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JR東北本線花巻駅より徒歩約15分の河岸段丘にある花巻城(はなまきじょう、岩手県花巻市城内)の前身は鳥谷ケ崎城(とやがさきじょう)と呼ばれ13世紀頃から16世紀頃まで約400年に亘って当地を支配した稗貫(ひえぬき)氏の居城でした。<br /><br />天正18年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置きで稗貫氏は先の小田原北条氏征伐に参戦しなかった理由で領地を没収、以降南部氏の所領と認められ南部氏一族の北秀愛(きた・ひでちか、生誕不詳~1598))が稗貫・和賀二郡8千石城代として城の改修を行いその名を花巻城と改称、慶長3年(1598)秀愛没後は父北信愛の城代として花巻城と城下町の整備に務めます。<br /><br />その後は藩主南部利直二男政直(まさなお、1599~1624)が花巻城主として入封、一国一城令の後も南部藩の支城として認められ、政直没後は城代が置かれ穀倉地である稗貫・和賀地方を統轄する中心地として維新まで支配が続きます。<br /><br /><br />花巻城に関しては花巻市のホームページに詳細に記載されています。<br /><br /><br />【花巻城と城下の発展】<br />花巻城はその前身を鳥谷ケ崎城といい、稗貫地方(現在の花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町の一部)を治めた稗貫氏の居城でした。<br /><br />天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きのおり、稗貫氏は領地を没収され、この地は南部氏の領有となりました。<br /><br />近年の発掘調査の成果から、16世紀末から17世紀初頭に石垣の構築、土塁・堀割の強化など大幅な改修が加えられたことがわかっており、南部氏の所領となって間もない頃に旧鳥谷ケ城から花巻城へと姿を変えていったものと考えられます。<br /><br /><br />【花巻城の構造】<br />南北に約500メ?トル、東西で最大700メ?トル以上あり、総面積は、約20万平方メ?トルを越える威容を誇ります。<br /><br />奥羽山脈から東にのびる段丘の突出部分を利用した城で、下位の段丘面との比高は約12メ?トルほどあります。<br /><br />周辺には北上川及びその支流である豊沢川、瀬川、猿ケ石川が流れていて、花巻城は天然の要害であると共に水運の要所でもありました。<br /><br />【城の概要】<br />城は本丸、二之丸、三之丸の三郭によって構成され、本丸には藩主が宿泊すれ御殿と城代以下の役人が詰める御用の間がありました。二之丸には、八通り(和賀稗貫二郡の北上川にある8地区)の年貢米を収納する土蔵がありました。<br /><br />八通りの総石高は約8万石で、藩全体でもおよそ26万石(表高10万石)でしたから、藩内でも屈指の穀倉地帯でした。この年貢米は江戸に向けて川船で運搬され、河川工事の普請奉行は花巻に置かれていました。<br /><br />三之丸には武家屋敷が軒を連ねていました。盛岡藩は南の仙台藩と藩境を接しているため、花巻城が警備のための駐屯基地の役割を担いました。<br /><br />武家屋敷は三之丸のほかに、中小路や御田屋小路など城南にもあり、奥州街道沿いには吹張御組、向御組など下級武士の屋敷が配されていました。<br /><br />【城下の繁栄】<br />軍事上の重要拠点であり、藩ぞ財政を支える米所の管轄もおこなった花巻城は、舟運・陸運(城下に駅所が置かれていました)の便がよく、城下には一日市・四日市・八日市(のち川口町)と呼ばれる定期市が開かれました。裏町には、大工町・鍛冶町なのどの職人町もつくられました。<br /><br />また、参勤交代が制度化されると街道の整備も進み城下は史代に宿場町として栄え、盛岡藩はもとより八戸藩や松前藩藩主一行などの宿泊地となりました。<br /><br />このように、花巻城及びその城下は、藩政時代において町人口5千人を数え盛岡に次ぐ第二の都市として繁栄を遂げることとなりました。」<br />

陸中鳥谷ケ崎 小田原征伐に不参陣で秀吉より改易没収された旧稗貫氏知行地を継承した南部氏所領で陸前では随一の穀倉地の中心地『花巻城』訪問

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2015/08/11 - 2015/08/11

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR東北本線花巻駅より徒歩約15分の河岸段丘にある花巻城(はなまきじょう、岩手県花巻市城内)の前身は鳥谷ケ崎城(とやがさきじょう)と呼ばれ13世紀頃から16世紀頃まで約400年に亘って当地を支配した稗貫(ひえぬき)氏の居城でした。

天正18年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置きで稗貫氏は先の小田原北条氏征伐に参戦しなかった理由で領地を没収、以降南部氏の所領と認められ南部氏一族の北秀愛(きた・ひでちか、生誕不詳~1598))が稗貫・和賀二郡8千石城代として城の改修を行いその名を花巻城と改称、慶長3年(1598)秀愛没後は父北信愛の城代として花巻城と城下町の整備に務めます。

その後は藩主南部利直二男政直(まさなお、1599~1624)が花巻城主として入封、一国一城令の後も南部藩の支城として認められ、政直没後は城代が置かれ穀倉地である稗貫・和賀地方を統轄する中心地として維新まで支配が続きます。


花巻城に関しては花巻市のホームページに詳細に記載されています。


【花巻城と城下の発展】
花巻城はその前身を鳥谷ケ崎城といい、稗貫地方(現在の花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町の一部)を治めた稗貫氏の居城でした。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きのおり、稗貫氏は領地を没収され、この地は南部氏の領有となりました。

近年の発掘調査の成果から、16世紀末から17世紀初頭に石垣の構築、土塁・堀割の強化など大幅な改修が加えられたことがわかっており、南部氏の所領となって間もない頃に旧鳥谷ケ城から花巻城へと姿を変えていったものと考えられます。


【花巻城の構造】
南北に約500メ?トル、東西で最大700メ?トル以上あり、総面積は、約20万平方メ?トルを越える威容を誇ります。

奥羽山脈から東にのびる段丘の突出部分を利用した城で、下位の段丘面との比高は約12メ?トルほどあります。

周辺には北上川及びその支流である豊沢川、瀬川、猿ケ石川が流れていて、花巻城は天然の要害であると共に水運の要所でもありました。

【城の概要】
城は本丸、二之丸、三之丸の三郭によって構成され、本丸には藩主が宿泊すれ御殿と城代以下の役人が詰める御用の間がありました。二之丸には、八通り(和賀稗貫二郡の北上川にある8地区)の年貢米を収納する土蔵がありました。

八通りの総石高は約8万石で、藩全体でもおよそ26万石(表高10万石)でしたから、藩内でも屈指の穀倉地帯でした。この年貢米は江戸に向けて川船で運搬され、河川工事の普請奉行は花巻に置かれていました。

三之丸には武家屋敷が軒を連ねていました。盛岡藩は南の仙台藩と藩境を接しているため、花巻城が警備のための駐屯基地の役割を担いました。

武家屋敷は三之丸のほかに、中小路や御田屋小路など城南にもあり、奥州街道沿いには吹張御組、向御組など下級武士の屋敷が配されていました。

【城下の繁栄】
軍事上の重要拠点であり、藩ぞ財政を支える米所の管轄もおこなった花巻城は、舟運・陸運(城下に駅所が置かれていました)の便がよく、城下には一日市・四日市・八日市(のち川口町)と呼ばれる定期市が開かれました。裏町には、大工町・鍛冶町なのどの職人町もつくられました。

また、参勤交代が制度化されると街道の整備も進み城下は史代に宿場町として栄え、盛岡藩はもとより八戸藩や松前藩藩主一行などの宿泊地となりました。

このように、花巻城及びその城下は、藩政時代において町人口5千人を数え盛岡に次ぐ第二の都市として繁栄を遂げることとなりました。」

旅行の満足度
4.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 花巻駅周辺地図<br /><br />花巻駅下車し駅前の周辺地図にて城跡の位置を確認して出発です。

    花巻駅周辺地図

    花巻駅下車し駅前の周辺地図にて城跡の位置を確認して出発です。

  • 宮沢賢治・新渡戸稲造紹介<br /><br />駅前には当市の出身である著名な2名の人物が写真を付して紹介されています。

    宮沢賢治・新渡戸稲造紹介

    駅前には当市の出身である著名な2名の人物が写真を付して紹介されています。

  • 花巻城跡連絡道路

    花巻城跡連絡道路

  • 早坂御門跡標柱<br /><br />花巻城二ノ丸に建立された楼門で参勤交代の時の一日市町・四日町への往来の公道であったそうです。

    早坂御門跡標柱

    花巻城二ノ丸に建立された楼門で参勤交代の時の一日市町・四日町への往来の公道であったそうです。

  • 早坂御門跡説明板

    早坂御門跡説明板

  • 鳥ケ谷崎公園石標<br /><br />石段を上ると鳥ケ谷崎公園となっていますが上らずこのまま道路を進みます。

    鳥ケ谷崎公園石標

    石段を上ると鳥ケ谷崎公園となっていますが上らずこのまま道路を進みます。

  • 花巻小学校校舎<br /><br />花巻城の郡代屋敷跡が現在では小学校となっています。

    花巻小学校校舎

    花巻城の郡代屋敷跡が現在では小学校となっています。

  • 花巻城跡本丸入口標柱<br /><br />花巻小学校の向かい側には花巻城跡本丸入口となっています。

    花巻城跡本丸入口標柱

    花巻小学校の向かい側には花巻城跡本丸入口となっています。

  • 内堀跡<br /><br />本丸入口傍らには薮や草で覆われた内堀跡らしきものが見えます。

    内堀跡

    本丸入口傍らには薮や草で覆われた内堀跡らしきものが見えます。

  • 渡橋<br /><br />草木で覆われた内堀跡を渡る橋が認められます。二之丸と本丸とを繋ぐ橋の一つと思われます。

    渡橋

    草木で覆われた内堀跡を渡る橋が認められます。二之丸と本丸とを繋ぐ橋の一つと思われます。

  • 長屋前御門跡

    長屋前御門跡

  • 雲井橋<br /><br />内堀を渡る橋は「雲井橋」と刻されていますが製作時期はわかりません。かつての橋は本丸と二之丸とを隔てている内堀の規模を考慮すれば相当大きな橋であったと推測されます。

    雲井橋

    内堀を渡る橋は「雲井橋」と刻されていますが製作時期はわかりません。かつての橋は本丸と二之丸とを隔てている内堀の規模を考慮すれば相当大きな橋であったと推測されます。

  • 内堀跡

    内堀跡

  • 鍵御堀跡

    鍵御堀跡

  • 花巻小学校校庭<br /><br />広い二之丸跡の一部は小学校校庭となっています。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    花巻小学校校庭

    広い二之丸跡の一部は小学校校庭となっています。






  • 花巻城跡石柱<br /><br />稗貫氏統治時代は鳥谷ケ崎城と呼ばれていましたが、南部氏の支配となって花巻城となりました。

    花巻城跡石柱

    稗貫氏統治時代は鳥谷ケ崎城と呼ばれていましたが、南部氏の支配となって花巻城となりました。

  • 内堀跡<br /><br />かつての内堀台地下から小学校に上がってくる切通しの道路となっています。<br />

    内堀跡

    かつての内堀台地下から小学校に上がってくる切通しの道路となっています。

  • 長屋跡

    長屋跡

  • 花巻城本丸説明板

    花巻城本丸説明板

  • 花巻城見取図<br /><br />見取図を見れば梯郭式縄張となります。

    花巻城見取図

    見取図を見れば梯郭式縄張となります。

  • 本丸西御門<br /><br />本丸へは本来は橋を渡って西御門に至る道筋となっていました。西御門は花巻町400年記念事業として平成7年に復元されています。<br /><br />

    本丸西御門

    本丸へは本来は橋を渡って西御門に至る道筋となっていました。西御門は花巻町400年記念事業として平成7年に復元されています。

  • 内堀跡<br /><br />西御門手前から右側をみると内堀跡が見えます。

    内堀跡

    西御門手前から右側をみると内堀跡が見えます。

  • 西御門北側<br /><br />石垣を有した急崖の下には瀬川が流れており、敵の進入を厳しくしています。

    西御門北側

    石垣を有した急崖の下には瀬川が流れており、敵の進入を厳しくしています。

  • 西御門<br /><br />

    西御門

  • 本丸西御門<br /><br />復元された本丸西御門は櫓を二階部に配した枡形門となっています。

    本丸西御門

    復元された本丸西御門は櫓を二階部に配した枡形門となっています。

  • 土塁<br /><br />南側に残された土塁が確認できます。

    土塁

    南側に残された土塁が確認できます。

  • 本丸跡南側風景

    本丸跡南側風景

  • 本丸全景<br /><br />西御門辺りから本丸東方向を一望します。

    本丸全景

    西御門辺りから本丸東方向を一望します。

  • 西御門石垣<br /><br />西御門の基部は当時の石垣を使用してるのでしょうか。

    西御門石垣

    西御門の基部は当時の石垣を使用してるのでしょうか。

  • 三社跡

    三社跡

  • 御武具蔵跡

    御武具蔵跡

  • 本丸御井戸

    本丸御井戸

  • 御井戸拡大

    御井戸拡大

  • 本丸南側風景<br /><br />本丸南西部から南東部を捉えます。

    本丸南側風景

    本丸南西部から南東部を捉えます。

  • 御台所御門跡<br /><br />旧領を回復すべく和賀勢が攻撃しましたが、新渡戸稲造の先祖は花巻城代北松斉と共に少数ながら当御台所御門にて敵の進入を食い止めたとのことです。

    御台所御門跡

    旧領を回復すべく和賀勢が攻撃しましたが、新渡戸稲造の先祖は花巻城代北松斉と共に少数ながら当御台所御門にて敵の進入を食い止めたとのことです。

  • 土橋跡<br /><br />本丸と二之丸とを結ぶ渡橋のうち土橋が造られていました。

    土橋跡

    本丸と二之丸とを結ぶ渡橋のうち土橋が造られていました。

  • 御囲殻御蔵前御堀跡<br /><br /><br />

    御囲殻御蔵前御堀跡


  • 内堀跡<br /><br />土橋右脇を下ると内堀が池となっています。

    内堀跡

    土橋右脇を下ると内堀が池となっています。

  • 御台所前御門説明<br /><br />本丸の南口となる門になり、「御台所前御門」は城主が滞在施設である本丸御殿の「御料理之間(おりょうりのま)」と呼ばれる藩主の食事を支度する場所に面していたことによります。

    御台所前御門説明

    本丸の南口となる門になり、「御台所前御門」は城主が滞在施設である本丸御殿の「御料理之間(おりょうりのま)」と呼ばれる藩主の食事を支度する場所に面していたことによります。

  • 本丸風景

    本丸風景

  • 菱櫓跡<br /><br />本丸東端は本丸の中でも高さがあって物見を兼ねた櫓が建立されていたと思われます。

    菱櫓跡

    本丸東端は本丸の中でも高さがあって物見を兼ねた櫓が建立されていたと思われます。

  • 本丸からの風景<br /><br />菱櫓跡から東方の風景を一望します。

    本丸からの風景

    菱櫓跡から東方の風景を一望します。

  • 本丸からの風景<br /><br />今度は北端に廻ると眼下には運送会社の社屋と駐車場にあるトラックが見えます。

    本丸からの風景

    今度は北端に廻ると眼下には運送会社の社屋と駐車場にあるトラックが見えます。

  • 西御門<br /><br />菱櫓跡から本丸を経て西御門を遠くから捉えます。

    西御門

    菱櫓跡から本丸を経て西御門を遠くから捉えます。

  • 石段<br /><br />本丸から北方向(川方向)に下る石段が見え、どうやら眼下に見える小橋に連絡しているようです。藩主時代から存在しているかどうか疑問です。

    石段

    本丸から北方向(川方向)に下る石段が見え、どうやら眼下に見える小橋に連絡しているようです。藩主時代から存在しているかどうか疑問です。

  • 本丸跡標柱<br /><br />本丸には藩主が宿泊する御殿と城代を始めとする役人が詰める「御用の間」がありました。

    本丸跡標柱

    本丸には藩主が宿泊する御殿と城代を始めとする役人が詰める「御用の間」がありました。

  • 西御門<br /><br />「本丸」標柱付近から西御門を一望します。<br /><br /><br />

    西御門

    「本丸」標柱付近から西御門を一望します。


  • 初代二所ノ関軍右エ門墓<br /><br />南部藩主お抱えの力士で、しこ名を滝ノ上音蔵を経て錦木塚右エ門と改め、文化3年(1806)大関となり、引退後は二所ノ関初代年寄となった力士です。

    初代二所ノ関軍右エ門墓

    南部藩主お抱えの力士で、しこ名を滝ノ上音蔵を経て錦木塚右エ門と改め、文化3年(1806)大関となり、引退後は二所ノ関初代年寄となった力士です。

  • 初代二所ノ関軍右エ門墓碑説明

    初代二所ノ関軍右エ門墓碑説明

  • 本丸からの風景<br /><br />本丸北西からの展望ですがバスの折り返し場と思われる空間の先には大型ス−パ−の看板・建物が認められます。

    本丸からの風景

    本丸北西からの展望ですがバスの折り返し場と思われる空間の先には大型ス−パ−の看板・建物が認められます。

  • 鐘隝堂前御堀

    鐘隝堂前御堀

  • 本丸内堀<br /><br />往時の面影が残されています。<br /><br />

    本丸内堀

    往時の面影が残されています。

  • 御作事所跡<br /><br />現在の武徳殿北側に御作事所があり、城郭建築物の営繕などを担当していたと思われます。

    御作事所跡

    現在の武徳殿北側に御作事所があり、城郭建築物の営繕などを担当していたと思われます。

  • 校庭風景<br /><br />御作事所辺りから校庭を経て小学校校舎を捉えます。

    校庭風景

    御作事所辺りから校庭を経て小学校校舎を捉えます。

  • 武徳殿<br /><br />二之丸跡には花巻小学校グランドと共に武徳殿と呼ぶ武道館があります。この辺りには「御囲穀御蔵」があり、藩内屈指の穀物地帯である稗貫和賀二郡8万石の年貢を収納する土蔵がありました。<br /><br />

    武徳殿

    二之丸跡には花巻小学校グランドと共に武徳殿と呼ぶ武道館があります。この辺りには「御囲穀御蔵」があり、藩内屈指の穀物地帯である稗貫和賀二郡8万石の年貢を収納する土蔵がありました。

  • 鶴陰碑

    鶴陰碑

  • 鶴陰碑説明板

    鶴陰碑説明板

  • 土塁<br /><br />武徳殿の横を通る道路から土塁を認めます。

    土塁

    武徳殿の横を通る道路から土塁を認めます。

  • 佐藤翁碑

    佐藤翁碑

  • 佐藤翁説明<br /><br />新渡戸稲造の恩人であった佐藤昌介が父である昌蔵の一生の出来事を刻んだ碑で大正11年(1922)建立、昌蔵は花巻城取次や藩お目付を勤めました。

    佐藤翁説明

    新渡戸稲造の恩人であった佐藤昌介が父である昌蔵の一生の出来事を刻んだ碑で大正11年(1922)建立、昌蔵は花巻城取次や藩お目付を勤めました。

  • 御囲穀御蔵跡<br /><br />武徳殿に近い一角にその標柱が立つだけで往時を偲ばせるものはありません。<br /><br />

    御囲穀御蔵跡

    武徳殿に近い一角にその標柱が立つだけで往時を偲ばせるものはありません。

  • 焔硝御蔵跡<br /><br />武徳殿に隣接の土塀で囲まれている旧家屋敷付近には火縄銃などの武器の貯蔵庫があったようです。

    焔硝御蔵跡

    武徳殿に隣接の土塀で囲まれている旧家屋敷付近には火縄銃などの武器の貯蔵庫があったようです。

  • 東御門跡<br /><br />今では花巻小学校や武徳殿への通路となっています。<br /><br />

    東御門跡

    今では花巻小学校や武徳殿への通路となっています。

  • 白堀跡<br /><br />標柱て前の道路がかつての城堀だったのでしょうか。

    白堀跡

    標柱て前の道路がかつての城堀だったのでしょうか。

  • 馬場口御門跡<br /><br />周辺状況からして乗馬の訓練所があったようです。

    馬場口御門跡

    周辺状況からして乗馬の訓練所があったようです。

  • 旧家屋敷<br /><br />武徳殿に隣接した旧家屋敷を北側から一望します。急崖には石垣が積まれ花巻城の一部と思わせる様相を見せています。

    旧家屋敷

    武徳殿に隣接した旧家屋敷を北側から一望します。急崖には石垣が積まれ花巻城の一部と思わせる様相を見せています。

  • 花巻城跡北側<br /><br />城郭の北側にはやや狭い川を瀬川と言い東西に流れていますが、当時は川幅広く敵の進入を阻止する防御であったと思われます。

    花巻城跡北側

    城郭の北側にはやや狭い川を瀬川と言い東西に流れていますが、当時は川幅広く敵の進入を阻止する防御であったと思われます。

  • 花巻城本丸<br /><br />北側にある運送業の駐車場を通して花巻城本丸を望みます。

    花巻城本丸

    北側にある運送業の駐車場を通して花巻城本丸を望みます。

  • 花巻城本丸

    花巻城本丸

  • 花巻城本丸<br /><br />「鳥谷ケ崎公園」と称する位置から城郭北側に流れる瀬川を経て本丸を捉えてみました。

    花巻城本丸

    「鳥谷ケ崎公園」と称する位置から城郭北側に流れる瀬川を経て本丸を捉えてみました。

  • 花巻城西御門長屋

    花巻城西御門長屋

  • 花巻城跡案内図<br /><br />鳥谷ケ崎公園内に掲示されている案内図が参考になります。

    花巻城跡案内図

    鳥谷ケ崎公園内に掲示されている案内図が参考になります。

  • 花巻城の歴史説明

    花巻城の歴史説明

  • 新渡戸傳屋敷跡<br /><br />新渡戸稲造の祖父であった傳一家が住んでいた「一日下町坂ノ下」がこの辺りと言われています。

    新渡戸傳屋敷跡

    新渡戸稲造の祖父であった傳一家が住んでいた「一日下町坂ノ下」がこの辺りと言われています。

  • 御役屋跡<br /><br />再び花巻小学校に戻り校舎と校庭を分ける道路に「御役屋跡」を見かけます。御役屋は稗貫・和賀二郡の行政を司る役所でした。

    御役屋跡

    再び花巻小学校に戻り校舎と校庭を分ける道路に「御役屋跡」を見かけます。御役屋は稗貫・和賀二郡の行政を司る役所でした。

  • 中御門跡<br /><br />小学校登校通路の途中に中御門跡があります。

    中御門跡

    小学校登校通路の途中に中御門跡があります。

  • 中御門跡説明<br /><br />二之丸の正門で門の北側には亀堀、南側には薬研堀があって有事の際には防御設備となったようです。

    中御門跡説明

    二之丸の正門で門の北側には亀堀、南側には薬研堀があって有事の際には防御設備となったようです。

  • 城内藩学揆奮場(きふんじょう)跡

    城内藩学揆奮場(きふんじょう)跡

  • 揆奮場跡<br /><br />藩士の文武両道の素養を高めるため安政3年(1856)藩校建設に着手、文久2年(1862)正式に藩校となり明治維新前後の士卒の教育に貢献しています。

    揆奮場跡

    藩士の文武両道の素養を高めるため安政3年(1856)藩校建設に着手、文久2年(1862)正式に藩校となり明治維新前後の士卒の教育に貢献しています。

  • 屋形山車収蔵庫

    屋形山車収蔵庫

  • 花巻まつりと屋形山車説明

    花巻まつりと屋形山車説明

  • 円城寺門付近の公園

    円城寺門付近の公園

  • 花巻城と盛岡藩説明

    花巻城と盛岡藩説明

  • 花巻城案内図<br /><br />ここにも詳細に記載された案内図があります。

    花巻城案内図

    ここにも詳細に記載された案内図があります。

  • 円城寺門説明

    円城寺門説明

  • 花巻城大手門跡<br /><br />

    花巻城大手門跡

  • 花巻城大手門跡石柱

    花巻城大手門跡石柱

  • 花巻城時鐘<br /><br />元々は御台所御門南側、二之丸の一角にあったもので正保3年(1679)南部重直の頃盛岡城時鐘として製造されますが小さくて城下に伝わらず、花巻城に移転された経緯があります。

    イチオシ

    花巻城時鐘

    元々は御台所御門南側、二之丸の一角にあったもので正保3年(1679)南部重直の頃盛岡城時鐘として製造されますが小さくて城下に伝わらず、花巻城に移転された経緯があります。

  • 花巻城時鐘説明

    花巻城時鐘説明

  • 花巻城大手門跡<br /><br />周辺にあった堀や空堀はすべて埋め立てられ現在は市役所庁舎や駐車場、花巻病院駐車場となっており遺跡は見られません。

    イチオシ

    花巻城大手門跡

    周辺にあった堀や空堀はすべて埋め立てられ現在は市役所庁舎や駐車場、花巻病院駐車場となっており遺跡は見られません。

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