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長久山・本成寺(ほんじょうじ、茨城県古河市横山町)はJR宇都宮線古河駅下車日光街道を徒歩13分北進した所に在する日蓮宗の寺院です。<br /><br />沿革としては鎌倉時代の正和3年(1314)に日印上人が鎌倉において開基、天文年間(1532~1555)に下総国猿島郡伏木村に移転し、江戸時代に於いては慶長7年(1602)、古河城下北端の現在地に移転しています。<br /><br />尚 江戸時代の古河移転に関しては、延宝年間(1673~1680)、5代古河城主である土井利益(どい・とします、1650~1713)の母親法清院(ほうせいいん)の菩提を弔うために、法清院の兄弟であった日禎(にっしん)上人により伏木村から移されたとも考えられています。<br /><br />法清院の息子である利益は古河藩初代土井利勝の孫に当たり、万治元年(1658)2代藩主利隆(としたか)から家督を受けた長兄利重(とししげ)より常陸・下総国内に1万石の分与を受けます。<br /><br />上述の如く分家独立した利益にとって予期せぬ事態が起ります。即ち兄利重は継嗣ないまま延宝元年(1673)10月、28歳の若さで病死、嫡流の家督継承について弟の利久(としひさ)と共に候補者に挙げられますが利益は不行跡が多くしかも分家独立しているとして家督は利久が相続する事になります。<br /><br />延宝3年(1675)利久は10歳で死去し土井家宗家は無嗣子により廃絶の状態に陥ります。<br /><br />江戸時代当初の家康・秀忠・家光の三代の間に、後継ぎがいないという理由でお家断絶の大名は極めて多く67家、没収された知行地は526万石を越えると言われており、この怖さを土井家家老以下家中の侍たちも当然の事ながら十分認識していたことでしょう。<br /><br />大名の後継ぎについては将軍家光が没した直後に由井正雪や丸橋忠也などが浪人達を集めて幕府転覆を企てた陰謀事件(慶安の変)が勃発、大老・老中を始めとする幕閣に震撼せしめており、幕府はこれらの乱を教訓として浪人たちを出さない方針に転換せざるをえなくなります。<br /><br />上述の環境変化のなかで4代将軍家綱(いえつな)は土井家始祖である利勝の功績を考慮した結果土井家の再興を許可、ついては分家独立していた利益に宗家相続を許し、自らの1万石に加え古河藩を6万石を以て復活し都合7万石とする新生古河藩の設立を認めます。<br /><br />紆余曲折あって同年土井本家の5代藩主に就任した利益は、始祖の利勝は別格として個性豊かで強きの人物でした。<br /><br />つまり知行地の治政につき、父利隆が一部の重臣らによって強制的に隠居を迫られ、兄である3代藩主利重、弟の4代藩主利久について重臣たちが藩主を傀儡として扱い、勝手放題の所業を目にしていた事から、本家家臣団の再編成に於いては強い姿勢で臨み以降5年間に亘り続けられます。<br /><br />しかしこのまま順調に推移せず、天和元年(1681)志摩鳥羽へ7万石を以て移封を命ぜられ古河を後にします。その後の土井家は志摩鳥羽藩、肥前唐津藩を経て再び古河に再封となりますが、実に81年後の宝暦12年(1762)で土井家当主は8代利里(としさと)の代にあたります。

下総古河 長兄の病死等でお家断絶事態に土井家始祖利勝の功績を鑑みて宗家家督相続を許された5代藩主土井利益が母堂の法清院を弔った『本成寺』散歩

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2014/10/25 - 2014/10/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

長久山・本成寺(ほんじょうじ、茨城県古河市横山町)はJR宇都宮線古河駅下車日光街道を徒歩13分北進した所に在する日蓮宗の寺院です。

沿革としては鎌倉時代の正和3年(1314)に日印上人が鎌倉において開基、天文年間(1532~1555)に下総国猿島郡伏木村に移転し、江戸時代に於いては慶長7年(1602)、古河城下北端の現在地に移転しています。

尚 江戸時代の古河移転に関しては、延宝年間(1673~1680)、5代古河城主である土井利益(どい・とします、1650~1713)の母親法清院(ほうせいいん)の菩提を弔うために、法清院の兄弟であった日禎(にっしん)上人により伏木村から移されたとも考えられています。

法清院の息子である利益は古河藩初代土井利勝の孫に当たり、万治元年(1658)2代藩主利隆(としたか)から家督を受けた長兄利重(とししげ)より常陸・下総国内に1万石の分与を受けます。

上述の如く分家独立した利益にとって予期せぬ事態が起ります。即ち兄利重は継嗣ないまま延宝元年(1673)10月、28歳の若さで病死、嫡流の家督継承について弟の利久(としひさ)と共に候補者に挙げられますが利益は不行跡が多くしかも分家独立しているとして家督は利久が相続する事になります。

延宝3年(1675)利久は10歳で死去し土井家宗家は無嗣子により廃絶の状態に陥ります。

江戸時代当初の家康・秀忠・家光の三代の間に、後継ぎがいないという理由でお家断絶の大名は極めて多く67家、没収された知行地は526万石を越えると言われており、この怖さを土井家家老以下家中の侍たちも当然の事ながら十分認識していたことでしょう。

大名の後継ぎについては将軍家光が没した直後に由井正雪や丸橋忠也などが浪人達を集めて幕府転覆を企てた陰謀事件(慶安の変)が勃発、大老・老中を始めとする幕閣に震撼せしめており、幕府はこれらの乱を教訓として浪人たちを出さない方針に転換せざるをえなくなります。

上述の環境変化のなかで4代将軍家綱(いえつな)は土井家始祖である利勝の功績を考慮した結果土井家の再興を許可、ついては分家独立していた利益に宗家相続を許し、自らの1万石に加え古河藩を6万石を以て復活し都合7万石とする新生古河藩の設立を認めます。

紆余曲折あって同年土井本家の5代藩主に就任した利益は、始祖の利勝は別格として個性豊かで強きの人物でした。

つまり知行地の治政につき、父利隆が一部の重臣らによって強制的に隠居を迫られ、兄である3代藩主利重、弟の4代藩主利久について重臣たちが藩主を傀儡として扱い、勝手放題の所業を目にしていた事から、本家家臣団の再編成に於いては強い姿勢で臨み以降5年間に亘り続けられます。

しかしこのまま順調に推移せず、天和元年(1681)志摩鳥羽へ7万石を以て移封を命ぜられ古河を後にします。その後の土井家は志摩鳥羽藩、肥前唐津藩を経て再び古河に再封となりますが、実に81年後の宝暦12年(1762)で土井家当主は8代利里(としさと)の代にあたります。

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル
  • 本成寺山門<br /><br />

    本成寺山門

  • 「古河城北赤門の寺」柱標<br /><br />かつての古河城の城域で言えば北限の地となっていたようです。

    「古河城北赤門の寺」柱標

    かつての古河城の城域で言えば北限の地となっていたようです。

  • 本成寺・山門寺額<br /><br />山号である「長久山」が朱色に塗られた山門上部に掲額されています。

    本成寺・山門寺額

    山号である「長久山」が朱色に塗られた山門上部に掲額されています。

  • 本成寺・本堂

    イチオシ

    本成寺・本堂

  • 本成寺・本堂扁額<br /><br />「本成寺」と刻された寺額が掲載されています。

    本成寺・本堂扁額

    「本成寺」と刻された寺額が掲載されています。

  • 鬼子母神堂

    鬼子母神堂

  • 本成寺・境内<br /><br />本堂から山門方向を一望します。

    本成寺・境内

    本堂から山門方向を一望します。

  • 本成寺・鐘楼堂

    本成寺・鐘楼堂

  • 本成寺・神木

    本成寺・神木

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