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JR宇都宮線古河駅より徒歩で約10分、龍渓山・永井寺(えいせいじ、茨城県古河市西町)は元和8年(1622)常陸国笠間5万2千石から7万2千石を以て古河に入封した永井直勝(ながい・なおかつ、1563~1625)が寛永3年(1626)に開基した菩提寺で境内には直勝の墳墓と宝篋印塔並びに幕府儒者林羅山撰文による顕彰碑があります。<br /><br />永井氏は桓武平氏の流れを受け平良兼(たいらの・よしかね)の末裔と伝えられていますがいつしか三河に土着し長田親政(ながた・ちかまさ)を始祖として代々長田姓を名乗っていたようです。<br /><br />重元(しげもと)の代に徳川家康の父親である松平広忠(まつだいら・ひろただ、1526~1549)の臣下となり徳川氏の譜代として家康にも仕えます。<br /><br />一方直勝(なおかつ)は重元の二男として永禄6年(1563)三河国碧南郡大浜に生まれ、長じて家康の長男である信康に近侍していましたが、信康が二俣城にて自刃したのち暫く蟄居、やがて家康に召し出され家康に仕えるようになり姓を永井と改めます。<br /><br />天正10年(1582)の本能寺の変では武田氏旧領から駿河国を賜ったとして家康は僅か34名の部下を引連れ信長にお礼挨拶のため安土城を訪れ、その後堺に訪問していた頃で直勝も家康の供の一人として同地に滞在していました。<br /><br />京都から信長横死の緊急知らせを受けた家康は取り乱すと共に一度は謀反を起こした光秀支配の京都に上りそこで自刃することを決意しますが本多忠勝ら重臣に説得され三河に帰還することになり、ついては光秀軍支配が浸透及ばない伊賀を越えるル?トを選び、途中伊賀国人たちへの取り成しを頼むなどして伊勢国白子を経て三河大浜にたどり着き徳川家の最悪の場面をを回避します。<br /><br />天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで直勝は秀吉方宿老である池田恒興(いけだ・つねおき、1536?1584)を討取るという大殊勲をあげ、恒興を失った池田勢を含む秀吉派遣軍は四散し結果徳川軍の大勝利となります。<br /><br />直勝は天正18年(1590)の小田原征伐でも家康に従って参陣、小田原北条氏没落後の旧領は家康に与えられ、従った直勝も相模・上総両国に5千石の知行地を得る事になります。<br /><br />また朝鮮戦役(慶長・文禄の役)では出兵はしなかったものの肥前名護屋城に置かれた家康陣屋にて家康に仕え、また慶長4年(1600)の関ヶ原の戦いにも家康方で戦功を挙げ東軍の勝利となり、戦後は近江にて2千石加増、更に大坂の陣でも軍功をあげて元和2年(1616)に上野小幡1万石を与えられ都合1万7千石となりついに大名に列せられます。<br /><br />その後直勝は幕閣の覚えがよろしく翌元和3年には1万5千石の加増により常陸笠間へ3万2千石で移封となります。<br /><br />家康の死後元和3年(1617)6月直勝は二代将軍秀忠の上洛に供奉、元和5(1619)年の安芸藩主福島正則の改易の際には上使(幕府から大名に派遣された使者)を勤め全国の大名に対する幕府毅然たる姿勢を知らしめる大役を果たし更に2万石加増の5万2千石と次第に知行が拡大します。<br /><br />また元和7年(1621)には日光山造営奉行に就任、さらに翌元和8年8月には最上義光死後の山形藩57万石お家騒動が収まらず知行地治政に混乱させたとして藩主義俊(よしとし)の改易となりますが直勝はその上使を勤め、幕府統制に関わる大事な局面で迅速な大名交替処理を行います。<br /><br />そして同年12月に7万石を以て下総古河に転封となりますが、同時に将軍秀忠の信頼厚い直勝は常時在府して幕閣の一員として評議の席に列することになります。<br /><br />寛永2年(1625)12月直勝は江戸に於いて63歳で死去、元和8年(1622)に老中となった嫡子尚政(なおまさ、1587~1668)が翌年1月に家督及び直勝の遺領を継ぐことになりますが、併せて弟3名にそれぞれ3万石強の分地を行い、自身はそれまでの知行地と合わせ古河8万9千石の藩主となり、寛永10年(1633)尚政は老中を退き山城国淀藩へ加増(10万石)移封まで古河藩主の治政が続きま<br />

下総古河 秀吉が一目置く宿将池田恒興を討取り小牧長久手合戦で唯一の敗北を与えた徳川譜代家臣永井直勝の開基菩提寺『永井寺』散歩

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2014/10/25 - 2014/10/25

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34

滝山氏照

滝山氏照さん

JR宇都宮線古河駅より徒歩で約10分、龍渓山・永井寺(えいせいじ、茨城県古河市西町)は元和8年(1622)常陸国笠間5万2千石から7万2千石を以て古河に入封した永井直勝(ながい・なおかつ、1563~1625)が寛永3年(1626)に開基した菩提寺で境内には直勝の墳墓と宝篋印塔並びに幕府儒者林羅山撰文による顕彰碑があります。

永井氏は桓武平氏の流れを受け平良兼(たいらの・よしかね)の末裔と伝えられていますがいつしか三河に土着し長田親政(ながた・ちかまさ)を始祖として代々長田姓を名乗っていたようです。

重元(しげもと)の代に徳川家康の父親である松平広忠(まつだいら・ひろただ、1526~1549)の臣下となり徳川氏の譜代として家康にも仕えます。

一方直勝(なおかつ)は重元の二男として永禄6年(1563)三河国碧南郡大浜に生まれ、長じて家康の長男である信康に近侍していましたが、信康が二俣城にて自刃したのち暫く蟄居、やがて家康に召し出され家康に仕えるようになり姓を永井と改めます。

天正10年(1582)の本能寺の変では武田氏旧領から駿河国を賜ったとして家康は僅か34名の部下を引連れ信長にお礼挨拶のため安土城を訪れ、その後堺に訪問していた頃で直勝も家康の供の一人として同地に滞在していました。

京都から信長横死の緊急知らせを受けた家康は取り乱すと共に一度は謀反を起こした光秀支配の京都に上りそこで自刃することを決意しますが本多忠勝ら重臣に説得され三河に帰還することになり、ついては光秀軍支配が浸透及ばない伊賀を越えるル?トを選び、途中伊賀国人たちへの取り成しを頼むなどして伊勢国白子を経て三河大浜にたどり着き徳川家の最悪の場面をを回避します。

天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで直勝は秀吉方宿老である池田恒興(いけだ・つねおき、1536?1584)を討取るという大殊勲をあげ、恒興を失った池田勢を含む秀吉派遣軍は四散し結果徳川軍の大勝利となります。

直勝は天正18年(1590)の小田原征伐でも家康に従って参陣、小田原北条氏没落後の旧領は家康に与えられ、従った直勝も相模・上総両国に5千石の知行地を得る事になります。

また朝鮮戦役(慶長・文禄の役)では出兵はしなかったものの肥前名護屋城に置かれた家康陣屋にて家康に仕え、また慶長4年(1600)の関ヶ原の戦いにも家康方で戦功を挙げ東軍の勝利となり、戦後は近江にて2千石加増、更に大坂の陣でも軍功をあげて元和2年(1616)に上野小幡1万石を与えられ都合1万7千石となりついに大名に列せられます。

その後直勝は幕閣の覚えがよろしく翌元和3年には1万5千石の加増により常陸笠間へ3万2千石で移封となります。

家康の死後元和3年(1617)6月直勝は二代将軍秀忠の上洛に供奉、元和5(1619)年の安芸藩主福島正則の改易の際には上使(幕府から大名に派遣された使者)を勤め全国の大名に対する幕府毅然たる姿勢を知らしめる大役を果たし更に2万石加増の5万2千石と次第に知行が拡大します。

また元和7年(1621)には日光山造営奉行に就任、さらに翌元和8年8月には最上義光死後の山形藩57万石お家騒動が収まらず知行地治政に混乱させたとして藩主義俊(よしとし)の改易となりますが直勝はその上使を勤め、幕府統制に関わる大事な局面で迅速な大名交替処理を行います。

そして同年12月に7万石を以て下総古河に転封となりますが、同時に将軍秀忠の信頼厚い直勝は常時在府して幕閣の一員として評議の席に列することになります。

寛永2年(1625)12月直勝は江戸に於いて63歳で死去、元和8年(1622)に老中となった嫡子尚政(なおまさ、1587~1668)が翌年1月に家督及び直勝の遺領を継ぐことになりますが、併せて弟3名にそれぞれ3万石強の分地を行い、自身はそれまでの知行地と合わせ古河8万9千石の藩主となり、寛永10年(1633)尚政は老中を退き山城国淀藩へ加増(10万石)移封まで古河藩主の治政が続きま

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル
  • 永井寺案内標識<br /><br />歴史の町にふさわしく主要な場所に案内標識が立っています。

    永井寺案内標識

    歴史の町にふさわしく主要な場所に案内標識が立っています。

  • 永井寺・正門<br /><br />左側に寺号「永井寺」、右側に山号「龍渓山」の刻された表札が付されています。

    永井寺・正門

    左側に寺号「永井寺」、右側に山号「龍渓山」の刻された表札が付されています。

  • 永井寺・境内<br /><br />この日は寺のイベント開催の様子で、寺の関係者が来場の車輌を臨寺駐車場に案内する姿が見られます。

    永井寺・境内

    この日は寺のイベント開催の様子で、寺の関係者が来場の車輌を臨寺駐車場に案内する姿が見られます。

  • 永井寺・六地蔵<br /><br />墓地の手前には六地蔵が並んでいます。

    永井寺・六地蔵

    墓地の手前には六地蔵が並んでいます。

  • 永井寺・本堂<br /><br />本尊は釈迦如来で漕洞宗の寺院です。

    イチオシ

    永井寺・本堂

    本尊は釈迦如来で漕洞宗の寺院です。

  • 永井寺・本堂扁額<br /><br />山号である「龍渓山」が掲示されています。

    永井寺・本堂扁額

    山号である「龍渓山」が掲示されています。

  • 永井寺・境内<br /><br />本堂下から正門方向を一望します。この日は寺の行事で境内では調理のため煙が辺りに立ち込めています。

    永井寺・境内

    本堂下から正門方向を一望します。この日は寺の行事で境内では調理のため煙が辺りに立ち込めています。

  • 永井氏墓地入口

    イチオシ

    永井氏墓地入口

  • 永井氏墓地<br /><br />墓所には立派な宝篋印塔が4基建てられていますが直勝の石塔はどれなのかわかりません。

    イチオシ

    永井氏墓地

    墓所には立派な宝篋印塔が4基建てられていますが直勝の石塔はどれなのかわかりません。

  • 宝篋印塔<br /><br />林羅山の顕彰碑に最も近い宝篋印塔なのでこの石塔が直勝の物かと思われますが刻された戒名が擦り切れて読めません。

    宝篋印塔

    林羅山の顕彰碑に最も近い宝篋印塔なのでこの石塔が直勝の物かと思われますが刻された戒名が擦り切れて読めません。

  • 宝篋印塔(近景)

    宝篋印塔(近景)

  • 林羅山撰文の直勝顕彰碑<br /><br />表面が剥げており読み込むことができません。

    林羅山撰文の直勝顕彰碑

    表面が剥げており読み込むことができません。

  • 宝篋印塔

    宝篋印塔

  • 宝篋印塔(近景)<br /><br />搭身には「卍」しか刻されていません。当初刻されていた法名が何かの理由で削られたのかもしれません。

    宝篋印塔(近景)

    搭身には「卍」しか刻されていません。当初刻されていた法名が何かの理由で削られたのかもしれません。

  • 宝篋印塔

    宝篋印塔

  • 宝篋印塔(近景)

    宝篋印塔(近景)

  • 宝篋印塔

    宝篋印塔

  • 宝篋印塔(近景)

    宝篋印塔(近景)

  • 宝篋印塔群

    イチオシ

    宝篋印塔群

  • 「永井家墓所」説明<br /><br />説明では直勝の他二代目尚政、三代目尚征(なおゆき)及び弟の尚庸(なおやす)の宝篋印塔があるとのことですが実際は法名が不明確だったり、削られていたりでいずれも特定できません。

    「永井家墓所」説明

    説明では直勝の他二代目尚政、三代目尚征(なおゆき)及び弟の尚庸(なおやす)の宝篋印塔があるとのことですが実際は法名が不明確だったり、削られていたりでいずれも特定できません。

  • 永井寺墓地<br /><br />墓地の向こうに本堂が見えます。訪問した日は檀家の人々が三々五々集まっていました。

    永井寺墓地

    墓地の向こうに本堂が見えます。訪問した日は檀家の人々が三々五々集まっていました。

  • 永井寺・境内<br /><br />本堂脇にて何か食べ物を調理しています。

    永井寺・境内

    本堂脇にて何か食べ物を調理しています。

  • 永井寺境内<br /><br />臨寺駐車場に次々と車輌が入ってきます。<br /><br />

    永井寺境内

    臨寺駐車場に次々と車輌が入ってきます。

  • 渡良瀬川堤防<br /><br />

    渡良瀬川堤防

  • 万葉古河石碑

    万葉古河石碑

  • 万葉古河石碑(近景)

    万葉古河石碑(近景)

  • 万葉古河説明

    万葉古河説明

  • 渡良瀬遊水展望図

    渡良瀬遊水展望図

  • 渡良瀬川河川敷<br /><br />広い河川敷を利用したゴルフ場が見えます。

    渡良瀬川河川敷

    広い河川敷を利用したゴルフ場が見えます。

  • 田中正造翁遺徳賛碑

    田中正造翁遺徳賛碑

  • 田中正造紹介碑

    田中正造紹介碑

  • 渡良瀬川堤防に建つ建物<br /><br />そろそろ堤防を離れて通りに出るため近くの建物を通ります。<br />

    渡良瀬川堤防に建つ建物

    そろそろ堤防を離れて通りに出るため近くの建物を通ります。

  • 古河ゴルフリンクス<br /><br />振返って建物の玄関先を見るとゴルフ場の建物入口でした。

    古河ゴルフリンクス

    振返って建物の玄関先を見るとゴルフ場の建物入口でした。

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