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JR宇都宮線古河駅から徒歩で約10分、大蓮山・隆岩寺(りゅうがんじ、茨城県古河市中央町)は古河藩主として入封した小笠原秀政(おがさわら・ひでまさ、1569~1615)が正室(登久姫)の父である岡崎三郎信康(おかざき・さぶろう・のぶやす=徳川家康の長男、1559~1579)の冥福を祈るため文禄4年(1595)に開基し、広誉笈道を開山として創設の阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院です。<br /><br />天正18年(1590)7月小田原北条氏の没落後豊臣秀吉の命によりその旧領に知行替えとなり家康が江戸入府、これに合わせて3万石で古河城に入封したのは小笠原秀政で正室は家康の嫡男信康の娘(母親は織田信長の娘・徳姫)で家康にとっては実孫にあたります。<br /><br />当然のことながら新所領地は戦後荒廃のままでまだ徳川勢力が浸透しない混沌とした状況にあって、豊臣秀吉とその子飼いの大名等の敵対勢力の進入から未整備の江戸を守る支城にふさわしい地理的要所に加え、経済発展の手段である利根川水系を抑える重要地として家康は信頼できる秀政という武将を古河に配したことは当地重視の証といえます。<br /><br />ここで秀政が古河に入った頃の状況について言及すれば、小田原北条氏に属していた芳賀伯耆守正綱(はが・ほうきのかみ・まさつな)が古河城在城しており、その規模は定かではありませんがかなり荒廃していたようで、小笠原家は一時的に元栗橋城(五霞町)に仮住まいする一方古河城の修復・拡張を待って同城に入っています。<br /><br />上記内容の裏付けとして秀政が開基した隆願寺が古河市内と五霞町内に現在それぞれ独立して二仏院存在していたことから、秀政が一時的元栗橋城にいた名残といわれる所以です。<br /><br />そもそも小笠原氏の出自は甲斐源氏で、遡る平安時代後期に後三年の役にて活躍した八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光の子、武田太郎信義の実弟である加々美遠光(かがみ・とおみつ、1143~1230)を祖とし、遠光の子長清(ながきよ)が甲斐櫛形町小笠原に居を定め小笠原と称します。<br /><br />長清は後に信濃に移住、南北朝時代に貞光(さだみつ)が信濃国守護に任じられ以来後裔は代々その職を受け継ぎますが、応仁の乱を機に信濃国は西の木曽氏、南の諏訪氏、北の村上氏などいずれの勢力も伸長し群雄割拠の時代に入り、長時(ながとき)時代は信濃国守護職の地位が脅かされる始末です。<br /><br />天文11年(1542)6月、甲斐の武田信玄(晴信)が信濃国東部を治める諏訪氏を攻略して諏訪から更に伊奈、木曽へと勢力を伸ばし信玄は木曽義昌と姻戚関係を結び次第に信濃支配を広げようとします。<br /><br />これに対し、長時は北信の雄である村上義清(むらかみ・よしきよ)が上田原の戦いで信玄軍を撃退した知らせを聞きこれを機に信玄の新所領となった諏訪へ進入し諏訪大社・下社を攻め小笠原氏は武田氏と直接の戦いが展開されます。<br /><br />同年7月には諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族の支持を得て諏訪領を武田から奪還すべく塩尻峠に陣を張っている所、信玄率いる軍勢は深夜密かに進軍し闇にまぎれて小笠原勢5千の近くまで迫り、同軍の不意を突いて早朝に奇襲をかけ同軍は大混乱、千名以上の死者を出して敗走するに至ります。<br /><br />以降信玄の小笠原軍追撃は収まらず小笠原氏の本拠地松本に迫り、遂には本城の林城、支城の松本城などの7城が降伏または城兵逃亡、それぞれの城将たちも前後して信玄に屈します。<br /><br />本拠の林城を追われた小笠原長時は村上義清に身を寄せ、村上氏の兵力に加え旧家臣の参陣により4千となった布陣で再度信玄めがけて戦いを挑みますが、村上軍の戦列離脱もあって大敗、長尾景虎(ながお・かげとら、後の上杉謙信)を頼り逃亡することになります。<br /><br /><br />その頃の小笠原氏は祖を同じとする武田信玄より上述の通り本領の信濃を追われ一時越後に逃れた後各地に離散、その中で長時は縁戚(三好氏は阿波小笠原氏の後裔)の阿波徳島を本貫地とする三好長慶(みよし・ながよし、1522~1564)を頼って家臣を伴い上洛し、時の将軍義輝(よしてる、1536?1565)の騎馬指南役を務めることになります。<br /><br />永禄8年(1564)頼りの長慶病死、翌年松永秀久(まつなが・ひさひで、1510??1577)による義輝暗殺、三好氏内訌で勢力衰える中、伸長著しい尾張織田信長の畿内における諸旧勢力の一掃によって三好氏が没落、拠り所を失った長時は三男貞慶(さだよし、1546?1595)を従い再度謙信を頼り越後で知行を得る生活を送ります。<br /><br />天正6年(1578)上杉謙信死後は後継者争い「御館の乱」が起り景勝と信虎との内紛を避けるため会津の芦名盛氏(あしな・もりうじ)を頼りその後恨みを持った家臣から殺害されたと言われます。<br /><br />一方家督を相続した貞慶は天正9年(1581)に貞慶が信濃守護家として貴種の高さを評価されたのか織田信長に迎えられ東国大名との外交官的役割をはたすべく重用されます。<br /><br />翌年信長が宿敵武田勝頼討伐軍を起すと小笠原氏再興の意思を持ち続けている貞慶は本拠の府中(深志)回復を図りますが戦後の信濃の分与については旧領の安曇・筑摩両郡と深志城は木曽義昌に与えられ貞慶は本意を遂げることができず、貞慶は悲願をめざすため密かに徳川家康に接近します。<br /><br />同年6月、信長が本能寺で横死すると後ろ盾を失った武将たちは新知行地を離れ思い思い自領に逃げ帰るなか、慌ただしい状況に付けこんで越後上杉景勝の支援を受けて一族の小笠原貞種(おがさわら・さだたね)が義昌を追い出して深志城を回復します。<br /><br />これに対し貞慶は上杉氏の信濃介入を嫌う家康の後援のもと貞種を越後に退去させ悲願の深志城復帰を果たすことになり、併せて貞慶は嫡男秀政を家康へ人質として差出し、徳川氏との従属関係を固めながら安曇・筑摩両郡の平定と民政の安定を推進します。<br /><br />天正12年(1584)織田信雄(おだ・のぶかつ)の誘いにより家康と豊臣秀吉とで緊張が生じ、いわゆる小牧・長久手の戦いが起り野戦に強い家康が勝利しますが、貞慶は家康に従って秀吉側の上杉氏支配下の青柳・麻績両城と木曽氏の福島城を攻めたて動きを牽制します。<br /><br />翌年徳川家康の宿老である石川数正(いしかわ・かずまさ)が家康の人質となっていた貞慶の嫡男秀政を伴って豊臣秀吉に出奔するという挙行が発生、これにより貞慶は天下統一を目前にしている秀吉の麾下に入って小笠原家の安泰を計ろうとするものでした。<br /><br />然しながら天正14年(1586)に対立していた秀吉と家康が和解し秀吉は関東に関する差配を家康に任せ、信濃の小笠原・木曽氏は家康の支配下に置くことなります。<br /><br />天正17年(1589)貞慶は家督を嫡男秀政に譲って恭順の意を表し、併せて家康の長男の故岡崎三郎信康の娘を秀政の正室に迎えて徳川家との関係修復を遂げます。<br /><br />翌天正18年小田原北条氏没落後関東に転封となった家康に従って秀政は下総古河3万石に封じられ、貞慶も秀政と共に古河に移住、文禄4年(1595)波乱万丈の生涯を閉じます。<br /><br />尚 古河に移封した秀政は慶長5年(1600)関ヶ原戦いの戦功により翌年信濃国飯田5万石加増移封を果たし、慶長12年(1607)自ら出家し家督を長男の忠脩に譲ります。そして慶長18年(1613)に家康の配慮もあってか小笠原氏の旧領である信濃松本に8万石を以て移り改めて悲願の父祖の地を得ることになります。<br /><br />ところが慶長20年(1615)の大坂夏の陣では秀政は嫡子忠脩と共に天王寺口の戦いで戦死、落城後はその戦功が認められ秀政二男忠政(ただまさ、1596~1667・後の忠真)が嫡流を継ぎ、その後播磨国明石にて10万石の知行を経て豊前小倉に15万石を以て入封し明治維新を迎えるまで歴代藩主が続きます。<br /><br /><br />2022年12月21日 追記<br /><br />境内小笠原家墓所に建てられた説明板には下記の通り記述されています。<br /><br />『 古河市指定文化財・史跡<br />   小 笠 原 貞 慶 の 供 養 塔<br />          昭和43年4月1日指定<br />          古河市中央町1丁目7番39号<br /><br />小笠原貞慶は信州松本(長野県)の戦国時代の武将で、江戸時代になって古河藩の初代藩主となった小笠原秀政の父にあたる。<br /><br />貞慶は文禄4年(1595)に古河に没し、その墓の所在は不明だったが、死後役200年たった寛政5年(1793)になって正麟寺山という所の土中から暮石の一部が発見された。その暮石を、当隆願寺の住職と九州小倉の藩主となっていた子孫の小笠原氏が当地に移し、石がんのなかに納めて厚く供養したのがこの石塔である。<br /><br />なお、隆願寺は 秀政が妻の父である岡崎三郎信康(徳川家康の長男)のために建ててもので、傍の宝篋印塔が信康の供養塔である。<br /><br />     平成20年1月<br />                古河市教育委員会 』                              

下総古河 家康関東転封に従い古河藩主となった武田信玄と共に新羅三郎義光を祖とする小笠原秀政が父貞慶並びに義父岡崎信康を祀った『隆岩寺』散歩

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2014/10/25 - 2014/10/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR宇都宮線古河駅から徒歩で約10分、大蓮山・隆岩寺(りゅうがんじ、茨城県古河市中央町)は古河藩主として入封した小笠原秀政(おがさわら・ひでまさ、1569~1615)が正室(登久姫)の父である岡崎三郎信康(おかざき・さぶろう・のぶやす=徳川家康の長男、1559~1579)の冥福を祈るため文禄4年(1595)に開基し、広誉笈道を開山として創設の阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院です。

天正18年(1590)7月小田原北条氏の没落後豊臣秀吉の命によりその旧領に知行替えとなり家康が江戸入府、これに合わせて3万石で古河城に入封したのは小笠原秀政で正室は家康の嫡男信康の娘(母親は織田信長の娘・徳姫)で家康にとっては実孫にあたります。

当然のことながら新所領地は戦後荒廃のままでまだ徳川勢力が浸透しない混沌とした状況にあって、豊臣秀吉とその子飼いの大名等の敵対勢力の進入から未整備の江戸を守る支城にふさわしい地理的要所に加え、経済発展の手段である利根川水系を抑える重要地として家康は信頼できる秀政という武将を古河に配したことは当地重視の証といえます。

ここで秀政が古河に入った頃の状況について言及すれば、小田原北条氏に属していた芳賀伯耆守正綱(はが・ほうきのかみ・まさつな)が古河城在城しており、その規模は定かではありませんがかなり荒廃していたようで、小笠原家は一時的に元栗橋城(五霞町)に仮住まいする一方古河城の修復・拡張を待って同城に入っています。

上記内容の裏付けとして秀政が開基した隆願寺が古河市内と五霞町内に現在それぞれ独立して二仏院存在していたことから、秀政が一時的元栗橋城にいた名残といわれる所以です。

そもそも小笠原氏の出自は甲斐源氏で、遡る平安時代後期に後三年の役にて活躍した八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光の子、武田太郎信義の実弟である加々美遠光(かがみ・とおみつ、1143~1230)を祖とし、遠光の子長清(ながきよ)が甲斐櫛形町小笠原に居を定め小笠原と称します。

長清は後に信濃に移住、南北朝時代に貞光(さだみつ)が信濃国守護に任じられ以来後裔は代々その職を受け継ぎますが、応仁の乱を機に信濃国は西の木曽氏、南の諏訪氏、北の村上氏などいずれの勢力も伸長し群雄割拠の時代に入り、長時(ながとき)時代は信濃国守護職の地位が脅かされる始末です。

天文11年(1542)6月、甲斐の武田信玄(晴信)が信濃国東部を治める諏訪氏を攻略して諏訪から更に伊奈、木曽へと勢力を伸ばし信玄は木曽義昌と姻戚関係を結び次第に信濃支配を広げようとします。

これに対し、長時は北信の雄である村上義清(むらかみ・よしきよ)が上田原の戦いで信玄軍を撃退した知らせを聞きこれを機に信玄の新所領となった諏訪へ進入し諏訪大社・下社を攻め小笠原氏は武田氏と直接の戦いが展開されます。

同年7月には諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族の支持を得て諏訪領を武田から奪還すべく塩尻峠に陣を張っている所、信玄率いる軍勢は深夜密かに進軍し闇にまぎれて小笠原勢5千の近くまで迫り、同軍の不意を突いて早朝に奇襲をかけ同軍は大混乱、千名以上の死者を出して敗走するに至ります。

以降信玄の小笠原軍追撃は収まらず小笠原氏の本拠地松本に迫り、遂には本城の林城、支城の松本城などの7城が降伏または城兵逃亡、それぞれの城将たちも前後して信玄に屈します。

本拠の林城を追われた小笠原長時は村上義清に身を寄せ、村上氏の兵力に加え旧家臣の参陣により4千となった布陣で再度信玄めがけて戦いを挑みますが、村上軍の戦列離脱もあって大敗、長尾景虎(ながお・かげとら、後の上杉謙信)を頼り逃亡することになります。


その頃の小笠原氏は祖を同じとする武田信玄より上述の通り本領の信濃を追われ一時越後に逃れた後各地に離散、その中で長時は縁戚(三好氏は阿波小笠原氏の後裔)の阿波徳島を本貫地とする三好長慶(みよし・ながよし、1522~1564)を頼って家臣を伴い上洛し、時の将軍義輝(よしてる、1536?1565)の騎馬指南役を務めることになります。

永禄8年(1564)頼りの長慶病死、翌年松永秀久(まつなが・ひさひで、1510??1577)による義輝暗殺、三好氏内訌で勢力衰える中、伸長著しい尾張織田信長の畿内における諸旧勢力の一掃によって三好氏が没落、拠り所を失った長時は三男貞慶(さだよし、1546?1595)を従い再度謙信を頼り越後で知行を得る生活を送ります。

天正6年(1578)上杉謙信死後は後継者争い「御館の乱」が起り景勝と信虎との内紛を避けるため会津の芦名盛氏(あしな・もりうじ)を頼りその後恨みを持った家臣から殺害されたと言われます。

一方家督を相続した貞慶は天正9年(1581)に貞慶が信濃守護家として貴種の高さを評価されたのか織田信長に迎えられ東国大名との外交官的役割をはたすべく重用されます。

翌年信長が宿敵武田勝頼討伐軍を起すと小笠原氏再興の意思を持ち続けている貞慶は本拠の府中(深志)回復を図りますが戦後の信濃の分与については旧領の安曇・筑摩両郡と深志城は木曽義昌に与えられ貞慶は本意を遂げることができず、貞慶は悲願をめざすため密かに徳川家康に接近します。

同年6月、信長が本能寺で横死すると後ろ盾を失った武将たちは新知行地を離れ思い思い自領に逃げ帰るなか、慌ただしい状況に付けこんで越後上杉景勝の支援を受けて一族の小笠原貞種(おがさわら・さだたね)が義昌を追い出して深志城を回復します。

これに対し貞慶は上杉氏の信濃介入を嫌う家康の後援のもと貞種を越後に退去させ悲願の深志城復帰を果たすことになり、併せて貞慶は嫡男秀政を家康へ人質として差出し、徳川氏との従属関係を固めながら安曇・筑摩両郡の平定と民政の安定を推進します。

天正12年(1584)織田信雄(おだ・のぶかつ)の誘いにより家康と豊臣秀吉とで緊張が生じ、いわゆる小牧・長久手の戦いが起り野戦に強い家康が勝利しますが、貞慶は家康に従って秀吉側の上杉氏支配下の青柳・麻績両城と木曽氏の福島城を攻めたて動きを牽制します。

翌年徳川家康の宿老である石川数正(いしかわ・かずまさ)が家康の人質となっていた貞慶の嫡男秀政を伴って豊臣秀吉に出奔するという挙行が発生、これにより貞慶は天下統一を目前にしている秀吉の麾下に入って小笠原家の安泰を計ろうとするものでした。

然しながら天正14年(1586)に対立していた秀吉と家康が和解し秀吉は関東に関する差配を家康に任せ、信濃の小笠原・木曽氏は家康の支配下に置くことなります。

天正17年(1589)貞慶は家督を嫡男秀政に譲って恭順の意を表し、併せて家康の長男の故岡崎三郎信康の娘を秀政の正室に迎えて徳川家との関係修復を遂げます。

翌天正18年小田原北条氏没落後関東に転封となった家康に従って秀政は下総古河3万石に封じられ、貞慶も秀政と共に古河に移住、文禄4年(1595)波乱万丈の生涯を閉じます。

尚 古河に移封した秀政は慶長5年(1600)関ヶ原戦いの戦功により翌年信濃国飯田5万石加増移封を果たし、慶長12年(1607)自ら出家し家督を長男の忠脩に譲ります。そして慶長18年(1613)に家康の配慮もあってか小笠原氏の旧領である信濃松本に8万石を以て移り改めて悲願の父祖の地を得ることになります。

ところが慶長20年(1615)の大坂夏の陣では秀政は嫡子忠脩と共に天王寺口の戦いで戦死、落城後はその戦功が認められ秀政二男忠政(ただまさ、1596~1667・後の忠真)が嫡流を継ぎ、その後播磨国明石にて10万石の知行を経て豊前小倉に15万石を以て入封し明治維新を迎えるまで歴代藩主が続きます。


2022年12月21日 追記

境内小笠原家墓所に建てられた説明板には下記の通り記述されています。

『 古河市指定文化財・史跡
   小 笠 原 貞 慶 の 供 養 塔
          昭和43年4月1日指定
          古河市中央町1丁目7番39号

小笠原貞慶は信州松本(長野県)の戦国時代の武将で、江戸時代になって古河藩の初代藩主となった小笠原秀政の父にあたる。

貞慶は文禄4年(1595)に古河に没し、その墓の所在は不明だったが、死後役200年たった寛政5年(1793)になって正麟寺山という所の土中から暮石の一部が発見された。その暮石を、当隆願寺の住職と九州小倉の藩主となっていた子孫の小笠原氏が当地に移し、石がんのなかに納めて厚く供養したのがこの石塔である。

なお、隆願寺は 秀政が妻の父である岡崎三郎信康(徳川家康の長男)のために建ててもので、傍の宝篋印塔が信康の供養塔である。

     平成20年1月
                古河市教育委員会 』                              

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 隆願寺・正門<br /><br />正門右側には「大蓮山」の山号が刻されています。

    隆願寺・正門

    正門右側には「大蓮山」の山号が刻されています。

  • 隆願寺・山門<br /><br />参道を直進石段を登り山門に着きます。

    隆願寺・山門

    参道を直進石段を登り山門に着きます。

  • 隆願寺・山門内部

    隆願寺・山門内部

  • 山門・扁額<br /><br />上部には山号である「大蓮山」と揮毫された扁額が取り付けられています。

    山門・扁額

    上部には山号である「大蓮山」と揮毫された扁額が取り付けられています。

  • 参道<br /><br />右側に社壁と左側には墓地が広がっています。

    参道

    右側に社壁と左側には墓地が広がっています。

  • 寺社壁

    寺社壁

  • 隆岩寺由来・説明板

    隆岩寺由来・説明板

  • 隆願寺・本堂<br /><br />正式には「大蓮山 潮雲院 隆岩寺」の浄土宗寺院です。

    イチオシ

    隆願寺・本堂

    正式には「大蓮山 潮雲院 隆岩寺」の浄土宗寺院です。

  • 隆願寺本堂・扁額<br /><br />扁額は寺号である「隆岩寺」が掲載されています。

    隆願寺本堂・扁額

    扁額は寺号である「隆岩寺」が掲載されています。

  • 隆願寺・境内<br /><br />本堂から境内を眺めます。

    隆願寺・境内

    本堂から境内を眺めます。

  • 勢至丸さまの石像

    勢至丸さまの石像

  • 隆願寺・鐘楼堂跡<br /><br />どのような理由なのかわかりませんが梵鐘と楼閣が外されています。

    隆願寺・鐘楼堂跡

    どのような理由なのかわかりませんが梵鐘と楼閣が外されています。

  • 鐘楼堂台銘板<br /><br />銘板によれば隆岩寺建立文禄4年と共に鐘楼建立が慶長3年、その後鐘楼再建が文政10年及び昭和44年にそれぞれ行われています。

    鐘楼堂台銘板

    銘板によれば隆岩寺建立文禄4年と共に鐘楼建立が慶長3年、その後鐘楼再建が文政10年及び昭和44年にそれぞれ行われています。

  • 小笠原貞慶供養塔<br /><br />小笠原貞慶(おがさわら・さだよし、1546~1595)は古河藩主であった小笠原秀政の実父で、文禄4年(1595)古河で死亡したがその墓所が不明であったが寛政5年(1793)町内石町北裏四つつ谷・正鱗寺山の土中で墓石が発見され、当寺に移されます。

    小笠原貞慶供養塔

    小笠原貞慶(おがさわら・さだよし、1546~1595)は古河藩主であった小笠原秀政の実父で、文禄4年(1595)古河で死亡したがその墓所が不明であったが寛政5年(1793)町内石町北裏四つつ谷・正鱗寺山の土中で墓石が発見され、当寺に移されます。

  • 小笠原墓地石標

    小笠原墓地石標

  • 小笠原貞慶・供養塔(全景)<br /><br />信濃守護小笠原氏は父長時の頃、甲斐武田氏の攻略を受けて越後上杉氏を頼り復帰運動し家督を継いだ秀政は織田信長に仕え武田滅亡後は信濃回復は果たせず。信長後は徳川家康に出仕、一時豊臣秀吉方に属するが秀吉の怒りを買い改易、その後は貞慶・秀政父子とも再度家康方となって古河に3万石を与えられます。

    イチオシ

    小笠原貞慶・供養塔(全景)

    信濃守護小笠原氏は父長時の頃、甲斐武田氏の攻略を受けて越後上杉氏を頼り復帰運動し家督を継いだ秀政は織田信長に仕え武田滅亡後は信濃回復は果たせず。信長後は徳川家康に出仕、一時豊臣秀吉方に属するが秀吉の怒りを買い改易、その後は貞慶・秀政父子とも再度家康方となって古河に3万石を与えられます。

  • 小笠原貞慶供養塔(近景)

    小笠原貞慶供養塔(近景)

  • 供養塔風景<br /><br />供養塔から廟内を一望します。<br />

    供養塔風景

    供養塔から廟内を一望します。

  • 岡崎三郎信康・宝篋印塔<br /><br />説明板によればこの宝篋印塔は秀政の義父にあたる徳川家康の長男岡崎三郎信康の供養塔であるとことです。<br /><br />

    イチオシ

    岡崎三郎信康・宝篋印塔

    説明板によればこの宝篋印塔は秀政の義父にあたる徳川家康の長男岡崎三郎信康の供養塔であるとことです。

  • 岡崎三郎信康の宝篋印塔(近景)

    岡崎三郎信康の宝篋印塔(近景)

  • 小笠原貞慶供養塔説明板

    小笠原貞慶供養塔説明板

  • 隆岩寺歴代上人墓所

    隆岩寺歴代上人墓所

  • 呑龍堂<br /><br />大正14年(1925)群馬県太田市の大光院の呑龍様を勧請したもので、隆岩寺21世の伊藤霊誠上人が呑龍上人を崇敬していたことに拠ります。

    呑龍堂

    大正14年(1925)群馬県太田市の大光院の呑龍様を勧請したもので、隆岩寺21世の伊藤霊誠上人が呑龍上人を崇敬していたことに拠ります。

  • 呑龍堂上部<br /><br />「呑龍上人」の扁額が掲示されています。呑龍堂は子育て呑龍とも呼ばれ幼児の成長を祈願しています。

    呑龍堂上部

    「呑龍上人」の扁額が掲示されています。呑龍堂は子育て呑龍とも呼ばれ幼児の成長を祈願しています。

  • 永井路子旧宅<br /><br />隆岩寺から福法寺に向かう途中、江戸町通りに面して作家の永井路子が幼少時に過ごしたという旧家があります。

    永井路子旧宅

    隆岩寺から福法寺に向かう途中、江戸町通りに面して作家の永井路子が幼少時に過ごしたという旧家があります。

  • 永井路子旧宅表札<br /><br />自分は「相模のもののふたち・中世をあるく」、「北条政子」、「乱紋」、「山霧」等中世の歴史小説を読んだことがあります。

    永井路子旧宅表札

    自分は「相模のもののふたち・中世をあるく」、「北条政子」、「乱紋」、「山霧」等中世の歴史小説を読んだことがあります。

  • 永井路子旧宅案内板

    永井路子旧宅案内板

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