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JR山陰線亀岡駅下車徒歩5分、丹波亀山城(たんばかめやまじょう、京都府亀岡市荒塚町)は天下統一をめざす織田信長より丹波地域平定の司令官に任命された智将明智光秀(あけち・みつひで、1528~1582)によって天正5年(1577)亀岡盆地を流れる桂川の右岸の丘陵地に築かれました。<br /><br />亀山城跡を所有管理している宗教団体で入手した亀山城に関する資料には次の通り記されています(一部抜粋)。<br /><br /><br />「築城前期 明智光秀、平山に着眼<br />丹波平定に苦心する光秀<br /><br />時は一気に天正3年(1575)へ遡る。同年、天下統一を目指す織田信長は、明智光秀に丹波平定の命令を下す。丹波には八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治、黒井城(兵庫県丹波市)の荻野直正などによる反信長前線が形成されていた。その攻略の武将として光秀が指名される。<br /><br />丹波平定は天正7年(1579)に完了するが、約5年という年月が必要であった。同4年(1576)には波多野氏の反撃に遭い、総退却までに追いつめられる。阪本城に帰陣し、光秀自身が病に伏している。それだけ彼等の抵抗が激しかったことを示している。<br /><br />再度の丹波攻めに際して、光秀は同4年から5年にかけて、亀山城の築城に着手したと推定される。光秀は亀山城を桂川の氾濫から安全な小高い丘陵の上に築き、その南を通過する山陰道を取り囲むように城下町を形成した。<br /><br />丹波侵攻の軍事拠点としての亀山城であることはいうまでもないが、光秀が城郭を平山城とし、その背後に城下町を整備しようとした意図は、亀山の地が京都と山陰・中国地方を結ぶ上で、軍事・政治・経済面からみて要衝の地であることを熟慮し、丹波における領国支配の本拠地とすることにあった。<br /><br />山城をやめ平地に城郭を構えた着眼点の的確さと先進性は、その後の亀山城の歴史に強く反映されていく。<br /><br /><br />築城後期 存続期へ<br />築城の名手、藤堂高虎<br /><br />丹波亀山城は近世城郭として完成するが、京都に接する地理的要因と軍事的重要性から本格的な天守を必要としていた。<br /><br />そのに登場したのが、当代一の築城の名手として誉れが高く、数々の築城を手掛けた大名、藤堂高虎であった。徳川家康の信任が厚かった高虎は、「天下普請」の縄張、「城の設計」を担当しており、膳所城、篠山城などの築城に携わっていた。亀山城で高虎は、全国で最初の、かつ最新の層搭型五重の天守を実現させ、城造りの名声をさらに高める。<br /><br />高虎の事跡を記録した『宗国史』には、「慶長15年夏6月、丹波亀山城を脩む。公(高虎)役を督す。大将軍(徳川家康)書を賜りひ労を問う。公、今治城天守楼を献じ之を亀山に建つ」とある。<br /><br />大阪城を拠点とした反徳川勢力との緊迫した対立状況下で、高虎による丹波亀山城の層搭型五重の天守建設が、家康をも喜ばせる政治的動向と深く関与していたのである。<br /><br /><br />破却期 明治6年(1873)「廃城令」発令<br />3百年の雄姿、消える<br /><br />”亀山から亀岡”へ<br />亀山藩は、「版籍奉還」にともない、明治2年6月に伊勢亀山との混同を避けるため「亀岡藩」と改称され、最後の藩主松平信正は藩知事に任命されるが、明治4年7月の「廃藩置県」で辞して東京へ移り、亀岡藩も「亀岡県」となった。同年11月の改置府県で亀岡県は京都府に編入された。<br />明治維新となり、亀岡城も歴史の激流に飲み込まれていく。<br /><br />五層天守、消える<br />新政府は明治6年(1873)正月の太政官達子で全国の儒格存廃を決定したが、明治10年(1877)2月の西南戦争勃発を受け、さらなる城郭処分を促進化した。儒格の反政府勢力の拠点となることを恐れたのである。<br /><br />亀山城も運命のその時を迎える。明治10年(1876)9月17日である。『大阪日報』明治10年9月21日付の記事によれば、17日より京都の商人森川喜兵衛が払い下げを受けた天守の取り壊しが始まり、まず鯱瓦が降ろされ、京都に運ばれ、天守を惜しむ人々が多数見学したとある。・・・・ここに、江戸時代を通じて亀山藩の中核施設であった亀山城の五層天守の雄姿が消えたのである。<br /><br />廃城処分が続く中で、城内の建物の払い下げが行われ、現在も市内を中心に一部の遺構が現存している。」<br />

丹波亀岡 畿内を制圧した信長が西国経略のため智将明智光秀が国人割拠の丹波攻略の拠点として築城した『亀山城』訪問

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2015/04/01 - 2015/04/01

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR山陰線亀岡駅下車徒歩5分、丹波亀山城(たんばかめやまじょう、京都府亀岡市荒塚町)は天下統一をめざす織田信長より丹波地域平定の司令官に任命された智将明智光秀(あけち・みつひで、1528~1582)によって天正5年(1577)亀岡盆地を流れる桂川の右岸の丘陵地に築かれました。

亀山城跡を所有管理している宗教団体で入手した亀山城に関する資料には次の通り記されています(一部抜粋)。


「築城前期 明智光秀、平山に着眼
丹波平定に苦心する光秀

時は一気に天正3年(1575)へ遡る。同年、天下統一を目指す織田信長は、明智光秀に丹波平定の命令を下す。丹波には八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治、黒井城(兵庫県丹波市)の荻野直正などによる反信長前線が形成されていた。その攻略の武将として光秀が指名される。

丹波平定は天正7年(1579)に完了するが、約5年という年月が必要であった。同4年(1576)には波多野氏の反撃に遭い、総退却までに追いつめられる。阪本城に帰陣し、光秀自身が病に伏している。それだけ彼等の抵抗が激しかったことを示している。

再度の丹波攻めに際して、光秀は同4年から5年にかけて、亀山城の築城に着手したと推定される。光秀は亀山城を桂川の氾濫から安全な小高い丘陵の上に築き、その南を通過する山陰道を取り囲むように城下町を形成した。

丹波侵攻の軍事拠点としての亀山城であることはいうまでもないが、光秀が城郭を平山城とし、その背後に城下町を整備しようとした意図は、亀山の地が京都と山陰・中国地方を結ぶ上で、軍事・政治・経済面からみて要衝の地であることを熟慮し、丹波における領国支配の本拠地とすることにあった。

山城をやめ平地に城郭を構えた着眼点の的確さと先進性は、その後の亀山城の歴史に強く反映されていく。


築城後期 存続期へ
築城の名手、藤堂高虎

丹波亀山城は近世城郭として完成するが、京都に接する地理的要因と軍事的重要性から本格的な天守を必要としていた。

そのに登場したのが、当代一の築城の名手として誉れが高く、数々の築城を手掛けた大名、藤堂高虎であった。徳川家康の信任が厚かった高虎は、「天下普請」の縄張、「城の設計」を担当しており、膳所城、篠山城などの築城に携わっていた。亀山城で高虎は、全国で最初の、かつ最新の層搭型五重の天守を実現させ、城造りの名声をさらに高める。

高虎の事跡を記録した『宗国史』には、「慶長15年夏6月、丹波亀山城を脩む。公(高虎)役を督す。大将軍(徳川家康)書を賜りひ労を問う。公、今治城天守楼を献じ之を亀山に建つ」とある。

大阪城を拠点とした反徳川勢力との緊迫した対立状況下で、高虎による丹波亀山城の層搭型五重の天守建設が、家康をも喜ばせる政治的動向と深く関与していたのである。


破却期 明治6年(1873)「廃城令」発令
3百年の雄姿、消える

”亀山から亀岡”へ
亀山藩は、「版籍奉還」にともない、明治2年6月に伊勢亀山との混同を避けるため「亀岡藩」と改称され、最後の藩主松平信正は藩知事に任命されるが、明治4年7月の「廃藩置県」で辞して東京へ移り、亀岡藩も「亀岡県」となった。同年11月の改置府県で亀岡県は京都府に編入された。
明治維新となり、亀岡城も歴史の激流に飲み込まれていく。

五層天守、消える
新政府は明治6年(1873)正月の太政官達子で全国の儒格存廃を決定したが、明治10年(1877)2月の西南戦争勃発を受け、さらなる城郭処分を促進化した。儒格の反政府勢力の拠点となることを恐れたのである。

亀山城も運命のその時を迎える。明治10年(1876)9月17日である。『大阪日報』明治10年9月21日付の記事によれば、17日より京都の商人森川喜兵衛が払い下げを受けた天守の取り壊しが始まり、まず鯱瓦が降ろされ、京都に運ばれ、天守を惜しむ人々が多数見学したとある。・・・・ここに、江戸時代を通じて亀山藩の中核施設であった亀山城の五層天守の雄姿が消えたのである。

廃城処分が続く中で、城内の建物の払い下げが行われ、現在も市内を中心に一部の遺構が現存している。」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

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  • JR亀岡駅周辺地図<br /><br />駅舎前には周辺地図があって、亀山城は駅前通りを南進して南郷池が囲む丘陵にあります。

    JR亀岡駅周辺地図

    駅舎前には周辺地図があって、亀山城は駅前通りを南進して南郷池が囲む丘陵にあります。

  • 亀山城跡案内板

    亀山城跡案内板

  • JR亀岡駅舎<br /><br />当地亀山は伊勢亀山と区別するため亀山を亀岡と改称した経緯があります。

    JR亀岡駅舎

    当地亀山は伊勢亀山と区別するため亀山を亀岡と改称した経緯があります。

  • 南郷池<br /><br />亀山城跡を取り囲む堀の一部が池となったと思われます。

    南郷池

    亀山城跡を取り囲む堀の一部が池となったと思われます。

  • 南郷公園説明板

    南郷公園説明板

  • 「明智光秀公築城亀山城趾」石柱<br /><br />南郷池公園の一角に石柱が立っています。

    「明智光秀公築城亀山城趾」石柱

    南郷池公園の一角に石柱が立っています。

  • 亀山城鯱瓦<br /><br />南郷公園に亀山城鯱瓦のモニュメントが建っています。

    亀山城鯱瓦

    南郷公園に亀山城鯱瓦のモニュメントが建っています。

  • 亀山城鯱瓦のモニュメント

    亀山城鯱瓦のモニュメント

  • 「亀山城鯱瓦」説明板

    「亀山城鯱瓦」説明板

  • 亀山城鯱瓦のモニュメント

    亀山城鯱瓦のモニュメント

  • 亀山城天守の図<br /><br />

    亀山城天守の図

  • 南郷公園石碑<br /><br />石碑の脇に立つ亀山城内堀説明板があります。<br />亀山城内外は内堀・外堀・惣堀の三重の堀と土居(土塁)で仕切られていたとあり、現在は雑水川となって公園の一角を流れています。

    南郷公園石碑

    石碑の脇に立つ亀山城内堀説明板があります。
    亀山城内外は内堀・外堀・惣堀の三重の堀と土居(土塁)で仕切られていたとあり、現在は雑水川となって公園の一角を流れています。

  • 内堀説明<br /><br />

    内堀説明

  • 雑水川(南郷池)<br /><br />池に沿って満開の桜が並んでいる遊歩道を歩いてみます。

    雑水川(南郷池)

    池に沿って満開の桜が並んでいる遊歩道を歩いてみます。

  • 「明智光秀ゆかりの城下町めぐり」地図

    「明智光秀ゆかりの城下町めぐり」地図

  • 雑水川(南郷池)風景

    雑水川(南郷池)風景

  • 雑水川(南郷池)説明板

    雑水川(南郷池)説明板

  • 亀山城縄張

    亀山城縄張

  • 丹波亀山城保津門跡<br /><br />城内に配された5か所の城門のうち北方向の出入口として「保津門」がありました。

    丹波亀山城保津門跡

    城内に配された5か所の城門のうち北方向の出入口として「保津門」がありました。

  • 雑水川(南郷池)

    雑水川(南郷池)

  • 石垣<br /><br />南郷池から東側に回り込んだ一帯は石垣が走っています。

    石垣

    南郷池から東側に回り込んだ一帯は石垣が走っています。

  • 丹波亀山城址説明板

    丹波亀山城址説明板

  • 亀山城跡<br /><br />現在は宗教団体の私有地となっており、手続きをして内部見学が可能となります。<br /><br />

    亀山城跡

    現在は宗教団体の私有地となっており、手続きをして内部見学が可能となります。

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 宗教団体事務棟<br /><br />亀山城跡内部見学の為事務棟(みろく会館)に向かいます。1階で見学申し込みをした後2階で亀山城石垣を説明するビデオ、展示室を経て万祥殿に移ります。<br />

    宗教団体事務棟

    亀山城跡内部見学の為事務棟(みろく会館)に向かいます。1階で見学申し込みをした後2階で亀山城石垣を説明するビデオ、展示室を経て万祥殿に移ります。

  • 亀山城跡<br /><br />万祥殿で御払いを受けた後城郭跡に向かいます。

    亀山城跡

    万祥殿で御払いを受けた後城郭跡に向かいます。

  • 亀山城本丸入口<br /><br />宗教団体のパンフレットによれば亀山城の本丸入口の場所にあたるそうです。

    亀山城本丸入口

    宗教団体のパンフレットによれば亀山城の本丸入口の場所にあたるそうです。

  • 亀山城石垣

    イチオシ

    亀山城石垣

  • 亀山城石垣<br /><br />山陰線敷設工事のため多数の石が持ち去られた後、購入した宗教団体によって積み直しがなされたそうです。尚下三段程は亀山城破却前の石組だそうです。<br /><br />

    イチオシ

    亀山城石垣

    山陰線敷設工事のため多数の石が持ち去られた後、購入した宗教団体によって積み直しがなされたそうです。尚下三段程は亀山城破却前の石組だそうです。

  • 亀山城跡石垣<br /><br />石垣脇の石段は途中から上ることはできません。

    イチオシ

    亀山城跡石垣

    石垣脇の石段は途中から上ることはできません。

  • 亀山城跡石垣

    イチオシ

    亀山城跡石垣

  • 亀山城跡石垣

    亀山城跡石垣

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡<br /><br />柵の向こうは神域とのことで進むことはできません。

    亀山城跡

    柵の向こうは神域とのことで進むことはできません。

  • 亀山城跡石垣

    亀山城跡石垣

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡石垣

    亀山城跡石垣

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡内堀跡(万祥池)<br /><br />かつては内堀であったと思われ現在では池と化しています。

    亀山城跡内堀跡(万祥池)

    かつては内堀であったと思われ現在では池と化しています。

  • 亀山城跡

    亀山城跡

  • 亀山城跡土塁<br />

    亀山城跡土塁

  • 亀山城跡土塁<br /><br />梅林の奥には微かに土塁が見えます。

    亀山城跡土塁

    梅林の奥には微かに土塁が見えます。

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