2015/01/05 - 2015/01/05
188位(同エリア266件中)
滝山氏照さん
畿内を統一し関白に任じられた秀吉の実弟である豊臣秀長(とよとみ・ひでなが、1540~1591)は兄秀吉の政権運営を支える名参謀であり、紀伊・和泉・大和を合わせて100万石を以て大和郡山城を本拠として城下に商人を集めて商業発展に尽くした武将です。
兄秀吉と行動を共にし数々の戦いで戦功をおさめると共に秀吉の畿内統一後は豊臣政権では軍事面で活躍の他内外の政務にも手腕を発揮、秀吉は秀長を重用しまた秀長は兄の意を理解し異議があれば異を唱える唯一の舵取り役で正に秀吉の名補佐役にふさわしい人物でもあります。天正19年1月22日に城内で52歳で死亡します。
大納言塚の廟に入ってすぐの所に秀長の肖像と共に紹介されている「大納言塚」説明内容は次の通りです。
「大和郡山市指定史跡
大 納 言 塚
昭和50年(1975)10月2日、大和郡山市指定文化財(史跡)。豊臣秀長の墓所。秀長(1540~1591)は、豊臣秀吉の異父弟で、兄秀吉とともに戦国時代に活躍した武将である。天正13年(1585)、和泉・紀伊・大和におよぶ100万石の所領を有し、郡山城主となった。
郡山城の建設に本格的にとりかかるとともに、「箱本」制度という独特な町方自治を行い、また、城下の商工業を育成し、今日の郡山の基礎を築いた。
天正19年(1591)1月22日、郡山城内で没した秀長(享年51歳)は、ここに葬られた。当初、今の芦ケ池近くに豊臣秀吉が菩提寺大光院を建立し、院主に京都大徳寺の古渓和尚を当てて墓地の管理と菩提を弔った。豊臣家が滅んだあと、大光院は藤堂高虎によって大徳寺の塔頭として京都に移築され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託された。その後墓地は荒廃したが、安永6年(1777)、位牌菩提寺春岳院の僧、栄隆や訓祥が郡山中の協力を得て、外廻りの土塀をつくり、五輪塔を建立した。
五輪塔の高さ約2メートルで、地輪の表面には、戒名『大光院殿前亜相春岳紹栄大居士』と刻し、台座には『春岳院現住法院訓祥、郡山内町中建立之』と刻む。
1996年3月 大和郡山市教育委員会 」
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
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大納言塚
どうやら北側の裏手から入ったようです。改めて南側から入ります。 -
大納言塚入口玄関
墓所の周辺は白色の塀で囲まれておりかつての太守の墓として体面を保っているかのようです。 -
「大納言塚」説明板
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「大納言秀長」説明
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秀長墓所
51歳で病死した秀長が仮に長寿であったならば、長期政権が可能だったかもしれません。 -
献柵の記
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イチオシ
秀長の五輪塔
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廟所風景
秀長五輪塔から廟の入口方向を一望します。100万石太守の墓所にしてはそれほど広くない墓所に思われます。 -
薬園(やくおん)八幡神社
大納言塚訪問を終えて、JR郡山駅に向かう途中に当該神社を散歩します。
「続日本記」の天平勝宝元年(749)記録によれば平城京九条大路の南、梨原に、この宮があったとあり、「八幡」神をこの新宮内の神殿に祀って「薬園」の名をつけたのが始まりと言われ古来建立の神社となっています。 -
国史現在社薬園八幡社石標
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当該神社御傳記
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神門(北向け)
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社務所
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本殿
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本殿
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神楽殿
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手水舎
手水舎の先には朱色の塀が並んで、その向こうには「薬園寺」という寺院で神仏分離令までは塀もなく一体であったと思われます。 -
神社境内風景
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神社境内風景
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郡山城外堀緑地
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