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四方を山々に囲まれた伊賀盆地の中央部を流れる柘植川と木津川を外堀とする伊賀上野城(いがうえのじょう、三重県伊賀市上野丸之内)は豊臣秀頼勢力と対峙するなか、やがて来るであろう豊臣方との決戦に備えて外様ながら信任厚い藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)は家康の命を受けて慶長16年(1611)から筒井古城の本丸よりも西側に広げた位置を新たな本丸とした新城を建造ります。<br /><br />戦国時代における伊賀国は有力大名の勢力圏外の空白地であり国人土豪が割拠している状況で、天正9年(1581)織田信長の二男織田信雄(おだ・のぶかつ)の当地域への進攻によって信長勢力圏に呑みこまれ、家臣である滝川雄利(たきがわ・かつとし、1543~1610)の統治するところとなり拠点をを構えるに当たっては、先の戦乱にて焼け落ちた寺院(平楽寺)の跡に築かれた館が伊賀上野城のはじまりでありました。<br /><br />天正13年(1585)天下統一を果たした秀吉により大和国の筒井順慶(つつい・じゅんけい)没後相続した定次(さだつぐ、1562~1615)は他所領8万石を含む20万石を以て伊賀国に国替えとなり、早速に領地経営の拠点として天正15年(1587)から雄利の城館跡に新しく城郭を築き、本丸には三層の天守を設け、西に二の丸、北の山下には三の丸を配し文禄年間に完成に至ります。<br /><br />慶長13年(1608)8月、伊予今治から藤堂高虎が伊賀国10万石、伊勢国の内10万石、伊予国の内2万石合わせて22万石を以て転封し初代津藩主就任、その背景は紀伊や大和の反徳川勢力の抑えと目前に迫る豊臣家討伐に備えるためです。<br /><br />豊臣方との決戦に備え慶長16年(1611)正月、有事の城として高虎自らが縄張を自ら指図して本丸を西に拡大し広大な高石垣を巡らせます。<br /><br />然しながら竣工直前の五層の大天守閣は慶長17年(1612)9月の大暴風より倒壊します。<br /><br />一方慶長19年(1614)の冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣では徳川方の勝利に終わり豊臣秀頼以下は自害により豊臣家は滅亡します。大坂の陣の後、高虎は更に加増され、伊賀・伊勢・伊予・山城・大和の5ケ国中で32万石を領有するに至ります。<br /><br />その後幕府は諸大名の城普請を厳しく禁止したため伊賀上野城の天守閣の再建はなされなかったものの伊賀の城として存続、高虎は弟高清(たかきよ、1585~1640)を城代として配し以降藤堂氏の領国支配が行われます。<br /><br /><br />2023年610月8日追記<br /><br />現地入手のパンフレット「伊賀上野城」には下記のように記されています。<br /><br />『 伊賀上野城の沿革<br /><br />”忍者の里”と呼ばれる伊賀国は、山に囲まれた九里四方の小さな盆地、その中心は上野城下町である。町の北端の丘には、白亜三層の伊賀上野城が、静かな雰囲気を醸しながら、端麗な姿を見せていて、白鳳城の雅号がある。<br /><br />天正13(1585)年、伊賀の国を領した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、慶長13(1608)年、定次を失政を理由に改易、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治から移り、自ら縄張りを指図、本丸を30mの高石垣で囲み、筒井古城を大拡張した。しかし竣工直前の五層大天守は、慶長17(1612)年9月2日の暴風雨で倒壊、そのうち大坂夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止され、城代家老が執政することとなった。<br /><br />現在の天守は、昭和10(1935)年、地元の名士川崎克氏が私財を投じて純木造の復興天守を再建、伊賀文化産業城と称した。城跡は昭和42(1967)年に国史跡に、天守は昭和60(1985)年に伊賀市の文化財に指定されている。』<br /><br /><br /><br />次に「伊賀上野城」と題した冊子には外様ながら徳川家康より厚い信頼を得ている築城の名人藤堂高虎について紹介されています。<br /><br />『 藤 堂 高 虎<br /><br />藤堂高虎は、弘治2年(1556)1月6日、江州犬上郡在士村に出生、元亀元年(1570)浅井長政に仕え、姉川の戦いに初陣する。その後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄に仕えた後に浪人となったが、天正4年(1576)木下秀長に3百石で招かれた。その後、秀長の信任を得て家老まで昇りつめる。天正14年(1586)小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉に臣従を誓った徳川家康は、聚楽第に邸地を与えられ、この時、秀長の命を受けた高虎が家康の居館を造営、この時から家康と親しい関係が始まる。<br /><br />天正15年(1587)秀吉の九州征伐の時、秀長に従って九州各地を転戦、宮部継潤が島津家久の軍に攻め込まれ苦戦していたのを寡兵をもって島津軍を破り継潤を救った。この手柄で秀吉からも1万石の加増を受けて合計2万石の大名並みの知行を受けることとなった。<br /><br />天正19年(1591)秀長が逝去、養子秀保を助けて朝鮮の役に従軍、文禄3年(1594)秀保が変死し高虎は、高野山に隠遁する。しかし高虎の才を惜しむ秀吉から再三の招聘に応じて下山、伊予国板島(宇和島)7万石を与えられる。<br /><br />慶長3年(1598)秀吉が逝去、秀吉恩顧の武将の対立が激化するなか、関ヶ原の戦いが始まり高虎は東軍に加わり大功をたて、功により一躍伊予半国20万石の大名になった。この時から家康との関係が深くなり外様大名ながら譜代大名以上の信頼を受け、慶長11年(1606)には、江戸城の縄張りを命じられる。<br /><br />慶長13年(1608)伊予から伊賀・伊勢へと転居、大坂の豊臣秀頼への備えという任務を与えられる。それだけ家康の信頼が厚かったことが伺える。伊賀上野城は、大坂との戦いが不利の場合、家康を上野に迎えるための重要な城であったので、高虎の築城術を駆使して高さ日本一といわれる高石垣を築いている。<br /><br />高虎は、自城の宇和島、大州、今治、上野、津の他、天下普請といわれる膳所、江戸、篠山、丹波亀山、二条、大坂など数多くの城の縄張りを担当している。元和2年(1616)家康が逝去、命により日光に廟を造営するにあたり、造営奉行を務めるなどの功により、32万954石余の大大名となる。寛永7年(1630)10月5日、江戸の柳原藩邸で逝去、享年75歳。』

伊賀上野 家康命により大坂城豊臣方の備えとして築城名人藤堂高虎が手掛けた高石垣で有名な『伊賀上野城』訪問

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2015/01/05 - 2015/01/05

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74

滝山氏照

滝山氏照さん

四方を山々に囲まれた伊賀盆地の中央部を流れる柘植川と木津川を外堀とする伊賀上野城(いがうえのじょう、三重県伊賀市上野丸之内)は豊臣秀頼勢力と対峙するなか、やがて来るであろう豊臣方との決戦に備えて外様ながら信任厚い藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)は家康の命を受けて慶長16年(1611)から筒井古城の本丸よりも西側に広げた位置を新たな本丸とした新城を建造ります。

戦国時代における伊賀国は有力大名の勢力圏外の空白地であり国人土豪が割拠している状況で、天正9年(1581)織田信長の二男織田信雄(おだ・のぶかつ)の当地域への進攻によって信長勢力圏に呑みこまれ、家臣である滝川雄利(たきがわ・かつとし、1543~1610)の統治するところとなり拠点をを構えるに当たっては、先の戦乱にて焼け落ちた寺院(平楽寺)の跡に築かれた館が伊賀上野城のはじまりでありました。

天正13年(1585)天下統一を果たした秀吉により大和国の筒井順慶(つつい・じゅんけい)没後相続した定次(さだつぐ、1562~1615)は他所領8万石を含む20万石を以て伊賀国に国替えとなり、早速に領地経営の拠点として天正15年(1587)から雄利の城館跡に新しく城郭を築き、本丸には三層の天守を設け、西に二の丸、北の山下には三の丸を配し文禄年間に完成に至ります。

慶長13年(1608)8月、伊予今治から藤堂高虎が伊賀国10万石、伊勢国の内10万石、伊予国の内2万石合わせて22万石を以て転封し初代津藩主就任、その背景は紀伊や大和の反徳川勢力の抑えと目前に迫る豊臣家討伐に備えるためです。

豊臣方との決戦に備え慶長16年(1611)正月、有事の城として高虎自らが縄張を自ら指図して本丸を西に拡大し広大な高石垣を巡らせます。

然しながら竣工直前の五層の大天守閣は慶長17年(1612)9月の大暴風より倒壊します。

一方慶長19年(1614)の冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣では徳川方の勝利に終わり豊臣秀頼以下は自害により豊臣家は滅亡します。大坂の陣の後、高虎は更に加増され、伊賀・伊勢・伊予・山城・大和の5ケ国中で32万石を領有するに至ります。

その後幕府は諸大名の城普請を厳しく禁止したため伊賀上野城の天守閣の再建はなされなかったものの伊賀の城として存続、高虎は弟高清(たかきよ、1585~1640)を城代として配し以降藤堂氏の領国支配が行われます。


2023年610月8日追記

現地入手のパンフレット「伊賀上野城」には下記のように記されています。

『 伊賀上野城の沿革

”忍者の里”と呼ばれる伊賀国は、山に囲まれた九里四方の小さな盆地、その中心は上野城下町である。町の北端の丘には、白亜三層の伊賀上野城が、静かな雰囲気を醸しながら、端麗な姿を見せていて、白鳳城の雅号がある。

天正13(1585)年、伊賀の国を領した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、慶長13(1608)年、定次を失政を理由に改易、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治から移り、自ら縄張りを指図、本丸を30mの高石垣で囲み、筒井古城を大拡張した。しかし竣工直前の五層大天守は、慶長17(1612)年9月2日の暴風雨で倒壊、そのうち大坂夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止され、城代家老が執政することとなった。

現在の天守は、昭和10(1935)年、地元の名士川崎克氏が私財を投じて純木造の復興天守を再建、伊賀文化産業城と称した。城跡は昭和42(1967)年に国史跡に、天守は昭和60(1985)年に伊賀市の文化財に指定されている。』



次に「伊賀上野城」と題した冊子には外様ながら徳川家康より厚い信頼を得ている築城の名人藤堂高虎について紹介されています。

『 藤 堂 高 虎

藤堂高虎は、弘治2年(1556)1月6日、江州犬上郡在士村に出生、元亀元年(1570)浅井長政に仕え、姉川の戦いに初陣する。その後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄に仕えた後に浪人となったが、天正4年(1576)木下秀長に3百石で招かれた。その後、秀長の信任を得て家老まで昇りつめる。天正14年(1586)小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉に臣従を誓った徳川家康は、聚楽第に邸地を与えられ、この時、秀長の命を受けた高虎が家康の居館を造営、この時から家康と親しい関係が始まる。

天正15年(1587)秀吉の九州征伐の時、秀長に従って九州各地を転戦、宮部継潤が島津家久の軍に攻め込まれ苦戦していたのを寡兵をもって島津軍を破り継潤を救った。この手柄で秀吉からも1万石の加増を受けて合計2万石の大名並みの知行を受けることとなった。

天正19年(1591)秀長が逝去、養子秀保を助けて朝鮮の役に従軍、文禄3年(1594)秀保が変死し高虎は、高野山に隠遁する。しかし高虎の才を惜しむ秀吉から再三の招聘に応じて下山、伊予国板島(宇和島)7万石を与えられる。

慶長3年(1598)秀吉が逝去、秀吉恩顧の武将の対立が激化するなか、関ヶ原の戦いが始まり高虎は東軍に加わり大功をたて、功により一躍伊予半国20万石の大名になった。この時から家康との関係が深くなり外様大名ながら譜代大名以上の信頼を受け、慶長11年(1606)には、江戸城の縄張りを命じられる。

慶長13年(1608)伊予から伊賀・伊勢へと転居、大坂の豊臣秀頼への備えという任務を与えられる。それだけ家康の信頼が厚かったことが伺える。伊賀上野城は、大坂との戦いが不利の場合、家康を上野に迎えるための重要な城であったので、高虎の築城術を駆使して高さ日本一といわれる高石垣を築いている。

高虎は、自城の宇和島、大州、今治、上野、津の他、天下普請といわれる膳所、江戸、篠山、丹波亀山、二条、大坂など数多くの城の縄張りを担当している。元和2年(1616)家康が逝去、命により日光に廟を造営するにあたり、造営奉行を務めるなどの功により、32万954石余の大大名となる。寛永7年(1630)10月5日、江戸の柳原藩邸で逝去、享年75歳。』

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • JR加茂駅<br /><br />亀山駅(JR東海担当駅)に向けて2輌編成のワンマン・ディーゼルが出発を待ちます。当駅は電化された都市近郊ネットワーク路線(大阪・奈良方面)と非電化のローカル線(亀山方面)の境界駅の位置づけとなっています。<br />

    JR加茂駅

    亀山駅(JR東海担当駅)に向けて2輌編成のワンマン・ディーゼルが出発を待ちます。当駅は電化された都市近郊ネットワーク路線(大阪・奈良方面)と非電化のローカル線(亀山方面)の境界駅の位置づけとなっています。

  • JR加茂駅<br /><br />歴史としては関西線は明治30年(1897)大阪と名古屋を連絡する私鉄(関西鉄道)として開業、明治40年(1907)国有化され関西本線となり、国鉄を経てJR西日本の駅となっています。

    JR加茂駅

    歴史としては関西線は明治30年(1897)大阪と名古屋を連絡する私鉄(関西鉄道)として開業、明治40年(1907)国有化され関西本線となり、国鉄を経てJR西日本の駅となっています。

  • 加茂駅駅標<br /><br />当駅までの電化の事情で大阪天王寺・奈良市内からの電車はすべて加茂駅を終点とし、ここから以東に行くには当駅でディーゼル車輌に乗換が必要となっており、非電化区間である加茂~亀山の電化により直通運行が望まれます。

    加茂駅駅標

    当駅までの電化の事情で大阪天王寺・奈良市内からの電車はすべて加茂駅を終点とし、ここから以東に行くには当駅でディーゼル車輌に乗換が必要となっており、非電化区間である加茂~亀山の電化により直通運行が望まれます。

  • 関西線時刻表<br /><br />亀山行は朝夕毎時2本を除き毎時1本という運行となっています。予め時刻を把握しておく必要があります。それにしても周囲はひっそりとして利用客の少なさを感じます。

    関西線時刻表

    亀山行は朝夕毎時2本を除き毎時1本という運行となっています。予め時刻を把握しておく必要があります。それにしても周囲はひっそりとして利用客の少なさを感じます。

  • 月ケ瀬駅

    月ケ瀬駅

  • JR伊賀上野駅<br /><br />ホームが3本、駅構内も広く確保されていますが、日中は1時間に1本の往復ではなんだかもったいない気がします。

    JR伊賀上野駅

    ホームが3本、駅構内も広く確保されていますが、日中は1時間に1本の往復ではなんだかもったいない気がします。

  • JR伊賀上野駅ホーム<br /><br />当地出身の松尾芭蕉の句が貼られています。

    JR伊賀上野駅ホーム

    当地出身の松尾芭蕉の句が貼られています。

  • 芭蕉坐像

    芭蕉坐像

  • 伊賀鉄道ホーム<br /><br />JR伊賀上野構内に伊賀鉄道のホームがあり当駅から上野市駅(市街地)を経て伊賀神戸(いがかんべ)駅までの16.6Kmを運行する私鉄があります。尚終点の伊賀神戸駅では近鉄名古屋線と乗り換え可能となっています。

    伊賀鉄道ホーム

    JR伊賀上野構内に伊賀鉄道のホームがあり当駅から上野市駅(市街地)を経て伊賀神戸(いがかんべ)駅までの16.6Kmを運行する私鉄があります。尚終点の伊賀神戸駅では近鉄名古屋線と乗り換え可能となっています。

  • 伊賀鉄道車輌

    伊賀鉄道車輌

  • 伊賀鉄道切符<br /><br />車内で珍しい切符(伊賀上野ー上野市、¥260)を購入します。会社から委託されている老人が検札と切符売りをしています。<br /><br />

    伊賀鉄道切符

    車内で珍しい切符(伊賀上野ー上野市、¥260)を購入します。会社から委託されている老人が検札と切符売りをしています。

  • 上野市周辺地図

    上野市周辺地図

  • 伊賀上野城

    伊賀上野城

  • 大手道

    大手道

  • 大手門

    大手門

  • 上野公園案内図<br /><br />地図を見ると、東側が大和から移封され当地に築城した筒井定次の城郭で、定次の後に入封した藤堂高虎が西寄りに新城を築いており、その跡地に現在の城郭が造られています。

    上野公園案内図

    地図を見ると、東側が大和から移封され当地に築城した筒井定次の城郭で、定次の後に入封した藤堂高虎が西寄りに新城を築いており、その跡地に現在の城郭が造られています。

  • 大手道<br /><br />右側に積まれた石垣が現れます。

    大手道

    右側に積まれた石垣が現れます。

  • 大手道<br /><br />同様に左側に積まれた石垣があります。

    大手道

    同様に左側に積まれた石垣があります。

  • 上野城跡石標

    上野城跡石標

  • 上野城跡沿革

    上野城跡沿革

  • 切通し<br /><br />大手門から本丸に向かう際の切通が続きます。

    切通し

    大手門から本丸に向かう際の切通が続きます。

  • 本丸入口

    本丸入口

  • 高石垣案内板

    高石垣案内板

  • 高石垣<br /><br />「井楼積(せいろうづみ)」と言われる工法により積まれた高石垣は水面から30mという高さで眼下を見下ろす際はさずがに緊張してしまいました。

    高石垣

    「井楼積(せいろうづみ)」と言われる工法により積まれた高石垣は水面から30mという高さで眼下を見下ろす際はさずがに緊張してしまいました。

  • 高石垣

    高石垣

  • 展望所

    展望所

  • 展望所

    展望所

  • 高石垣

    高石垣

  • 高石垣

    高石垣

  • 大天守閣

    大天守閣

  • 天守閣<br /><br />右側が三層三重の大天守閣、左側が小天守閣となっています。

    イチオシ

    天守閣

    右側が三層三重の大天守閣、左側が小天守閣となっています。

  • 本丸跡広場

    本丸跡広場

  • 本丸跡広場

    本丸跡広場

  • 上野城沿革説明<br /><br />「 上野城の沿革<br /><br />慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が、伊賀・伊勢の地へ転封、大坂城の豊臣秀頼に対する拠点の城として、慶長16年正月、筒井氏の城を西に拡張、その時日本一高いと言われる高石垣を築いた。<br /><br />翌17年9月、統治を襲った台風により五層の天守閣は倒壊、大坂夏の陣で徳川方の勝利に終わったので天守閣の再建はされなかったが、上野樹は伊賀国の城として存続、城代家老が置かれて明治まで存続した。<br /><br />今の天守閣は昭和10年(1935)10月、地元の名士川崎克氏により復興、伊賀文化産業城と称した。<br /><br />天守閣一階には甲冑・武具・伊賀焼を展示、二階には天守閣復興者川崎克氏のい書画や伊賀焼・藩主藤堂家の調度品などを展示。三階には横山大観をはじめとする有名人の書画46点の大色紙が格天井に飾られている。」

    上野城沿革説明

    「 上野城の沿革

    慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が、伊賀・伊勢の地へ転封、大坂城の豊臣秀頼に対する拠点の城として、慶長16年正月、筒井氏の城を西に拡張、その時日本一高いと言われる高石垣を築いた。

    翌17年9月、統治を襲った台風により五層の天守閣は倒壊、大坂夏の陣で徳川方の勝利に終わったので天守閣の再建はされなかったが、上野樹は伊賀国の城として存続、城代家老が置かれて明治まで存続した。

    今の天守閣は昭和10年(1935)10月、地元の名士川崎克氏により復興、伊賀文化産業城と称した。

    天守閣一階には甲冑・武具・伊賀焼を展示、二階には天守閣復興者川崎克氏のい書画や伊賀焼・藩主藤堂家の調度品などを展示。三階には横山大観をはじめとする有名人の書画46点の大色紙が格天井に飾られている。」

  • 木造復興の天守閣

    木造復興の天守閣

  • 上野城説明板

    上野城説明板

  • 天守閣展望

    天守閣展望

  • 天守閣展望

    天守閣展望

  • 天守閣展望

    天守閣展望

  • 天守閣展望

    天守閣展望

  • 川崎克氏銅像<br /><br />天守閣復興に尽力した川崎克(かわさき・かつ、1880~1949)は地元選出の代議士で、私財を売却して建てられたもので、修復の模擬天守閣の中で木造建築は珍しく川崎氏のこだわりが込められているようです。

    川崎克氏銅像

    天守閣復興に尽力した川崎克(かわさき・かつ、1880~1949)は地元選出の代議士で、私財を売却して建てられたもので、修復の模擬天守閣の中で木造建築は珍しく川崎氏のこだわりが込められているようです。

  • 上野城建設目録

    上野城建設目録

  • 伊賀上野城と周辺の模型<br /><br />天守の最上階に城郭を囲む地形の模型が配置され、当該城の地理上の位置関係がよく理解できます。

    伊賀上野城と周辺の模型

    天守の最上階に城郭を囲む地形の模型が配置され、当該城の地理上の位置関係がよく理解できます。

  • 大天守閣石垣

    大天守閣石垣

  • 本丸跡広場<br /><br />天守閣入口から本丸跡広場を一望します。

    本丸跡広場

    天守閣入口から本丸跡広場を一望します。

  • 天守閣<br /><br />手前が大天守閣で奥に見えるのが小天守閣となっています。

    イチオシ

    天守閣

    手前が大天守閣で奥に見えるのが小天守閣となっています。

  • 本丸跡広場

    本丸跡広場

  • 天守閣<br /><br />右側に大天守閣、左側に小天守閣がそれぞれ雄姿を見せています。

    イチオシ

    天守閣

    右側に大天守閣、左側に小天守閣がそれぞれ雄姿を見せています。

  • 城代屋敷跡<br /><br />天正13年(1585)に築城した筒井定次(つつい・さだつぐ、XX)時代の本丸で藤堂時代には城代屋敷があったところでありました。

    城代屋敷跡

    天正13年(1585)に築城した筒井定次(つつい・さだつぐ、XX)時代の本丸で藤堂時代には城代屋敷があったところでありました。

  • 内側から現れた石垣

    内側から現れた石垣

  • 筒井古城への石段

    筒井古城への石段

  • 筒井古城への石段

    筒井古城への石段

  • 大納戸蔵<br /><br />この一帯は米蔵、塩味噌蔵などの食料・食材等の蔵があった所のようです。

    大納戸蔵

    この一帯は米蔵、塩味噌蔵などの食料・食材等の蔵があった所のようです。

  • 米蔵・塩噌蔵跡

    米蔵・塩噌蔵跡

  • 台所門跡周辺の建物説明

    台所門跡周辺の建物説明

  • 城代役所跡

    城代役所跡

  • 城代役所跡石標

    城代役所跡石標

  • 城代役所跡(旧筒井氏本丸跡)

    城代役所跡(旧筒井氏本丸跡)

  • 城代役跡下石段

    城代役跡下石段

  • 城代役跡下石垣

    城代役跡下石垣

  • 城代役跡下石段

    城代役跡下石段

  • 筒井古城石垣

    筒井古城石垣

  • 城代役所跡(旧筒井氏本丸跡)<br /><br />城代役所跡の南端に石灯籠が建っているのが見えます。

    城代役所跡(旧筒井氏本丸跡)

    城代役所跡の南端に石灯籠が建っているのが見えます。

  • 市街展望<br /><br />

    市街展望

  • 天守閣展望

    天守閣展望

  • 筒井古城本丸から下る石段<br /><br />整備された石段を下って行きます。

    筒井古城本丸から下る石段

    整備された石段を下って行きます。

  • 筒井古城跡下広場

    筒井古城跡下広場

  • 筒井古城跡<br /><br />広場から筒井定次が造った本丸石垣を見上げます。<br /><br />

    イチオシ

    筒井古城跡

    広場から筒井定次が造った本丸石垣を見上げます。

  • 古城下広場<br /><br />広場の片隅には手入れされてない池が見つかります。往時の御殿にあった庭園に一部でしょうか。

    古城下広場

    広場の片隅には手入れされてない池が見つかります。往時の御殿にあった庭園に一部でしょうか。

  • 大手門周辺<br /><br />最初に到着した大手門に戻ってきました。

    大手門周辺

    最初に到着した大手門に戻ってきました。

  • 大手道<br /><br />帰路はやはり石畳の大手道を歩きます。

    大手道

    帰路はやはり石畳の大手道を歩きます。

  • 芭蕉の句碑

    芭蕉の句碑

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