茨木・摂津旅行記(ブログ) 一覧に戻る
現在は茨木小学校敷地となっている茨木城(いばらきじょう、大阪府茨木市片桐町)は古くは南北朝時代の建武年間(1334~1337)に南朝方として後醍醐天皇をを支えた楠木正成(くすのき・まさしげ、1294~1336)が築城したとの伝承があります。<br /><br />室町時代では幕府の御家人として活躍した茨木氏代々の居城でしたが戦国時代後期では将軍に就いた足利義昭と義昭を上洛させた織田信長とが対立するに至り織田方の荒木村重(あらき・むらしげ、1535~1586)の攻撃を受けて、義昭方の城主茨木佐渡守は敗れ茨木城は落城、戦功により村重方猛将である中川清秀(なかがわ・きよひで、1542~1583)が城主となります。<br /><br />本能寺の変後は「中国返し」の秀吉に従い天王山の戦い(山崎合戦)では秀吉軍の先鋒として明智光秀軍と戦い勝利に貢献するも天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では柴田勝家軍の急襲を受け討死します。<br /><br />清秀没後は家督を嫡男秀政(ひでまさ)が継ぎますが後に播磨国三木に転封、秀吉直轄地を経て城主は転々と替わりますが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの翌年に賤ヶ岳七本槍の一人として名を挙げた片桐且元(かたぎり・かつもと、1556~1615)が城主となり従来の城域を拡張、大坂城にあっては豊臣秀頼を補佐しながら豊臣家存続の為徳川家康との調整役にあたります。<br />        <br />然しながら大坂の陣を前に且元は徳川と通じているとの疑念を持たれ、これを機に豊臣方と決別し徳川家康に人質を送り従属、大坂の陣では一族ともども徳川方として参戦することになります。<br /><br />従来仕えていた豊臣秀頼が大坂夏の陣で自害した20日後に且元が死亡、嫡子の孝利(たかとし)は父の遺領4万石を引継ぎ、飛地の大和国瀧田を中心に領国を経営、寛永15年(1638)に孝利も38歳で病死、無嗣子により弟為元(ためもと)が家督を継ぐも4万石すべて叶わず相続したのは大和国瀧田の1万石のみでした。<br />                                <br />他方元和元年(1615)将軍秀忠が発した一国一城の令によって摂津では高槻城のみ残り茨木城は廃城、以降は直轄領となり代官支配が維新を迎えるまで続きます。<br /><br />茨木小学校正門として使用されている復元櫓門の右端に建っている説明板によれば次の通り書かれています。<br /><br /><br />「茨木城櫓門について<br /><br />人々の歴史は、その土地と深く結びついたものであり、そこに残された遺産は、その土地の歴史を知る上で大切です。<br /><br />本市にも様々な文化遺産が残されていますが、現在の茨木小学校北部に茨木城の本丸があったとされます。今なお遺構(堀や門など)を残す茨木城の城跡である茨木小学校に大和郡山市小泉の慈光院に移設された茨木城櫓門を、原寸大の木造瓦葺きで復元しました。復元は、市史をはじめ歴史書や文学作品に登場する本史蹟を顕彰し、先陣の生活を知り、郷土を再発見し、郷土への理解と愛着を深め、郷土愛の醸成に寄与することも目的とします。<br /><br />茨木城は建武年間に楠木正成によって築かれたんが始まりと伝えられています。十五世紀から十六世紀前半頃まで茨木氏が城主であったと推定され、その後、次々城主が変わりました。中でも有名なのは中川清秀と片桐且元です。<br /><br />茨木城にゆかりのある人物として、中川清秀の妹婿の、武将であるとともに茶人としても名高い古田織部があげられます。正門横の土塀の校名は織部が好んだ織部焼で作られています。<br /><br />なお、茨木城は元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となりました。」<br />

摂津茨木 周辺に堀を巡らした経済の要地で賤ヶ岳七本槍の雄として名を馳せた片桐且元の知行地となった『茨木城』訪問

6いいね!

2015/04/01 - 2015/04/01

161位(同エリア249件中)

0

10

滝山氏照

滝山氏照さん

現在は茨木小学校敷地となっている茨木城(いばらきじょう、大阪府茨木市片桐町)は古くは南北朝時代の建武年間(1334~1337)に南朝方として後醍醐天皇をを支えた楠木正成(くすのき・まさしげ、1294~1336)が築城したとの伝承があります。

室町時代では幕府の御家人として活躍した茨木氏代々の居城でしたが戦国時代後期では将軍に就いた足利義昭と義昭を上洛させた織田信長とが対立するに至り織田方の荒木村重(あらき・むらしげ、1535~1586)の攻撃を受けて、義昭方の城主茨木佐渡守は敗れ茨木城は落城、戦功により村重方猛将である中川清秀(なかがわ・きよひで、1542~1583)が城主となります。

本能寺の変後は「中国返し」の秀吉に従い天王山の戦い(山崎合戦)では秀吉軍の先鋒として明智光秀軍と戦い勝利に貢献するも天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では柴田勝家軍の急襲を受け討死します。

清秀没後は家督を嫡男秀政(ひでまさ)が継ぎますが後に播磨国三木に転封、秀吉直轄地を経て城主は転々と替わりますが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの翌年に賤ヶ岳七本槍の一人として名を挙げた片桐且元(かたぎり・かつもと、1556~1615)が城主となり従来の城域を拡張、大坂城にあっては豊臣秀頼を補佐しながら豊臣家存続の為徳川家康との調整役にあたります。
        
然しながら大坂の陣を前に且元は徳川と通じているとの疑念を持たれ、これを機に豊臣方と決別し徳川家康に人質を送り従属、大坂の陣では一族ともども徳川方として参戦することになります。

従来仕えていた豊臣秀頼が大坂夏の陣で自害した20日後に且元が死亡、嫡子の孝利(たかとし)は父の遺領4万石を引継ぎ、飛地の大和国瀧田を中心に領国を経営、寛永15年(1638)に孝利も38歳で病死、無嗣子により弟為元(ためもと)が家督を継ぐも4万石すべて叶わず相続したのは大和国瀧田の1万石のみでした。
                                
他方元和元年(1615)将軍秀忠が発した一国一城の令によって摂津では高槻城のみ残り茨木城は廃城、以降は直轄領となり代官支配が維新を迎えるまで続きます。

茨木小学校正門として使用されている復元櫓門の右端に建っている説明板によれば次の通り書かれています。


「茨木城櫓門について

人々の歴史は、その土地と深く結びついたものであり、そこに残された遺産は、その土地の歴史を知る上で大切です。

本市にも様々な文化遺産が残されていますが、現在の茨木小学校北部に茨木城の本丸があったとされます。今なお遺構(堀や門など)を残す茨木城の城跡である茨木小学校に大和郡山市小泉の慈光院に移設された茨木城櫓門を、原寸大の木造瓦葺きで復元しました。復元は、市史をはじめ歴史書や文学作品に登場する本史蹟を顕彰し、先陣の生活を知り、郷土を再発見し、郷土への理解と愛着を深め、郷土愛の醸成に寄与することも目的とします。

茨木城は建武年間に楠木正成によって築かれたんが始まりと伝えられています。十五世紀から十六世紀前半頃まで茨木氏が城主であったと推定され、その後、次々城主が変わりました。中でも有名なのは中川清秀と片桐且元です。

茨木城にゆかりのある人物として、中川清秀の妹婿の、武将であるとともに茶人としても名高い古田織部があげられます。正門横の土塀の校名は織部が好んだ織部焼で作られています。

なお、茨木城は元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となりました。」

旅行の満足度
4.0
交通手段
私鉄 徒歩

PR

  • 茨木市街案内<br /><br />かつての茨木城は東西200m、南北は300mの城域で西側には茨木川を天然の堀とし、加えて東・南・北にも縦横に堀をめぐらしていました。

    茨木市街案内

    かつての茨木城は東西200m、南北は300mの城域で西側には茨木川を天然の堀とし、加えて東・南・北にも縦横に堀をめぐらしていました。

  • 茨木市街案内(近景)

    茨木市街案内(近景)

  • 茨木市街案内(地図)<br /><br />

    茨木市街案内(地図)

  • 茨城小学校正門<br /><br />茨木城の櫓門で、大和郡山市小泉の慈光院に移設された現物を原寸大の木造瓦葺きで復元されたものです。且元の実弟貞隆の知行地である小泉在の慈光院は貞隆の霊を祀る菩提寺となっています。

    茨城小学校正門

    茨木城の櫓門で、大和郡山市小泉の慈光院に移設された現物を原寸大の木造瓦葺きで復元されたものです。且元の実弟貞隆の知行地である小泉在の慈光院は貞隆の霊を祀る菩提寺となっています。

  • 「茨木城櫓門」説明板<br /><br />茨木小学校正門として復元された櫓門の傍らに説明板が立っています。

    「茨木城櫓門」説明板

    茨木小学校正門として復元された櫓門の傍らに説明板が立っています。

  • 石標<br /><br />ここは「とのまち」で右は「本丸」、左は「城ノ町」を示す石標が立っています。

    石標

    ここは「とのまち」で右は「本丸」、左は「城ノ町」を示す石標が立っています。

  • 「茨木城址」石標<br /><br />茨城小学校正門を潜ると右側に茨木城跡を示す石標があります。元和元年(1615)一国一城令により廃城に追い込まれたため遺構はほとんど残っていません。

    「茨木城址」石標

    茨城小学校正門を潜ると右側に茨木城跡を示す石標があります。元和元年(1615)一国一城令により廃城に追い込まれたため遺構はほとんど残っていません。

  • 「茨木城址」石標

    「茨木城址」石標

  • 茨木小学校プレート<br /><br />織部焼きで造ったという「茨木市立茨木小学校」のプレートがさりげなく載っています。

    茨木小学校プレート

    織部焼きで造ったという「茨木市立茨木小学校」のプレートがさりげなく載っています。

  • 茨城小学校正門

    茨城小学校正門

この旅行記のタグ

6いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

滝山氏照さんの関連旅行記

滝山氏照さんの旅行記一覧

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP