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京都 桂川の畔に「日本の美の最高峰」と称される桂離宮が佇みます。400年前、八条宮智仁親王が源氏物語の世界に憧れて造営した別荘です。古の池泉回遊式庭園と伝統的建築物が調和し、西洋現代建築の祖 ブルーノ・タウトやヴァルター・グロピウスも、「簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園」と高く評価し、以来、その名声は世界に轟きました。<br />しかし、全体像よりも、むしろ建物や石などの細部や設計コンセプトに趣向を凝らしたトリッキーワールドというのが正直な感想です。そもそも全体像を見渡すことはできません。どのスポットも植木や塀に遮蔽され、入り組んだ池や建物の一部が望めるだけで、あらゆる視点から美的効果を計算しています。ですから少し歩くだけで次々とトリックのように別世界が展開され、サプライズの連続です。また、点在する燈籠や蹲踞、手水鉢等は全て名を持ち、パーソナリティーを誇示しています。それらの景観の完璧な美しさ、ディテールの遊び心や冗長性、そして密かに隠された漢詩や和歌の世界、源氏物語、茶道、四季の事柄などのイメージが広がる余白が桂離宮の魅力の本質ではないかと思います。こうして断片的に切り取られた日本的な美の凝縮やディテールを紡いでいったその先に、桂離宮の全体像がおぼろげに浮かんでくるのです。審美眼に長けた人なら一瞬で共鳴してしまうこと請け合いです。<br /><br />説明文の多くは、斎藤英俊 著『新装版 桂離宮 日本建築の美しさの秘密』(草思社刊)を引用あるいは参考にさせていただきました。<br />宮内庁 参観申込みのHPです。<br />http://sankan.kunaicho.go.jp/order/index.html<br />参観マップは次のサイトを参照してください。<br />http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/institution_katsura.html

松風水月 葛野紀行③桂離宮<前編>

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2014/05/30 - 2014/05/30

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

京都 桂川の畔に「日本の美の最高峰」と称される桂離宮が佇みます。400年前、八条宮智仁親王が源氏物語の世界に憧れて造営した別荘です。古の池泉回遊式庭園と伝統的建築物が調和し、西洋現代建築の祖 ブルーノ・タウトやヴァルター・グロピウスも、「簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園」と高く評価し、以来、その名声は世界に轟きました。
しかし、全体像よりも、むしろ建物や石などの細部や設計コンセプトに趣向を凝らしたトリッキーワールドというのが正直な感想です。そもそも全体像を見渡すことはできません。どのスポットも植木や塀に遮蔽され、入り組んだ池や建物の一部が望めるだけで、あらゆる視点から美的効果を計算しています。ですから少し歩くだけで次々とトリックのように別世界が展開され、サプライズの連続です。また、点在する燈籠や蹲踞、手水鉢等は全て名を持ち、パーソナリティーを誇示しています。それらの景観の完璧な美しさ、ディテールの遊び心や冗長性、そして密かに隠された漢詩や和歌の世界、源氏物語、茶道、四季の事柄などのイメージが広がる余白が桂離宮の魅力の本質ではないかと思います。こうして断片的に切り取られた日本的な美の凝縮やディテールを紡いでいったその先に、桂離宮の全体像がおぼろげに浮かんでくるのです。審美眼に長けた人なら一瞬で共鳴してしまうこと請け合いです。

説明文の多くは、斎藤英俊 著『新装版 桂離宮 日本建築の美しさの秘密』(草思社刊)を引用あるいは参考にさせていただきました。
宮内庁 参観申込みのHPです。
http://sankan.kunaicho.go.jp/order/index.html
参観マップは次のサイトを参照してください。
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/institution_katsura.html

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 阪急電鉄 「桂」駅<br />嵐山線「嵐山」駅から「桂」駅まで約8分です。駅は近代的な駅ビルになっています。<br />「桂」駅から桂離宮参観入口までは、ゆっくり歩いて徒歩20分程の距離です。この日は連日のうだるような暑さで、桂大橋付近にある温度表示は33℃を指していました。いきなり梅雨を飛び越えて真夏がやってきた感じですが、気象の世界では6月から「夏」となります。今年の5月末の「異例の猛暑」は、晴天続きの大陸の砂漠地帯などでできた高温域が西風によって黄砂と共に運ばれてきたのがきっかけだそうです。その後、偏西風が日本付近で蛇行し、空気の流れが澱んだ部分が高気圧となり、大気を更に暖めたことで暑さが増したようです。似たような現象は時折あるそうですが、1週間も続くのは珍しいそうです。<br />この夏は5年ぶりにエルニーニョ現象が発生するとみられ、入梅が遅くなるとの予測もありましたが、結局近畿では平年より3日早く6月4日に入梅し、その後エルニーニョ現象によって梅雨期が例年より長くなり、冷夏の可能性も示唆されています。お米の作凶や野菜の収穫等に影響しなければいいのですが…。<br /><br /><br />

    阪急電鉄 「桂」駅
    嵐山線「嵐山」駅から「桂」駅まで約8分です。駅は近代的な駅ビルになっています。
    「桂」駅から桂離宮参観入口までは、ゆっくり歩いて徒歩20分程の距離です。この日は連日のうだるような暑さで、桂大橋付近にある温度表示は33℃を指していました。いきなり梅雨を飛び越えて真夏がやってきた感じですが、気象の世界では6月から「夏」となります。今年の5月末の「異例の猛暑」は、晴天続きの大陸の砂漠地帯などでできた高温域が西風によって黄砂と共に運ばれてきたのがきっかけだそうです。その後、偏西風が日本付近で蛇行し、空気の流れが澱んだ部分が高気圧となり、大気を更に暖めたことで暑さが増したようです。似たような現象は時折あるそうですが、1週間も続くのは珍しいそうです。
    この夏は5年ぶりにエルニーニョ現象が発生するとみられ、入梅が遅くなるとの予測もありましたが、結局近畿では平年より3日早く6月4日に入梅し、その後エルニーニョ現象によって梅雨期が例年より長くなり、冷夏の可能性も示唆されています。お米の作凶や野菜の収穫等に影響しなければいいのですが…。


  • 桂離宮 桂垣<br />桂離宮の森は、「桂垣」と呼ばれる緑の生垣で包まれています。一見どこにでもある竹生垣に思えますが、芯になる建仁寺垣に自生する竹の穂を着せ込み、一定の高さで淡竹を折り曲げて斜めに編み下ろす手の込んだものです。元々は瓜畑の一般的な生垣でしたが、今では桂離宮だけに見られます。昔の記録には「川端の笹垣」とあります。桂垣は10年毎に造り直されるそうですが、若竹の剪定や維持管理も大変なことでしょう。<br />

    桂離宮 桂垣
    桂離宮の森は、「桂垣」と呼ばれる緑の生垣で包まれています。一見どこにでもある竹生垣に思えますが、芯になる建仁寺垣に自生する竹の穂を着せ込み、一定の高さで淡竹を折り曲げて斜めに編み下ろす手の込んだものです。元々は瓜畑の一般的な生垣でしたが、今では桂離宮だけに見られます。昔の記録には「川端の笹垣」とあります。桂垣は10年毎に造り直されるそうですが、若竹の剪定や維持管理も大変なことでしょう。

  • 桂離宮 桂垣<br />府道142号線と123号線沿いは、ず〜っとこの桂垣が続いて古の趣を醸しています。桂川沿いには歩道がなく、行きかう車の量も多いので写真を撮る時は要注意です。<br /><br />桂離宮は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代初期に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなり、面積は7万平方m。庭園部分は5万8千平方m。離宮とは皇居とは別に設けられた宮殿の意ですが、「桂離宮」と称するのは1883年以降のことでした。それ以前は「桂別業」などと呼ばれていました。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を今に遺し、雅な王朝文化の粋を今に伝えています。ここの池泉回遊式庭園は、日本庭園の最高傑作とされています。また、建築物のうち書院は、書院造を基調に数寄屋風を採り入れた趣の深い造りです。<br />

    桂離宮 桂垣
    府道142号線と123号線沿いは、ず〜っとこの桂垣が続いて古の趣を醸しています。桂川沿いには歩道がなく、行きかう車の量も多いので写真を撮る時は要注意です。

    桂離宮は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代初期に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなり、面積は7万平方m。庭園部分は5万8千平方m。離宮とは皇居とは別に設けられた宮殿の意ですが、「桂離宮」と称するのは1883年以降のことでした。それ以前は「桂別業」などと呼ばれていました。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を今に遺し、雅な王朝文化の粋を今に伝えています。ここの池泉回遊式庭園は、日本庭園の最高傑作とされています。また、建築物のうち書院は、書院造を基調に数寄屋風を採り入れた趣の深い造りです。

  • 桂離宮 桂垣<br />竹穂垣の上部を観ていただくと、淡竹を折り曲げて斜めに編み下ろす様子が少しだけ窺えます。<br /><br />桂離宮の地は、古来より貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘「桂殿」があったと伝わります。また、『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂の院」もこの地にあったとの想定です。物語に登場する冷泉帝は「月のすむ 川のをちなる 里なれば 桂の影は のどけかるらむ」と詠み、この地は風流な観月の名所でした。<br />桂の地名も中国の「月桂」の故事が由来であり、桂離宮には観月のための舞台装置という意味合いもあるそうです。それと共に、池での舟遊び、庭に点在する茶亭を用いての茶会、酒宴など、様々な遊興や行事の場としての機能を持ち、単なる鑑賞のための庭園とは性質を異にします。<br />

    桂離宮 桂垣
    竹穂垣の上部を観ていただくと、淡竹を折り曲げて斜めに編み下ろす様子が少しだけ窺えます。

    桂離宮の地は、古来より貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘「桂殿」があったと伝わります。また、『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂の院」もこの地にあったとの想定です。物語に登場する冷泉帝は「月のすむ 川のをちなる 里なれば 桂の影は のどけかるらむ」と詠み、この地は風流な観月の名所でした。
    桂の地名も中国の「月桂」の故事が由来であり、桂離宮には観月のための舞台装置という意味合いもあるそうです。それと共に、池での舟遊び、庭に点在する茶亭を用いての茶会、酒宴など、様々な遊興や行事の場としての機能を持ち、単なる鑑賞のための庭園とは性質を異にします。

  • 桂離宮 竹穂垣<br />桂垣が北に尽きると「竹穂垣」に一転し、表門及び通用門のある北側の境界を守っています。離宮の風情を醸していますが、一定間隔に掘り立てた半割りにした大竹の間に淡竹の小枝を水平に積み上げ、棕櫚縄で等間隔に化粧結びされています。先端は、お正月の門松風に竹の先端を斜めにカットした「そぎ」のように尖っています。この垣は明治時代以降に囲われたもので、それ以前は簡素な垣根だったそうです。<br />因みに、門松の竹の先が尖っているのは、松平と武田の戦いに由来します。武田側の詠んだ句「松枯れて 竹たぐいなき 元旦かな」を、松平側は「松は枯れず、武田の首がない元旦」と解釈し、気勢を上げ危機を脱しました。この縁起から門松の竹を斜めに切って武田の首を切ったと考え、以来、斜めに切るのを正式としたのが始まりです。<br />

    桂離宮 竹穂垣
    桂垣が北に尽きると「竹穂垣」に一転し、表門及び通用門のある北側の境界を守っています。離宮の風情を醸していますが、一定間隔に掘り立てた半割りにした大竹の間に淡竹の小枝を水平に積み上げ、棕櫚縄で等間隔に化粧結びされています。先端は、お正月の門松風に竹の先端を斜めにカットした「そぎ」のように尖っています。この垣は明治時代以降に囲われたもので、それ以前は簡素な垣根だったそうです。
    因みに、門松の竹の先が尖っているのは、松平と武田の戦いに由来します。武田側の詠んだ句「松枯れて 竹たぐいなき 元旦かな」を、松平側は「松は枯れず、武田の首がない元旦」と解釈し、気勢を上げ危機を脱しました。この縁起から門松の竹を斜めに切って武田の首を切ったと考え、以来、斜めに切るのを正式としたのが始まりです。

  • 桂離宮 表門(御成門)<br />境界の北辺、北に突き出した部分のほぼ中央に表門が佇みます。太い檜丸太を門柱にし、磨き竹を縦に隙間なく並べた簡素な木賊張り門です。この門は藤原道長の別荘「桂殿」の正門を模し、後水尾上皇の御幸に備えて造られました。上皇を源氏物語の帝になぞらえて桂離宮に招こうとしたのですが、桂離宮を訪れたのは2回きりだそうです。それも、智仁・智忠親王の時代には叶いませんでした。<br />表門は、普段は閉じられ、皇族方や国賓級の方々の来訪の時のみ開かれます。<br />

    桂離宮 表門(御成門)
    境界の北辺、北に突き出した部分のほぼ中央に表門が佇みます。太い檜丸太を門柱にし、磨き竹を縦に隙間なく並べた簡素な木賊張り門です。この門は藤原道長の別荘「桂殿」の正門を模し、後水尾上皇の御幸に備えて造られました。上皇を源氏物語の帝になぞらえて桂離宮に招こうとしたのですが、桂離宮を訪れたのは2回きりだそうです。それも、智仁・智忠親王の時代には叶いませんでした。
    表門は、普段は閉じられ、皇族方や国賓級の方々の来訪の時のみ開かれます。

  • 桂離宮 土橋<br />黒御門で参観許可証を示し、受付で身分証明書を提示し、参観時間まで待合室で待機します。宮内庁の管轄だけあり、警戒態勢は厳重です。<br />参観時間の10分前に桂離宮を紹介するビデオが流され、見所が説明されます。ビデオが終わると宮内庁の案内係りの方が簡単な注意事項を伝えて出発となります。<br />今回の参観者は約30名、その内海外からの観光客が4名でした。<br />参観コースを約1時間かけて巡ります。歩く距離は1km程ですが、飛石やアップダウンがあるので歩きやすい靴をお勧めします。桂離宮は海外の評価も高く、古くはドイツ人建築家ブルーノ・タウトが絶賛したことで有名です。また、モナコ公妃グレース・ケリーも感銘を受けられたひとりです。<br /><br />出発してすぐに両脇に杉苔を生やした土橋を渡ります。<br />橋がアーチ状に反っているのは、各茶亭へ往来する舟を通すためだそうです。月を追いかけて一晩中あちこち周遊して楽しんだのでしょうね。<br />言い忘れましたが、最後尾には少し強面の皇宮警察の方が監視のために加わります。苔を踏んだり、列から遅れたりすると注意されることになります。<br />

    桂離宮 土橋
    黒御門で参観許可証を示し、受付で身分証明書を提示し、参観時間まで待合室で待機します。宮内庁の管轄だけあり、警戒態勢は厳重です。
    参観時間の10分前に桂離宮を紹介するビデオが流され、見所が説明されます。ビデオが終わると宮内庁の案内係りの方が簡単な注意事項を伝えて出発となります。
    今回の参観者は約30名、その内海外からの観光客が4名でした。
    参観コースを約1時間かけて巡ります。歩く距離は1km程ですが、飛石やアップダウンがあるので歩きやすい靴をお勧めします。桂離宮は海外の評価も高く、古くはドイツ人建築家ブルーノ・タウトが絶賛したことで有名です。また、モナコ公妃グレース・ケリーも感銘を受けられたひとりです。

    出発してすぐに両脇に杉苔を生やした土橋を渡ります。
    橋がアーチ状に反っているのは、各茶亭へ往来する舟を通すためだそうです。 月を追いかけて一晩中あちこち周遊して楽しんだのでしょうね。
    言い忘れましたが、最後尾には少し強面の皇宮警察の方が監視のために加わります。苔を踏んだり、列から遅れたりすると注意されることになります。

  • 桂離宮 舟宿(ふなやどり)<br />土橋の手前からこうした雰囲気のある舟宿が一瞬だけ望めます。<br />土橋を渡り終えてしまうと舟の姿は拝めません。シャッターチャンスは限られていますので留意してください。<br /><br />桂離宮は1615年頃に八条宮家初代の智仁親王によって造営が始まりました。智仁親王は、正親町天皇の皇孫で後陽成天皇の弟に当たり、一時は豊臣秀吉の猶子になり天下人を夢見たのですが、側室 淀に鶴丸(秀頼)が生まれたため、養子契約を解消され、その際に秀吉から受けた3000石を元手に八条宮家を創立しました。<br />その後、約50年を経て2代目智忠親王の代にほぼ完成したのが今の桂離宮の姿です。敷地内には、古書院、中書院、新御殿を主体に、池の周りに茶亭を配し、庭と建築の構成、融合が見事です。離宮建築最高の技法と日本庭園美の集大成と言われています。<br />

    桂離宮 舟宿(ふなやどり)
    土橋の手前からこうした雰囲気のある舟宿が一瞬だけ望めます。
    土橋を渡り終えてしまうと舟の姿は拝めません。シャッターチャンスは限られていますので留意してください。

    桂離宮は1615年頃に八条宮家初代の智仁親王によって造営が始まりました。智仁親王は、正親町天皇の皇孫で後陽成天皇の弟に当たり、一時は豊臣秀吉の猶子になり天下人を夢見たのですが、側室 淀に鶴丸(秀頼)が生まれたため、養子契約を解消され、その際に秀吉から受けた3000石を元手に八条宮家を創立しました。
    その後、約50年を経て2代目智忠親王の代にほぼ完成したのが今の桂離宮の姿です。敷地内には、古書院、中書院、新御殿を主体に、池の周りに茶亭を配し、庭と建築の構成、融合が見事です。離宮建築最高の技法と日本庭園美の集大成と言われています。

  • 桂離宮 御幸門<br />智忠親王は後水尾上皇のために「竹御門」を建造しましたが、その後失われ、7代目 家仁親王の時代に現在の姿に再建されました。<br />御幸門の右前方に四角い切石があります。ここに輿を止め、客は輿から降りて歩いて御幸門を潜ったそうです。<br /><br />後水尾上皇といえば、智仁親王と天皇の座を争った人物。結局、家康の肩入れもあり、後水尾天皇が誕生したのですが、そのような親の敵と思しき人物を親子2代で築き上げた夢の宮殿へ招こうと言う行為は、謎に満ちています。<br />智仁親王は、幼少時に秀吉の猶子となるが解消され、後の兄 後陽成天皇からの譲位の申し出も家康の反対で潰えました。ならば「王朝文化の再興」と桂離宮の普請に後半生を捧げ、遺志を継いだ智忠親王が現在の形に整えました。その目的は、宮廷文化を代表する後水尾上皇を招くためだというのですが、謎を解くキーワードは、「幕府」にあります。往時、上皇は徳川幕府に対抗する公家たちの象徴だったということです。つまり、幕府への対抗意識でここまでのものを造ったというのですからそのエネルギーに吃驚です。怨霊よりも生霊の方が恐ろしいと言われる所以が判ります。

    桂離宮 御幸門
    智忠親王は後水尾上皇のために「竹御門」を建造しましたが、その後失われ、7代目 家仁親王の時代に現在の姿に再建されました。
    御幸門の右前方に四角い切石があります。ここに輿を止め、客は輿から降りて歩いて御幸門を潜ったそうです。

    後水尾上皇といえば、智仁親王と天皇の座を争った人物。結局、家康の肩入れもあり、後水尾天皇が誕生したのですが、そのような親の敵と思しき人物を親子2代で築き上げた夢の宮殿へ招こうと言う行為は、謎に満ちています。
    智仁親王は、幼少時に秀吉の猶子となるが解消され、後の兄 後陽成天皇からの譲位の申し出も家康の反対で潰えました。ならば「王朝文化の再興」と桂離宮の普請に後半生を捧げ、 遺志を継いだ智忠親王が現在の形に整えました。その目的は、宮廷文化を代表する後水尾上皇を招くためだというのですが、謎を解くキーワードは、「幕府」にあります。往時、上皇は徳川幕府に対抗する公家たちの象徴だったということです。つまり、幕府への対抗意識でここまでのものを造ったというのですからそのエネルギーに吃驚です。怨霊よりも生霊の方が恐ろしいと言われる所以が判ります。

  • 桂離宮 御幸門<br />茅葺切妻造りで、皮付き丸太の柱はアベマキ。ブナ科の木で、樹皮はコルク層が厚く、ワインの栓に使われたとも言われます。また、控え柱はなぐり仕上げ(手斧の刃痕を残した仕上)の栗、桁にはクヌギの皮付き丸太、垂木には真竹が使われ、女竹の木舞の上に葦簀の野地を置いて茅を葺いています。扉は、割竹の目透と質素な造りです。この門は茶室などの素材の活かし方の典型であり、庭園内に点在する茶亭や門などの多くが同じ構造です。<br />角柱にせず、丸太で皮付きにし、くだけたカジュアルな感じを醸しています。これも、受け入れる側の気配りと言えるでしょう。<br />

    桂離宮 御幸門
    茅葺切妻造りで、皮付き丸太の柱はアベマキ。ブナ科の木で、樹皮はコルク層が厚く、ワインの栓に使われたとも言われます。また、控え柱はなぐり仕上げ(手斧の刃痕を残した仕上)の栗、桁にはクヌギの皮付き丸太、垂木には真竹が使われ、女竹の木舞の上に葦簀の野地を置いて茅を葺いています。扉は、割竹の目透と質素な造りです。 この門は茶室などの素材の活かし方の典型であり、庭園内に点在する茶亭や門などの多くが同じ構造です。
    角柱にせず、丸太で皮付きにし、くだけたカジュアルな感じを醸しています。 これも、受け入れる側の気配りと言えるでしょう。

  • 桂離宮 御幸門<br />ヨーロッパでルネッサンス期に確立されたと言う遠近法を駆使し、道幅を先細りにして目の錯覚を利用し、距離感を強調しています。上皇を迎え入れる時はこの反対側から見るので、間近に感じられ親近感を醸す仕掛けです。帰路では後ろ髪を引くような思いを抱かせます。西洋の技法を真似たものであっても、使い方は極めて日本的で、日本の伝統である細やかな「おもてなし」精神が宿っています。和魂洋才の典型と言えます。現代のエンジニアもこの精神を見習うべきと思います。

    桂離宮 御幸門
    ヨーロッパでルネッサンス期に確立されたと言う遠近法を駆使し、道幅を先細りにして目の錯覚を利用し、距離感を強調しています。上皇を迎え入れる時はこの反対側から見るので、間近に感じられ親近感を醸す仕掛けです。帰路では後ろ髪を引くような思いを抱かせます。西洋の技法を真似たものであっても、使い方は極めて日本的で、日本の伝統である細やかな「おもてなし」精神が宿っています。和魂洋才の典型と言えます。 現代のエンジニアもこの精神を見習うべきと思います。

  • 桂離宮 御幸道<br />御幸門の先には御幸道と呼ばれる小径が真直ぐ南西に伸びています。前方にむくりのついた先ほど渡った土橋が見えます。<br />両側を生垣に覆われた軸線上に、意図的に土橋が少し斜めにひねって架けられているのが判りますか?その僅かな軸線のずれが、遠近感を強調して距離を長く見せ、空間を広く、また格式を高める効果をだしています。<br /><br />1933年、第二次世界大戦勃発の6年前、ドイツの建築家ブルーノ・タウトはナチス暗殺者から逃れるため、愛人エリカと共に家族を捨てて日本へ亡命を遂げました。その翌日、失意と過労の真っただ中にも係らず、彼は生きる糧を求めて桂川の畔に佇む桂離宮を訪ねました。亡命の感慨と共にその日が彼の誕生日であった偶然も奏功し、運命的な出会いを果たします。「泣きたくなるほど美しい」。これが有名な桂離宮の「美の発見」劇の第一声です。その1年後の再訪問でも「涙はおのずから眼に溢れる」と記しているから、タウトは2度も涙を流さんばかりに桂離宮を絶賛しました。訪問の印象を「日本は眼に美しい国である」と締め括ったことが、桂離宮を「日本の美のシンボル」と言わしめる神話の発端となりました。タウトは、桂離宮との衝撃的な出会いを上梓し、日本の知識人に広く読まれ、神話が心に刷り込まれていきました。またその簡素美が「欲しがりません勝つまでは」といった日本人を美化する国粋主義と共鳴して民衆にも広く浸透していったのです。第二次世界大戦で亡くなった日本軍人のリュックの中には、必ずといってよいほどタウトの著書がまるでバイブルと言いたげに誇らしげに入っていたそうです。そうした国粋主義に翻弄された悲惨な歴史を持つとしても、桂離宮に日本の美の本質があることは否めません。<br />

    桂離宮 御幸道
    御幸門の先には御幸道と呼ばれる小径が真直ぐ南西に伸びています。前方にむくりのついた先ほど渡った土橋が見えます。
    両側を生垣に覆われた軸線上に、意図的に土橋が少し斜めにひねって架けられているのが判りますか?その僅かな軸線のずれが、遠近感を強調して距離を長く見せ、空間を広く、また格式を高める効果をだしています。

    1933年、第二次世界大戦勃発の6年前、ドイツの建築家ブルーノ・タウトはナチス暗殺者から逃れるため、愛人エリカと共に家族を捨てて日本へ亡命を遂げました。その翌日、失意と過労の真っただ中にも係らず、彼は生きる糧を求めて桂川の畔に佇む桂離宮を訪ねました。亡命の感慨と共にその日が彼の誕生日であった偶然も奏功し、運命的な出会いを果たします。 「泣きたくなるほど美しい」。これが有名な桂離宮の「美の発見」劇の第一声です。その1年後の再訪問でも「涙はおのずから眼に溢れる」と記しているから、タウトは2度も涙を流さんばかりに桂離宮を絶賛しました。訪問の印象を「日本は眼に美しい国である」と締め括ったことが、桂離宮を「日本の美のシンボル」と言わしめる神話の発端となりました。 タウトは、桂離宮との衝撃的な出会いを上梓し、日本の知識人に広く読まれ、神話が心に刷り込まれていきました。またその簡素美が「欲しがりません勝つまでは」といった日本人を美化する国粋主義と共鳴して民衆にも広く浸透していったのです。第二次世界大戦で亡くなった日本軍人のリュックの中には、必ずといってよいほどタウトの著書がまるでバイブルと言いたげに誇らしげに入っていたそうです。そうした国粋主義に翻弄された悲惨な歴史を持つとしても、桂離宮に日本の美の本質があることは否めません。

  • 桂離宮 御幸道 霰こぼし<br />御幸道の見所は、青みを帯びた小さな黒石を敷き詰めた「霰こぼし」の技法。形の異なる桂川の小石が隙間なくぎっしりと敷かれ、モザイク画を彷彿とさせます。月夜に見ると、天の川のように小石がキラキラ煌めき、ロマンチックだそうです。小石の高さは均一に保たれ、足裏に凹凸を感じさせない気配りがなされています。また、道の中央部を僅かに盛り上げ、水はけを良くしています。昭和の大修理でリニューアルされたそうですが、この調和感を出すには大変な苦労があったそうです。それぞれの石の位置を記録し、石の裏には番号を記して以前の姿を復元したそうです。元通りの位置に正しく配置することを延々と繰り返す、気の遠くなるような作業だったそうです。それほどまでに徹底されたものだからこその美観。美しいと同時に、滑らかなつくりで、歩いていても疲れないのが凄い。<br />

    桂離宮 御幸道 霰こぼし
    御幸道の見所は、青みを帯びた小さな黒石を敷き詰めた「霰こぼし」の技法。形の異なる桂川の小石が隙間なくぎっしりと敷かれ、モザイク画を彷彿とさせます。月夜に見ると、天の川のように小石がキラキラ煌めき、ロマンチックだそうです。小石の高さは均一に保たれ、足裏に凹凸を感じさせない気配りがなされています。また、道の中央部を僅かに盛り上げ、水はけを良くしています。昭和の大修理でリニューアルされたそうですが、この調和感を出すには大変な苦労があったそうです。それぞれの石の位置を記録し、石の裏には番号を記して以前の姿を復元したそうです。元通りの位置に正しく配置することを延々と繰り返す、気の遠くなるような作業だったそうです。それほどまでに徹底されたものだからこその美観。美しいと同時に、滑らかなつくりで、歩いていても疲れないのが凄い。

  • 桂離宮 露地門跡<br />御幸通から脇道を左に折れて紅葉の馬場に入り、露地門跡の所を更に左折して飛石の配された苑路へと歩を進めます。歩きにくい飛石のためどうしても下向きになります。ですから、いきなり完成された庭園が視界に飛び込んできて思わず驚愕します。飛石も作者の仕掛けなのでしょう。<br /><br />移動中の説明は一切ありません。それは、景色などに気を取られて飛石などから足を踏み外して苔を傷めないようにとの配慮に基づきます。また、縦列で進みますので声が通らないということもあります。観光慣れしていると「イヤホンを使えば?」なんて思ってしまうのですが、それはご法度なのだそうです。<br /><br />庭園には沢山の飛石や庭石が置かれ、赤や青色、変わった形のものが各地から1800個も集められています。中でも六甲山の住吉川で採れる花崗岩は本御影と呼ばれ、このようにほんのり淡いピンクの石は智忠親王のお気に入りだったそうです。有馬温泉へ湯治に行った時の日記には、自ら河原で飛び石を見立てたと記されています。

    桂離宮 露地門跡
    御幸通から脇道を左に折れて紅葉の馬場に入り、露地門跡の所を更に左折して飛石の配された苑路へと歩を進めます。歩きにくい飛石のためどうしても下向きになります。ですから、いきなり完成された庭園が視界に飛び込んできて思わず驚愕します。飛石も作者の仕掛けなのでしょう。

    移動中の説明は一切ありません。それは、景色などに気を取られて飛石などから足を踏み外して苔を傷めないようにとの配慮に基づきます。また、縦列で進みますので声が通らないということもあります。観光慣れしていると「イヤホンを使えば?」なんて思ってしまうのですが、それはご法度なのだそうです。

    庭園には沢山の飛石や庭石が置かれ、赤や青色、変わった形のものが各地から1800個も集められています。中でも六甲山の住吉川で採れる花崗岩は本御影と呼ばれ、このようにほんのり淡いピンクの石は智忠親王のお気に入りだったそうです。有馬温泉へ湯治に行った時の日記には、自ら河原で飛び石を見立てたと記されています。

  • 桂離宮 外腰掛<br />苑路の起点からほどなく、松琴亭の待合所となる外腰掛が佇みます。正面三間の茅葺寄棟造りの華奢な造りで、内側に二間幅の腰掛を配し、左端には一度も使われたことのない「飾雪隠(トイレ)」を備えています。実際は身繕いをする化粧室だったそうです。<br /><br />ブルーノ・タウトは『ニッポン タウトの日記』(篠田英雄訳)の中でこう吐露しています。「…今日までの憧憬は余すところなく充たされた。…泣きたくなるほど美しい印象だ。…背後に無限の精神を蔵しているこの関係の豊かさに最初は息づまるばかりの感じであった。…なんという高雅な釣り合いであろう。…すべてのものは絶えず変化しながらしかも落ち着きを失わず、また控えめである。…眼を悦ばす美しさ、眼は精神的なものへの変圧器だ。日本は眼に美しい国である」。<br />

    桂離宮 外腰掛
    苑路の起点からほどなく、松琴亭の待合所となる外腰掛が佇みます。正面三間の茅葺寄棟造りの華奢な造りで、内側に二間幅の腰掛を配し、左端には一度も使われたことのない「飾雪隠(トイレ)」を備えています。実際は身繕いをする化粧室だったそうです。

    ブルーノ・タウトは『ニッポン タウトの日記』(篠田英雄訳)の中でこう吐露しています。 「…今日までの憧憬は余すところなく充たされた。…泣きたくなるほど美しい印象だ。 …背後に無限の精神を蔵しているこの関係の豊かさに最初は息づまるばかりの感じであった。…なんという高雅な釣り合いであろう。…すべてのものは絶えず変化しながらしかも落ち着きを失わず、また控えめである。…眼を悦ばす美しさ、眼は精神的なものへの変圧器だ。日本は眼に美しい国である」。

  • 桂離宮 外腰掛<br />曲木の梁と束で吹き放ちの化粧屋根を支え、素朴な自然の味わいを添えています。<br /><br />気温が急に高くなって体がついてこないこともあり、皆さん外腰掛に腰掛けてぐったりされてなかなか動きません。おかげで、満足するような写真を撮ることがかないません。この先どうなることやら、気を揉むところです。 

    桂離宮 外腰掛
    曲木の梁と束で吹き放ちの化粧屋根を支え、素朴な自然の味わいを添えています。

    気温が急に高くなって体がついてこないこともあり、皆さん外腰掛に腰掛けてぐったりされてなかなか動きません。おかげで、満足するような写真を撮ることがかないません。この先どうなることやら、気を揉むところです。 

  • 桂離宮 外腰掛 蘇鉄山<br />腰掛けからの眺めを主眼に造られ、小高い衝立状に盛り上げた築山の斜面に10数本の蘇鉄が群をなしています。これらの蘇鉄は薩摩藩 島津家からの進上と伝わります。公武和合の証でもあったのでしょう。<br />ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「本来の美しい環境に相応しからぬ後世の作為」と酷評したのですが、現代人の眼で純粋に景観として見ると違和感は覚えません。往時は、異質なものを設えてアクセントを付ける造園手法が流行だったそうです。また、往時、蘇鉄は超貴重品だったはずです。<br />桃山時代以降、庭園には子孫繁栄に縁起を担ぐ蘇鉄が重宝されました。八条宮家の繁栄を願って植栽されたのでしょうが、後に相次いで当主が病死し、第11代淑子内親王を最後に宮家が断絶に至り、儚い歴史が残されたのは皮肉でしかありません。<br />

    桂離宮 外腰掛 蘇鉄山
    腰掛けからの眺めを主眼に造られ、小高い衝立状に盛り上げた築山の斜面に10数本の蘇鉄が群をなしています。これらの蘇鉄は薩摩藩 島津家からの進上と伝わります。公武和合の証でもあったのでしょう。
    ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「本来の美しい環境に相応しからぬ後世の作為」と酷評したのですが、現代人の眼で純粋に景観として見ると違和感は覚えません。往時は、異質なものを設えてアクセントを付ける造園手法が流行だったそうです。また、往時、蘇鉄は超貴重品だったはずです。
    桃山時代以降、庭園には子孫繁栄に縁起を担ぐ蘇鉄が重宝されました。八条宮家の繁栄を願って植栽されたのでしょうが、後に相次いで当主が病死し、第11代淑子内親王を最後に宮家が断絶に至り、儚い歴史が残されたのは皮肉でしかありません。

  • 桂離宮 外腰掛 延段<br />外腰掛の前には、南北方向に長さ16.4m、幅90cm程の延段があります。<br />人工の切石や大小様々な天然石を敷き詰めた道で、「行の飛石」と呼びます。書道に「楷書・行書・草書」があるように延段にも崩し方のレベルがあり、「真・行・草」と使い分けます。千利休が大成させた様式が「草」で、自然な造形を尊ぶものだそうです。このように長尺の切石を埋め込んだ「行の飛石」は、小堀遠州流とされています。<br />因みに、この延段にも遠近法が駆使され、両端の幅が4cm違えてあります。<br /><br />何故、ルネッサンス期にヨーロッパで確立された技法が駆使されているのでしょうか?<br />初代智仁親王は10歳の時、秀吉の猶子となったのですが、翌年秀吉に世継ぎが生まれたために縁組を解消され、代りに八条宮家が創設されました。ひょつとしたら天下人になっていたかもしれなかったのです。<br />そして秀吉の死後、今度は天皇になれるチャンスが到来します。後陽成天皇は、弟の智仁親王に位を譲ろうとします。しかし、秀吉との縁組解消の経緯などもあり、複雑な背景を嫌って家康がこれに反対し、天皇の座を逸します。若くして政治に翻弄され、即位できなかった智仁親王が学問や芸術の道に精進したのは必然だったのかも知れませんが、これだけでは説明ができません。<br />実は、智仁親王妃の父はキリシタン大名 京極高知であり、子息の智忠親王妃の前田家は熱心なキリシタン保護者でした。そして細川幽斎の義理の娘は、かのガラシャ夫人。また、17世紀のヨーロッパでは、遠近法や眺望を重視した庭園造りが流行っていました。こうした経緯から、黄金比や遠近法などのルネッサンス期の技法が随所に取り入れられたのではないかと推測されています。

    桂離宮 外腰掛 延段
    外腰掛の前には、南北方向に長さ16.4m、幅90cm程の延段があります。
    人工の切石や大小様々な天然石を敷き詰めた道で、「行の飛石」と呼びます。書道に「楷書・行書・草書」があるように延段にも崩し方のレベルがあり、「真・行・草」と使い分けます。千利休が大成させた様式が「草」で、自然な造形を尊ぶものだそうです。このように長尺の切石を埋め込んだ「行の飛石」は、小堀遠州流とされています。
    因みに、この延段にも遠近法が駆使され、両端の幅が4cm違えてあります。

    何故、ルネッサンス期にヨーロッパで確立された技法が駆使されているのでしょうか?
    初代智仁親王は10歳の時、秀吉の猶子となったのですが、翌年秀吉に世継ぎが生まれたために縁組を解消され、代りに八条宮家が創設されました。ひょつとしたら天下人になっていたかもしれなかったのです。
    そして秀吉の死後、今度は天皇になれるチャンスが到来します。後陽成天皇は、弟の智仁親王に位を譲ろうとします。しかし、秀吉との縁組解消の経緯などもあり、複雑な背景を嫌って家康がこれに反対し、天皇の座を逸します。 若くして政治に翻弄され、即位できなかった智仁親王が学問や芸術の道に精進したのは必然だったのかも知れませんが、これだけでは説明ができません。
    実は、智仁親王妃の父はキリシタン大名 京極高知であり、子息の智忠親王妃の前田家は熱心なキリシタン保護者でした。そして細川幽斎の義理の娘は、かのガラシャ夫人。また、17世紀のヨーロッパでは、遠近法や眺望を重視した庭園造りが流行っていました。こうした経緯から、黄金比や遠近法などのルネッサンス期の技法が随所に取り入れられたのではないかと推測されています。

  • 桂離宮 外腰掛 延段<br />「草」の部分です。カラフルな色使いがなされているのが分かりますか?<br /><br />作庭に当たっては、近年では小堀遠州は直接関与していないとする説が有力です。しかし、庭園、建築共に遠州好みの技法が随所に認められることから、桂離宮は遠州の影響を受けた義弟である中沼左京や門下の玉淵坊等が造ったと考えると遠州のDNAが色濃く遺されていることが腑に落ちます。造園師らの匠の技と智仁および智忠親王の趣向が高い次元で一致して結実した成果と賞賛されます。<br />

    桂離宮 外腰掛 延段
    「草」の部分です。カラフルな色使いがなされているのが分かりますか?

    作庭に当たっては、近年では小堀遠州は直接関与していないとする説が有力です。しかし、庭園、建築共に遠州好みの技法が随所に認められることから、桂離宮は遠州の影響を受けた義弟である中沼左京や門下の玉淵坊等が造ったと考えると遠州のDNAが色濃く遺されていることが腑に落ちます。造園師らの匠の技と智仁および智忠親王の趣向が高い次元で一致して結実した成果と賞賛されます。

  • 桂離宮 外腰掛<br />延段の起点と終点を示すアイ・ストップには、北端に大小2つの枡を組合わせた形の二重枡形手水鉢「涼泓」と「生込燈篭」、その手前に天然の踏石「勾玉石」を配しています。<br />南端にも同様に「石燈篭」を据えて趣を演出しています。<br /><br />タウトは日本到着の翌日に桂離宮に案内されます。「泣きたくなるほど美しい」と評した誕生日のことです。建築家たちは恣意的に「モダニズム」の文脈でタウトに桂離宮を評価させようと策略したのです。つまり、「桂離宮の再発見」というのは、モダニストが彼の名声を利用し、広告塔として自分達の主張を広めようと神話を創り出したものだったのです。しかし、実際にはタウトはモダニズム一辺倒の鑑賞をしたのではなく、造形美(目を悦ばす美しさ)に賛嘆しました。つまり、モダニズムを超えるものとして、表現のゆとりと色彩の豊かさを賞賛したのです。一般にモダニズムでは簡素美(実用性・機能性)が尊ばれ、視覚美は二の次ですが、「表現主義」のタウトは、「モダニスト」に同調したものの、それ以上に「表現主義」者として評価したのです。にもかかわらず、彼の評価はモダニストたちによって改竄されました。タウトはモダニストだと捏造され、それに引きずられて海外のモダニストが桂離宮を評価したとの誤解が蔓延したのです。さて、桂離宮は、モダニズム以前は技巧美と評価され、モダニズム以降は簡素美を褒めるべきとされました。簡素美以外の賞賛は全て否定され、例えば新御殿の「桂棚」は巧緻すぎると酷評されたのでした。元々、桂離宮は視覚上の工夫が随所に施された建築であるにも拘わらず、モダニズムはそれを無理やり「簡素美」に押し込めてしまったのです。やがて1960年代にモダニズム批判の声が高まると共に、次第に桂離宮の評価も変わってきました。昭和の大修理を経て、改めてモダニズム以前の桂離宮像を「技巧的な建築」とするイメージが蘇ったのです。<br />先入観を持たずに、自分の感性で観ることの大切さを教えられたような気がします。<br /><br />

    桂離宮 外腰掛
    延段の起点と終点を示すアイ・ストップには、北端に大小2つの枡を組合わせた形の二重枡形手水鉢「涼泓」と「生込燈篭」、その手前に天然の踏石「勾玉石」を配しています。
    南端にも同様に「石燈篭」を据えて趣を演出しています。

    タウトは日本到着の翌日に桂離宮に案内されます。「泣きたくなるほど美しい」と評した誕生日のことです。建築家たちは恣意的に「モダニズム」の文脈でタウトに桂離宮を評価させようと策略したのです。つまり、「桂離宮の再発見」というのは、モダニストが彼の名声を利用し、広告塔として自分達の主張を広めようと神話を創り出したものだったのです。 しかし、実際にはタウトはモダニズム一辺倒の鑑賞をしたのではなく、造形美(目を悦ばす美しさ)に賛嘆しました。つまり、モダニズムを超えるものとして、表現のゆとりと色彩の豊かさを賞賛したのです。一般にモダニズムでは簡素美(実用性・機能性)が尊ばれ、視覚美は二の次ですが、「表現主義」のタウトは、「モダニスト」に同調したものの、それ以上に「表現主義」者として評価したのです。にもかかわらず、彼の評価はモダニストたちによって改竄されました。タウトはモダニストだと捏造され、それに引きずられて海外のモダニストが桂離宮を評価したとの誤解が蔓延したのです。 さて、桂離宮は、モダニズム以前は技巧美と評価され、モダニズム以降は簡素美を褒めるべきとされました。簡素美以外の賞賛は全て否定され、例えば新御殿の「桂棚」は巧緻すぎると酷評されたのでした。元々、桂離宮は視覚上の工夫が随所に施された建築であるにも拘わらず、モダニズムはそれを無理やり「簡素美」に押し込めてしまったのです。やがて1960年代にモダニズム批判の声が高まると共に、次第に桂離宮の評価も変わってきました。昭和の大修理を経て、改めてモダニズム以前の桂離宮像を「技巧的な建築」とするイメージが蘇ったのです。
    先入観を持たずに、自分の感性で観ることの大切さを教えられたような気がします。

  • 桂離宮 外腰掛 二重枡形手水鉢「涼泓」<br />四角形の外枡の中に直角にクロスした中枡を配し、冬には中枡まで水を入れ、夏にはさらに外枡まで一杯に水を湛え、風情の変化を表現する秀逸な作品です。<br />残念ながら国賓などがお見えになる時以外は、水の代わりに砂が入れられているそうです。収穫を量る枡は、晩秋を象徴するものと解釈されています。

    桂離宮 外腰掛 二重枡形手水鉢「涼泓」
    四角形の外枡の中に直角にクロスした中枡を配し、冬には中枡まで水を入れ、夏にはさらに外枡まで一杯に水を湛え、風情の変化を表現する秀逸な作品です。
    残念ながら国賓などがお見えになる時以外は、水の代わりに砂が入れられているそうです。収穫を量る枡は、晩秋を象徴するものと解釈されています。

  • 桂離宮 外腰掛 生込燈篭<br />できるだけ燈籠の灯りが観月の邪魔をしないようにと、竿の部位を地中に深く埋め込んで背を低くした生込燈篭となっています。<br /><br />タウトはドイツの建築家で、1910年のライプツィヒ国際建築博覧会「鉄のモニュメント」や1914年のドイツ工作連盟ケルン博覧会「ガラス・パヴィリオン」などで国際的に評価され、ドイツ表現主義建築家として世界的に知られています。また、マグデブルグ市建築監督として色彩計画を中心にした都市を設計した色彩建築家、内面的な精神世界の幻視をもとに古い都市の崩壊と宇宙の光と交信する新しいユートピア的共同体を提唱した「アルプス建築」などの神秘主義者として多彩な顔を持っていました。しかし、親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押され、ナチスの暗殺を怖れたタウトは、日本インターナショナル建築会からの招待を機に亡命。日本に滞在したのは1933年からわずか3年半。日本モダニズムとの価値観の相違から仕事の依頼はほとんどなく、「建築家の休日」と皮肉って執筆に勤しみ、多くの著書を後世に残しました。日本モダニズム建築家の策略に翻弄され、最終的には「道化師的な存在」と罵倒され、「寂しい存在」と酷評される運命を辿ります。ある意味、日本の国粋主義の犠牲者のひとりと言えるかもしれません。<br />しかし、タウト昇天の70年後の2008年、彼の偉業を称えるために神が降臨しました。ベルリンのモダニズム集合住宅群にある6棟のジードルンクが世界文化遺産に登録されたのです。しかもタウトはそのうちの4棟を設計しました。これらのジードルンクは、労働者用の住宅不足を解消するために低コストで大量に建造しなければならない社会情勢の中で生まれた建造物です。タウトは、直線的で白い箱の均一的なモダニズム建築ではなく、曲線を用いた色彩豊かなファサードで景観にリズムとアクセントを創り出し、味わいのない単なる労働者用の住宅とならないようにデザインを凝らしたのです。築後90年弱の現在も建物を大切に扱って居住されていることを踏まえると、設計する側だけでなく、住む側の気持ちも環境を維持する上で不可欠であることが判ります。その気持ちが文化遺産にまで押し上げる原動力となったのでしょう。<br />

    桂離宮 外腰掛 生込燈篭
    できるだけ燈籠の灯りが観月の邪魔をしないようにと、竿の部位を地中に深く埋め込んで背を低くした生込燈篭となっています。

    タウトはドイツの建築家で、1910年のライプツィヒ国際建築博覧会「鉄のモニュメント」や1914年のドイツ工作連盟ケルン博覧会「ガラス・パヴィリオン」などで国際的に評価され、ドイツ表現主義建築家として世界的に知られています。また、マグデブルグ市建築監督として色彩計画を中心にした都市を設計した色彩建築家、内面的な精神世界の幻視をもとに古い都市の崩壊と宇宙の光と交信する新しいユートピア的共同体を提唱した「アルプス建築」などの神秘主義者として多彩な顔を持っていました。しかし、 親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押され、ナチスの暗殺を怖れたタウトは、日本インターナショナル建築会からの招待を機に亡命。日本に滞在したのは1933年からわずか3年半。日本モダニズムとの価値観の相違から仕事の依頼はほとんどなく、「建築家の休日」と皮肉って執筆に勤しみ、多くの著書を後世に残しました。日本モダニズム建築家の策略に翻弄され、最終的には「道化師的な存在」と罵倒され、「寂しい存在」と酷評される運命を辿ります。ある意味、日本の国粋主義の犠牲者のひとりと言えるかもしれません。
    しかし、タウト昇天の70年後の2008年、彼の偉業を称えるために神が降臨しました。ベルリンのモダニズム集合住宅群にある6棟のジードルンクが世界文化遺産に登録されたのです。しかもタウトはそのうちの4棟を設計しました。これらのジードルンクは、労働者用の住宅不足を解消するために低コストで大量に建造しなければならない社会情勢の中で生まれた建造物です。タウトは、直線的で白い箱の均一的なモダニズム建築ではなく、曲線を用いた色彩豊かなファサードで景観にリズムとアクセントを創り出し、味わいのない単なる労働者用の住宅とならないようにデザインを凝らしたのです。 築後90年弱の現在も建物を大切に扱って居住されていることを踏まえると、設計する側だけでなく、住む側の気持ちも環境を維持する上で不可欠であることが判ります。その気持ちが文化遺産にまで押し上げる原動力となったのでしょう。

  • 桂離宮 外腰掛 延段<br />延段の南端にあるアイ・ストップの石燈篭。<br />竿一杯に地中に埋め込まれ、低い姿勢から延段から飛び石に遷移する足元を照らす趣向です。右手が紅葉馬場を隔てる山となり、周りの樹木もここから直接御池が見えないように遮景の役割を担っています。<br /><br />1950年代から1960年代初頭にかけて、「伝統論争」と呼ばれる論議が醸されました。それによって桂離宮は、「日本伝統建築の近代性」を示すものと認められるに至りました。この言説の主導者が、建築家 丹下健三。タウトの言説が重要ではあったが、桂離宮はすでに1920年代末に日本近代建築家たちに周知され、評価されていたと言うのです。当時の日本人建築家たちに桂離宮の価値を発見させたのは、岸田日出刀の写真集「過去の構成」。これには書院を斜線上に並べた「雁行配置」という仕掛けの写真が掲載されていました。古書院、中書院、新書院と次々に小さく見えるように遠近法を駆使した建造技法を紹介しました。実際、タウトの著書に載せられた写真のほとんどは岸田氏が撮影したものでした。ひょっとすると、タウトには桂離宮での写真撮影が許可されていなかったのかもしれません。タウト自身が撮った写真は唯一、桂離宮入口の竹穂垣だけだそうです。<br />タウトは、我こそが桂離宮の発見者だと述べていますが、実際は最初に言及した人物でもなければ、その近代性を最初に評価した人物でもなかったようです。彼の来日以前に、すでに日本の建築家たちは桂離宮に関心を寄せはじめていました。それは、庭園の専門家たちが桂離宮に興味を持ち始めた明治時代末にまで遡ります。1920年代末には、桂離宮の最初の修復が終わっています。つまり、タウトが桂離宮を発見したというよりも、むしろ日本建築家たちの言説に外国人として第三者的な確証を与え、国際的反響をもたらすのに貢献したと言った方が腑に落ちます。<br />確かにタウトは、間違いなく「古典的建築」であると『ニッポン』に記し、桂離宮をアテネのパルテノン神殿、タージマハルと比較しています。20世紀前半にあっては、西洋から東洋へやってきた旅行者たちは、例え東洋学者であっても、西洋の遺跡と同じ価値観あるいは基準でアジアの遺跡を評価していたことが窺えます。アクロポリスの丘に立つ石造建築パルテノン神殿は人間の尺度を基に各要素においてバランスが取られていると言えますが、桂離宮のコンセプトにそのような形跡は見られません。拡大解釈すれば的を射ているのかもしれませんが、それは屁理屈の類であり、本質とは言えません。<br />当方が海外の遺跡を観て感激できるのは、物珍しさや壮大さ、美しさも多分にありますが、その歴史を知るからこそ感慨も一塩なのです。往時のタウトが日本の歴史や日本建築を学んでいた形跡は窺えません。敢えてタウトが言及した尺度に拘れば、日本人古来の尺度(感性)で創り上げた木造建築であり、直裁簡明で各要素の見事な調和が創り出した、日本の古建築のひとつの到達点と言えるのではないでしょうか?<br />

    桂離宮 外腰掛 延段
    延段の南端にあるアイ・ストップの石燈篭。
    竿一杯に地中に埋め込まれ、低い姿勢から延段から飛び石に遷移する足元を照らす趣向です。右手が紅葉馬場を隔てる山となり、周りの樹木もここから直接御池が見えないように遮景の役割を担っています。

    1950年代から1960年代初頭にかけて、「伝統論争」と呼ばれる論議が醸されました。それによって桂離宮は、「日本伝統建築の近代性」を示すものと認められるに至りました。この言説の主導者が、建築家 丹下健三。タウトの言説が重要ではあったが、桂離宮はすでに1920年代末に日本近代建築家たちに周知され、評価されていたと言うのです。当時の日本人建築家たちに桂離宮の価値を発見させたのは、岸田日出刀の写真集「過去の構成」。これには書院を斜線上に並べた「雁行配置」という仕掛けの写真が掲載されていました。古書院、中書院、新書院と次々に小さく見えるように遠近法を駆使した建造技法を紹介しました。実際、タウトの著書に載せられた写真のほとんどは岸田氏が撮影したものでした。ひょっとすると、タウトには桂離宮での写真撮影が許可されていなかったのかもしれません。タウト自身が撮った写真は唯一、桂離宮入口の竹穂垣だけだそうです。
    タウトは、我こそが桂離宮の発見者だと述べていますが、実際は最初に言及した人物でもなければ、その近代性を最初に評価した人物でもなかったようです。彼の来日以前に、すでに日本の建築家たちは桂離宮に関心を寄せはじめていました。それは、庭園の専門家たちが桂離宮に興味を持ち始めた明治時代末にまで遡ります。1920年代末には、桂離宮の最初の修復が終わっています。つまり、タウトが桂離宮を発見したというよりも、むしろ日本建築家たちの言説に外国人として第三者的な確証を与え、国際的反響をもたらすのに貢献したと言った方が腑に落ちます。
    確かにタウトは、間違いなく「古典的建築」であると『ニッポン』に記し、桂離宮をアテネのパルテノン神殿、タージマハルと比較しています。20世紀前半にあっては、西洋から東洋へやってきた旅行者たちは、例え東洋学者であっても、西洋の遺跡と同じ価値観あるいは基準でアジアの遺跡を評価していたことが窺えます。アクロポリスの丘に立つ石造建築パルテノン神殿は人間の尺度を基に各要素においてバランスが取られていると言えますが、桂離宮のコンセプトにそのような形跡は見られません。拡大解釈すれば的を射ているのかもしれませんが、それは屁理屈の類であり、本質とは言えません。
    当方が海外の遺跡を観て感激できるのは、物珍しさや壮大さ、美しさも多分にありますが、その歴史を知るからこそ感慨も一塩なのです。往時のタウトが日本の歴史や日本建築を学んでいた形跡は窺えません。敢えてタウトが言及した尺度に拘れば、日本人古来の尺度(感性)で創り上げた木造建築であり、直裁簡明で各要素の見事な調和が創り出した、日本の古建築のひとつの到達点と言えるのではないでしょうか?

  • 桂離宮 キリシタン燈籠(織部燈籠)<br />飛石伝いに蘇鉄山を下って池沿いの苑路を松琴亭へ向かう途中、小川に架かる石橋の手前左にキリシタン燈籠が佇みます。この燈篭の竿石の膨らみ部に文字の形跡は窺えませんが、マリア像かキリスト像と思しきレリーフの丸い頭部が窺えます。<br /><br />庭園には苑路に添って多くの石燈籠が設けられ、道の分岐点や島の突角部あるいは岬の鼻や手水鉢の傍らに夜間の照明灯として足元や手元を照らすと共に、夜の庭に光彩を添えて趣を一層深める効果を高めるものと思われます。<br />桂離宮の庭園には、24基の灯籠が佇み、その内7基が「織部燈籠」と呼ばれるものです。織部燈籠は、竿の部分が膨らんで十字型を象った独特の形をし、マリア像あるいはキリスト像と思しき彫り込みがあります。それ故、隠れキリシタンの遺物であるという説もあります。<br />織部燈籠は、キリシタンの理解者の茶人 吉田織部が創案したものではなく、茶人 木下長嘯子が神社の前で拾って庭燈籠に用いたものであり、キリシタンには無関係であるなど諸説あります。しかし、後に木下長嘯子を調べたところ、正真正銘のキリシタンだったという裏話もあります。<br /><br />

    桂離宮 キリシタン燈籠(織部燈籠)
    飛石伝いに蘇鉄山を下って池沿いの苑路を松琴亭へ向かう途中、小川に架かる石橋の手前左にキリシタン燈籠が佇みます。この燈篭の竿石の膨らみ部に文字の形跡は窺えませんが、マリア像かキリスト像と思しきレリーフの丸い頭部が窺えます。

    庭園には苑路に添って多くの石燈籠が設けられ、道の分岐点や島の突角部あるいは岬の鼻や手水鉢の傍らに夜間の照明灯として足元や手元を照らすと共に、夜の庭に光彩を添えて趣を一層深める効果を高めるものと思われます。
    桂離宮の庭園には、24基の灯籠が佇み、その内7基が「織部燈籠」と呼ばれるものです。織部燈籠は、竿の部分が膨らんで十字型を象った独特の形をし、マリア像あるいはキリスト像と思しき彫り込みがあります。それ故、隠れキリシタンの遺物であるという説もあります。
    織部燈籠は、キリシタンの理解者の茶人 吉田織部が創案したものではなく、茶人 木下長嘯子が神社の前で拾って庭燈籠に用いたものであり、キリシタンには無関係であるなど諸説あります。しかし、後に木下長嘯子を調べたところ、正真正銘のキリシタンだったという裏話もあります。

  • 桂離宮 鼓の滝<br />石橋の下を流れる小川は、源氏物語に書かれた桂川上流の大堰川の深く切り込んだ谷川の風情を模したものです。「鼓の滝」と呼ばれる小さな落差の滝があり、心地よい涼しげな水音を響かせています。2枚の平石を角度を付けて組合わせて流れを集め、白い水しぶきが上がるように工夫しています。目だけでなく、耳でも楽しんでもらう趣向です。僅かな落差ながら、直角にすることで音を強調しています。その音が鼓の音に似ていることが名の由来です。この「鼓の滝」は桂三景のひとつに数えられ、他の2つは「真の飛石」と「流れ手水」です。<br /><br />ブルーノ・タウトが「再発見」して以来、「簡素な日本美の極致」と称えられている桂離宮ですが、どちらかと言えば簡素どころか、トリッキーと表現した方がしっくりします。井上章一 著「つくられた桂離宮神話」によれば、「再発見」は日本建築界のモダニズム運動の勃興や戦時体制の進行に伴うナショナリズムの高揚を背景に仕組まれた神話だそうです。当時の日本モダニズム建築家たちの意向や幕末以後のナショナル・アイデンティティー(潔白・正直・簡素を尊重)によって、桂離宮のイメージを著名人タウトを利用して恣意的に創り上げ、広げていったことが窺えます。時代背景に伴う文化思想の改竄とでも表現すればよいのでしょうか?<br /><br /><br />

    桂離宮 鼓の滝
    石橋の下を流れる小川は、源氏物語に書かれた桂川上流の大堰川の深く切り込んだ谷川の風情を模したものです。「鼓の滝」と呼ばれる小さな落差の滝があり、心地よい涼しげな水音を響かせています。2枚の平石を角度を付けて組合わせて流れを集め、白い水しぶきが上がるように工夫しています。目だけでなく、耳でも楽しんでもらう趣向です。僅かな落差ながら、直角にすることで音を強調しています。その音が鼓の音に似ていることが名の由来です。この「鼓の滝」は桂三景のひとつに数えられ、他の2つは「真の飛石」と「流れ手水」です。

    ブルーノ・タウトが「再発見」して以来、「簡素な日本美の極致」と称えられている桂離宮ですが、どちらかと言えば簡素どころか、トリッキーと表現した方がしっくりします。井上章一 著「つくられた桂離宮神話」によれば、「再発見」は日本建築界のモダニズム運動の勃興や戦時体制の進行に伴うナショナリズムの高揚を背景に仕組まれた神話だそうです。当時の日本モダニズム建築家たちの意向や幕末以後のナショナル・アイデンティティー(潔白・正直・簡素を尊重)によって、桂離宮のイメージを著名人タウトを利用して恣意的に創り上げ、広げていったことが窺えます。時代背景に伴う文化思想の改竄とでも表現すればよいのでしょうか?


  • 桂離宮 天橋立<br />石橋を渡ると池の汀に出て、ここで漸く足を止めて説明があります。移動中にあった「鼓の滝」や「キリシタン燈籠」などの見所は、事前にチェックしてこないと見逃してしまうことになります。<br /><br />日本の庭園は、自然の懐に抱かれる様に、あるいは自然をそこに再現する様に造られています。この点、桂離宮は日本式庭園の原型と言えます。庭園桂離宮の基本コンセプトは、桂川から水を引いて敷地の半分を占める池を設け、この池の周りに観月用の舞台装置を配置することです。それらを池を巡る回遊路で繋ぎ、樹木や石、草花のある庭園と一体化した建築物と共に景観を楽しむという趣向です。高低差を設けた敷地の中に生まれた人工の池汀線は、入り組んで回遊園路を散策する人々の目を多様に楽しませ、飽きさせることを知りません。緑の芝生とビロードのような苔の上を雁行する飛石にも独特のリズムが感じられ、歩を進める中で心地良さを覚えます。まさしく森に抱かれて息づいている桂離宮は、日本古来の美を凝縮した小宇宙と言えます。そして日本文化のひとつの原風景であるとも言えます。<br /><br /><br />

    桂離宮 天橋立
    石橋を渡ると池の汀に出て、ここで漸く足を止めて説明があります。移動中にあった「鼓の滝」や「キリシタン燈籠」などの見所は、事前にチェックしてこないと見逃してしまうことになります。

    日本の庭園は、自然の懐に抱かれる様に、あるいは自然をそこに再現する様に造られています。この点、桂離宮は日本式庭園の原型と言えます。庭園桂離宮の基本コンセプトは、桂川から水を引いて敷地の半分を占める池を設け、この池の周りに観月用の舞台装置を配置することです。それらを池を巡る回遊路で繋ぎ、樹木や石、草花のある庭園と一体化した建築物と共に景観を楽しむという趣向です。高低差を設けた敷地の中に生まれた人工の池汀線は、入り組んで回遊園路を散策する人々の目を多様に楽しませ、飽きさせることを知りません。緑の芝生とビロードのような苔の上を雁行する飛石にも独特のリズムが感じられ、歩を進める中で心地良さを覚えます。まさしく森に抱かれて息づいている桂離宮は、日本古来の美を凝縮した小宇宙と言えます。そして日本文化のひとつの原風景であるとも言えます。


  • 桂離宮 州浜・天橋立<br />一面に扁平で丸い賀茂川石を丹念に敷き並べ、池に突出させて州浜の景観を表わしています。州浜の先端には岬の灯台に見立てた「岬燈籠」が佇み、その奥には2つの中島を水面すれすれの反橋(蛍橋)と自然石の平橋(月見橋)で結び、天橋立をなぞらえています。智仁親王は、34歳の時に丹後の天橋立を訪れ、そこで後の妃となる宮津藩主 京極高知の息女 常子と運命の出会いを果たしました。この天橋立は妃のために故郷の景色を再現したもので、寂しさを紛らわせる役目も担ったそうです。つまり、松琴亭前のこの一角は、池ではなく海を演出したエリアとなっています。<br />松尾大社の「曲水の庭」の州浜を見た時、すぐにイメージしたのがこの光景でした。

    桂離宮 州浜・天橋立
    一面に扁平で丸い賀茂川石を丹念に敷き並べ、池に突出させて州浜の景観を表わしています。州浜の先端には岬の灯台に見立てた「岬燈籠」が佇み、その奥には2つの中島を水面すれすれの反橋(蛍橋)と自然石の平橋(月見橋)で結び、天橋立をなぞらえています。智仁親王は、34歳の時に丹後の天橋立を訪れ、そこで後の妃となる宮津藩主 京極高知の息女 常子と運命の出会いを果たしました。この天橋立は妃のために故郷の景色を再現したもので、寂しさを紛らわせる役目も担ったそうです。つまり、松琴亭前のこの一角は、池ではなく海を演出したエリアとなっています。
    松尾大社の「曲水の庭」の州浜を見た時、すぐにイメージしたのがこの光景でした。

  • 桂離宮 州浜 岬燈籠<br />かわいらしい毬形の「岬燈籠」が天然石の上に載せれられ、センスの良さがキラリと光ります。実際に明かりが灯った時にはどんな表情を見せるのか、興味のあるところです。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    桂離宮 州浜 岬燈籠
    かわいらしい毬形の「岬燈籠」が天然石の上に載せれられ、センスの良さがキラリと光ります。実際に明かりが灯った時にはどんな表情を見せるのか、興味のあるところです。





  • 桂離宮 松琴亭<br />州浜から天橋立に植えられた「高砂の松」越しに眺める松琴亭です。<br /><br />今回から、瞬時にシャッターが切れるようにカメラの設定を「親指AF」モードに変更しました。プロのほとんどが使うテクニックだそうです。通常は、シャッター半押しでAF(オートフォーカス)とAE(オート露光)の両方を行うため、シャッターを切るまでに時間を要しますが、「親指AF」にするとAFだけ別に親指で行えます。ファインダーを覗き込んだ瞬間にAFロックできるので、その分、早くシャッターが切れます。これなら素早く撮影完了できるので、列から遅れることがありません。普通のデジイチなら設定可能で、設定方法は説明書に書かれています。<br />

    桂離宮 松琴亭
    州浜から天橋立に植えられた「高砂の松」越しに眺める松琴亭です。

    今回から、瞬時にシャッターが切れるようにカメラの設定を「親指AF」モードに変更しました。プロのほとんどが使うテクニックだそうです。通常は、シャッター半押しでAF(オートフォーカス)とAE(オート露光)の両方を行うため、シャッターを切るまでに時間を要しますが、「親指AF」にするとAFだけ別に親指で行えます。ファインダーを覗き込んだ瞬間にAFロックできるので、その分、早くシャッターが切れます。これなら素早く撮影完了できるので、列から遅れることがありません。普通のデジイチなら設定可能で、設定方法は説明書に書かれています。

  • 桂離宮 浜道<br />州浜の付け根を起点とする飛石が置かれた浜道は、斜面の麓を緩やかに蛇行し、そして軽やかに起伏しながら、先にある白川橋まで伸びています。<br /><br />もうひとつの撮影テクニックは、ISO感度を上げ、絞りを大きくしてピントが合う深さを増やし、構えて撮らなくても手ブレしないように配慮しています。普通の設定なら、歩きながらの撮影では手ブレしてしまいます。

    桂離宮 浜道
    州浜の付け根を起点とする飛石が置かれた浜道は、斜面の麓を緩やかに蛇行し、そして軽やかに起伏しながら、先にある白川橋まで伸びています。

    もうひとつの撮影テクニックは、ISO感度を上げ、絞りを大きくしてピントが合う深さを増やし、構えて撮らなくても手ブレしないように配慮しています。普通の設定なら、歩きながらの撮影では手ブレしてしまいます。

  • 桂離宮 松琴亭<br />ようやく松琴亭の全貌が露になってきました。池泉に馴染むように低く建てられているのが特徴です。松琴亭は庭園の中で最も格式の高い茶亭で、庭園を眺めながらお茶するのは贅の極みだったに違いありません。ここでは、西に沈みゆく月に向かって琴を弾いたと言われています。<br /><br />光源氏と明石の君は、奏でた琴の音が変わらないうちにまた会うことを約束し、琴を形見にしました。それから3年、上京した明石の君を桂近くの山荘に住まわせ、明石での思い出に浸りながら形見の琴を奏でます。「変らじと 契りしことを 頼みにて 松のひびきに 音を添えしかな」。松琴亭の名は、源氏物語のこのシーンに登場する「松と琴」に由来します。

    桂離宮 松琴亭
    ようやく松琴亭の全貌が露になってきました。池泉に馴染むように低く建てられているのが特徴です。松琴亭は庭園の中で最も格式の高い茶亭で、庭園を眺めながらお茶するのは贅の極みだったに違いありません。ここでは、西に沈みゆく月に向かって琴を弾いたと言われています。

    光源氏と明石の君は、奏でた琴の音が変わらないうちにまた会うことを約束し、琴を形見にしました。それから3年、上京した明石の君を桂近くの山荘に住まわせ、明石での思い出に浸りながら形見の琴を奏でます。「変らじと 契りしことを 頼みにて 松のひびきに 音を添えしかな」。松琴亭の名は、源氏物語のこのシーンに登場する「松と琴」に由来します。

  • 桂離宮 キリシタン燈籠<br />石橋の手前にはキリシタン燈篭が佇みます。<br /><br />桂離宮とキリシタンとの関係については3つの話があります。<br />1.桂離宮の造営には八条宮智仁親王、智忠親王の父子2代が当たりましたが、智仁親王の正室であり智忠親王の母である常照院は、キリシタン大名である宮津藩主 京極高知の息女 常子でその母は京極マリアであったこと。<br />因みに、智仁親王の次男であり智忠親王の弟宮は、曼殊院の門跡になられた良尚法親王であり、曼殊院の庭には母からの贈り物と言われる「キリシタン燈篭」があり、 「クルス燈篭」あるいは「曼殊院燈篭」と呼ばれています。<br />2.八条宮家の家臣であり、智仁親王の片腕でもあった本郷織部の一族7人が、1634年にキリシタンとして処刑されたこと。その7年後、桂離宮に7基のキリシタン燈篭が立てられたとも伝えられます。<br />3.初代智仁親王、2代智忠親王は共に正室を1人だけ迎えました。側室を持たないというのは往時としては非常に珍しく、それ故に2人とも隠れキリシタンだったのではないかと推察されています。<br />日本版「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」みたいな匂いがします。<br />

    桂離宮 キリシタン燈籠
    石橋の手前にはキリシタン燈篭が佇みます。

    桂離宮とキリシタンとの関係については3つの話があります。
    1.桂離宮の造営には八条宮智仁親王、智忠親王の父子2代が当たりましたが、智仁親王の正室であり智忠親王の母である常照院は、キリシタン大名である宮津藩主 京極高知の息女 常子でその母は京極マリアであったこと。
    因みに、智仁親王の次男であり智忠親王の弟宮は、曼殊院の門跡になられた良尚法親王であり、曼殊院の庭には母からの贈り物と言われる「キリシタン燈篭」があり、 「クルス燈篭」あるいは「曼殊院燈篭」と呼ばれています。
    2.八条宮家の家臣であり、智仁親王の片腕でもあった本郷織部の一族7人が、1634年にキリシタンとして処刑されたこと。その7年後、桂離宮に7基のキリシタン燈篭が立てられたとも伝えられます。
    3.初代智仁親王、2代智忠親王は共に正室を1人だけ迎えました。側室を持たないというのは往時としては非常に珍しく、それ故に2人とも隠れキリシタンだったのではないかと推察されています。
    日本版「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」みたいな匂いがします。

  • 桂離宮 キリシタン燈籠<br />竿石の上部の膨らみには「FILI(ラテン語で「御子よ、キリストよ」の意味)」と判読されるローマ字を組合せた文字が彫られています。<br />

    桂離宮 キリシタン燈籠
    竿石の上部の膨らみには「FILI(ラテン語で「御子よ、キリストよ」の意味)」と判読されるローマ字を組合せた文字が彫られています。

  • 桂離宮 荒磯様の石組<br />浜道の先端にある岬には大小の石を屹立させ、穏やかな洲浜とは対照的に波が荒々しく押し寄せる岩場を表しています。「荒磯様の石組」と呼ばれ、桂離宮の中で最も迫力のある石組です。源氏物語では明石の海を荒磯と詠んでおり、明石の海をイメージしたものとも伝えられます。<br /><br />中央左に、茂みの中に屋根を覗かせているのが卍亭(四腰掛)です。松琴亭の外山の頂上に佇む茅葺宝形造りの2.84m四方の小亭。現在の建物は1805年に再建され、松琴亭での茶会で中座した客が休息所として使ったそうです。四隅の柱の間は吹き放しで、方形の四辺の各辺隅に寄せて卍形に4つの腰掛を配したところからこの名が由来します。

    桂離宮 荒磯様の石組
    浜道の先端にある岬には大小の石を屹立させ、穏やかな洲浜とは対照的に波が荒々しく押し寄せる岩場を表しています。「荒磯様の石組」と呼ばれ、桂離宮の中で最も迫力のある石組です。源氏物語では明石の海を荒磯と詠んでおり、明石の海をイメージしたものとも伝えられます。

    中央左に、茂みの中に屋根を覗かせているのが卍亭(四腰掛) です。松琴亭の外山の頂上に佇む茅葺宝形造りの2.84m四方の小亭。現在の建物は1805年に再建され、松琴亭での茶会で中座した客が休息所として使ったそうです。四隅の柱の間は吹き放しで、方形の四辺の各辺隅に寄せて卍形に4つの腰掛を配したところからこの名が由来します。

  • 桂離宮 荒磯様の石組<br />二河白道の説法に使われた絵の情景をモチーフにしているとの説もあります。奥にある橋の両側が猛火の川と荒れ狂う水川で、行者は釈迦の教えを信じ彼岸の世界に渡るという説法です。猛火を赤石で表わし、荒れ狂う水の川を青石や波に例えた豫園棒石で表現したもので、四天王寺の極楽浄土の庭などに見ることができます。<br />このように火炎を象ったような石も配されています。<br />

    桂離宮 荒磯様の石組
    二河白道の説法に使われた絵の情景をモチーフにしているとの説もあります。奥にある橋の両側が猛火の川と荒れ狂う水川で、行者は釈迦の教えを信じ彼岸の世界に渡るという説法です。猛火を赤石で表わし、荒れ狂う水の川を青石や波に例えた豫園棒石で表現したもので、四天王寺の極楽浄土の庭などに見ることができます。
    このように火炎を象ったような石も配されています。

  • 桂離宮 白川橋 <br />石橋は「白川橋」と呼ばれ、石材が京都 白川産というのが名の由来です。長さ6m、幅65cm、中央部厚さ33cmの細長い橋で、長方形の両端は叩いて削られています。しかも、表面は、中央部を粗く、両端は細かく叩いて仕上げるという匠の技が光ります。<br /><br />過去に足を踏み外して橋から落ちた方がおられたようで、橋の上での写真撮影は禁じられています。<br />

    桂離宮 白川橋 
    石橋は「白川橋」と呼ばれ、石材が京都 白川産というのが名の由来です。 長さ6m、幅65cm、中央部厚さ33cmの細長い橋で、長方形の両端は叩いて削られています。しかも、表面は、中央部を粗く、両端は細かく叩いて仕上げるという匠の技が光ります。

    過去に足を踏み外して橋から落ちた方がおられたようで、橋の上での写真撮影は禁じられています。

  • 桂離宮 松琴亭 流れ手水<br />石橋の袂には、遠州好みの「く」の字をした大振りの石の前方に3個の石を並べ、その脇に小さな石を1個配しています。流れをそのまま手洗いに見立てた 「流れ手水」と呼ばれるもので、桂三景のひとつに数えられています。<br />

    桂離宮 松琴亭 流れ手水
    石橋の袂には、遠州好みの「く」の字をした大振りの石の前方に3個の石を並べ、その脇に小さな石を1個配しています。流れをそのまま手洗いに見立てた 「流れ手水」と呼ばれるもので、桂三景のひとつに数えられています。

  • 桂離宮 松琴亭<br />橋を渡る前に扁額の写真を撮るのを失念してしまいました。<br />「松琴」の扁額は、智仁親王の兄 後陽成天皇の宸筆となります。<br />ポケットガイドには、「額は材そのものも造りも粗末かつ稚拙で、御手製かと疑われるほどである。それをかえって大事に離宮内最高の格をもつ茶室に掲げる心が桂離宮なのである」と記されています。<br />贅を尽くしながらも質素を快しとする冗長性。統一性があるようで実は雑多なものが違和感なく同居している空間です。そうした一筋縄ではいかないところに桂離宮の魅力があるということでしょう。<br />

    桂離宮 松琴亭
    橋を渡る前に扁額の写真を撮るのを失念してしまいました。
    「松琴」の扁額は、智仁親王の兄 後陽成天皇の宸筆となります。
    ポケットガイドには、「額は材そのものも造りも粗末かつ稚拙で、御手製かと疑われるほどである。それをかえって大事に離宮内最高の格をもつ茶室に掲げる心が桂離宮なのである」と記されています。
    贅を尽くしながらも質素を快しとする冗長性。統一性があるようで実は雑多なものが違和感なく同居している空間です。そうした一筋縄ではいかないところに桂離宮の魅力があるということでしょう。

  • 桂離宮 松琴亭 茶室<br />桂離宮にある唯一の茶室 三畳台目「侘囲(わびがこい)」。にじり口の上には横長の大きな竹連子窓、更にその上の中央に下地窓を重ねて配置しています。この二重に設けられた独特な窓の設えは、他に類を見ないそうです。<br />左の袖壁には質素な2段の刀掛が備えられ、その脇の下地窓は床の墨蹟窓です。武士の魂を預ける刀掛けとしては、意外に粗末な造りと言えます。ここに桂離宮コードが隠されているように思えます。<br />

    桂離宮 松琴亭 茶室
    桂離宮にある唯一の茶室 三畳台目「侘囲(わびがこい)」。にじり口の上には横長の大きな竹連子窓、更にその上の中央に下地窓を重ねて配置しています。この二重に設けられた独特な窓の設えは、他に類を見ないそうです。
    左の袖壁には質素な2段の刀掛が備えられ、その脇の下地窓は床の墨蹟窓です。武士の魂を預ける刀掛けとしては、意外に粗末な造りと言えます。ここに桂離宮コードが隠されているように思えます。

  • 桂離宮 松琴亭 茶室 <br />茶室前の飛び石。<br />沓脱石は、少し低そうですが遠州好みの「く」の字をした赤味がかった変種。注意してみると苑内のあちこちに「く」の字の石が点在しています。<br />

    桂離宮 松琴亭 茶室 
    茶室前の飛び石。
    沓脱石は、少し低そうですが遠州好みの「く」の字をした赤味がかった変種。注意してみると苑内のあちこちに「く」の字の石が点在しています。

  • 桂離宮 松琴亭 茶室 <br />皮付きの栗の木を中柱にし、短く残した枝にお茶入れの仕服(紐付きの袋)を掛けたそうです。昔の記録には「袋掛節枝」とあります。客座の上は一面に蒲天井。点前坐は化粧屋根裏で、、その一部に窓を開け遠州好みの「八つ窓囲」となっています。八窓の内四窓が点前坐に集まり、点前座をあたかも舞台の様に照らし出しています。左の壁は、上方1/4から下の色が薄くなっていますが、これは桂川の氾濫で浸水し、脱色した跡だと言われています。

    桂離宮 松琴亭 茶室 
    皮付きの栗の木を中柱にし、短く残した枝にお茶入れの仕服(紐付きの袋)を掛けたそうです。昔の記録には「袋掛節枝」とあります。客座の上は一面に蒲天井。点前坐は化粧屋根裏で、、その一部に窓を開け遠州好みの「八つ窓囲」となっています。八窓の内四窓が点前坐に集まり、点前座をあたかも舞台の様に照らし出しています。左の壁は、上方1/4から下の色が薄くなっていますが、これは桂川の氾濫で浸水し、脱色した跡だと言われています。

  • 桂離宮 松琴亭 一の間から二の間を望む<br />北側の池に面して11畳敷の一の間と6畳敷きの二の間を東西に並べ、軒の深い土庇を取り込んでいます。二の間の南には茶室が隣接されています。屋根は、一の間と二の間が茅葺入母屋造り。茶室が杮葺。水屋や勝手の間は桟瓦葺。柱は主に杉の面皮柱。土壁は赤味のある黄土色の大阪土が用いられ、桂離宮の統一色となっています。建屋全体は増設により少々複雑な造りになっています。<br /><br />時を同じくして建造された日光東照宮と桂離宮の両者は、設計思想的には対極にあります。桂離宮の建物と林泉の造営に影響を及ぼした小堀遠江守政一は、大名でもあり芸術家でもありました。遠州の真意は、簡素な形式と施工にあったように思われます。当時、仏教建築に氾濫していた中国の影響から日本の建築を離脱させようと画策したのが遠州です。いわゆる技術者の矜持から生まれた真骨頂と言えます。彼の思想は、同じ贅を尽くすにしても絢爛豪華な日光東照宮の思想とは正反対でした。タウトは、桂離宮を「天皇趣味」と呼び、東照宮を「将軍趣味」と呼んで対比しています。意外にも、分かり易い表現だと感心します。どちらが勝れるということではありませんが、桂離宮は施工のみならずその精神から鑑みても純日本的な建築と言えるのではないでしょうか?<br />ひょっとしたら外国人であるタウトは、純粋な心で密かに桂離宮コードを読み解いていたのかもしれません。

    桂離宮 松琴亭 一の間から二の間を望む
    北側の池に面して11畳敷の一の間と6畳敷きの二の間を東西に並べ、軒の深い土庇を取り込んでいます。二の間の南には茶室が隣接されています。 屋根は、一の間と二の間が茅葺入母屋造り。茶室が杮葺。水屋や勝手の間は桟瓦葺。柱は主に杉の面皮柱。土壁は赤味のある黄土色の大阪土が用いられ、桂離宮の統一色となっています。建屋全体は増設により少々複雑な造りになっています。

    時を同じくして建造された日光東照宮と桂離宮の両者は、設計思想的には対極にあります。桂離宮の建物と林泉の造営に影響を及ぼした小堀遠江守政一は、大名でもあり芸術家でもありました。遠州の真意は、簡素な形式と施工にあったように思われます。当時、仏教建築に氾濫していた中国の影響から日本の建築を離脱させようと画策したのが遠州です。いわゆる技術者の矜持から生まれた真骨頂と言えます。彼の思想は、同じ贅を尽くすにしても絢爛豪華な日光東照宮の思想とは正反対でした。タウトは、桂離宮を「天皇趣味」と呼び、東照宮を「将軍趣味」と呼んで対比しています。意外にも、分かり易い表現だと感心します。どちらが勝れるということではありませんが、桂離宮は施工のみならずその精神から鑑みても純日本的な建築と言えるのではないでしょうか?
    ひょっとしたら外国人であるタウトは、純粋な心で密かに桂離宮コードを読み解いていたのかもしれません。

  • 桂離宮 松琴亭 一の間<br />西面には一畳程の石炉が設けられ、その上部には天袋があります。石炉は暖房と調理の保温とを兼ねた実用的なものです。料理を冷めないようにする保温ボックスとは、なんとも粋な計らいです。<br /><br />一の間と南の次の間の境には、杉を薄く剥いだ板を網代に組込んだ引き違い戸があります。また、一の間と二の間の境の欄間は、麻の茎を縦に密にならべて女竹の横桟で押さえたものです。あえて違う素材を使い、意図的に違和感を持たせることでインパクトを与えるよう計算されています。市松模様の襖のような大胆でモダンな要素とこの欄間のような侘び寂びの要素が不思議と調和しています。<br /><br /> 

    桂離宮 松琴亭 一の間
    西面には一畳程の石炉が設けられ、その上部には天袋があります。石炉は暖房と調理の保温とを兼ねた実用的なものです。料理を冷めないようにする保温ボックスとは、なんとも粋な計らいです。

    一の間と南の次の間の境には、杉を薄く剥いだ板を網代に組込んだ引き違い戸があります。また、一の間と二の間の境の欄間は、麻の茎を縦に密にならべて女竹の横桟で押さえたものです。あえて違う素材を使い、意図的に違和感を持たせることでインパクトを与えるよう計算されています。市松模様の襖のような大胆でモダンな要素とこの欄間のような侘び寂びの要素が不思議と調和しています。

     

  • 桂離宮 松琴亭 一の間<br />天袋の小襖には、狩野探幽の筆となる、左から古木鳥、芦川蝉、鶺鴒、竹雀の絵が張られ、結紐を象った瀟洒な引き手が付けられています。<br />

    桂離宮 松琴亭 一の間
    天袋の小襖には、狩野探幽の筆となる、左から古木鳥、芦川蝉、鶺鴒、竹雀の絵が張られ、結紐を象った瀟洒な引き手が付けられています。

  • 桂離宮 松琴亭 一の間<br />正面左に一間幅の床を備え、内側の3面の壁は紺と白のコントラストがモダンな市松模様の張付壁。色褪せてもなお新鮮で美しく、光の移ろいによりその表情を変えていきます。別名「石畳」とも呼ばれ、加賀奉書紙の白紙とそれを藍染した紙を交互に貼り違えたもので、「市松模様」の名は江戸時代の歌舞伎役者 佐野川市松が愛用したことが由来です。また、加賀百万石の前田家に因む意匠でもあるそうです。智忠親王妃 富姫は加賀金沢藩主 前田利常の娘でしたから、奥方への気遣いなのでしょう。<br />大胆で斬新な意匠はとても350年前のものとは思えぬほどで、桂離宮全体の意匠のモダンさの象徴となっています。<br />因みに、加賀奉書とは奈良時代から紙漉きの歴史を持つ金沢市二俣で作られた和紙のことです。市松の加賀奉書は、昭和の大修理の際には漉ける人がなく、次善の策として越前奉書を使ったそうです。<br />後日談として、金沢の関係者がこのことに発奮し、松琴亭を本来の姿に戻すべく、金沢の代表的な二俣和紙関係者による復活プロジェクトを発足させ、見事30年後に復活させたそうです。次回、修復の際には加賀奉書が使われることでしょう。一度途絶えた技術を復活させるには、多大なエネルギーと年月が必要です。技術伝承の重要さを改めて認識するところです。<br /><br />

    桂離宮 松琴亭 一の間
    正面左に一間幅の床を備え、内側の3面の壁は紺と白のコントラストがモダンな市松模様の張付壁。色褪せてもなお新鮮で美しく、光の移ろいによりその表情を変えていきます。別名「石畳」とも呼ばれ、加賀奉書紙の白紙とそれを藍染した紙を交互に貼り違えたもので、「市松模様」の名は江戸時代の歌舞伎役者 佐野川市松が愛用したことが由来です。また、加賀百万石の前田家に因む意匠でもあるそうです。智忠親王妃 富姫は加賀金沢藩主 前田利常の娘でしたから、奥方への気遣いなのでしょう。
    大胆で斬新な意匠はとても350年前のものとは思えぬほどで、桂離宮全体の意匠のモダンさの象徴となっています。
    因みに、加賀奉書とは奈良時代から紙漉きの歴史を持つ金沢市二俣で作られた和紙のことです。市松の加賀奉書は、昭和の大修理の際には漉ける人がなく、次善の策として越前奉書を使ったそうです。
    後日談として、金沢の関係者がこのことに発奮し、松琴亭を本来の姿に戻すべく、金沢の代表的な二俣和紙関係者による復活プロジェクトを発足させ、見事30年後に復活させたそうです。次回、修復の際には加賀奉書が使われることでしょう。一度途絶えた技術を復活させるには、多大なエネルギーと年月が必要です。技術伝承の重要さを改めて認識するところです。

  • 桂離宮 松琴亭 一の間 <br />床の右脇の半間は、袋棚を上下に組合わせています。上の棚は、観音開きの板扉で、板の表裏には柿渋を塗り、その上から透明な漆を塗って深い赤味を引き出したものだそうですが、色褪せて緑色にしか見えません。扉金具の銀色と扉の赤色とが貼付壁の紺と鮮やかな対比をなし、色彩効果を高めていたそうです。往時の宮廷貴族が使った言葉に「綺麗」がありますが、その言葉のイメージがどんなものであったか推測することができます。<br />

    桂離宮 松琴亭 一の間 
    床の右脇の半間は、袋棚を上下に組合わせています。上の棚は、観音開きの板扉で、板の表裏には柿渋を塗り、その上から透明な漆を塗って深い赤味を引き出したものだそうですが、色褪せて緑色にしか見えません。扉金具の銀色と扉の赤色とが貼付壁の紺と鮮やかな対比をなし、色彩効果を高めていたそうです。往時の宮廷貴族が使った言葉に「綺麗」がありますが、その言葉のイメージがどんなものであったか推測することができます。

  • 桂離宮 二の間<br />土壁は赤味のある黄土色の大阪土が用いられ、瓢箪型をした下地窓は奥にある茶室のものと対をなしています。<br />

    桂離宮 二の間
    土壁は赤味のある黄土色の大阪土が用いられ、瓢箪型をした下地窓は奥にある茶室のものと対をなしています。

  • 桂離宮 二の間<br />左端には窓が設けられ、その腰壁は雑木の小枝を寄せ集めて縦に密に貼ったものです。それぞれの小枝には微妙な色の違いがあり、これも色彩の妙につながる意匠のひとつです。

    桂離宮 二の間
    左端には窓が設けられ、その腰壁は雑木の小枝を寄せ集めて縦に密に貼ったものです。それぞれの小枝には微妙な色の違いがあり、これも色彩の妙につながる意匠のひとつです。

  • 桂離宮 二の間<br />南西寄りの半間は、天袋付きの違い棚。棚板の上には藍染紙が貼りつけられ、下の大阪土の袖壁には瓢箪形の下地窓が設けられ、奥にある茶室の風炉先窓となっています。

    桂離宮 二の間
    南西寄りの半間は、天袋付きの違い棚。棚板の上には藍染紙が貼りつけられ、下の大阪土の袖壁には瓢箪形の下地窓が設けられ、奥にある茶室の風炉先窓となっています。

  • 桂離宮 二の間 天袋小襖<br />天袋小襖の絵は狩野探幽の筆となります。

    桂離宮 二の間 天袋小襖
    天袋小襖の絵は狩野探幽の筆となります。

  • 桂離宮 二の間 天袋小襖<br />引手は栄螺(サザエ)を象った意匠で、中央のへたの部位には渦巻き模様をあしらった青磁色の七宝が施されています。<br />

    桂離宮 二の間 天袋小襖
    引手は栄螺(サザエ)を象った意匠で、中央のへたの部位には渦巻き模様をあしらった青磁色の七宝が施されています。

  • 桂離宮 二の間から一の間を望む<br />一の間と二の間はともに書院風の造りで、障子を開放すれば室と庭がつながって一体化し、その先には御池の神仙島の姿が眺められる趣向です。<br />また、二の間の襖は青一色ですが、退色して外側は白くなっています。<br />間の境の欄間には、麻の茎を縦に密に並べて女竹の横桟で押さえた味わい深いものとなっています。<br />

    桂離宮 二の間から一の間を望む
    一の間と二の間はともに書院風の造りで、障子を開放すれば室と庭がつながって一体化し、その先には御池の神仙島の姿が眺められる趣向です。
    また、二の間の襖は青一色ですが、退色して外側は白くなっています。
    間の境の欄間には、麻の茎を縦に密に並べて女竹の横桟で押さえた味わい深いものとなっています。

  • 桂離宮 <br />一の間の北には竈や水屋、棚を設えた板敷が土庇に張り出しています。このような造りを「くど構え」と呼びます。通常、くどや炉は裏向きの場所に設え、表側に設けるものではありません。それをことさら正面の目立つ場所に構えるのは、草庵の風情を醸す演出と考えられ、「御茶屋」と呼ばれる建物の特徴のひとつに数えられます。<br /><br />面皮柱や土壁といった草庵風の要素を持つ一方、意を凝らした数々の造形や色彩によって装飾性豊かな空間が形成されています。くど構えの下に敷いてある石も青と白の組み合わせでコディネートされています。青石は紀州や四国から運ばせ、建物の色調に調和するように配色までもが計算されています。<br />

    桂離宮 
    一の間の北には竈や水屋、棚を設えた板敷が土庇に張り出しています。このような造りを「くど構え」と呼びます。通常、くどや炉は裏向きの場所に設え、表側に設けるものではありません。それをことさら正面の目立つ場所に構えるのは、草庵の風情を醸す演出と考えられ、「御茶屋」と呼ばれる建物の特徴のひとつに数えられます。

    面皮柱や土壁といった草庵風の要素を持つ一方、意を凝らした数々の造形や色彩によって装飾性豊かな空間が形成されています。くど構えの下に敷いてある石も青と白の組み合わせでコディネートされています。青石は紀州や四国から運ばせ、建物の色調に調和するように配色までもが計算されています。

  • 桂離宮 <br />一の間、二の間の北側と西側には、一面に砂利を敷いた土庇が巡らされ、その柱や桁にはアベマキとカシを使っています。<br /><br />一の間の廂は二の間の廂より深くなっています。そのため雨戸がなく、明障子のみとなっています。<br />

    桂離宮 
    一の間、二の間の北側と西側には、一面に砂利を敷いた土庇が巡らされ、その柱や桁にはアベマキとカシを使っています。

    一の間の廂は二の間の廂より深くなっています。そのため雨戸がなく、明障子のみとなっています。

  • 桂離宮 松琴亭<br />松琴亭から望む御池方向のパノラマ写真です。<br />左手に見える建物が古書院。その右が月破楼です。<br />元々は、右側に見える紅葉の馬場から朱色の太鼓橋が架けられていたそうですが、天の橋立の景色を取り入れた際に撤去し、松琴亭からの天の橋立の眺めをよくしたそうです。

    桂離宮 松琴亭
    松琴亭から望む御池方向のパノラマ写真です。
    左手に見える建物が古書院。その右が月破楼です。
    元々は、右側に見える紅葉の馬場から朱色の太鼓橋が架けられていたそうですが、天の橋立の景色を取り入れた際に撤去し、松琴亭からの天の橋立の眺めをよくしたそうです。

  • 桂離宮 松琴亭<br />天橋立方面の眺めです。<br /><br />故岡本太郎氏がかつて桂離宮を観て、「池にサメでも放したら、面白かろう」と語ったのは、この庭園の尋常ならざる美しさに半ば嫉妬した結果だと言われています。あるいは、いかなる外乱が介在しようとも、完璧なる美は微動たりもしないことを逆説的に表現しようとしたのかもしれません。<br />

    桂離宮 松琴亭
    天橋立方面の眺めです。

    故岡本太郎氏がかつて桂離宮を観て、「池にサメでも放したら、面白かろう」と語ったのは、この庭園の尋常ならざる美しさに半ば嫉妬した結果だと言われています。あるいは、いかなる外乱が介在しようとも、完璧なる美は微動たりもしないことを逆説的に表現しようとしたのかもしれません。

  • 桂離宮 松琴亭 <br />北側の広い芝庭には、背の高い臼状の手水鉢が据えられています。松琴亭側こそ丸みを帯びた形ですが、反対側から見ると平坦な上面以外は手を加えてない天然石の姿を留めています。舟着場は他にあるため、手水鉢と言うよりも、笑意軒の蹲踞「浮月」と同様に水面に映る月影を愛でるためのものかもしれません。<br />

    桂離宮 松琴亭 
    北側の広い芝庭には、背の高い臼状の手水鉢が据えられています。松琴亭側こそ丸みを帯びた形ですが、反対側から見ると平坦な上面以外は手を加えてない天然石の姿を留めています。舟着場は他にあるため、手水鉢と言うよりも、笑意軒の蹲踞「浮月」と同様に水面に映る月影を愛でるためのものかもしれません。

  • 桂離宮 松琴亭 <br />西側にある飛び石の途中にあるヤジリ形の石から舟着へ下りると、右手に綾部燈籠があります。<br />

    桂離宮 松琴亭 
    西側にある飛び石の途中にあるヤジリ形の石から舟着へ下りると、右手に綾部燈籠があります。

  • 桂離宮 松琴亭 <br />ヤジリ形の石のズームアップです。<br />苑路からオーバーハングした、矢印状の道標そのものです。

    桂離宮 松琴亭 
    ヤジリ形の石のズームアップです。
    苑路からオーバーハングした、矢印状の道標そのものです。

  • 桂離宮 松琴亭 <br />舟着場にある綾部燈籠です。<br />茶亭に佇む燈篭は、必要最小限の光量に留められています。そしてどこも背丈の短い燈篭が選ばれ、舟の巡航の目印にはなるものの、月明かりの邪魔はしないという心憎い配慮がなされています。<br /><br />松琴亭の西側には舟着場があることから、苑路を歩いて回るよりも舟上で楽器で奏でたり和歌を詠んだりしながら松琴亭にやってきたものと窺われます。

    桂離宮 松琴亭 
    舟着場にある綾部燈籠です。
    茶亭に佇む燈篭は、必要最小限の光量に留められています。そしてどこも背丈の短い燈篭が選ばれ、舟の巡航の目印にはなるものの、月明かりの邪魔はしないという心憎い配慮がなされています。

    松琴亭の西側には舟着場があることから、苑路を歩いて回るよりも舟上で楽器で奏でたり和歌を詠んだりしながら松琴亭にやってきたものと窺われます。

  • 桂離宮 蛍橋<br />松琴亭を発ち、緑が濃い蛍谷と呼ばれる所で大山島に架けられた土橋「蛍橋」を渡ります。<br />これから向かうのは、賞花亭と呼ばれる高台にある茶亭です。<br /><br />この続きは、松風水月 葛野紀行④桂離宮<後編>でお届けします。

    桂離宮 蛍橋
    松琴亭を発ち、緑が濃い蛍谷と呼ばれる所で大山島に架けられた土橋「蛍橋」を渡ります。
    これから向かうのは、賞花亭と呼ばれる高台にある茶亭です。

    この続きは、松風水月 葛野紀行④桂離宮<後編>でお届けします。

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