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桂離宮の生い立ちを語る上で欠かせないキーワードが「月」と「源氏物語」。桂川の畔は古くから観月の名所として知られ、桂の地名も未開の原野であったこの地を奈良時代に統治した秦氏をはじめ大陸からの渡来人によって中国の故事「月桂」から命名されました。また、この地には「月読神社」もあり、古来、月を神と崇めた土地柄でした。さらに「源氏物語」や「土佐日記」にも月の名所として桂の地が引用されています。しかも桂離宮の建つ土地には、平安時代の栄華を極め、源氏物語のモデルとされる藤原道長の別荘「桂殿」があり、その様子を描いた「本朝無題詩」には、この地にはかつて観月のための楼閣「闇依浮月傍臨水」があったと記されています。このような土地柄、智仁、智忠親王も造営に際して月を強く意識したことでしょう。実際、桂離宮には、「月見台」や「浮月の手水鉢」、「月見橋」、「月波楼」、「歩月」、「月見窓」、「月見橋」、「浮月」など月にまつわる名称や「歌月」の扁額や月の字形の引き手、月の字崩しの欄間など、月に関する装飾品が目白押しです。そして、単に名称や装飾だけでなく、建築上の仕掛けについても、観月への緻密な計算や工夫、配慮が随所に窺われます。<br />こう書いてしまうと日中の拝観は無意味と思われてしまうかもしれませんが、主役の月がなくとも見所は満載です。満月を想像しながら茶亭や書院を巡ると一層趣深いものがあります。

松風水月 葛野紀行④桂離宮<後編>

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2014/05/30 - 2014/05/30

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

桂離宮の生い立ちを語る上で欠かせないキーワードが「月」と「源氏物語」。桂川の畔は古くから観月の名所として知られ、桂の地名も未開の原野であったこの地を奈良時代に統治した秦氏をはじめ大陸からの渡来人によって中国の故事「月桂」から命名されました。また、この地には「月読神社」もあり、古来、月を神と崇めた土地柄でした。さらに「源氏物語」や「土佐日記」にも月の名所として桂の地が引用されています。しかも桂離宮の建つ土地には、平安時代の栄華を極め、源氏物語のモデルとされる藤原道長の別荘「桂殿」があり、その様子を描いた「本朝無題詩」には、この地にはかつて観月のための楼閣「闇依浮月傍臨水」があったと記されています。 このような土地柄、智仁、智忠親王も造営に際して月を強く意識したことでしょう。実際、桂離宮には、「月見台」や「浮月の手水鉢」、「月見橋」、「月波楼」、「歩月」、「月見窓」、「月見橋」、「浮月」など月にまつわる名称や「歌月」の扁額や月の字形の引き手、月の字崩しの欄間など、月に関する装飾品が目白押しです。そして、単に名称や装飾だけでなく、建築上の仕掛けについても、観月への緻密な計算や工夫、配慮が随所に窺われます。
こう書いてしまうと日中の拝観は無意味と思われてしまうかもしれませんが、主役の月がなくとも見所は満載です。満月を想像しながら茶亭や書院を巡ると一層趣深いものがあります。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
  • 桂離宮 大山島<br />土橋「蛍橋}を渡り終え、小高い丘の斜面を飛石に導かれて進みます。高台に佇む賞花亭への山道は苔むし、杉木立に囲まれて木漏れ日が風に揺らぎ、山深い峠の風情を醸します。<br />このように、限られた空間の中で庭を雄大に見せる演出には頭が下がります。<br />

    桂離宮 大山島
    土橋「蛍橋}を渡り終え、小高い丘の斜面を飛石に導かれて進みます。高台に佇む賞花亭への山道は苔むし、杉木立に囲まれて木漏れ日が風に揺らぎ、山深い峠の風情を醸します。
    このように、限られた空間の中で庭を雄大に見せる演出には頭が下がります。

  • 桂離宮 水蛍燈籠<br />賞花亭の手前左手にひっそりと佇むのは、水蛍燈籠。<br />火袋の左右の窓の形は四角ですが、前後は逆三角形を2つ縦に並べた形をしています。水蛍燈籠は、源氏物語に記された大堰川畔の明石の上の庭に木立の奥から篝火の影が揺らめき、遣水の蛍にも似通う面白さを述べているのを石燈籠で表現したものです。書院からみると燈籠の火が水面に映り、蛍のように見えることから、第7代 家仁親王が命名されたそうです。なんてロマンチストな方なのでしょう!<br />

    桂離宮 水蛍燈籠
    賞花亭の手前左手にひっそりと佇むのは、水蛍燈籠。
    火袋の左右の窓の形は四角ですが、前後は逆三角形を2つ縦に並べた形をしています。水蛍燈籠は、源氏物語に記された大堰川畔の明石の上の庭に木立の奥から篝火の影が揺らめき、遣水の蛍にも似通う面白さを述べているのを石燈籠で表現したものです。書院からみると燈籠の火が水面に映り、蛍のように見えることから、第7代 家仁親王が命名されたそうです。なんてロマンチストな方なのでしょう!

  • 桂離宮 賞花亭<br />「大山島」と名付けられた大きな中島にある標高5.5mの山頂近くに佇み、離宮外の景色が見渡せる唯一の場所です。この建物は洛中の八条殿本邸の庭にあった茶屋「竜田屋」を移築したもので、別名「峠の茶屋」と呼ばれます。茶亭の前には花木が植えられ、「花を賞する亭」すなわち春に使用する茶亭として建立されています。

    桂離宮 賞花亭
    「大山島」と名付けられた大きな中島にある標高5.5mの山頂近くに佇み、離宮外の景色が見渡せる唯一の場所です。この建物は洛中の八条殿本邸の庭にあった茶屋「竜田屋」を移築したもので、別名「峠の茶屋」と呼ばれます。茶亭の前には花木が植えられ、「花を賞する亭」すなわち春に使用する茶亭として建立されています。

  • 桂離宮 賞花亭<br />とても開放的な造りの茶亭で、吹き抜ける風が心地良いです。かつて賞花亭の付近には桜樹なども植えられ、御殿や月波楼、松琴亭、神仙池、御池を座して眺望することができた見晴らしの良い茶亭だったそうです。<br />

    桂離宮 賞花亭
    とても開放的な造りの茶亭で、吹き抜ける風が心地良いです。かつて賞花亭の付近には桜樹なども植えられ、御殿や月波楼、松琴亭、神仙池、御池を座して眺望することができた見晴らしの良い茶亭だったそうです。

  • 桂離宮 賞花亭<br />「賞花亭」の扁額は、智仁親王の次男 曼殊院門跡 良覚法親王の宸筆。<br />ユニークな角ばった文字が遊んでいるような感じがして、気持ちを和ませてくれます。<br />

    桂離宮 賞花亭
    「賞花亭」の扁額は、智仁親王の次男 曼殊院門跡 良覚法親王の宸筆。
    ユニークな角ばった文字が遊んでいるような感じがして、気持ちを和ませてくれます。

  • 桂離宮 賞花亭<br />茅葺切妻造りで4枚の畳をコの字形に敷き、中央の1坪を土間にしています。土間の一隅には炉を築き、その奥に水屋を備えています。正面と右側面を開放し、土壁で囲まれた部分にも下地窓や竹の連子窓を設けて開放的な明るい造りとしています。竹の連子窓を通してみる息をのむような緑の景色は、深山幽邃の趣を備え、大阪土の黄土色の壁と絶妙のコントラストを創生しています。また、連子窓の影も風情に味を添えています。<br />

    桂離宮 賞花亭
    茅葺切妻造りで4枚の畳をコの字形に敷き、中央の1坪を土間にしています。土間の一隅には炉を築き、その奥に水屋を備えています。正面と右側面を開放し、土壁で囲まれた部分にも下地窓や竹の連子窓を設けて開放的な明るい造りとしています。竹の連子窓を通してみる息をのむような緑の景色は、深山幽邃の趣を備え、大阪土の黄土色の壁と絶妙のコントラストを創生しています。 また、連子窓の影も風情に味を添えています。

  • 桂離宮 賞花亭<br />鉄鉢形の手水鉢は五輪塔の水綸を象ったものだそうです。五輪塔は、仏教で「地水火風空」の5大要素を示した塔。水輪は、その「水」を表します。ほのぼのとして心和む造形です。<br />参観時の説明では、五輪塔のことには触れず、ナツメの形に似ていて新茶に因んだものだろうということでした。まん丸なのは、お月様を模してるとの説もあります。<br />

    桂離宮 賞花亭
    鉄鉢形の手水鉢は五輪塔の水綸を象ったものだそうです。五輪塔は、仏教で「地水火風空」の5大要素を示した塔。水輪は、その「水」を表します。ほのぼのとして心和む造形です。
    参観時の説明では、五輪塔のことには触れず、ナツメの形に似ていて新茶に因んだものだろうということでした。まん丸なのは、お月様を模してるとの説もあります。

  • 桂離宮 賞花亭<br />かつては正面の樹林の向こうに比叡山の山々を眺望することができたそうですが、残念なことに400年にわたる樹木の成長でそれが妨げられているのは皮肉としか言いようがありません。<br />正面の樹木の上に少しだけ淡い輪郭を覗かせているのが比叡山と思われますが、黄砂も影響して霞んでいます。<br />前面は池であり海でありながらも、ふと振り返ると目に入るのは深い鬱蒼とした樹海。建物は質素ですが、周囲の景観に贅を凝らした茶亭です。<br />

    桂離宮 賞花亭
    かつては正面の樹林の向こうに比叡山の山々を眺望することができたそうですが、残念なことに400年にわたる樹木の成長でそれが妨げられているのは皮肉としか言いようがありません。
    正面の樹木の上に少しだけ淡い輪郭を覗かせているのが比叡山と思われますが、黄砂も影響して霞んでいます。
    前面は池であり海でありながらも、ふと振り返ると目に入るのは深い鬱蒼とした樹海。建物は質素ですが、周囲の景観に贅を凝らした茶亭です。

  • 桂離宮 書院御殿<br />賞花亭から園林堂へ向かう途中の書院御殿へショートカットできる土橋ですが、立ち入り禁止となっています。<br />ここも育ち過ぎた樹木が書院御殿の眺望を遮蔽しています。<br />

    桂離宮 書院御殿
    賞花亭から園林堂へ向かう途中の書院御殿へショートカットできる土橋ですが、立ち入り禁止となっています。
    ここも育ち過ぎた樹木が書院御殿の眺望を遮蔽しています。

  • 桂離宮 園林堂<br />軒下の雨落ちには、雨だれが地面を穿つことのないように上面が平らな黒い小石が真っ直ぐに隙間なく敷き詰められ、その雨落敷の一角を方形の飛石がリズミカルに左右に揺れながら縫って配置されています。雨落敷の「静」と飛石の「動」が呼応し、何とも言えない緊張感を湛えています。<br />飛石に注がれた木漏れ日が風に揺らぐ様が絶妙です。ずっと眺めていたい気分ですが、皇宮警察の方が目でプレッシャーをかけられるのでそそくさと先を急ぎます。<br />総勢30名もいると、説明の最中はこれらの飛石の上に皆さんが立ち止まって聞くことになります。ですから、こうした写真を撮るには、皆さんが移動した後になります。

    桂離宮 園林堂
    軒下の雨落ちには、雨だれが地面を穿つことのないように上面が平らな黒い小石が真っ直ぐに隙間なく敷き詰められ、その雨落敷の一角を方形の飛石がリズミカルに左右に揺れながら縫って配置されています。雨落敷の「静」と飛石の「動」が呼応し、何とも言えない緊張感を湛えています。
    飛石に注がれた木漏れ日が風に揺らぐ様が絶妙です。ずっと眺めていたい気分ですが、皇宮警察の方が目でプレッシャーをかけられるのでそそくさと先を急ぎます。
    総勢30名もいると、説明の最中はこれらの飛石の上に皆さんが立ち止まって聞くことになります。ですから、こうした写真を撮るには、皆さんが移動した後になります。

  • 桂離宮 園林堂<br />ここの飛石は、戦後の日本写真史にその名を刻む偉大な写真家、故石元泰博氏のモノクロ写真集にも掲載されています。<br />もう一枚、石元氏と同じアングルで狙ってみました。

    桂離宮 園林堂
    ここの飛石は、戦後の日本写真史にその名を刻む偉大な写真家、故石元泰博氏のモノクロ写真集にも掲載されています。
    もう一枚、石元氏と同じアングルで狙ってみました。

  • 桂離宮 園林堂<br />扁額の文字は後水尾上皇の宸筆。<br />かつては、観音像や八条宮家歴代の位牌、智仁親王に古今伝授をした細川幽斎の画像が祀られていましたが、明治時代にそれらは別の所に移されています。<br />「賞花亭」と「園林堂」は大きな大山島に建ち、3つの土橋で繋がっています。<br />

    桂離宮 園林堂
    扁額の文字は後水尾上皇の宸筆。
    かつては、観音像や八条宮家歴代の位牌、智仁親王に古今伝授をした細川幽斎の画像が祀られていましたが、明治時代にそれらは別の所に移されています。
    「賞花亭」と「園林堂」は大きな大山島に建ち、3つの土橋で繋がっています。

  • 桂離宮 園林堂<br />燈籠の脇には雰囲気のある木瓜形の手水鉢が置かれています。飛石も斜に構えた形相でユニークです。<br />狂言「花子」の大名や歌舞伎「身替座禅」の山蔭右京のモデルは、後水尾上皇だとの説があります。持仏堂に籠もるふりをして白川の女人との逢瀬を楽しんだという話や、中宮 東福門院(徳川秀忠の娘)の悋気を恐れたという話がありますが、その真偽のほどは定かではないそうです。<br />

    桂離宮 園林堂
    燈籠の脇には雰囲気のある木瓜形の手水鉢が置かれています。飛石も斜に構えた形相でユニークです。
    狂言「花子」の大名や歌舞伎「身替座禅」の山蔭右京のモデルは、後水尾上皇だとの説があります。持仏堂に籠もるふりをして白川の女人との逢瀬を楽しんだという話や、中宮 東福門院(徳川秀忠の娘)の悋気を恐れたという話がありますが、その真偽のほどは定かではないそうです。

  • 桂離宮 園林堂<br />賞花亭の西山裾に西面して建つ園林堂は、桂離宮の中にあって異質な建物。本瓦葺宝形造りで、唐破風の向拝を持つ方三間の仏堂です。仏堂と言うと威厳のある反った屋根を思い浮かべますが、屋根の形をむくらせることで和らいだ雰囲気に変えています。<br />向拝には菊の紋章が飾られ、その手前には2基の石燈籠「再輝」が据えられています。<br />

    桂離宮 園林堂
    賞花亭の西山裾に西面して建つ園林堂は、桂離宮の中にあって異質な建物。本瓦葺宝形造りで、唐破風の向拝を持つ方三間の仏堂です。仏堂と言うと威厳のある反った屋根を思い浮かべますが、屋根の形をむくらせることで和らいだ雰囲気に変えています。
    向拝には菊の紋章が飾られ、その手前には2基の石燈籠「再輝」が据えられています。

  • 桂離宮 雪見灯籠<br />園林堂前から続く梅の馬場の脇には、風流な雪見灯籠が置かれています。大きな笠石と火袋、中台が6角形で、竿が4脚になっているユニークなものです。姿形が絶品で、同類中の逸品と称される存在です。宝珠が付けられていませんが、雪が積もった時には、かえってこの方が美しいという理由からだそうです。<br />

    桂離宮 雪見灯籠
    園林堂前から続く梅の馬場の脇には、風流な雪見灯籠が置かれています。大きな笠石と火袋、中台が6角形で、竿が4脚になっているユニークなものです。姿形が絶品で、同類中の逸品と称される存在です。宝珠が付けられていませんが、雪が積もった時には、かえってこの方が美しいという理由からだそうです。

  • 桂離宮 三光燈籠<br />笑意軒の舟着場の東端に楚々と置かれた石燈籠は、箱型の火袋と箱蓋のような笠石だけの簡素なもので、火袋の側面に丸と三日月と四角の形がくり抜いてあります。丸は太陽、三日月は月、四角は星を現し、「三光燈籠」と呼ばれるものです。三光灯籠の形は、笑意軒の建物の姿に似せて造られているそうです。<br />

    桂離宮 三光燈籠
    笑意軒の舟着場の東端に楚々と置かれた石燈籠は、箱型の火袋と箱蓋のような笠石だけの簡素なもので、火袋の側面に丸と三日月と四角の形がくり抜いてあります。丸は太陽、三日月は月、四角は星を現し、「三光燈籠」と呼ばれるものです。三光灯籠の形は、笑意軒の建物の姿に似せて造られているそうです。

  • 桂離宮 三角灯籠<br />斜面の途中、右手の生垣の端に区画を明瞭にする三角灯籠が佇みます。<br />雪見形の変形と伝わり、笠や火袋、中台、脚は全て三角形をしており、他に類を見ない燈篭です。火袋の窓の形が、手前が四角、奥が丸、右側が三日月形とそれぞれ形が違っているのも味わい深いものがあります。<br /><br />

    桂離宮 三角灯籠
    斜面の途中、右手の生垣の端に区画を明瞭にする三角灯籠が佇みます。
    雪見形の変形と伝わり、笠や火袋、中台、脚は全て三角形をしており、他に類を見ない燈篭です。火袋の窓の形が、手前が四角、奥が丸、右側が三日月形とそれぞれ形が違っているのも味わい深いものがあります。

  • 桂離宮 笑意軒<br />書院の前に平行して延びる梅の馬場の南側は、池が堀のように深く入り込み、その対岸に笑意軒が北に正面を見せて佇みます。笑意軒の前は土手になり、石段を5段ほど降りた汀は切石護岸の舟着場になっており、池で舟遊びをしながら乗り付けられる設定です。<br /><br />笑意軒は、格調ある数奇屋で、静かに読書を楽しむ隠れ家的存在だったそうです。ですから、他の茶亭とは趣が異なり、「亭」と呼ばずに「軒」と呼んでいます。外観は何のてらいも無く、気負うことのない居住まいですが、室内は想像を絶する艶やかさです。<br />茅葺寄棟造りの三方に杮葺の庇を廻し、東側には杮葺の差出しを付けています。内部は「中の間」、「口の間」、「次の間」の3室を中心に西に「膳組の間」と「勝手口」、東の差出しに「一の間」と物置と厠を納め、口の間の東と北には深い土庇を巡らせた田舎風デザインです。

    桂離宮 笑意軒
    書院の前に平行して延びる梅の馬場の南側は、池が堀のように深く入り込み、その対岸に笑意軒が北に正面を見せて佇みます。笑意軒の前は土手になり、石段を5段ほど降りた汀は切石護岸の舟着場になっており、池で舟遊びをしながら乗り付けられる設定です。

    笑意軒は、格調ある数奇屋で、静かに読書を楽しむ隠れ家的存在だったそうです。ですから、他の茶亭とは趣が異なり、「亭」と呼ばずに「軒」と呼んでいます。外観は何のてらいも無く、気負うことのない居住まいですが、室内は想像を絶する艶やかさです。
    茅葺寄棟造りの三方に杮葺の庇を廻し、東側には杮葺の差出しを付けています。内部は「中の間」、「口の間」、「次の間」の3室を中心に西に「膳組の間」と「勝手口」、東の差出しに「一の間」と物置と厠を納め、口の間の東と北には深い土庇を巡らせた田舎風デザインです。

  • 桂離宮 笑意軒 口の間・中の間<br />口の間の池側の小壁には丸い6連の下地窓があり、満月を象っています。これらの丸窓は、全て異なった径で作られ、格子の枝の組合わせや藤蔓の巻き付け方も全て違えられています。6つの丸窓は1年の中の6つの時季を表わしています。<br /><br />口の間は掛け出しが深く、鴨居の上の小壁の丈が長くて間延びするのですが、それを6つの丸窓の意匠で引き締めています。

    桂離宮 笑意軒 口の間・中の間
    口の間の池側の小壁には丸い6連の下地窓があり、満月を象っています。これらの丸窓は、全て異なった径で作られ、格子の枝の組合わせや藤蔓の巻き付け方も全て違えられています。6つの丸窓は1年の中の6つの時季を表わしています。

    口の間は掛け出しが深く、鴨居の上の小壁の丈が長くて間延びするのですが、それを6つの丸窓の意匠で引き締めています。

  • 桂離宮 笑意軒 扁額<br />笑意軒の扁額は曼殊院 良恕法親王の宸筆。<br />字体に注目して観ると、いかにも文字が笑っているようなので、こちらも思わず頬が弛んでしまいます。しかし、笑意軒の名は、由緒正しい中国の古句「一枝漏春微笑意」が由来です。「枝葉に至るまで笑みがこぼれる」という心豊かな意味だそうです。 <br />

    桂離宮 笑意軒 扁額
    笑意軒の扁額は曼殊院 良恕法親王の宸筆。
    字体に注目して観ると、いかにも文字が笑っているようなので、こちらも思わず頬が弛んでしまいます。しかし、笑意軒の名は、由緒正しい中国の古句「一枝漏春微笑意」が由来です。「枝葉に至るまで笑みがこぼれる」という心豊かな意味だそうです。

  • 桂離宮 笑意軒 口の間<br />口の間の左側面の杉戸の引き手は鉄製の「矢」で、葵祭で前儀に行われる流鏑馬神事の矢を彷彿とさせます。細部に遊び心を満載する発想は松琴亭と似ていますが、笑意軒の場合は手の掛かりが悪く、使い勝手の悪いものになっています。つまり、表面的な造形を意識し過ぎ、実用性が疎かになっています。また、腰張りのビロードや小壁の丸い下地窓も外からの視線を意識したものとなっています。これらのことから、笑意軒は松琴亭よりやや時代が下がって建てられたか、後年に大改造されたものと考えられています。

    桂離宮 笑意軒 口の間
    口の間の左側面の杉戸の引き手は鉄製の「矢」で、葵祭で前儀に行われる流鏑馬神事の矢を彷彿とさせます。細部に遊び心を満載する発想は松琴亭と似ていますが、笑意軒の場合は手の掛かりが悪く、使い勝手の悪いものになっています。つまり、表面的な造形を意識し過ぎ、実用性が疎かになっています。また、腰張りのビロードや小壁の丸い下地窓も外からの視線を意識したものとなっています。これらのことから、笑意軒は松琴亭よりやや時代が下がって建てられたか、後年に大改造されたものと考えられています。

  • 桂離宮 笑意軒 口の間<br />口の間の正面にある6つの丸窓を透かし見た様子です。<br />光の濃淡が息をのむ美しさで迫ります。<br />1年の6季というのは、春・梅雨・夏・秋霖・秋・冬を言うそうです。<br />

    桂離宮 笑意軒 口の間
    口の間の正面にある6つの丸窓を透かし見た様子です。
    光の濃淡が息をのむ美しさで迫ります。
    1年の6季というのは、春・梅雨・夏・秋霖・秋・冬を言うそうです。

  • 桂離宮 笑意軒 中の間<br />笑意軒の目玉のひとつが、俗に言われるピクチャーウィンドウ。景色がそこだけ切り取られた絵画の様に映る窓で、その景観に目が釘付けなります。下の壁には、舶来品のビロードと金箔が施され、天井との陰影が額縁効果で更に美しさを増します。<br /><br />奥には田園風景が広がり、農繁期には田植えや稲刈り風景を眺めたと言われています。借景となる田圃は、景観維持のために買い上げられた土地で、地元の農家の方に委託して耕作してもらっているそうです。<br /><br />

    桂離宮 笑意軒 中の間
    笑意軒の目玉のひとつが、俗に言われるピクチャーウィンドウ。景色がそこだけ切り取られた絵画の様に映る窓で、その景観に目が釘付けなります。 下の壁には、舶来品のビロードと金箔が施され、天井との陰影が額縁効果で更に美しさを増します。

    奥には田園風景が広がり、農繁期には田植えや稲刈り風景を眺めたと言われています。借景となる田圃は、景観維持のために買い上げられた土地で、地元の農家の方に委託して耕作してもらっているそうです。

  • 桂離宮 笑意軒 中の間<br />低い腰壁付きの窓を持ち、その腰壁には南蛮由来の紺やエンジ色を配した市松模様のビロードを鋭い斜めの金箔の面で分割した意匠が見られ、現代にも通じる斬新さ感じさせます。しかし、このデザインは創建時のものではなく、ビロードに虫食いが生じたためにその部分を切り取って金箔を貼ったとの記録があるそうです。<br />襖の引き手は「櫂」の形。笑意軒のキーワードである舟遊びの拠点を意識した意匠となっています。<br /><br /><br />

    桂離宮 笑意軒 中の間
    低い腰壁付きの窓を持ち、その腰壁には南蛮由来の紺やエンジ色を配した市松模様のビロードを鋭い斜めの金箔の面で分割した意匠が見られ、現代にも通じる斬新さ感じさせます。しかし、このデザインは創建時のものではなく、ビロードに虫食いが生じたためにその部分を切り取って金箔を貼ったとの記録があるそうです。
    襖の引き手は「櫂」の形。笑意軒のキーワードである舟遊びの拠点を意識した意匠となっています。


  • 桂離宮 笑意軒 中の間<br />外の景色もさることながら、腰壁のビロードの質感が何とも言えない雰囲気を創りだしています。<br />

    桂離宮 笑意軒 中の間
    外の景色もさることながら、腰壁のビロードの質感が何とも言えない雰囲気を創りだしています。

  • 桂離宮 笑意軒 次の間<br />中の間、次の間、口の間の部屋の境には襖が立てられ、その上は開放的な欄間とし、天井は三室一連の竿縁天井です。<br />右側の袋棚の小襖には、絹地に湧き上がる雲海の意匠が描かれています。<br />奥の竹連子窓を透かした眩しいほどの借景にも目を奪われます。

    桂離宮 笑意軒 次の間
    中の間、次の間、口の間の部屋の境には襖が立てられ、その上は開放的な欄間とし、天井は三室一連の竿縁天井です。
    右側の袋棚の小襖には、絹地に湧き上がる雲海の意匠が描かれています。
    奥の竹連子窓を透かした眩しいほどの借景にも目を奪われます。

  • 桂離宮 笑意軒 次の間<br />一見何の変哲もない7畳半の間ですが、ここに桂離宮コードが隠されています。<br />通常、和室に7畳半の部屋を造ることはしません。何故なら、武士にとって「切腹の間」を意味し、4畳半の部屋で切腹をし、次の3畳で検死をしたと言われるからです。<br />茶亭にはそれぞれに創意工夫が施され、恐らくその時代の流行や武家社会に対する揶揄や反骨精神のような側面が盛り込まれ、謎の多い庭園と言われるようになったのではと勝手な推測を楽しんでいます。おもてなしの精神と武家社会に対するささやかな抵抗とが化学反応を起こし、一貫性に欠ける違和感を覚えるかもしれませんが、これが桂離宮を一筋縄には語れない所以と言えます。<br />例えば、この笑意軒の7畳半の次の間や、唯一茶室を設けた松琴亭のにじり口脇に設けられている棚は武士の魂を預ける刀棚ですが、質素を通り越して粗末そのものです。賞花亭の刀掛けも同様です。<br />武家社会に対する「無言の抵抗」と言う見方は読み過ぎでしょうか?<br />京都人らしい「いけず」の象徴のようにも映るのですが…。<br /><br />関ヶ原の合戦の敗者 毛利輝元は、大幅に減封され、山口県萩に居を構えて後の長州藩の前身となります。徳川幕府の安泰はその後270年間続きましたが、その徳川家を倒したのは皮肉にもその長州藩でした。<br />長州藩では毎年新年に、筆頭家老と殿様が、「倒幕の準備はすべて整いました」、「ご苦労であった。しかし時期尚早だ」という会話を270年間繰り返して機が熟すのを待っていたと伝えられます。このように長州藩は長期にわたり、徳川家に対する恨みを捨てず、生霊の如く「反徳川教育」をしてきました。そのエネルギーが明治維新を実現したと言えます。負けて虐げられた方の恨みというのは、これだけ持続し、歴史を覆す原動力を持っているのです。<br />一方天皇家は、これよりも長い間、突如勃興した武家に対する恨みつらみを持っていたはずですが、漁夫の利で大政奉還が転がり込んできたと言えなくもありません。その差はどこにあったのか?武家を嫌いながらも二重政治に甘んじた面もありますが、八条宮家のような無言の抵抗では生霊になり切れず、徳川家よりも先に途絶えてしまったと読めるのでは?<br />さもありな〜ん!?<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    桂離宮 笑意軒 次の間
    一見何の変哲もない7畳半の間ですが、ここに桂離宮コードが隠されています。
    通常、和室に7畳半の部屋を造ることはしません。何故なら、武士にとって「切腹の間」を意味し、4畳半の部屋で切腹をし、次の3畳で検死をしたと言われるからです。
    茶亭にはそれぞれに創意工夫が施され、恐らくその時代の流行や武家社会に対する揶揄や反骨精神のような側面が盛り込まれ、謎の多い庭園と言われるようになったのではと勝手な推測を楽しんでいます。おもてなしの精神と武家社会に対するささやかな抵抗とが化学反応を起こし、一貫性に欠ける違和感を覚えるかもしれませんが、これが桂離宮を一筋縄には語れない所以と言えます。
    例えば、この笑意軒の7畳半の次の間や、唯一茶室を設けた松琴亭のにじり口脇に設けられている棚は武士の魂を預ける刀棚ですが、質素を通り越して粗末そのものです。賞花亭の刀掛けも同様です。
    武家社会に対する「無言の抵抗」と言う見方は読み過ぎでしょうか?
    京都人らしい「いけず」の象徴のようにも映るのですが…。

    関ヶ原の合戦の敗者 毛利輝元は、大幅に減封され、山口県萩に居を構えて後の長州藩の前身となります。徳川幕府の安泰はその後270年間続きましたが、その徳川家を倒したのは皮肉にもその長州藩でした。
    長州藩では毎年新年に、筆頭家老と殿様が、「倒幕の準備はすべて整いました」、「ご苦労であった。しかし時期尚早だ」という会話を270年間繰り返して機が熟すのを待っていたと伝えられます。このように長州藩は長期にわたり、徳川家に対する恨みを捨てず、生霊の如く「反徳川教育」をしてきました。そのエネルギーが明治維新を実現したと言えます。負けて虐げられた方の恨みというのは、これだけ持続し、歴史を覆す原動力を持っているのです。
    一方天皇家は、これよりも長い間、突如勃興した武家に対する恨みつらみを持っていたはずですが、漁夫の利で大政奉還が転がり込んできたと言えなくもありません。その差はどこにあったのか?武家を嫌いながらも二重政治に甘んじた面もありますが、八条宮家のような無言の抵抗では生霊になり切れず、徳川家よりも先に途絶えてしまったと読めるのでは?
    さもありな〜ん!?







  • 桂離宮 笑意軒 草の飛石<br />ここの延段は、天然石のみが用いられ、外腰掛の「行の飛石」が男性的な造作であるのに対し、女性的な造作で「草の飛石」と言われています。<br />この延段は、単に美的感覚だけのものではなく、軒下の雨落敷を兼ねると言う実用性も持たせています。その意味では、実用性を貴ぶモダニズムの側面を有すると言えなくもありません。

    桂離宮 笑意軒 草の飛石
    ここの延段は、天然石のみが用いられ、外腰掛の「行の飛石」が男性的な造作であるのに対し、女性的な造作で「草の飛石」と言われています。
    この延段は、単に美的感覚だけのものではなく、軒下の雨落敷を兼ねると言う実用性も持たせています。その意味では、実用性を貴ぶモダニズムの側面を有すると言えなくもありません。

  • 桂離宮 笑意軒<br />蹲踞「浮月」の銘があります。往時、蹲踞には水が張られ、軌道の低い夏の月影を映す趣向となっており、柄杓を差し込んで月を掬うように水が汲めたそうです。<br />

    桂離宮 笑意軒
    蹲踞「浮月」の銘があります。往時、蹲踞には水が張られ、軌道の低い夏の月影を映す趣向となっており、柄杓を差し込んで月を掬うように水が汲めたそうです。

  • 桂離宮 笑意軒 三光燈籠<br />笑意軒の一角から見下ろした三光燈籠です。<br />本当に低い位置に配され、純粋に舟着場の目印、つまり灯台としての役目をけなげに果たしてきたことが伝わってきます。

    桂離宮 笑意軒 三光燈籠
    笑意軒の一角から見下ろした三光燈籠です。
    本当に低い位置に配され、純粋に舟着場の目印、つまり灯台としての役目をけなげに果たしてきたことが伝わってきます。

  • 桂離宮 笑意軒から見る園林堂<br />仏堂でありながら、その存在を誇示するわけでもなく、周りの景観に見事に溶け込んでいます。<br />

    桂離宮 笑意軒から見る園林堂
    仏堂でありながら、その存在を誇示するわけでもなく、周りの景観に見事に溶け込んでいます。

  • 桂離宮 書院御殿<br />右手に古書院の妻側の全貌、その左に中書院、次いで楽器の間が軒先を僅かに覗かせ、そして新御殿(御幸御殿)が奥行きの深い景観を横たえます。書院の形態で注目されるのがこの「雁行形」と呼ばれる配置。雁行とは、雁の群れが空を飛ぶ際の編隊のように、棟が少しずつズレながら飛行していく様を表しています。建物を雁行配置にすると、各部屋の眺望や通風を良好にすることができます。<br />最大の特徴は、高床式書院造。桂川の氾濫を想定したとか、安定感のある黄金比(高さ:幅=1:1.618)にするためとか諸説ありますが、意外にも観月に最適の高さだったというのが通説となっています。<br />

    桂離宮 書院御殿
    右手に古書院の妻側の全貌、その左に中書院、次いで楽器の間が軒先を僅かに覗かせ、そして新御殿(御幸御殿)が奥行きの深い景観を横たえます。書院の形態で注目されるのがこの「雁行形」と呼ばれる配置。雁行とは、雁の群れが空を飛ぶ際の編隊のように、棟が少しずつズレながら飛行していく様を表しています。建物を雁行配置にすると、各部屋の眺望や通風を良好にすることができます。
    最大の特徴は、高床式書院造。桂川の氾濫を想定したとか、安定感のある黄金比(高さ:幅=1:1.618)にするためとか諸説ありますが、意外にも観月に最適の高さだったというのが通説となっています。

  • 桂離宮 書院御殿<br />中書院と新御殿は縁側を内に包み込んで建具を立て、高床の縁側床下の柱列を吹き放して古書院とは対照的な立面に造られています。その明障子と床下奥の白壁が連続した面にならないで深く切り込まれ、光の演出により強いコントラストを作りだしています。<br /><br />桂離宮以前の寝殿造は全て南向きに建てられていましたが、桂離宮ではほとんどが東向きに建てられ、更にそれぞれ微妙に角度が振られています。現地で感じる不思議な空気感はその揺らぎの効果なのかもしれません。これは一説には、1615年当時の月の経路を綿密に計算し、観月のベストポジションとなるように配置された結果と言われています。また、桂離宮は純和風建築の象徴と称されるのですが、実は西洋建築技法を潤沢に駆使した先鋭的な建物でもあります。<br />例えば、実際よりも道を長く感じさせるための遠近法や壁や飛石の縦横比への黄金比、大胆な軸線の構成、ビスタライン(眺望ライン)、ランドマークなどそこかしこにさりげなく西洋建築技法と日本伝統庭園技術の高いレベルでの融合が窺われます。西洋の技法が伝わった背景にあるのが、<前編>で紹介したような智仁親王とキリシタン大名との親交や丹後のキリシタン大名 京極高知の娘 常子との結婚です。池の周りに立てられている7基の石燈篭は、「織部燈篭」と称される形をなしますが、これらは別名「キリシタン燈篭」とも呼ばれ、地中に埋められた部分にはマリア像が彫られているとの説もあります

    桂離宮 書院御殿
    中書院と新御殿は縁側を内に包み込んで建具を立て、高床の縁側床下の柱列を吹き放して古書院とは対照的な立面に造られています。その明障子と床下奥の白壁が連続した面にならないで深く切り込まれ、光の演出により強いコントラストを作りだしています。

    桂離宮以前の寝殿造は全て南向きに建てられていましたが、桂離宮ではほとんどが東向きに建てられ、更にそれぞれ微妙に角度が振られています。現地で感じる不思議な空気感はその揺らぎの効果なのかもしれません。 これは一説には、1615年当時の月の経路を綿密に計算し、観月のベストポジションとなるように配置された結果と言われています。また、桂離宮は純和風建築の象徴と称されるのですが、実は西洋建築技法を潤沢に駆使した先鋭的な建物でもあります。
    例えば、実際よりも道を長く感じさせるための遠近法や壁や飛石の縦横比への黄金比、大胆な軸線の構成、ビスタライン(眺望ライン)、ランドマークなどそこかしこにさりげなく西洋建築技法と日本伝統庭園技術の高いレベルでの融合が窺われます。西洋の技法が伝わった背景にあるのが、<前編>で紹介したような智仁親王とキリシタン大名との親交や丹後のキリシタン大名 京極高知の娘 常子との結婚です。池の周りに立てられている7基の石燈篭は、「織部燈篭」と称される形をなしますが、これらは別名「キリシタン燈篭」とも呼ばれ、地中に埋められた部分にはマリア像が彫られているとの説もあります

  • 桂離宮 書院御殿<br />苔庭と芝庭は直線状に埋められた長方形の敷瓦で区画され、建物に沿って直線的に折れ曲がる雨落ちの溝とその間を真っ直ぐに伸びる飛石とが整然と並べられた様は壮観です。芝庭は馬術や弓道、蹴鞠を行う運動場でした。そして飛石の終点が「楽器の間」となります。<br /><br />襖に使われる引手や和室に見られる釘隠など、伝統的な日本の金物には様々なモチーフが使われ、その写実性や遊び心に驚かされます。桂離宮は観月をメインテーマにしていることもあり、様々な場所に「月」をモチーフにしたデザインが見られますが、新書院にある襖の月の字を元にした引手はことに有名です。このような部材は、その機能は勿論のこと、装飾性の観点でも素晴らしいものばかりです。<br /><br /><br />

    桂離宮 書院御殿
    苔庭と芝庭は直線状に埋められた長方形の敷瓦で区画され、建物に沿って直線的に折れ曲がる雨落ちの溝とその間を真っ直ぐに伸びる飛石とが整然と並べられた様は壮観です。芝庭は馬術や弓道、蹴鞠を行う運動場でした。そして飛石の終点が「楽器の間」となります。

    襖に使われる引手や和室に見られる釘隠など、伝統的な日本の金物には様々なモチーフが使われ、その写実性や遊び心に驚かされます。桂離宮は観月をメインテーマにしていることもあり、様々な場所に「月」をモチーフにしたデザインが見られますが、新書院にある襖の月の字を元にした引手はことに有名です。このような部材は、その機能は勿論のこと、装飾性の観点でも素晴らしいものばかりです。


  • 桂離宮 書院御殿 古書院<br />当初の書院は、簡素な施設で智仁親王自信「瓜畑のかろき茶屋」と呼んだそうです。智忠親王の時代に建立された書院御殿の木材は、解体修理の際に松であることが判明したそうです。それまでは、目の通った木材だったので誰もが栂だと思い込んでいたそうです。普請には1mm間隔で長さ5mに及ぶ真っ直ぐに目の通った松が使われ、現在ではこのような素晴らしい松を入手することは困難だそうです。屋根は杮葺で、全体に丸みを帯びた優しい感じのむくり屋根。飾り気の無い、庵のような居住まいに仕上られています。<br /><br />古書院に伸びる飛石はリズミカルな配置で、俗に七五三飛石と呼ばれます。<br />実際は三・七・三・五石となっており、更に物見石が左右に散らしてあるので解り難いかもしれません。<br />手前より三石(三石目の左側の石は物見石)、七石、三石(一石目の大きな石の右側に物見石)、五石(一石目の右側に物見石、四石目、五石目は沓脱石の下にある角張った石)となっています。<br /><br /><br />

    桂離宮 書院御殿 古書院
    当初の書院は、簡素な施設で智仁親王自信「瓜畑のかろき茶屋」と呼んだそうです。智忠親王の時代に建立された書院御殿の木材は、解体修理の際に松であることが判明したそうです。それまでは、目の通った木材だったので誰もが栂だと思い込んでいたそうです。普請には1mm間隔で長さ5mに及ぶ真っ直ぐに目の通った松が使われ、現在ではこのような素晴らしい松を入手することは困難だそうです。屋根は杮葺で、全体に丸みを帯びた優しい感じのむくり屋根。飾り気の無い、庵のような居住まいに仕上られています。

    古書院に伸びる飛石はリズミカルな配置で、俗に七五三飛石と呼ばれます。
    実際は三・七・三・五石となっており、更に物見石が左右に散らしてあるので解り難いかもしれません。
    手前より三石(三石目の左側の石は物見石)、七石、三石(一石目の大きな石の右側に物見石)、五石(一石目の右側に物見石、四石目、五石目は沓脱石の下にある角張った石)となっています。


  • 桂離宮 書院御殿 古書院<br />「月見台」の屋根の庇が短く刈り込まれているのは、視界を邪魔しないようにするためです。また、手すりが設けられていないのは、水面に映し出される月影の邪魔にならないようにとの配慮です。往時、水面に映し出される月影は、本物よりも情緒があると賛美されていたそうです。<br /><br />桂の地名は中国の故事「月桂」に因んだものです。伝説では、月には1500mにも達する巨大な桂の木が生えており、呉剛と言う西河の仙人がそれを伐り倒そうとする姿が月面に見えると伝わっています。この桂は切ってもすぐに切り口が直るという霊木と言われ、葉が茂れば月は満ち、葉が枯れると月も欠けていくというのです。そしてまた新たな葉が芽吹くとそれに合わせて月も徐々に満ちるのです。このように栄枯盛衰を繰り返して永遠に生き続けるというロマンチックな伝説です。ここから、「月桂」は、目に見えながらも手に取ることのできない想いの譬えとなっています。伝説に花を添えるように、桂の葉はハート形。少し出来すぎの話ですが…。、桂の語源は、落葉が甘い香りがすることから「香出(かづ)ら」と呼ばれた事に由来します。「桂」は日本固有の木(カツラ属カツラ科)で、英名は「Katsura tree」です。<br /><br />

    桂離宮 書院御殿 古書院
    「月見台」の屋根の庇が短く刈り込まれているのは、視界を邪魔しないようにするためです。また、手すりが設けられていないのは、水面に映し出される月影の邪魔にならないようにとの配慮です。往時、水面に映し出される月影は、本物よりも情緒があると賛美されていたそうです。

    桂の地名は中国の故事「月桂」に因んだものです。伝説では、月には1500mにも達する巨大な桂の木が生えており、呉剛と言う西河の仙人がそれを伐り倒そうとする姿が月面に見えると伝わっています。この桂は切ってもすぐに切り口が直るという霊木と言われ、葉が茂れば月は満ち、葉が枯れると月も欠けていくというのです。そしてまた新たな葉が芽吹くとそれに合わせて月も徐々に満ちるのです。このように栄枯盛衰を繰り返して永遠に生き続けるというロマンチックな伝説です。ここから、「月桂」は、目に見えながらも手に取ることのできない想いの譬えとなっています。 伝説に花を添えるように、桂の葉はハート形。少し出来すぎの話ですが…。、桂の語源は、落葉が甘い香りがすることから「香出(かづ)ら」と呼ばれた事に由来します。「桂」は日本固有の木(カツラ属カツラ科)で、英名は「Katsura tree」です。

  • 桂離宮 書院御殿 古書院 月見台<br />丸竹を敷き詰めて簀の子にした露台が池に向かって突き出され、月見台となっています。月見台は名の通り観月のための舞台ですが、南東29度と微妙な方向に向けられています。宮元健次 著『桂離宮 隠された三つの謎』には「月見台と1615年の中秋の名月の月の出方位は完全に一致する」と記述されており、桂離宮を紹介するWEBサイトでは通説になっています。しかし、実際には真正面から月が昇るわけではなく、左手から昇った月が描く軌跡「白道」を真夜中まで愛でられる方位との説もあります。20〜22時のゴールデンタイムに月が中空にかかり、池に映った水面の月影との合わせ技で愛でられる計算だそうです。真正面から出て中天に昇る月を観るというのは非合理ですので、この説には頷けます。待望の名月が東の山から昇り、やがてその月明かりが池の水面に映り込んで滲む光景。想像しただけで、典雅な平安時代にタイムスリップしてしまいます。<br />

    桂離宮 書院御殿 古書院 月見台
    丸竹を敷き詰めて簀の子にした露台が池に向かって突き出され、月見台となっています。月見台は名の通り観月のための舞台ですが、南東29度と微妙な方向に向けられています。宮元健次 著『桂離宮 隠された三つの謎』には「月見台と1615年の中秋の名月の月の出方位は完全に一致する」と記述されており、桂離宮を紹介するWEBサイトでは通説になっています。しかし、実際には真正面から月が昇るわけではなく、左手から昇った月が描く軌跡「白道」を真夜中まで愛でられる方位との説もあります。20〜22時のゴールデンタイムに月が中空にかかり、池に映った水面の月影との合わせ技で愛でられる計算だそうです。真正面から出て中天に昇る月を観るというのは非合理ですので、この説には頷けます。待望の名月が東の山から昇り、やがてその月明かりが池の水面に映り込んで滲む光景。想像しただけで、典雅な平安時代にタイムスリップしてしまいます。

  • 桂離宮 書院御殿 古書院 切懸魚<br />狐格子の妻破風の拝みの下には切懸魚と言われる簡素な懸魚が付けられています。六葉と菊座を樽の口と楔で留めてあります。1976年から6年に及んだ「昭和の大修理」の際に金箔が張られ、簡素さが売りの桂離宮ながら、ここだけは燦然と輝いています。<br /><br />1976年に桂離宮の解体修理が始まり、安井清氏は現場監督として全体を指揮しました。その時を語ったこんな話があります。<br />「天井裏から面白いもんが見つかりました。ナマズのミイラです。火伏せでしょう。懸魚や鴨居、敷居など伝統建築には水鳥や魚、水に因んだものを設けて火事の時に水を呼ぶんです。ナマズは、地震にも雷にも効きます。ミイラは、桂川で釣ったナマズを干物にして置いたんでしょうな」。 <br />

    桂離宮 書院御殿 古書院 切懸魚
    狐格子の妻破風の拝みの下には切懸魚と言われる簡素な懸魚が付けられています。六葉と菊座を樽の口と楔で留めてあります。1976年から6年に及んだ「昭和の大修理」の際に金箔が張られ、簡素さが売りの桂離宮ながら、ここだけは燦然と輝いています。

    1976年に桂離宮の解体修理が始まり、安井清氏は現場監督として全体を指揮しました。その時を語ったこんな話があります。
    「天井裏から面白いもんが見つかりました。ナマズのミイラです。火伏せでしょう。懸魚や鴨居、敷居など伝統建築には水鳥や魚、水に因んだものを設けて火事の時に水を呼ぶんです。ナマズは、地震にも雷にも効きます。ミイラは、桂川で釣ったナマズを干物にして置いたんでしょうな」。 

  • 桂離宮 書院御殿 古書院 月見台<br />圧巻は桂離宮の設計コンセプト。桂離宮には、想定外のスケールのダイナミックな仕掛けが随所に凝らされています。エジプトのクフ王のピラミッドがオリオン座と呼応する構造を持つなら、桂離宮は月に呼応していると言っても過言ではありません。桂離宮のメインテーマは観月であり、離宮全体が古の貴族の別荘地にして月の名所、桂の地で如何に月を美しく鑑賞するかを主眼に造られています。天高く輝く月が池の水面に映り、上下二つの月が同時に目を喜ばせる光景を思い描きながら巡ってみるのも一興です。<br />17世紀の月とはどんな存在だったのでしょうか?<br />往時の人たちはほんの僅かな明かりしか持たず、基本的に夜は漆黒の闇でした。従って、宇宙の営みによって演出される月を主役とした天文ショーが、往時の人たちをどれほど歓喜させ、慰めてきたことでしょう。今日の夜間照明に慣れ親しんだ我々には想像を絶する世界です。<br />今でこそ月は夜空の1パーツに過ぎないですが、当時、月は、闇夜にこの世を照らす最大の明かりであり、神聖なる存在でした。また、日々刻々とその姿と位置を変えていく月を人々は心情を込めて歌に詠みました。絶えることなく満ち欠きを繰り返す月は、永遠の象徴とも崇められました。桂離宮は、「月」を最大限に美しく鑑賞するために「至高の観月舞台」として造られたものだったのです。<br />

    桂離宮 書院御殿 古書院 月見台
    圧巻は桂離宮の設計コンセプト。桂離宮には、想定外のスケールのダイナミックな仕掛けが随所に凝らされています。エジプトのクフ王のピラミッドがオリオン座と呼応する構造を持つなら、桂離宮は月に呼応していると言っても過言ではありません。桂離宮のメインテーマは観月であり、離宮全体が古の貴族の別荘地にして月の名所、桂の地で如何に月を美しく鑑賞するかを主眼に造られています。天高く輝く月が池の水面に映り、上下二つの月が同時に目を喜ばせる光景を思い描きながら巡ってみるのも一興です。
    17世紀の月とはどんな存在だったのでしょうか?
    往時の人たちはほんの僅かな明かりしか持たず、基本的に夜は漆黒の闇でした。従って、宇宙の営みによって演出される月を主役とした天文ショーが、往時の人たちをどれほど歓喜させ、慰めてきたことでしょう。今日の夜間照明に慣れ親しんだ我々には想像を絶する世界です。
    今でこそ月は夜空の1パーツに過ぎないですが、当時、月は、闇夜にこの世を照らす最大の明かりであり、神聖なる存在でした。また、日々刻々とその姿と位置を変えていく月を人々は心情を込めて歌に詠みました。絶えることなく満ち欠きを繰り返す月は、永遠の象徴とも崇められました。桂離宮は、「月」を最大限に美しく鑑賞するために「至高の観月舞台」として造られたものだったのです。

  • 桂離宮 月波楼 口の間より中の間を望む<br />その名の通り、古書院近くの高みに立つこの茶亭から、池面に映る月を愛でるための茶亭です。<br />「月波楼」の名は 白楽天の『西湖詩』の一説から採られたものです。「月点波心一顆珠」、月は波心に点じ、一顆の珠とは西湖の水面にポツンと点った月影の様子がまるで一粒の真珠のようだという意味です。<br />

    桂離宮 月波楼 口の間より中の間を望む
    その名の通り、古書院近くの高みに立つこの茶亭から、池面に映る月を愛でるための茶亭です。
    「月波楼」の名は 白楽天の『西湖詩』の一説から採られたものです。 「月点波心一顆珠」、月は波心に点じ、一顆の珠とは西湖の水面にポツンと点った月影の様子がまるで一粒の真珠のようだという意味です。

  • 桂離宮 月波楼 口の間より中の間を望む<br />優美な字体の「歌月」の扁額は、歌人や能書家として知られる霊元天皇の宸筆。

    桂離宮 月波楼 口の間より中の間を望む
    優美な字体の「歌月」の扁額は、歌人や能書家として知られる霊元天皇の宸筆。

  • 桂離宮 月波楼 天井<br />特徴は、天井。天井は一の間にあるだけで、その他は吹き抜けの船底を彷彿とさせる寄棟屋根が豪快に広がる竹の垂木、竹の木舞、葦簀野地の化粧屋根裏。この意匠が狭い茶亭を、無限の解放空間に感じられるようにしています。棟木を支える小屋束は、中央に1本。しかも、屋根全体が華奢で曲がったこの1本の木で支えられているような錯覚に陥ります。実際は隅木や竹の垂木も屋根の重さを支えているのですが、このように見せる事で屋根が軽やかに宙に浮いているかのような印象を与えます。この技法は、桂離宮の中でも特に優れたもののひとつだそうです。しかし、構造的には脆弱で、1934年の台風で倒壊したそうです。<br />

    桂離宮 月波楼 天井
    特徴は、天井。天井は一の間にあるだけで、その他は吹き抜けの船底を彷彿とさせる寄棟屋根が豪快に広がる竹の垂木、竹の木舞、葦簀野地の化粧屋根裏。この意匠が狭い茶亭を、無限の解放空間に感じられるようにしています。棟木を支える小屋束は、中央に1本。しかも、屋根全体が華奢で曲がったこの1本の木で支えられているような錯覚に陥ります。実際は隅木や竹の垂木も屋根の重さを支えているのですが、このように見せる事で屋根が軽やかに宙に浮いているかのような印象を与えます。この技法は、桂離宮の中でも特に優れたもののひとつだそうです。しかし、構造的には脆弱で、1934年の台風で倒壊したそうです。

  • 桂離宮 月波楼 絵馬額<br />土間の上がり口の上方には、下桂村御霊社にあった「唐船に和漢乗合之図」の絵馬額が掲げてありますが、絵は想像を逞しくできるように哀れな姿になっています。<br />

    桂離宮 月波楼 絵馬額
    土間の上がり口の上方には、下桂村御霊社にあった「唐船に和漢乗合之図」の絵馬額が掲げてありますが、絵は想像を逞しくできるように哀れな姿になっています。

  • 桂離宮 月波楼<br />狭い敷地ですので移動がままならなかったため、写真に収めることはできなかったのですが、ここには風変わりな手水鉢が置かれています。<br />水穴を鎌の刃に、出張った部分を柄に見立てて「鎌型手水鉢」と呼ばれます。秋をテーマとした月波楼に相応しい手水鉢で、実りの秋の収穫を表現しています。<br /><br />

    桂離宮 月波楼
    狭い敷地ですので移動がままならなかったため、写真に収めることはできなかったのですが、ここには風変わりな手水鉢が置かれています。
    水穴を鎌の刃に、出張った部分を柄に見立てて「鎌型手水鉢」と呼ばれます。秋をテーマとした月波楼に相応しい手水鉢で、実りの秋の収穫を表現しています。

  • 桂離宮 月波楼 中の間からの眺望<br />眼下に池を見下ろせ、まさに漕ぎ出した舟から見ているような錯覚を醸すために畳の先に竹の簀子敷きの縁側が設けられています。<br /><br />月波楼は、「一の間」、「中の間」、「口の間」の3室と土間からなる寄棟造。一の間には床と付書院が設けられ、中の間は北と東を竹の簀子縁側にした開放的な部屋です。南の吹き放しの土間は入口を兼ね、その西半部は板敷で、炉やくど、水屋、棚で構成された「くど構え」となっています。

    桂離宮 月波楼 中の間からの眺望
    眼下に池を見下ろせ、まさに漕ぎ出した舟から見ているような錯覚を醸すために畳の先に竹の簀子敷きの縁側が設けられています。

    月波楼は、「一の間」、「中の間」、「口の間」の3室と土間からなる寄棟造。一の間には床と付書院が設けられ、中の間は北と東を竹の簀子縁側にした開放的な部屋です。南の吹き放しの土間は入口を兼ね、その西半部は板敷で、炉やくど、水屋、棚で構成された「くど構え」となっています。

  • 桂離宮 月波楼 一の間 源氏襖<br />一の間と中の間の境の襖には、明かり取りのための障子を組み込んだ「源氏襖」が使われています。京唐紙に秋の風情を連想させる紅葉の絵柄が描かれ、鎌型手水鉢と共に「秋」を表現しています。<br />京唐紙は、現在は唯一「唐長」が製作しているのみになった貴重な伝統工芸です。桂離宮は昭和50年代に大修理を行っていますが、元の様に京唐紙を使用して復元されています。<br />

    桂離宮 月波楼 一の間 源氏襖
    一の間と中の間の境の襖には、明かり取りのための障子を組み込んだ「源氏襖」が使われています。京唐紙に秋の風情を連想させる紅葉の絵柄が描かれ、鎌型手水鉢と共に「秋」を表現しています。
    京唐紙は、現在は唯一「唐長」が製作しているのみになった貴重な伝統工芸です。桂離宮は昭和50年代に大修理を行っていますが、元の様に京唐紙を使用して復元されています。

  • 桂離宮 月波楼 一の間 源氏襖<br />紅葉の上に雲母(キララ)の流水紋が摺られ、光の差し込む角度によって龍田川の風情を表し、これも「秋」を象徴する素材です。<br />長方形の窓が付き、綟織布(もじおりぬの)の障子に景色が透けて見える凝った作りは数寄屋の粋を見る思いです。襖の引手は手機杼形(てばたひがた)で、桃山時代を代表する金具師 嘉長の作品のレプリカだそうです。

    桂離宮 月波楼 一の間 源氏襖
    紅葉の上に雲母(キララ)の流水紋が摺られ、光の差し込む角度によって龍田川の風情を表し、これも「秋」を象徴する素材です。
    長方形の窓が付き、綟織布(もじおりぬの)の障子に景色が透けて見える凝った作りは数寄屋の粋を見る思いです。襖の引手は手機杼形(てばたひがた)で、桃山時代を代表する金具師 嘉長の作品のレプリカだそうです。

  • 桂離宮 月波楼 一の間<br />明暗の対比が、美しい風景をさらにブラッシュアップしています。

    桂離宮 月波楼 一の間
    明暗の対比が、美しい風景をさらにブラッシュアップしています。

  • 桂離宮 月波楼 <br />生垣越しに望む月破楼です。

    桂離宮 月波楼 
    生垣越しに望む月破楼です。

  • 桂離宮 月波楼 <br />北妻に掲げられた額は、近衛信尹や本阿弥光悦と共に寛永の三筆と謳われた、松花堂昭乗の宸筆です。<br />

    桂離宮 月波楼 
    北妻に掲げられた額は、近衛信尹や本阿弥光悦と共に寛永の三筆と謳われた、松花堂昭乗の宸筆です。

  • 桂離宮 中門<br />古書院への導入口に当たる茅葺切妻屋根の中門。<br />本来は門の右手の入口から入るのですが、見学順路は月破楼側からお邪魔します。<br />框を越えると塀や生垣に囲まれた、一面を苔が覆う坪庭が開けます。

    桂離宮 中門
    古書院への導入口に当たる茅葺切妻屋根の中門。
    本来は門の右手の入口から入るのですが、見学順路は月破楼側からお邪魔します。
    框を越えると塀や生垣に囲まれた、一面を苔が覆う坪庭が開けます。

  • 桂離宮 中門 <br />ここからは中門から入る設定で紹介いたします。<br />古書院の玄関口にある中門前の垣根には、クロモジの木が使われています。この柴垣は、源氏物語に記されている建築物や造園部を参考にして造られたものだそうです。<br />クロモジは香木の一種で、樹皮や材に独特の香があります。和菓子を食す時に使う大振りの楊枝の原木と言った方が通じるかもしれません。<br />

    桂離宮 中門 
    ここからは中門から入る設定で紹介いたします。
    古書院の玄関口にある中門前の垣根には、クロモジの木が使われています。この柴垣は、源氏物語に記されている建築物や造園部を参考にして造られたものだそうです。
    クロモジは香木の一種で、樹皮や材に独特の香があります。和菓子を食す時に使う大振りの楊枝の原木と言った方が通じるかもしれません。

  • 桂離宮 中門<br />中門の正面は苔むし、侘び寂びの世界を演出しています。<br />中門へは、まず大柄の黒石の「霰こぼし」、その先には大きな黒い天然石、そして田の字形の切石が誘います。<br />

    桂離宮 中門
    中門の正面は苔むし、侘び寂びの世界を演出しています。
    中門へは、まず大柄の黒石の「霰こぼし」、その先には大きな黒い天然石、そして田の字形の切石が誘います。

  • 桂離宮 御興寄前庭<br />中門の先に古書院の一部と御興寄前庭が見えますが、肝心の御興寄は見せない仕掛けになっています。正面右には「方柱切石」と呼ばれる手水鉢が置かれ、フォーカルポイントとして目を惹き付けます。そして、この手水鉢の右側には、縁側が続いています。「方柱切石」は中門の正面にはなく、意図的に3.5度縁側寄りにずらされています。こうすることで、門を潜ってこの「方柱切石」に真っ直ぐ進むと距離が実際より長く感じられるようになる仕掛けです。<br />手水鉢の右横には、竹でこしらえた雨樋が見えます。この長さで竹の節に穴を開けるのは、さぞ大変だったのではないでしょうか?このように目につかない所への苦労の跡が満載です。<br /><br />

    桂離宮 御興寄前庭
    中門の先に古書院の一部と御興寄前庭が見えますが、肝心の御興寄は見せない仕掛けになっています。正面右には「方柱切石」と呼ばれる手水鉢が置かれ、フォーカルポイントとして目を惹き付けます。そして、この手水鉢の右側には、縁側が続いています。「方柱切石」は中門の正面にはなく、意図的に3.5度縁側寄りにずらされています。こうすることで、門を潜ってこの「方柱切石」に真っ直ぐ進むと距離が実際より長く感じられるようになる仕掛けです。
    手水鉢の右横には、竹でこしらえた雨樋が見えます。この長さで竹の節に穴を開けるのは、さぞ大変だったのではないでしょうか? このように目につかない所への苦労の跡が満載です。

  • 桂離宮 御興寄前庭<br />斜め正面には古書院の御輿寄が一段高く設けられ、右手には旧台所棟の縁側が伸び、左手には目板瓦葺仕切塀が縁側と平行して築かれています。右側の障子と左側の仕切り壁の距離と中門の框から御輿寄の石段までの距離の比は、黄金比になっているそうです。<br /><br />また、縁側に沿った障子にも遠近法が用いられています。柱の間隔や障子の幅を意図的に広げたり狭めたりすることで空間の広がりを演出する技法です。中門側から見ると目の錯覚で障子の幅が同じ間隔に見えるように工夫されています。反対に手水鉢側から見ると、距離が実際より長く見えます。奇をてらったものですが、綿密に計算された遊び心が満載です。<br />イタリア フィレンツェのサンタ・クローチェ教会前広場で見た建物を思い出します。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=29227292<br />

    桂離宮 御興寄前庭
    斜め正面には古書院の御輿寄が一段高く設けられ、右手には旧台所棟の縁側が伸び、左手には目板瓦葺仕切塀が縁側と平行して築かれています。右側の障子と左側の仕切り壁の距離と中門の框から御輿寄の石段までの距離の比は、黄金比になっているそうです。

    また、縁側に沿った障子にも遠近法が用いられています。 柱の間隔や障子の幅を意図的に広げたり狭めたりすることで空間の広がりを演出する技法です。中門側から見ると目の錯覚で障子の幅が同じ間隔に見えるように工夫されています。反対に手水鉢側から見ると、距離が実際より長く見えます。奇をてらったものですが、綿密に計算された遊び心が満載です。
    イタリア フィレンツェのサンタ・クローチェ教会前広場で見た建物を思い出します。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=29227292

  • 桂離宮 御興寄前庭<br />足元には「田」の字形に切石が敷かれ、更に4枚の方形の飛石が「く」の字に配置されています。飛石は一辺の長さがそれぞれ違えられ、手前から44.5、45、45.5cmの「等差数列」となっています。また、間隔には、「等比数列」が用いられています。

    桂離宮 御興寄前庭
    足元には「田」の字形に切石が敷かれ、更に4枚の方形の飛石が「く」の字に配置されています。飛石は一辺の長さがそれぞれ違えられ、手前から44.5、45、45.5cmの「等差数列」となっています。また、間隔には、「等比数列」が用いられています。

  • 桂離宮 御興寄前庭<br />「く」の字形の飛石から御輿寄下の石段までは、人工の切石だけで構成された延段が続き、「真の飛石」と呼ばれています。花崗岩の切石44個を幾何学的に組合わせ、全長9.4m、幅75cmの延段が構成されています。小学校時代にこんなパズルで遊んだこと思い出し、頬が弛くなります。<br />「真の飛石」は「遠州好みの飛石」と言われ、桂三景のうちのひとつに数えられています。<br /><br />延段の先には、紐で結ばれた石が無造作に置かれています。握り拳大ほど石にシュロ縄を括ったものです。この石は、御輿はここまでという印の「関守石」だそうです。寺院や神社では結界としても用いられています。位置は日によって微妙に違うそうで、運が良ければ少し先まで進めます。<br /><br />撤収時間が過ぎていましたので写真に収めることができなかったのですが、前方左手に築山があり、そこにも織部型灯籠が生込まれています。<br /><br />

    桂離宮 御興寄前庭
    「く」の字形の飛石から御輿寄下の石段までは、人工の切石だけで構成された延段が続き、「真の飛石」と呼ばれています。花崗岩の切石44個を幾何学的に組合わせ、全長9.4m、幅75cmの延段が構成されています。小学校時代にこんなパズルで遊んだこと思い出し、頬が弛くなります。
    「真の飛石」は「遠州好みの飛石」と言われ、桂三景のうちのひとつに数えられています。

    延段の先には、紐で結ばれた石が無造作に置かれています。握り拳大ほど石にシュロ縄を括ったものです。この石は、御輿はここまでという印の「関守石」だそうです。寺院や神社では結界としても用いられています。位置は日によって微妙に違うそうで、運が良ければ少し先まで進めます。

    撤収時間が過ぎていましたので写真に収めることができなかったのですが、前方左手に築山があり、そこにも織部型灯籠が生込まれています。

  • 桂離宮 古書院 御興寄 6つの沓脱<br />延段を進み、4段の幅広い石段を上がると大きな沓脱石があります。一枚石の沓脱石には6人分の沓が並べられることから「6つの沓脱」と呼ばれています。上面には雨水が溜まらないように浅いむくりが施されています。<br />

    桂離宮 古書院 御興寄 6つの沓脱
    延段を進み、4段の幅広い石段を上がると大きな沓脱石があります。一枚石の沓脱石には6人分の沓が並べられることから「6つの沓脱」と呼ばれています。上面には雨水が溜まらないように浅いむくりが施されています。

  • 桂離宮 住吉の松<br />最初のビューポイントなのですが、反対側にある舟宿を撮影していたので失念していました。でも参観の最後に説明と写真タイムがありました。<br />桂離宮での印象的な庭園手法のひとつに「軸線」があります。この庭園には至る所に大小様々な軸線が配置されているのですが、どの軸線も奥までは見通せず、行って回り込んでみて初めてその先が見られるというデジタル志向です。<br />「亀の尾」と呼ばれる芝地に向かう生垣で造られた軸線の先に、背の低い松が1本植えられています。これが「住吉の松(衝立松)」。訪問者が御池を一望できないように、意図的に目隠しとして植えられた、アイ・ストップです。松で景観を隠されることで、後で見る景色への期待が一段と膨らむという演出方法らしいのですが、悲しいかな当方のような風流を解せない凡人には邪魔者以外の何者でもありませんが…。<br />住吉の松は「古今和歌集」を表し、歌が盛んに詠まれ、世の中が平和であることを象徴する松だそうです。しかしながらこのクロ松は、人の思惑によってその場所に生を授けられ、生涯「衝立」としてのミッションを果たし続ける運命を背負った類稀なる樹なのです。<br /><br />

    桂離宮 住吉の松
    最初のビューポイントなのですが、反対側にある舟宿を撮影していたので失念していました。でも参観の最後に説明と写真タイムがありました。
    桂離宮での印象的な庭園手法のひとつに「軸線」があります。この庭園には至る所に大小様々な軸線が配置されているのですが、どの軸線も奥までは見通せず、行って回り込んでみて初めてその先が見られるというデジタル志向です。
    「亀の尾」と呼ばれる芝地に向かう生垣で造られた軸線の先に、背の低い松が1本植えられています。これが「住吉の松(衝立松)」。訪問者が御池を一望できないように、意図的に目隠しとして植えられた、アイ・ストップです。松で景観を隠されることで、後で見る景色への期待が一段と膨らむという演出方法らしいのですが、悲しいかな当方のような風流を解せない凡人には邪魔者以外の何者でもありませんが…。
    住吉の松は「古今和歌集」を表し、歌が盛んに詠まれ、世の中が平和であることを象徴する松だそうです。 しかしながらこのクロ松は、人の思惑によってその場所に生を授けられ、生涯「衝立」としてのミッションを果たし続ける運命を背負った類稀なる樹なのです。

  • 桂離宮 土塀<br />屋根は杉皮で葺かれています。<br /><br />桂離宮は、日本と西洋の造園技法をバランスよく融合させた庭であり、同時に苑内の建物に斬新かつオリジナリティーに富んだ意匠が凝縮された、遊び心を持たせた類稀な庭です。しかも苑内では常に自然が主役であり、人の心を癒す爽風が穏やかに通り抜け、流麗な水の流れや響きや煌きにハッとし、また石や植物、建物には時の流れが感じられます。まさに生命を持った庭と言えます。 <br />庭の維持や管理には膨大な費用が必要なことは想像に難くありませんが、桂離宮は世界に誇れる優れた日本庭園のひとつであり、未来永劫、輝きを失うことのないようにして後世に伝えていかねばならない遺産だと思います。<br />

    桂離宮 土塀
    屋根は杉皮で葺かれています。

    桂離宮は、日本と西洋の造園技法をバランスよく融合させた庭であり、同時に苑内の建物に斬新かつオリジナリティーに富んだ意匠が凝縮された、遊び心を持たせた類稀な庭です。しかも苑内では常に自然が主役であり、人の心を癒す爽風が穏やかに通り抜け、流麗な水の流れや響きや煌きにハッとし、また石や植物、建物には時の流れが感じられます。まさに生命を持った庭と言えます。 
    庭の維持や管理には膨大な費用が必要なことは想像に難くありませんが、桂離宮は世界に誇れる優れた日本庭園のひとつであり、未来永劫、輝きを失うことのないようにして後世に伝えていかねばならない遺産だと思います。

  • 桂離宮 竹穂垣<br />息つく暇もなく、あっという間に参観の1時間が過ぎてしまいました。<br /><br />桂離宮に関する文献には「簡素美・機能美」を主張するものとその対極の「技巧美」を謳うものとが片意地を張ったまま共存します。何故こうなったのかを膨大な資料に基づき分析したのが井上章一 著「つくられた桂離宮神話」です。時代背景によって価値観がどのように遷移したかを解説する力作です。当方も、時代を映した色眼鏡による価値観を無意識のうちに刷り込まれていたということです。正直、当方も両極の評価の存在に疑問を抱いていました。この本で疑念が払拭された訳ではありませんが、先入観を持たず、自分の感性で観ることの大切さを教えられました。おかげさまでピュアな心で桂離宮と向き合うことができました。<br />感想としては、観方によっては「簡素美」とも「技巧美」とも映りますが、それだけでは語り尽くせないスケールに驚愕しました。これは、生い立ちを知ったことも多分に影響していると思います。そもそも、○○派と言った狭義の枠に紋切すること自体、アートの世界ではナンセンスです。建造に携わった人たちは、クライアントの意向に沿うようにあらゆる手練手管を駆使したはずです。その中には伝統の△△派の方もいたでしょうが、技能が優れていれば、枠に留まることはしなかったはずです。日本には、能楽の世阿弥に起源を持つ「守・破・離」の考え方があります。これは武道の教えにも使われていますが、真似をしている内に、ある段階から掟破り的な発展が生まれ、やがて道を究めるという教えです。物真似に留まらず、オリジナリティを創出することが何よりも大切だという考え方です。エンジニアも同様です。部下が技術で上司を追い抜かなければ企業の発展は望めません。桂離宮も、型に囚われず、独自の境地に入るために西洋技術を精力的に取り入れ、いわゆる和魂洋才を地で行ったと考えると腑に落ちます。そしてその中に、桂離宮コードを強かに詰め合わせたのです。それ故、桂離宮では、新たな発見に心ときめかすリピーターが絶えないのでしょう。<br />

    桂離宮 竹穂垣
    息つく暇もなく、あっという間に参観の1時間が過ぎてしまいました。

    桂離宮に関する文献には「簡素美・機能美」を主張するものとその対極の「技巧美」を謳うものとが片意地を張ったまま共存します。何故こうなったのかを膨大な資料に基づき分析したのが井上章一 著「つくられた桂離宮神話」です。時代背景によって価値観がどのように遷移したかを解説する力作です。当方も、時代を映した色眼鏡による価値観を無意識のうちに刷り込まれていたということです。正直、当方も両極の評価の存在に疑問を抱いていました。この本で疑念が払拭された訳ではありませんが、先入観を持たず、自分の感性で観ることの大切さを教えられました。おかげさまでピュアな心で桂離宮と向き合うことができました。
    感想としては、観方によっては「簡素美」とも「技巧美」とも映りますが、それだけでは語り尽くせないスケールに驚愕しました。これは、生い立ちを知ったことも多分に影響していると思います。そもそも、○○派と言った狭義の枠に紋切すること自体、アートの世界ではナンセンスです。建造に携わった人たちは、クライアントの意向に沿うようにあらゆる手練手管を駆使したはずです。その中には伝統の△△派の方もいたでしょうが、技能が優れていれば、枠に留まることはしなかったはずです。日本には、能楽の世阿弥に起源を持つ「守・破・離」の考え方があります。これは武道の教えにも使われていますが、真似をしている内に、ある段階から掟破り的な発展が生まれ、やがて道を究めるという教えです。物真似に留まらず、オリジナリティを創出することが何よりも大切だという考え方です。エンジニアも同様です。部下が技術で上司を追い抜かなければ企業の発展は望めません。桂離宮も、型に囚われず、独自の境地に入るために西洋技術を精力的に取り入れ、いわゆる和魂洋才を地で行ったと考えると腑に落ちます。そしてその中に、桂離宮コードを強かに詰め合わせたのです。それ故、桂離宮では、新たな発見に心ときめかすリピーターが絶えないのでしょう。

  • 御菓子司 中村軒<br />文化・歴史を満喫した後のデザート!!<br />京都市バス 桂離宮前バス停の近くにある、明治16(1883)年創業の老舗 和菓子屋さんです。初代 中村由松氏が現在地で饅頭屋を開いたのが始まりだそうで、丹波や丹後方面への往来客たちの間で『かつら饅頭』が評判になり、土産品としても人気が出たといいます。久邇宮家御用達『かつら饅頭』、代表銘菓『麦代餅(むぎてもち)』をはじめ、季節に合わせた様々な和菓子の製造・販売を行われています。<br />歴史を感じさせる町家風の店構えに惹き付けられ、今日も大勢のお客さんが訪れています。<br />

    御菓子司 中村軒
    文化・歴史を満喫した後のデザート!!
    京都市バス 桂離宮前バス停の近くにある、明治16(1883)年創業の老舗 和菓子屋さんです。初代 中村由松氏が現在地で饅頭屋を開いたのが始まりだそうで、丹波や丹後方面への往来客たちの間で『かつら饅頭』が評判になり、土産品としても人気が出たといいます。久邇宮家御用達『かつら饅頭』、代表銘菓『麦代餅(むぎてもち)』をはじめ、季節に合わせた様々な和菓子の製造・販売を行われています。
    歴史を感じさせる町家風の店構えに惹き付けられ、今日も大勢のお客さんが訪れています。

  • 御菓子司 中村軒<br />気軽に入って一服できる古い茶店の雰囲気を残し、お店の中で食することができます。<br />かき氷も美味で、夏の暑い時季には行列ができるほどの大盛況となります。<br />現在の建物は明治37年に建てられたもので、座敷はとても落ち着きます。<br />軒先に掲げられた「中村軒」の看板は、桂大橋改修の際の廃材を用いたリサイクル品なんだそうです。<br /><br />

    御菓子司 中村軒
    気軽に入って一服できる古い茶店の雰囲気を残し、お店の中で食することができます。
    かき氷も美味で、夏の暑い時季には行列ができるほどの大盛況となります。
    現在の建物は明治37年に建てられたもので、座敷はとても落ち着きます。
    軒先に掲げられた「中村軒」の看板は、桂大橋改修の際の廃材を用いたリサイクル品なんだそうです。

  • 御菓子司 中村軒<br />座敷の奥には目が覚めるような中庭があります。<br />右手奥にもお座敷があります。<br /><br />中村軒さんのHPです。<br />http://www.nakamuraken.co.jp/

    御菓子司 中村軒
    座敷の奥には目が覚めるような中庭があります。
    右手奥にもお座敷があります。

    中村軒さんのHPです。
    http://www.nakamuraken.co.jp/

  • 御菓子司 中村軒<br />名物菓子「麦代餅」(大290円)。上品な香りのきな粉、もちもちで弾力に富んだお餅、小豆本来の風味豊かな粒餡。シンプルながら各素材が見事に調和し、素朴でホッとするような懐かしい味わいです。<br />元々は、麦刈りや田植えの際、おやつとして好まれ、その代金をお金の代わりに麦で支払うこともあったため「麦代餅」という名前が付けられたそうです。かつての桂離宮周辺は農村が広がるのどかな地域で、中村軒さんでつくられた麦代餅が農家の人たちの間食として届けられていたそうです。<br />拘り抜いているのが、製法です。例えば、粒餡は北海道産の小豆を「おくどさん(かまど)」で炊き上げるのですが、その際、ガス釜を使わずにクヌギの割り木を燃やしながらじっくりと熱を伝えます。また、熱伝導率の高い銅製の釜を使って炊き上げるのだそうです。このように昔ながらの製法を守り続けているのが、深い味わいで甘過ぎない上品な甘さの粒餡の味を今に伝える秘伝なのでしょう。<br />水曜日は定休日となります。<br />

    御菓子司 中村軒
    名物菓子「麦代餅」(大290円)。上品な香りのきな粉、もちもちで弾力に富んだお餅、小豆本来の風味豊かな粒餡。シンプルながら各素材が見事に調和し、素朴でホッとするような懐かしい味わいです。
    元々は、麦刈りや田植えの際、おやつとして好まれ、その代金をお金の代わりに麦で支払うこともあったため「麦代餅」という名前が付けられたそうです。かつての桂離宮周辺は農村が広がるのどかな地域で、中村軒さんでつくられた麦代餅が農家の人たちの間食として届けられていたそうです。
    拘り抜いているのが、製法です。例えば、粒餡は北海道産の小豆を「おくどさん(かまど)」で炊き上げるのですが、その際、ガス釜を使わずにクヌギの割り木を燃やしながらじっくりと熱を伝えます。また、熱伝導率の高い銅製の釜を使って炊き上げるのだそうです。このように昔ながらの製法を守り続けているのが、深い味わいで甘過ぎない上品な甘さの粒餡の味を今に伝える秘伝なのでしょう。
    水曜日は定休日となります。

  • 御菓子司 中村軒<br />お土産に買い求めた抹茶風味の「わらび餅」です。<br />甘さ控え目で抹茶の風味が潤沢で、おいしくいただきました。<br />半分食べてしまってから気づいて写真を撮りました。失礼しました!<br /><br />偶然にも旅行記を書いている最中に桂宮さまの訃報がありました。ご冥福をお祈りいたします。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    御菓子司 中村軒
    お土産に買い求めた抹茶風味の「わらび餅」です。
    甘さ控え目で抹茶の風味が潤沢で、おいしくいただきました。
    半分食べてしまってから気づいて写真を撮りました。失礼しました!

    偶然にも旅行記を書いている最中に桂宮さまの訃報がありました。ご冥福をお祈りいたします。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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