構変遷説明板

  • 腰曲輪石垣<br /><br />

    腰曲輪石垣

  • 腰曲輪風景<br /><br />

    腰曲輪風景

  • 本丸石段

    本丸石段

  • 吹上門跡

    吹上門跡

  • 本丸南西部の石垣<br /><br />発掘調査結果として元和年間(17世紀前半)における本丸拡張によって築城期(16世紀末〜17世紀初)の石垣が覆われていたことが判明しています。

    本丸南西部の石垣

    発掘調査結果として元和年間(17世紀前半)における本丸拡張によって築城期(16世紀末〜17世紀初)の石垣が覆われていたことが判明しています。

  • 本丸西側石垣

    本丸西側石垣

  • 本丸西側石垣

    本丸西側石垣

  • 本丸西側石垣

    本丸西側石垣

  • 廊下橋<br /><br />右側の本丸と左側の二ノ丸を繋ぐ廊下橋を西側から捉えます。

    廊下橋

    右側の本丸と左側の二ノ丸を繋ぐ廊下橋を西側から捉えます。

  • 廊下橋<br /><br />本丸と二ノ丸とは空堀で仕切られており、唯一の渡り橋には屋根が付随されていました。

    廊下橋

    本丸と二ノ丸とは空堀で仕切られており、唯一の渡り橋には屋根が付随されていました。

  • 二ノ丸石柱<br /><br />本丸を更に北進すると二ノ丸に入ります。二ノ丸には主として大書院があり、さまざまな儀式・儀礼が行われたり藩主との対面の場となっていました。<br /><br />

    二ノ丸石柱

    本丸を更に北進すると二ノ丸に入ります。二ノ丸には主として大書院があり、さまざまな儀式・儀礼が行われたり藩主との対面の場となっていました。

  • 二ノ丸風景

    二ノ丸風景

  • 石川啄木歌碑<br /><br />二ノ丸の一角に建つ歌碑「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」は昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して製作されたもので、歌碑の文字は啄木の恩友であった金田一京助の書だそうです。

    石川啄木歌碑

    二ノ丸の一角に建つ歌碑「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」は昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して製作されたもので、歌碑の文字は啄木の恩友であった金田一京助の書だそうです。

  • 啄木歌碑説明板

    啄木歌碑説明板

  • 車門跡<br /><br />二ノ丸と三ノ丸を繋ぐ車門がありました。<br />

    車門跡

    二ノ丸と三ノ丸を繋ぐ車門がありました。

  • 本丸方向

    本丸方向

  • 廊下橋<br /><br />本丸と二ノ丸は朱色で塗られた廊下橋で繋がれています。

    廊下橋

    本丸と二ノ丸は朱色で塗られた廊下橋で繋がれています。

  • 二ノ丸の建物説明板

    二ノ丸の建物説明板

  • 廊下橋

    廊下橋

  • 廊下橋<br /><br />本丸と二ノ丸とを繋ぐ廊下橋から左側を一望します。

    廊下橋

    本丸と二ノ丸とを繋ぐ廊下橋から左側を一望します。

  • 廊下門<br /><br />本丸と二ノ丸とは切り離されており、廊下橋が戦国時代の土橋と同様の役割をし、敵の攻撃があった場合は廊下橋を壊して本丸への進入阻止する仕組みとなっています。

    廊下門

    本丸と二ノ丸とは切り離されており、廊下橋が戦国時代の土橋と同様の役割をし、敵の攻撃があった場合は廊下橋を壊して本丸への進入阻止する仕組みとなっています。

  • 本丸<br /><br />本丸の廊下橋側には廊下橋門が配されていました。本丸には城主の藩政や住居としての御殿が建っていました。

    本丸

    本丸の廊下橋側には廊下橋門が配されていました。本丸には城主の藩政や住居としての御殿が建っていました。

  • 本丸石柱

    本丸石柱

  • 本丸石柱(近景)

    本丸石柱(近景)

  • 南部利祥中尉銅像台座<br /><br />南部家42代当主の利祥(としなが、1882〜1905)は日露戦争に従軍し井口嶺の戦で戦死、叙勲を機に銅像が造られますが昭和19年に軍需資材として供出され今でも台座のみが残されています。

    南部利祥中尉銅像台座

    南部家42代当主の利祥(としなが、1882〜1905)は日露戦争に従軍し井口嶺の戦で戦死、叙勲を機に銅像が造られますが昭和19年に軍需資材として供出され今でも台座のみが残されています。

  • 南部利祥中尉説明板

    南部利祥中尉説明板

  • 本丸北西部の発掘調査説明板<br /><br />説明では廊下橋の本丸側には廊下橋門、北西角には小納戸櫓が建てられ、廊下橋と小納戸櫓との間には多聞櫓で結ばれていたそうです

    本丸北西部の発掘調査説明板

    説明では廊下橋の本丸側には廊下橋門、北西角には小納戸櫓が建てられ、廊下橋と小納戸櫓との間には多聞櫓で結ばれていたそうです

  • 本丸風景

    本丸風景

  • 末門跡

    末門跡

  • 末門跡

    末門跡

  • 末門坂

    末門坂

  • 末門下

    末門下

  • 台所跡

    台所跡

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 桜山神社跡<br /><br />腰曲輪の一部に盛岡初代城主である南部信直(なんぶ・のぶなお)並びに利直(としなお)を祀った桜山神社がありました。<br /><br />

    桜山神社跡

    腰曲輪の一部に盛岡初代城主である南部信直(なんぶ・のぶなお)並びに利直(としなお)を祀った桜山神社がありました。

  • 腰曲輪

    腰曲輪

  • 腰曲輪の建物説明板

    腰曲輪の建物説明板

  • 盛岡城跡

    盛岡城跡

  • 御宝蔵跡

    御宝蔵跡

  • 御宝蔵跡標柱

    御宝蔵跡標柱

  • 宝蔵跡

    宝蔵跡

  • 本丸隅櫓跡

    本丸隅櫓跡

  • 腰曲輪石柱

    腰曲輪石柱

  • 腰曲輪南端

    腰曲輪南端

  • 腰曲輪南端風景<br /><br />

    腰曲輪南端風景

  • 桜山神社石碑<br /><br />当該神社は寛延2年(1749)、8代藩主南部利視(なんぶ・としみ)が初代藩主南部信直の功績を称えて創建したのが始まりと言われています。

    桜山神社石碑

    当該神社は寛延2年(1749)、8代藩主南部利視(なんぶ・としみ)が初代藩主南部信直の功績を称えて創建したのが始まりと言われています。

  • 二階櫓跡

    二階櫓跡

  • 二ノ丸<br /><br />台所跡から二ノ丸方向に坂を上がります。

    二ノ丸

    台所跡から二ノ丸方向に坂を上がります。

  • 廊下橋<br /><br />二ノ丸を右折して二ノ丸石垣に沿って三ノ丸を目指します。

    廊下橋

    二ノ丸を右折して二ノ丸石垣に沿って三ノ丸を目指します。

  • 二段積み二ノ丸石垣<br /><br />従来の石垣の前面に低い石垣を配している珍しい石垣です。石積みの状況から従来の石垣が打ち込みハギに対し手前が切込みハギとなっていることから手前の石垣は後年に積まれたものと思われます。

    イチオシ

    二段積み二ノ丸石垣

    従来の石垣の前面に低い石垣を配している珍しい石垣です。石積みの状況から従来の石垣が打ち込みハギに対し手前が切込みハギとなっていることから手前の石垣は後年に積まれたものと思われます。

  • 二ノ丸東側石垣

    二ノ丸東側石垣

  • 二ノ丸東側石垣<br /><br />今まで通ってきた道を振り返ります。<br />

    二ノ丸東側石垣

    今まで通ってきた道を振り返ります。

  • 三ノ丸跡

    三ノ丸跡

  • 三ノ丸石柱

    三ノ丸石柱

  • 二ノ丸方向<br /><br />三ノ丸から二ノ丸に繋がる路が見えます。

    二ノ丸方向

    三ノ丸から二ノ丸に繋がる路が見えます。

  • 烏帽子岩

    烏帽子岩

  • 烏帽子岩由来説明

    烏帽子岩由来説明

  • 三ノ丸風景<br /><br />烏帽子岩から三ノ丸跡方向を一望します。

    三ノ丸風景

    烏帽子岩から三ノ丸跡方向を一望します。

  • 瓦門跡

    瓦門跡

  • 三ノ丸風景<br /><br />瓦門跡付近から三ノ丸を経て二ノ丸へ繋ぐ門跡を一望します。<br />

    三ノ丸風景

    瓦門跡付近から三ノ丸を経て二ノ丸へ繋ぐ門跡を一望します。

  • 三ノ丸瓦門跡

    三ノ丸瓦門跡

  • 史跡盛岡城趾石柱<br /><br />三ノ丸瓦門を出ると盛岡城跡を示す石柱が庭園風の敷地に建っています。

    史跡盛岡城趾石柱

    三ノ丸瓦門を出ると盛岡城跡を示す石柱が庭園風の敷地に建っています。

  • 三ノ丸石垣

    三ノ丸石垣

  • 三ノ丸石垣

    三ノ丸石垣

  • 枡形門跡<br /><br />三ノ丸北西にあった枡形門跡付近の堀と土塁を捉えます。

    枡形門跡

    三ノ丸北西にあった枡形門跡付近の堀と土塁を捉えます。

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