2013/06/27 - 2013/06/27
107位(同エリア162件中)
ムッシュさん
利根川を渡ると中田宿。松並木を見ながら、昔は古河城が聳え繁栄した町、古河宿へ。
【中田宿】
「其頃の道筋は鷺森より古河城、今の川手門に出、大手門の内、桜町観音寺の辺を通り雀神社のあたりより野渡村を経て野木宿に達せりといふ。元和7年(1621)永井信濃守古河城主のとき、下中田、上伊坂、小中田、古町を合わせて中田一宿として今の地に移し、同10年日光道中の宿駅と定む」(日光道中略記)
江戸から8番目の宿場として設けられた。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。
南(江戸側)から順に、下町(下宿)・仲町(仲宿)・上町(上宿)、および船戸町から構成された。江戸をたって1日目は越ヶ谷宿あるいは春日部宿に泊まり、2日目に中田宿に入る。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が6軒、茶屋などや遊郭もあり賑わった。
宿内の家数は69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒、人口は403人(男
169人、女234人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共70文、軽尻馬1匹47文、人足1人36文であった。利根川の河畔に530mにわたってあり、対岸の栗橋宿との間を渡船が結んだ。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
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①中田関所
渡船場と関所は、寛永10年(1633)に栗橋に移された。
【房川渡と中田関所跡】
日光街道で唯一の関所と、渡船場の両方があった。利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を「房川(ぼうせん)」とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。案内板に将軍の日光参詣のときに設置された船橋の絵があり、川に60~70艘の船を並べその上に板を渡して橋としたもので、3ヶ月かけて造ったというが、将軍日光参詣のときだけの船橋で、役目が終了するとすぐ取り壊されたという。その後関所は対岸の栗橋川の水辺に移されたので、一般には「栗橋の関所」の名で知られるようになった。関所は明治2年(1869)に廃止された。二艘の渡し船と五艘の茶船の渡船場の方は、大正13年(1924)に利根川橋が完成するまで続けられた。 -
【中田宿】説明板
江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。
平成十九年一月 古河市教育委員会 -
【鶴峰八幡宮】
県道228号原中田線を進むと左手に鶴峯八幡宮が鎮座しています、養和元年(1181)源頼朝が鎌倉鶴ケ岡八幡宮の分霊を勧請し創建されました、新田義貞が北条時高追討の際に戦勝祈願をしました。
中田宿の鎮守でしたが明治44年(1911年)河川改修に伴い、現在地に遷座しました。
境内の神楽殿では享保十三年(1728年)より伝承する永代太々神楽(古河市無形文化財)が奉納されます。
【鶴峯八幡神社】
養和元年(1181年)の創建と伝えられる。源頼朝が相模国鶴岡八幡宮の分霊を上伊坂(現在地の中田)に勧請したもので、新田義貞が北条時高追討の際戦勝祈
願したという。永代太々神楽(だいだいかぐら)が伝承されており、境内に神楽殿がある。
中田宿の鎮守。当時は、現在の利根川河川敷にあり、明治44年(1911)、河川改修に伴い、町とともに現在地に移転した
後、天福2年(1234)下総国一の宮である香取神宮もまつって、八幡と香取の相殿にしたといい、中世には栗橋方面にまで勢力をもった有力な神社であった。
境内に、日光街道 旅の神 の社がある -
【鶴峰八幡宮】の説明板
鶴峯八幡宮は中田宿の鎮守である。
源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の神主高橋氏に創建させたという。
その後、天福2年(1234年)には下総一の宮である香取神宮も祀って、八幡と香取の相殿となった
神社に伝わる永代太々(だいだい)神楽は、古河市の無形文化財に指定されている
(茨城県古河市中田)
社伝によると、鎌倉時代に源頼朝もしくは二代将軍源頼家が、鎌倉の鶴岡八幡宮の神主高橋氏をもって創建させ、のち天福二年(1234)下総国一の宮である香取神宮もまつって、八幡と香取の相殿にしたといい、中世には栗橋方面にまで勢力をもった有力な神社であった。
もとの名を上伊坂八幡宮と称し、上伊坂の地にあったが、江戸時代初期に、中田と上伊坂の村民によって、宿場町として中田宿が現在の利根川橋下の河川敷に造成されたおり、その東方の古墳上にまつられ、長くこの地の守護神であった。さらに大正元年(1912)利根川の改修工事による中田の町並みの移転にともなって、現在地に移座した。
宝物には鎌倉時代に書写されたとする市指定文化財の法華経がある。さらに、永禄七年(1564)の紀年銘を持ち水海城主簗田氏寄進と伝えられる鰐口があったが、残念ながら現存していない。また少なくとも享保年間(1716~36)には、近郷近在の神官によって奉納されていたと伝えられる太々神楽が市の無形文化財に指定されている。
平成十九年一月古河市教育委員会 -
【鶴峰八幡宮の神楽殿】
境内の神楽殿では享保十三年(1728年)より伝承する永代太々神楽(古河市無形文化財)が奉納されます。
治承四年(1180)九月源頼朝が奥羽征伐の折此の地に立寄り軍利守護を祈願したところ、武運が開け御神徳を感じその宿願により、養和元年(1181)、相模国鶴岡八幡宮(鎌倉)の分霊を上伊坂(現今の田中)に勧請したのが始まりという。
後、天福2年(1234)下総国一の宮である香取神宮もまつって、八幡と香取の相殿にしたといい、中世には栗橋方面にまで勢力をもった有力な神社であった。
境内に、日光街道 旅の神 の社がある。 -
【鶴峰八幡宮の狛犬】
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【光了寺】
真宗大谷派厳松山光了寺(こうりょうじ)があります、弘仁年間(810~23)弘法大師の創建です、当初高柳寺(光了寺)と称し、栗橋にあり、静御前が葬られましたが、利根川改修により現在地に移りました。
等の遺品が保存されています、旱魃が三年も続き、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫百人を選び、雨乞いの舞を命じました、最後に静御前が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し三日三晩も降り続きました、後鳥羽上皇は褒美に蝦蟇龍の錦の舞衣を下賜しました。
光了寺
光了寺の創建は大同年間(806~10)弘法大師空海が開山したのが始まりと伝えられています。当初は高柳寺と称し栗橋にあり、文治5年(1189)には源義経を追って愛妾静御前が奥州平泉(岩手県平泉)へ行く途中、この地で義経の訃報を聞ました。静御前は高柳寺(光了寺)で義経の菩提を弔い、同じ年に自らも亡くなったと言われています。光了寺には静御前が京都神泉苑で雨乞いの舞を舞った時に使用した「蛙蟆龍の舞衣」を始め、御前の守本尊、義経から拝領した懐剣、鐙などが保管されています。 -
【光了寺】境内に立つ”【松尾芭蕉句碑”】
宝物殿の前に文化14年(1817年)建立の芭蕉句碑
「いかめしき 音やあられの ひのき笠」
があります(「野ざらし紀行」所収)
「当寺むかしは武州高柳郷にありて高柳寺と号し、天台宗なりしが、建治年間(1275~78)親鸞越州より関東に遊歴のとき高柳郡に至り、高柳寺に寄宿す。時の寺主興悦は宗派異なりといへども深く親鸞の徳を感じ、宗門を転じて浄土真宗となり、興悦を改めて西願と称し、寺号を光了寺とあらたむ。…」(日光道中略
記) -
境内の太子堂には親鸞作と伝わる木造聖徳太子立像が安置されています、手に松葉を持っているところから松葉太子像とも呼ばれます(茨城県指定文化財)。
太子が三歳の時、乳母(めのと)が桃の花と松の枝を差し出したところ「桃の花は一時の美しさ、松葉は長持ちするめでたい木だから」といって、松の枝を選んだという聖徳太子伝暦(でんりゃく)が伝える説話に基づいた像形です。 -
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【茶屋新田松並木の街道】 一路古河へ。
かつては、東海道をしのぐ立派な松並木であった。中田の松原黒松の松並木が新たに植樹されて、中田の松原解説があります。分間延絵図によれば、このあたりか
ら松並木がはじまり古河宿まで続いていた
日光街道踏切辺りから原町入口の間には寛永七年(1630年)古河藩二代藩主永井信濃守尚政が植栽した松並木がありました「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」といわれましたが、戦時中に松根油採取のために伐採されてしまいました。
文人志賀理斎
「中田より古河の間は一里半とて、その間には松の並木あり、しかもその道直くして髪のごとし。その 松の間よりすずろかに大平やまみゆる。折から時鳥聞こえけるに、松風をおのが友とやほととぎすこころごころに鳴きからるらん」
昭和10年代から伐採が始まった中田の松原を復元しようと平成6年にクロマツが植樹された。中田の松原は古河城主・永井尚政が寛永7年(1630)に植えさせたと伝わっている。現在の茶屋新田から原町までの約4kmに及び、途中に茶屋や一里塚などもあった。 -
安政2年(1855)の清河八郎の紀行文『西遊草』に、「ここから古河まで一里半の道のりで仙台道中最もきれいな並木道である。…。その並木の松の間から古河の天守閣が眺められ、また富士山も時には雲の上に姿を現し、景色が大そうよい。」とある。また、「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」(日光駅程見聞雑記)と記されている。
いろいろな旅日記に「東海道にもかかる松原の直ぐに往還の綺麗なるはなしとぞ」など称えられています。この途中に茶屋新田があった。江戸時代は杉並木が小金井あたりまで続いていた。 -
茶屋町会議所前に【茶屋松原標識】
この辺りに立場がありました、徳川二代将軍秀忠の日光社参の際に仮設の茶屋が設けられ、以降立場になりました -
ランチは、焼肉”大門”
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【十九夜塔】
原町女人講中三拾一人が建立したものです。
後ろのネットフェンスは、古河二高校のグランドに立っている。 -
【原町の一里塚】
古河二高校のグランドに残る一里塚。敷地境界のネット越に撮影した。
原町の一里塚、明治時代に取り壊されましたが、ここに復元されました、江戸日本橋より数えて16里目です。
「此宿(古河)より野木宿迄之間壱里塚壱ヶ所・木立杉」「但、左右の塚共原町地内」(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)
一里塚は旅人に距離を知らせると共に休憩の場を提供したといい、榎を植えて目印にしたとも云いう。一里塚に植木を植えることについて大老の土井利勝(古河藩主)が将軍家光に「一里塚に何を植えたらよいか」と尋ねたところ「余の木」という返事を「えのき」と聞き違えて植えたという伝えがありる。 -
【祭禮道道標】
古河の産土神雀神社祭礼の際に、混雑を避ける旅人の迂回路でした。 -
ここが【古河宿の原町木戸跡】です、古河宿燈籠モニュメントがあります、
【古河宿の江戸(南)口】です、古河宿に到着です!
天保14年(1843年)の頃、古河宿の宿内家数は1,105軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠31軒で、宿内人口は3,865人でした。
後北条氏が滅亡すると古河城は徳川家康の家臣小笠原秀正の居城となり、以降代々譜代大名が城主となり城下町が形成されました、歴代将軍の日光社参の二泊目は古河城が宿城になりました。 -
【日本三長谷寺】へ
長谷寺 - 奈良県桜井市にある真言宗豊山派総本山の寺院。
長谷寺 (長野市) - 長野県長野市にある真言宗智山派の寺院。
長谷寺 (鎌倉市) - 神奈川県鎌倉市にある浄土宗系単立の寺院。
真言宗豊山派明観山長谷寺は古河城の鬼門除けで歴代古河城主の祈願所でした。 -
【長谷寺】
長谷観音は、古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)に古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもの。日本三大長谷観音の一つと言われている
日本三大観音の一つである古河長谷観音は今を去る事五百余年前室町幕府を開いた足利尊氏公の血脉をひく足利成氏公により建立された。
明応2年(1493)足利成氏公六十才のとき、青春時代を過した鎌倉への望郷の念により、又長谷観音信仰によって、古河城の鬼門の地に鬼門除けとして明観山長谷寺を建立し、鎌倉長谷寺より御丈六尺八寸一分の木造長谷観世音菩薩を勧請し安置された。その後、古河城城主代々の祈願寺になり崇敬された。
長谷観音は、古くより安産、子育虫封じ、開運厄除、出世観音と言われ、霊験あらたかなることは広く世に知られ「日本三大長谷観音」として親しまれている。
ちなみに、日本三大長谷観音は、大和国(奈良県)初瀬長谷観音、相模国(神奈川県)鎌倉長谷観音、下総国(茨城県)古河長谷観音である。 -
長谷寺
⑤長谷観音
「本尊大日及び十一面観音を安置す。十一観音は山と国長谷寺の模したるよし」(日光道中略記)鎌倉・大和の長谷とともに日本3大長谷という -
長谷観音
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【鷹見 泉石(たかみ せんせき、天明5年6月29日(1785年8月3日) - 安政5年7月16日(1858年8月24日))】は江戸時代の蘭学者であり、下総国古河藩の家老である。
名を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門。字を伯直。号は泉石の他に楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)。また、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いている。
古河城の家老であった鷹見泉石(たかみせんせき)の屋敷跡で、今は鷹見泉石記念館として公開されている。
鷹見泉石は、主君の土井利位が大坂城代の時、大塩平八郎の乱捕縛の指揮を執った人で、隠居後は蘭学に勤しんだ由(茨城県古河市中央町)
鷹見泉石記念館
蘭学者鷹見泉石(たかみせんせき)の晩年の住まいです。鷹見泉石は、家老と
して、藩主土井利位(としつら)に仕えた古河藩士。
【鷹見泉石記念館】
ここは、古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、隠居後もっぱら蘭学にいそしんだ鷹見泉石が最晩年を送った家でした。
建物は、寛永10年(1633)古河城主土井利勝が、古河城の三階櫓を造ったときの残り材を使って建てたと伝えられ、もとの立坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在の4倍以上)ものでした。
土井氏の家中では、奥氏・潮田氏・鷹見氏など、もと家老を勤めた者が入った場合が多かった屋敷のように思われます。
いくつも座敷のある長屋門もあって、元治元年(1864)には、天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名余を一時収容した屋敷でもありました。それは、泉石の子忠正が家老となり、城内の屋敷に移って空家になっていたときのことでした。
維新期、この屋敷は再度入居した鷹見家の所有となり、泉石の残した膨大な資料は、この家で代々子孫に守られ今日に伝えられたのです。
平成2年、「鷹見泉石記念館」として開館されました。
記念館のパンフレットより -
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【福法寺】
真宗大谷派亀嶋山福法寺、山門は平唐門(ひらからもん)と呼ばれる型式で、古河城二の丸御殿の入口にあった乾門を移築したものです(古河市指定文化財)。
⑦福法寺
山門は旧古河城内の二の丸御殿の入口にあったとされる乾門で、市内に現存する唯一の城内遺構の門である。明治7年、城取り壊しの時檀家の一人が払い下げを受け、翌年寺に寄進し、移築したという。大日如来種子板碑がある。 -
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【史蹟古河藩使者取次所址碑】があります、
大名の使者を応接する役所があり、役人は客を迎えるために走り廻るので、ここの役人をご馳走役人、役所を御馳走番所ともいった。 -
【古河城下本陣跡碑】
ジョイパティオ脇に古河城下本陣址碑があります、吉沢家が本陣を勤め建坪は百十四坪でした。
【古河宿】
日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場である。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宿内の家数は1105軒で、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒(大5,中6,小20)、人口は3865人(男1992人、女1873人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共33文、軽尻馬一疋22文、人足一人16文であった。
将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等
にも広がり、T字型に形成されていた。 大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。 -
【古河城下高札場跡碑】(古河市本町)
古河城下高札場址碑があります、この辺りが古河宿の中心でした。
【高札場と本陣】
日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化四年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋(といや・とんや)のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府関係の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は百十七・五坪(約四百平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
問屋は、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも三~四軒あって、交代で事にあたっていた。
街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目、(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道幅は五間四尺(約十メートル)ほど、延長十七町五十五間(約千八百五十メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。
平成元年三月 古河市教育委員会 -
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【篆刻(てんこく)美術館】(古河市中央町)
三階建ての蔵。蔵造りのすごい建物ですね。
【篆刻美術館表蔵棟・裏蔵棟(旧平野家表蔵棟・裏蔵棟)】 国登録有形文化財(平成10年10月9日登録)
表蔵・裏蔵とも、ここで酒類卸売業を営んできた平野家の耐火石蔵として、大谷石を用いて、大正九年(1920)に建てられました。その建築を手掛けたのは、地元古河の棟梁・石工たちでした。
表蔵は、切妻造・桟瓦葺・平入の石造三階建てで、建築面積は、二十九平方メートル。妻面の開口部には優美な反りのある庇を設けて、老舗の風格を見せています。かつて内部は、一階は洋間・二階は納戸として使用され、三階には数奇屋風書院の座敷がありました。
この表蔵と中庭をはさんで建てられた裏蔵は、切妻造・桟瓦葺・平入の石造二階建てで、建築面積は六十六平方メートル。ごく標準的な倉庫用の石蔵でした。
どちらも、古き良き時代の古河を象徴する建造物として、地域のランドマークになっていますが、平成二年~三年に古河市が行った改修工事を経て、現在は篆刻美術館として、保存・再生・活用が図られています。
平成十一年三月 古河市教育委員会 -
直木賞作家、作家、永井路子さんの実家(江戸町通りに面してる)
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作家、永井路子さんの実家の隣家
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【直木賞作家、永井路子さんの実家】は、無料休憩所です
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【真龍山神宮寺】(古河市横山町1丁目)
*室町時代の11面観音座像がある -
宿場の北出口は、【よこまち柳通り】です
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よこまち柳通り、立派な日本家屋が見れます。
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よこまち柳通り
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