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能見神社(のみじんじゃ、大阪府高槻市能見町)は阪急電鉄京都線高槻駅下車し南西方向に徒歩約8分の地に在します。<br />          <br />当該神社創建は社記によれば9世紀後半のようですが、10世紀末に高槻城が築城され、以降御祭神牛頭天王はキリシタン大名高山右近支配時期は不遇に遭ったものの高槻城守護として歴代の城主の崇敬を集めていました。<br /><br />能見神社Hホームページに記載の「能見神社 御由緒」によれば次の内容が記されています。<br /><br />「 能見神社 御由緒<br /><br />能見神社は高槻市北大手町旧高槻城内にあり、祭神は須佐之男命、能見宿禰命を祀る。創建の年代は社記に拠れば人皇五十九代宇多天皇の御字(9世紀後半)当地方に悪病が流行して多くの死者がでた時、「社殿を造り、牛頭天王をお祀りすれば悪病が治まる」というご神託があった。この神様は、災厄、疫病を追い払うと言われていたことから、早速お祀りしたところ、悪病はたちまちのうちに終息した。国人たちはおおいに喜びここに社殿を造り、牛頭天社としてお祀った。これが当社の起源となる。<br /><br />その後、享禄、天文年間には高槻城主入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などがあった。後にキリシタン大名高山右近が神殿を破壊し、社領を没収、時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させる。しかし元和五年、城主となった松平紀伊守は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進した。<br /><br />慶安二年七月永井日向守直清が城主となって、更に社殿を修築し、社領を寄進して例祭日を十月十四日と定めて、臣下、国人とともに盛大な祭礼を行うようになった。永井氏治政二百年の後明治維新をむかえ、明治元年の神仏分離令により、牛頭天王は須佐之男命と名を変え、更に能見禰命を合祀して、「能見神社」と改称し、延喜式内社として郷社に列し、神饌幣棉料進社に指定された最も由緒ある神社である。」<br /><br /><br />また同神社境内には慶安2年(1649)山城国長岡から転封し永井氏初代高槻藩主の永井直清(ながい・なおきよ、1591~1671)を祀った「永井神社」があり、同様にホームページには下記の内容が記述されています。<br /><br /><br />「 永井神社<br /><br />創建 寛政五年(1793)八月永井神社は藩祖永井直清の霊神をお祀りして九代藩主直進が創建しました。高槻城内三の丸にあった能見神社境内の本殿東側に隣接しております。<br /><br />唐門の前に立つ鳥居には京都卜部家より「直清霊神」の号を受けたことが記されており当初は「直清神社」と称しました。嘉永元年(1848)には直清入城二百年を記念して第十一代直輝が社殿を修復し新たにそり曲がった曲線状の破風の唐門と拝殿が造営されております。<br /><br />幕末には「直清神社」と呼ばれ、当時の藩士は親しみをこめて「権現様」と参拝していました。明治二十一年旧藩士領民達がその遺徳を讃え東側に石碑を建てました。永井神社の屋根瓦には永井家の家紋が使われております。<br /> <br />永井家の家紋には主に藩公用で使用した「一文字三ツ星」と一族の証である「永井鉄線」があります。三代将軍家光より拝領した家紋で「永井鉄線」は高槻藩永井家のみに許されました。<br />能見神社境内の手水社や本殿釣燈籠などにも永井鉄線の家紋があり歴代藩主の崇敬を集めていたことがわかります。<br /><br />現在例祭は四月二十四日で旧藩士や市民の参加によって執り行われています。社殿並びに唐門はその構成や技法に藩政期の特色がみられ平成十七年高槻市の指定有形文化財に指定されました。」<br />

摂津高槻 キリシタン大名高山右近の治世時は不遇なるも松平氏・永井氏など歴代高槻城主が城内守護として崇敬した『能見神社』散歩

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2015/04/01 - 2015/04/01

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滝山氏照

滝山氏照さん

能見神社(のみじんじゃ、大阪府高槻市能見町)は阪急電鉄京都線高槻駅下車し南西方向に徒歩約8分の地に在します。
          
当該神社創建は社記によれば9世紀後半のようですが、10世紀末に高槻城が築城され、以降御祭神牛頭天王はキリシタン大名高山右近支配時期は不遇に遭ったものの高槻城守護として歴代の城主の崇敬を集めていました。

能見神社Hホームページに記載の「能見神社 御由緒」によれば次の内容が記されています。

「 能見神社 御由緒

能見神社は高槻市北大手町旧高槻城内にあり、祭神は須佐之男命、能見宿禰命を祀る。創建の年代は社記に拠れば人皇五十九代宇多天皇の御字(9世紀後半)当地方に悪病が流行して多くの死者がでた時、「社殿を造り、牛頭天王をお祀りすれば悪病が治まる」というご神託があった。この神様は、災厄、疫病を追い払うと言われていたことから、早速お祀りしたところ、悪病はたちまちのうちに終息した。国人たちはおおいに喜びここに社殿を造り、牛頭天社としてお祀った。これが当社の起源となる。

その後、享禄、天文年間には高槻城主入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などがあった。後にキリシタン大名高山右近が神殿を破壊し、社領を没収、時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させる。しかし元和五年、城主となった松平紀伊守は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進した。

慶安二年七月永井日向守直清が城主となって、更に社殿を修築し、社領を寄進して例祭日を十月十四日と定めて、臣下、国人とともに盛大な祭礼を行うようになった。永井氏治政二百年の後明治維新をむかえ、明治元年の神仏分離令により、牛頭天王は須佐之男命と名を変え、更に能見禰命を合祀して、「能見神社」と改称し、延喜式内社として郷社に列し、神饌幣棉料進社に指定された最も由緒ある神社である。」


また同神社境内には慶安2年(1649)山城国長岡から転封し永井氏初代高槻藩主の永井直清(ながい・なおきよ、1591~1671)を祀った「永井神社」があり、同様にホームページには下記の内容が記述されています。


「 永井神社

創建 寛政五年(1793)八月永井神社は藩祖永井直清の霊神をお祀りして九代藩主直進が創建しました。高槻城内三の丸にあった能見神社境内の本殿東側に隣接しております。

唐門の前に立つ鳥居には京都卜部家より「直清霊神」の号を受けたことが記されており当初は「直清神社」と称しました。嘉永元年(1848)には直清入城二百年を記念して第十一代直輝が社殿を修復し新たにそり曲がった曲線状の破風の唐門と拝殿が造営されております。

幕末には「直清神社」と呼ばれ、当時の藩士は親しみをこめて「権現様」と参拝していました。明治二十一年旧藩士領民達がその遺徳を讃え東側に石碑を建てました。永井神社の屋根瓦には永井家の家紋が使われております。
 
永井家の家紋には主に藩公用で使用した「一文字三ツ星」と一族の証である「永井鉄線」があります。三代将軍家光より拝領した家紋で「永井鉄線」は高槻藩永井家のみに許されました。
能見神社境内の手水社や本殿釣燈籠などにも永井鉄線の家紋があり歴代藩主の崇敬を集めていたことがわかります。

現在例祭は四月二十四日で旧藩士や市民の参加によって執り行われています。社殿並びに唐門はその構成や技法に藩政期の特色がみられ平成十七年高槻市の指定有形文化財に指定されました。」

旅行の満足度
3.5
交通手段
私鉄

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  • 能見神社<br /><br />かつての高槻城三の丸に城内守護として本殿がありました。

    能見神社

    かつての高槻城三の丸に城内守護として本殿がありました。

  • 「郷社能見神社」石柱

    「郷社能見神社」石柱

  • 「能見神社由緒」説明板

    「能見神社由緒」説明板

  • 「永井神社」・「永井神社」説明板<br /><br />能見神社由緒とともに永井神社の説明板が建立されています。

    「永井神社」・「永井神社」説明板

    能見神社由緒とともに永井神社の説明板が建立されています。

  • 「能見神社由緒」説明板

    「能見神社由緒」説明板

  • 「永井神社」説明板

    「永井神社」説明板

  • 境内案内図<br /><br />境内には能見神社の他11代続いた高槻城主藩祖である永井直清(ながい・なおきよ、1591~1671)の霊を祀った永井神社が配されています。

    境内案内図

    境内には能見神社の他11代続いた高槻城主藩祖である永井直清(ながい・なおきよ、1591~1671)の霊を祀った永井神社が配されています。

  • 手水社

    手水社

  • 高槻戎(たかつきえびす)神社<br /><br />高槻市の発展策の一つとして昭和31年に戎神社を創建しています。尚戎神社の右手には能舞台が隣接しています。<br /><br />

    高槻戎(たかつきえびす)神社

    高槻市の発展策の一つとして昭和31年に戎神社を創建しています。尚戎神社の右手には能舞台が隣接しています。

  • 拝殿

    拝殿

  • 拝殿(近景)

    拝殿(近景)

  • 拝殿扁額<br /><br />拝殿上部壁に掲げているのは「能見神社」と書かれた扁額が見えます。

    拝殿扁額

    拝殿上部壁に掲げているのは「能見神社」と書かれた扁額が見えます。

  • 境内風景<br /><br />拝殿から境内の風景を懐かしみます。

    境内風景

    拝殿から境内の風景を懐かしみます。

  • 永井神社<br /><br />能見神社の境内には「永井神社」と書かれた鳥居と唐門が見えます。藩祖永井直清の霊神を祀る為9代直進(なおのぶ、1761~1815)が創建しています。

    永井神社

    能見神社の境内には「永井神社」と書かれた鳥居と唐門が見えます。藩祖永井直清の霊神を祀る為9代直進(なおのぶ、1761~1815)が創建しています。

  • 永井神社入口

    永井神社入口

  • 永井神社・拝殿

    永井神社・拝殿

  • 「藩祖と剣客」説明文<br /><br />藩祖直清は将軍秀忠の小姓を勤め文武両道の士であったといわれ、後に直清が無外流流祖である辻月丹資戌を師として招いた事に由来し、永井祭りには奉納武道大会が開催されます。

    「藩祖と剣客」説明文

    藩祖直清は将軍秀忠の小姓を勤め文武両道の士であったといわれ、後に直清が無外流流祖である辻月丹資戌を師として招いた事に由来し、永井祭りには奉納武道大会が開催されます。

  • 永井先公遺愛碑

    永井先公遺愛碑

  • 「泣き相撲」ボスター<br /><br />能見神社が毎年実施している「泣き相撲」参加者募集のポスタ?を見かけます。

    「泣き相撲」ボスター

    能見神社が毎年実施している「泣き相撲」参加者募集のポスタ?を見かけます。

  • 「泣き相撲」幟旗<br /><br />能見神社を出ると歩道には泣き相撲の幟旗が並んでいます。

    「泣き相撲」幟旗

    能見神社を出ると歩道には泣き相撲の幟旗が並んでいます。

  • キリスト教会<br /><br />阪急高槻駅に向かう途中にキリスト教会の建物を発見します。

    キリスト教会

    阪急高槻駅に向かう途中にキリスト教会の建物を発見します。

  • 高槻城主高山右近像<br /><br />教会敷地の一部にキリスト大名である高山右近像が設置されています。右近は秀吉のバテレン追放令に対し大名を選ぶかキリスト教を選ぶかの選択を迫られキリスト教を選び、江戸時代には長崎からマニラに追放されその地で病死します。

    高槻城主高山右近像

    教会敷地の一部にキリスト大名である高山右近像が設置されています。右近は秀吉のバテレン追放令に対し大名を選ぶかキリスト教を選ぶかの選択を迫られキリスト教を選び、江戸時代には長崎からマニラに追放されその地で病死します。

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