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JR大垣駅南口からの大通りを約10分ほど進む大垣城(おおがきじょう、岐阜県大垣市郭町)は全国的に珍しい四層の天守を有し、関ヶ原合戦では西軍石田三成の本拠で、関ヶ原に戦場が移った後も要衛の地であえる大垣を巡って壮絶な攻防戦が繰り広げられた城です。<br /><br /><br />天守前に立っている説明板では詳細に亘って記載されています。<br /><br />「 大 垣 城(巨鹿城 麋城)<br /><br />大垣城のはじまり<br />大垣の中心地には奈良時代から東大寺領(大井荘)が広がり、室町時代となると大垣氏や西尾氏が代官として支配を強めていました。大垣城の創建は天文4年(1535)3月、宮川安定によるもの(明応9年(1500)竹腰尚綱の創建とも伝えられる)だとされ、当寺は堀と土居を築いただけの砦でした。<br /><br />大垣城と関ヶ原合戦<br />大垣城は、豊臣秀吉が「かなめの所、大柿の城」と語り、織田信長や秀吉と関わり深い一門が歴代城主となる等、関ヶ原合戦以前から重要視されていました。<br /><br />石田三成は、慶長5年(1600)8月10日大垣城入り、西軍の本拠としました。当初、東軍・西軍とも大垣城が天下分け目の戦場となると考え、家康は大垣城を水攻めにすることも企てていたといわれています。なお、関ヶ原合戦後、大垣城では一週間の戦いを経て開城しています。<br /><br />大垣城の整備<br />永禄4年(1561)、氏家直元(ト全)が城郭を整備し、慶長元年(1596)、伊藤祐盛が石垣の上に三階建ての天守を造築しました。慶長18年(1613)には、二の丸石垣等の整備が進むとともに、西は水門川、東は牛屋川を利用した外堀で城下町を包む近世的城郭となったのです。<br /><br />その後も戸田氏の時代に隅櫓や城門が整備され、枡形虎口、馬出し、横矢等、敵襲に備えるつくりが築かれていきました。また外城周辺には武家屋敷や町屋、美濃路が計画的に配置されました。<br /><br />本丸・天守の変遷<br />元和6年(1620)天守は三階建てから四階建てに改築されました。一・二階の床面積は等しく、上層に行くに従って面積が減少する層搭型天守となり、建物の高さは約18m、石垣は約6.4mで、東附多聞、西附多聞が付設され、本丸を囲む曲輪の要所には二重・三重の隅櫓が並んでいました。いずれも白漆喰総塗ごめ造りでした。<br /><br />昭和11年(1936)良隅櫓と共に国宝に指定されますが、昭和20年(1945)7月の空襲で焼失、昭和34年(1959)天守が再建された。平成22年(2010)天守と乾隅櫓を戦災前の外観に近づける改修を行いました。<br /><br />屋根瓦と石垣<br />戦国期の大垣城天守は、瓦が使用され一部に金箔瓦も使われるなど、当時の政権の影響を敏感に受けていました。また、天守三層南西櫓にある鬼瓦は邪気を踏みつけて天守を鎮護していて、極めて特異だといわれています。<br /><br />現在の天守・石垣は、ほとんどが再建時に修復、積み直しされ、一部焼失前の状態をとどめているのみです。石材は多くは大垣城北側にそびえる赤坂金生山の石灰岩で、フズリナ、シカマイア、ウミユリなどの化石も見られます。」<br />

美濃大垣 西美濃の要衛の城として織田・豊臣時代には信頼おける武将を配し関ヶ原戦いでは三成西軍の本営となった『大垣城』訪問

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2015/04/01 - 2015/04/01

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR大垣駅南口からの大通りを約10分ほど進む大垣城(おおがきじょう、岐阜県大垣市郭町)は全国的に珍しい四層の天守を有し、関ヶ原合戦では西軍石田三成の本拠で、関ヶ原に戦場が移った後も要衛の地であえる大垣を巡って壮絶な攻防戦が繰り広げられた城です。


天守前に立っている説明板では詳細に亘って記載されています。

「 大 垣 城(巨鹿城 麋城)

大垣城のはじまり
大垣の中心地には奈良時代から東大寺領(大井荘)が広がり、室町時代となると大垣氏や西尾氏が代官として支配を強めていました。大垣城の創建は天文4年(1535)3月、宮川安定によるもの(明応9年(1500)竹腰尚綱の創建とも伝えられる)だとされ、当寺は堀と土居を築いただけの砦でした。

大垣城と関ヶ原合戦
大垣城は、豊臣秀吉が「かなめの所、大柿の城」と語り、織田信長や秀吉と関わり深い一門が歴代城主となる等、関ヶ原合戦以前から重要視されていました。

石田三成は、慶長5年(1600)8月10日大垣城入り、西軍の本拠としました。当初、東軍・西軍とも大垣城が天下分け目の戦場となると考え、家康は大垣城を水攻めにすることも企てていたといわれています。なお、関ヶ原合戦後、大垣城では一週間の戦いを経て開城しています。

大垣城の整備
永禄4年(1561)、氏家直元(ト全)が城郭を整備し、慶長元年(1596)、伊藤祐盛が石垣の上に三階建ての天守を造築しました。慶長18年(1613)には、二の丸石垣等の整備が進むとともに、西は水門川、東は牛屋川を利用した外堀で城下町を包む近世的城郭となったのです。

その後も戸田氏の時代に隅櫓や城門が整備され、枡形虎口、馬出し、横矢等、敵襲に備えるつくりが築かれていきました。また外城周辺には武家屋敷や町屋、美濃路が計画的に配置されました。

本丸・天守の変遷
元和6年(1620)天守は三階建てから四階建てに改築されました。一・二階の床面積は等しく、上層に行くに従って面積が減少する層搭型天守となり、建物の高さは約18m、石垣は約6.4mで、東附多聞、西附多聞が付設され、本丸を囲む曲輪の要所には二重・三重の隅櫓が並んでいました。いずれも白漆喰総塗ごめ造りでした。

昭和11年(1936)良隅櫓と共に国宝に指定されますが、昭和20年(1945)7月の空襲で焼失、昭和34年(1959)天守が再建された。平成22年(2010)天守と乾隅櫓を戦災前の外観に近づける改修を行いました。

屋根瓦と石垣
戦国期の大垣城天守は、瓦が使用され一部に金箔瓦も使われるなど、当時の政権の影響を敏感に受けていました。また、天守三層南西櫓にある鬼瓦は邪気を踏みつけて天守を鎮護していて、極めて特異だといわれています。

現在の天守・石垣は、ほとんどが再建時に修復、積み直しされ、一部焼失前の状態をとどめているのみです。石材は多くは大垣城北側にそびえる赤坂金生山の石灰岩で、フズリナ、シカマイア、ウミユリなどの化石も見られます。」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

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  • JR大垣駅<br /><br />岐阜県西部の交通要地として、JR大垣駅は米原方面または名古屋方面電車の始発・終着の重要駅で当駅からは美濃赤坂線、私鉄としては樽見鉄道(旧樽見線)の樽見線及び養老鉄道の養老線の発着駅となっています。

    JR大垣駅

    岐阜県西部の交通要地として、JR大垣駅は米原方面または名古屋方面電車の始発・終着の重要駅で当駅からは美濃赤坂線、私鉄としては樽見鉄道(旧樽見線)の樽見線及び養老鉄道の養老線の発着駅となっています。

  • 史跡大垣城跡石柱<br /><br />駅前通りを南下しますとやがて「史跡大垣城跡」と刻された石柱があり、ここを右折すると大垣城跡が現れます。

    史跡大垣城跡石柱

    駅前通りを南下しますとやがて「史跡大垣城跡」と刻された石柱があり、ここを右折すると大垣城跡が現れます。

  • 大垣城天守<br /><br />大通りを右折すると正面には復興大垣城天守が見えます。

    大垣城天守

    大通りを右折すると正面には復興大垣城天守が見えます。

  • 大垣城東門<br /><br />復興整備に伴い旧柳口門を移築しています。

    大垣城東門

    復興整備に伴い旧柳口門を移築しています。

  • 丑寅櫓(うしとらやぐら)<br /><br />東門の北隅に配された復興された丑寅櫓が見えます。

    丑寅櫓(うしとらやぐら)

    東門の北隅に配された復興された丑寅櫓が見えます。

  • 天守閣<br /><br />東門を潜ると天守閣に導く石段が直線方向に敷かれその向こうには復興天守閣が控えています。

    天守閣

    東門を潜ると天守閣に導く石段が直線方向に敷かれその向こうには復興天守閣が控えています。

  • 東門内側<br /><br />雨天早朝の訪問の為城内には訪問者は誰もいません。<br /><br />

    東門内側

    雨天早朝の訪問の為城内には訪問者は誰もいません。

  • 東門案内板<br /><br />大小姓多聞跡の旧柳口門移設とあります。

    東門案内板

    大小姓多聞跡の旧柳口門移設とあります。

  • 大垣城説明板<br /><br />城郭のほとんどは公園敷地となって天守閣とその周辺が城跡の区域として設定されています。

    大垣城説明板

    城郭のほとんどは公園敷地となって天守閣とその周辺が城跡の区域として設定されています。

  • 大垣城<br /><br />説明板には昭和初期の天守とその周辺写真が掲載され、また本丸を中心に城下町が現在の地図に描かれ位置関係が判ります。<br /><br />

    大垣城

    説明板には昭和初期の天守とその周辺写真が掲載され、また本丸を中心に城下町が現在の地図に描かれ位置関係が判ります。

  • 大垣城説明板<br /><br />

    大垣城説明板

  • 大垣城説明板<br />

    大垣城説明板

  • 利用案内板<br /><br />夜桜見物のため20時まで開園延長と貼り紙が出ています。天守閣は9時開場なので中に入ることはできません。やむなく周辺を巡る事にします。

    利用案内板

    夜桜見物のため20時まで開園延長と貼り紙が出ています。天守閣は9時開場なので中に入ることはできません。やむなく周辺を巡る事にします。

  • 大垣城天守閣<br /><br />四層四階の天守で戦災で焼失されるまでは国宝でした。昭和34年(1959)に鉄筋コンクリ−ト造りで再建、さらに平成22年(2010)改修工事で戦前の外観に復元されています。

    大垣城天守閣

    四層四階の天守で戦災で焼失されるまでは国宝でした。昭和34年(1959)に鉄筋コンクリ−ト造りで再建、さらに平成22年(2010)改修工事で戦前の外観に復元されています。

  • 天守閣

    天守閣

  • 丑寅櫓

    丑寅櫓

  • 水之手門跡(内側)<br /><br />本丸から水之手門跡方向石段を見降ろします。

    水之手門跡(内側)

    本丸から水之手門跡方向石段を見降ろします。

  • 天守閣裏側

    天守閣裏側

  • 天守閣<br /><br />裏側から天守を捉えます。

    天守閣

    裏側から天守を捉えます。

  • 天守閣

    天守閣

  • 丑寅櫓

    丑寅櫓

  • 天守閣と隅櫓<br /><br />一旦本丸の外に出て塀に沿って歩きます。

    天守閣と隅櫓

    一旦本丸の外に出て塀に沿って歩きます。

  • 水之手門跡(外側)

    水之手門跡(外側)

  • 大垣城説明板<br /><br />水之手門跡脇にも説明板が設置されています。

    大垣城説明板

    水之手門跡脇にも説明板が設置されています。

  • 乾櫓<br /><br />

    乾櫓

  • 公園広場

    公園広場

  • 戸田氏鉄公騎馬像<br /><br />寛永12年(1635)摂津尼崎5万石から10万石を以て大垣初代藩主として入封し、以降戸田氏は11代続き明治維新を迎えます。

    イチオシ

    戸田氏鉄公騎馬像

    寛永12年(1635)摂津尼崎5万石から10万石を以て大垣初代藩主として入封し、以降戸田氏は11代続き明治維新を迎えます。

  • 戸田氏鉄公銘板<br /><br />戸田氏鉄(とだ・うじかね、1576~1655)は主に渥美半島に本拠を置く戦国大名戸田氏の一族で戸田宗光(とだ・むねみつ)の曾孫である氏輝(うじてる)が祖で徳川家康の家臣となった後、一西(かずあき)が関ヶ原合戦後近江国膳所藩3万石を得た後一西死去により後嗣氏鉄が家督を引継ぎ、摂津国尼崎5万石を経て大垣に転封と成っています。

    戸田氏鉄公銘板

    戸田氏鉄(とだ・うじかね、1576~1655)は主に渥美半島に本拠を置く戦国大名戸田氏の一族で戸田宗光(とだ・むねみつ)の曾孫である氏輝(うじてる)が祖で徳川家康の家臣となった後、一西(かずあき)が関ヶ原合戦後近江国膳所藩3万石を得た後一西死去により後嗣氏鉄が家督を引継ぎ、摂津国尼崎5万石を経て大垣に転封と成っています。

  • 建詞

    建詞

  • 土塁跡<br /><br />広場の西側隅には土塁が残されています。

    土塁跡

    広場の西側隅には土塁が残されています。

  • 公園広場<br /><br />公園西側には大規模広場がありその周囲には満開の桜が雨に打たれています。

    公園広場

    公園西側には大規模広場がありその周囲には満開の桜が雨に打たれています。

  • 大垣大神宮<br /><br />城域の一角(西側)に大垣大神宮が配されています。

    大垣大神宮

    城域の一角(西側)に大垣大神宮が配されています。

  • 大垣大神宮側溝<br /><br />市内には多数の側溝が目に付きます。

    大垣大神宮側溝

    市内には多数の側溝が目に付きます。

  • 手水舎

    手水舎

  • 拝殿全景

    拝殿全景

  • 本殿<br /><br />拝殿から本殿を窺います。

    本殿

    拝殿から本殿を窺います。

  • 境内風景<br /><br />拝殿から鳥居方向を一望します。

    境内風景

    拝殿から鳥居方向を一望します。

  • 大垣城全景<br /><br />

    イチオシ

    大垣城全景

  • 大垣城西門<br /><br />西側公園広場を南北に分ける歩道の東は丁度西門に当たります。

    大垣城西門

    西側公園広場を南北に分ける歩道の東は丁度西門に当たります。

  • 大垣城周辺地図<br /><br />地図を見ると大垣城の外堀が現在でも残っていますね。

    大垣城周辺地図

    地図を見ると大垣城の外堀が現在でも残っていますね。

  • 大垣大神宮鳥居<br /><br />公園広場の南北を分ける道路から鳥居を眺めます。

    大垣大神宮鳥居

    公園広場の南北を分ける道路から鳥居を眺めます。

  • 天守閣<br /><br />再び大垣城天守閣を捉えます。

    天守閣

    再び大垣城天守閣を捉えます。

  • 天守閣と西門

    天守閣と西門

  • 西門

    イチオシ

    西門

  • 鉄門(くろがねもん)跡

    鉄門(くろがねもん)跡

  • 本丸城跡図

    本丸城跡図

  • 麋城の滝<br /><br />大垣城は別名麋城(びじょう)とも称されていたようです。

    麋城の滝

    大垣城は別名麋城(びじょう)とも称されていたようです。

  • 東理門跡

    東理門跡

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