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城郭の周囲は沼地でこれらを天然の堀に見立てた備中高松城(びっちゅうたかまつじょう、岡山県岡山市北区高松)は毛利氏勢力境目七城の中心的存在で中国攻略の先鋒の羽柴秀吉の攻撃に対し難攻不落の城砦となっています。<br /><br />天正10年(1582)備前国を支配していた宇喜多直家(うきた・なおいえ、1529~1582)の助成が重要で、軍師官兵衛の説得により織田方に組み込みに成功、秀吉は家督を継いだ八郎秀家(はちろう・ひでいえ、1572~1655)の後見人とし宇喜多勢1万の軍勢を加えて高松城攻略に臨みます。<br /><br />高松駅先踏切を渡り更に7~8分歩くと高松城址公園入口が見え、備中高松城跡を紹介する案内板が建っていますが周辺には城郭に関係する痕跡はほとんど残っておらず見事に整備された平坦な敷地と敷地に挟まれた蓮池が南北に広がっているだけです。<br /><br /><br />案内板には「高松城」と「中国役」についてそれぞれ記載がなされています。<br /><br />「高松城とは・・・<br /><br />高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。<br /><br />城は沼沢地に臨む平城(沼城)で石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺える。 縄張は方形(一辺約50m)の一壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。<br /><br />本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。」<br /><br /><br />「中国役とは・・・・<br /><br />全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。 毛利方は備中境に境目七城(高松城・宮地城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。<br /><br />織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々と攻略した。 最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6Kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折から梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。 籠城1ケ月を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。 秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。<br /><br />本丸跡は明治元年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。<br />築堤跡は蛙ケ鼻に現在も一部残存している。」 <br />              平成8年3月 岡山教育委員会<br /><br /><br /><br />ところで高松城主清水宗治(しみず・むねはる、1537~1582)ですが、出身は高松城から数キロ西に在る清水(総社市)で地名を姓にするようにこの地の国人であり、最初は幸山城主の石川氏に属していました。<br /><br />やがて石川氏の没落後は毛利氏の勢力東進の影響を受け、毛利氏の家臣となり元就の三男小早川隆景(こばやかわ・たかかげ、1533~1597)に臣従し隆景の配下として毛利氏の中国平定に従軍、隆景の深い信頼を得て高松城主となります。<br /><br />毛利氏は攻めてくるであろう織田勢に備えて足守川を南北に通して七つの城を構え、隆景は宗治以下各城主を三原に招き、それぞれに脇差を与え激励すると宗治は「一戦を交えて後は城を枕にして切腹を決めている」と発して死を覚悟した臨戦態勢を示しています。<br /><br />その後天下統一を果たした秀吉は後日毛利家の参謀役である隆景に会った際「宗治は武士の鏡であった」とし清水宗治の武士としての姿を絶賛したと言われるほどでありました。

備中高松 官兵衛をたずねる 主君織田信長横死の報に接し中国大返しを進言し秀吉に天下を取らせる舞台となった知将清水宗治居城『備中高松城』訪問

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2015/01/03 - 2015/01/03

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滝山氏照

滝山氏照さん

城郭の周囲は沼地でこれらを天然の堀に見立てた備中高松城(びっちゅうたかまつじょう、岡山県岡山市北区高松)は毛利氏勢力境目七城の中心的存在で中国攻略の先鋒の羽柴秀吉の攻撃に対し難攻不落の城砦となっています。

天正10年(1582)備前国を支配していた宇喜多直家(うきた・なおいえ、1529~1582)の助成が重要で、軍師官兵衛の説得により織田方に組み込みに成功、秀吉は家督を継いだ八郎秀家(はちろう・ひでいえ、1572~1655)の後見人とし宇喜多勢1万の軍勢を加えて高松城攻略に臨みます。

高松駅先踏切を渡り更に7~8分歩くと高松城址公園入口が見え、備中高松城跡を紹介する案内板が建っていますが周辺には城郭に関係する痕跡はほとんど残っておらず見事に整備された平坦な敷地と敷地に挟まれた蓮池が南北に広がっているだけです。


案内板には「高松城」と「中国役」についてそれぞれ記載がなされています。

「高松城とは・・・

高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。

城は沼沢地に臨む平城(沼城)で石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺える。 縄張は方形(一辺約50m)の一壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。

本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。」


「中国役とは・・・・

全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。 毛利方は備中境に境目七城(高松城・宮地城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。

織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々と攻略した。 最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6Kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折から梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。 籠城1ケ月を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。 秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。

本丸跡は明治元年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
築堤跡は蛙ケ鼻に現在も一部残存している。」 
              平成8年3月 岡山教育委員会



ところで高松城主清水宗治(しみず・むねはる、1537~1582)ですが、出身は高松城から数キロ西に在る清水(総社市)で地名を姓にするようにこの地の国人であり、最初は幸山城主の石川氏に属していました。

やがて石川氏の没落後は毛利氏の勢力東進の影響を受け、毛利氏の家臣となり元就の三男小早川隆景(こばやかわ・たかかげ、1533~1597)に臣従し隆景の配下として毛利氏の中国平定に従軍、隆景の深い信頼を得て高松城主となります。

毛利氏は攻めてくるであろう織田勢に備えて足守川を南北に通して七つの城を構え、隆景は宗治以下各城主を三原に招き、それぞれに脇差を与え激励すると宗治は「一戦を交えて後は城を枕にして切腹を決めている」と発して死を覚悟した臨戦態勢を示しています。

その後天下統一を果たした秀吉は後日毛利家の参謀役である隆景に会った際「宗治は武士の鏡であった」とし清水宗治の武士としての姿を絶賛したと言われるほどでありました。

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル
  • JR備中高松駅<br /><br />岡山駅から総社行ディーゼル車輌にてJR吉備線を西進して5つ目が備中高松駅です。<br /><br />

    JR備中高松駅

    岡山駅から総社行ディーゼル車輌にてJR吉備線を西進して5つ目が備中高松駅です。

  • 名所ガイド<br /><br />備中高松駅ホームに掲示の名所ガイドには最上稲荷総本山とともに高松城跡が紹介されており、西北へ500mとのことで徒歩7~8分程度の平坦地のようです。

    名所ガイド

    備中高松駅ホームに掲示の名所ガイドには最上稲荷総本山とともに高松城跡が紹介されており、西北へ500mとのことで徒歩7~8分程度の平坦地のようです。

  • 総社駅方向<br /><br />構内陸橋から総社方向を一望します。<br /><br />

    総社駅方向

    構内陸橋から総社方向を一望します。

  • 岡山駅方向

    岡山駅方向

  • 備中高松駅舎

    備中高松駅舎

  • まほろばの里 備中高松案内板<br /><br />備中高松駅舎前には大掛かりな写真を付した地図が建っています。

    まほろばの里 備中高松案内板

    備中高松駅舎前には大掛かりな写真を付した地図が建っています。

  • 備中高松周辺地図

    備中高松周辺地図

  • 高松・足守ルート地図<br /><br />古墳を始め社寺仏閣など史蹟が多数紹介されています。<br /><br />

    高松・足守ルート地図

    古墳を始め社寺仏閣など史蹟が多数紹介されています。

  • 水攻高松城址道

    水攻高松城址道

  • 史跡「舟橋」説明

    史跡「舟橋」説明

  • 高松城跡入口<br /><br />現在は「高松城址公園」として整備されており、羽柴秀吉軍と対峙していた頃を思わせる手がかりが見えずやや期待外れの印象です。

    高松城跡入口

    現在は「高松城址公園」として整備されており、羽柴秀吉軍と対峙していた頃を思わせる手がかりが見えずやや期待外れの印象です。

  • 水攻め築堤跡高さ表示板

    水攻め築堤跡高さ表示板

  • 高松城跡説明板

    高松城跡説明板

  • 三の丸跡説明

    三の丸跡説明

  • 水攻め図案内板

    水攻め図案内板

  • 城址公園敷地

    城址公園敷地

  • 二の丸跡説明

    二の丸跡説明

  • 宗治蓮

    宗治蓮

  • 宗治蓮説明

    宗治蓮説明

  • 宗治蓮

    宗治蓮

  • 本丸跡<br /><br />

    本丸跡

  • 本丸跡説明

    本丸跡説明

  • 宗治辞世の歌碑<br /><br />「浮き世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」

    宗治辞世の歌碑

    「浮き世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」

  • 清水宗治首塚

    清水宗治首塚

  • 清水宗治首塚<br /><br />逆光になりますが首塚の築山に石塔が建っています。

    清水宗治首塚

    逆光になりますが首塚の築山に石塔が建っています。

  • 高松城水攻之図

    高松城水攻之図

  • 高松城水攻略史

    高松城水攻略史

  • 高松城水攻地図

    高松城水攻地図

  • 本丸風景

    本丸風景

  • 宗治蓮<br /><br />橋の中央から蓮沼を望みます。

    宗治蓮

    橋の中央から蓮沼を望みます。

  • 宗治蓮<br /><br />同様に橋の反対側から蓮沼を望みます。

    宗治蓮

    同様に橋の反対側から蓮沼を望みます。

  • 宗治蓮<br /><br />城址公園のなかで宗治蓮面積がかなり広いと改めて認識し、換言すれば沼地の広がりが異常なほど広域であったことがわかります。

    宗治蓮

    城址公園のなかで宗治蓮面積がかなり広いと改めて認識し、換言すれば沼地の広がりが異常なほど広域であったことがわかります。

  • 宗治蓮

    宗治蓮

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