2015/01/05 - 2015/01/05
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滝山氏照さん
近畿鉄道橿原線の大和郡山駅から北西へ徒歩10分、郡山高校の北に隣接する大和郡山城(やまとこうりやまじょう、奈良県大和郡山市城内町)は松永久秀を破った功により織田信長より大和一国を与えられた筒井順慶(つつい・じゅんけい、1549~1585)が築いた平城です。
筒井氏転封後に秀吉の実弟である大納言・羽柴秀長(はしば・ひでなが、1540~1591)が大和・和泉・紀伊3ケ国100万石の大守として入城、秀長は100万石にふさわしい城郭を考え大幅な拡張工事を行い、商業発展のため商人を奈良から移し城下町の整備に務めます。
次いで秀吉末期の五奉行の一人である増田長盛(ました・ながもり、1545~1615)が20万石で入封、関ヶ原の戦いでは西軍に属したため家康より知行地没収され高野山追放となります。
江戸時代初期には、水野・松平・本多などの譜代大名の中でも知名度高く将軍家康・秀忠の信頼高い大名が投入され、享保9年(1724)に五代将軍綱吉の側近として権勢を欲しいままに動かした柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす、1658~1714)の子である吉里(よしさと、1687~1745)が甲府から15万石を以て入城し、吉里は藩校「総稽古所」を設置し10歳以上の子弟の教育に力を注ぎ、その一端が柳沢文庫に見られます。吉里を祖とした柳沢家は6代続き明治を迎えることになります。
当該城郭は殆ど住宅化され、かつての城域25万m2の規模を把握することは困難ですが、それでも本丸付近は初代藩主で入封した柳沢吉里の実父である吉保を祀る柳沢神社が配置され、その背後には天守台石垣が残り、堀を挟んだ東側には櫓が復元され往時の姿を取り戻しています。
天守台石垣などは転用石が多く見られ、周辺の寺院からの墓石、石像、石臼等の石まで使用されているそうですが、当地周辺では石材の確保が困難であった事情によるものと思われます。
2023年10月13日追記
現地にて建てられた説明板には下記のように紹介されています。
『 郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来
筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一の偉業を成し遂げて、天正8年(1580)11月12日郡山にはいり築城に着手している。しかし本格的な郡山築城は、天正13年(1585)9月に、大和、和泉、紀伊三ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高100万石をもって入城してからのことである。そのとき追手門もこの場所に築かれたものと思われる。秀長なきあと養子秀保、増田長盛とうけ継がれたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大阪を守った。戦いは西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取り壊しとなり、建物のすべては伏見城に移された。廃城となった郡山の地は、代官大久保石見守長安、山口駿河守直友、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番となり、預っていた。
慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こり、藤堂高虎は10月25日郡山に着陣し戦闘配置についたものの、東西の和議が整いことなきを得た。
翌元和元年(1615)4月大坂夏の陣の際時の城番筒井主殿頭は大阪方の誘いを断り、徳川方に味方したので大阪方の攻撃に遭い、福住に逃れた。5月8日大阪落城を知った定慶は、士道に恥じて切腹して果てたといわれている。
戦後の論功において戦功第二となった水野日向守勝成が6万石をもって郡山に封ぜられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や堀の修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作は勝成の手で普請を進めた。しかし、在城わずか5年で備後福山に移され、かわって戦功第一の論功を受けた大阪城主松平下総守忠明が元和4年(1618)10月、12万石をもって郡山城主となった。そのとき城には十分な建物とてなく、家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので近世郡山城の威容は整った。追手門もその一つです。当時はこの門を一庵丸門と呼んでいた。その後本多内記政勝、政長、政利、松平日向守信之、本多下野守忠平能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、喜十郎忠烈と続き、忠烈嫡子なく本多家は断絶となった。
享保9年(1724)3月11日、禁り守護の大任を帯びて、15万石をもって甲府城から郡山に移封なった柳沢甲斐守吉里は、一庵丸門を梅林門と名を替え、城は美濃守信鴻、甲斐守保光、保泰、保興、保申とうけ継がれ、明治維新を迎えて廃城となり、すべての建物は取り払われてしまった。近時郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門を秀長築城にふさわしい姿で復元された。
昭和58年11月2日
大 和 郡 山 市 』
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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JR郡山駅
駅舎前に立っている市内案内図で確認します。近鉄橿原線大和郡山駅の方向を確認します。 -
大和郡山城下町観光案内
大和郡山城まで徒歩25分と記載在ります。 -
大和郡山城
左側に県立郡山高校を見ながら西進していきます。 -
イチオシ
大和郡山城跡案内図
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追手向櫓
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鉄御門趾
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鉄御門趾石標
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「天守台展望施設整備中」看板
天守台石垣の崩落の怖れありとして工事中とのことです。 -
大和郡山城堀
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大和郡山城堀
道路に沿って石垣が東西に走っています。 -
表門趾石標
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郡山城跡由来
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柳沢神社鳥居
柳沢吉保を祀った神社で、明治13年(1880)10月旧藩士や信者などの有志により創建されています。当初は現在の郡山高校に当たる二ノ丸に創建されたそうですが明治15年(1882)6月に現在地に遷座されています。 -
竹林橋趾
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堀
竹林橋から堀の東側を捉えます。 -
堀
同様に堀の西側を一望します。 -
大手門跡
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柳沢神社境内
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柳沢神社御由緒説明
当神社の御由緒については下記のように記載されています
「五代将軍綱吉公の幕臣となり、元禄元年1万石を与えられ側用人となる。英俊敏捷にして学を好み、将軍綱吉公の意をよくとらえ元禄7年には武蔵国川越城主で老中格となる。
宝永元年、甲府城主となり表高15万石を与えられる。
民の疾苦を問い、強く仁政を施し名士も多く細井廣澤、荻生徂徠は最もよく知られるところである。
御子柳沢吉里公が甲府より郡山に国替えとなり、柳沢藩が15万1千石余の大名として6代140年、明治維新まで続いた。
宝永六年綱吉公の死後、東京駒込(六義園)に移り隠居、正徳4年11月2日没す。享年57歳。」 -
手水舎
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神社参道
右側には「御祭神 旧河越甲府城主 柳沢美濃守吉保公」と刻された石柱があります。 -
神社拝殿
明治23年に建立の由です。 -
本殿
拝殿に続く本殿が格式高く配置されています。 -
境内風景
拝殿から参道方向を眺めます。 -
さかさ地藏
天守台の石垣不足を補うため近隣寺院から庭石・礎石から五輪塔・石地蔵まで接収されましたが、その内の一つとして石造の地蔵菩薩像が逆さに積み込まれているので「さかさ地藏」と呼ばれています。 -
天守台工事内容説明看板
右側下部の見取図で見るように神社本殿の後にある天守台は立入禁止となって、立入禁止区域が設定されています。 -
天守台修復整備事業
天守台を支えているのは自然石による野面積みで、その石が膨張して崩落の危険性が高く、これを解消するため市では5年計画で整備に取り組んでおり、平成29年3月までに工事の完成を目指しているとのことです。 -
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天守台一部
立入禁止の為至近距離で撮影せざるを得ず、なんとか天守台の右端程度の画面が撮れました。 -
天守台一部
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社務所
早朝の為か境内には参拝者の人影がありません。そして年始のことでもあり工事作業も始まっておらずどうやら休みのようです。 -
石垣と堀
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イチオシ
石垣と堀
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極楽橋趾
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石垣と堀
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竹林橋跡
神社と天守台の見学を終えて橋を渡り道路側に出ます。 -
石垣と堀
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石垣と堀
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石垣と道路
城郭の中にある郡山高校は一部石垣の上に敷地があってその外側は埋められて道路と化しているようです。 -
鷺池全景
後日地図で確認しますと郡山高校の南側に位置する鷺池とわかりました。 -
外堀緑地(北方向)
大和郡山城のかつての外堀で、今では埋め立てられ南北に長い散歩道戸なっています。 -
外堀緑地石柱
外堀緑地と交差する位置に「外堀緑地」と刻された石柱が立っています。 -
外堀緑地案内板
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外堀緑地地図
古地図をみれば現外堀緑地が郡山城本丸から見れば北東に施工されていたことが判ります。 -
外堀緑地(南方向)
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