2014/03/18 - 2014/03/18
336位(同エリア911件中)
経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
畿内を巡る旅は大和国(奈良県)の大神神社から始めます。
【大神神社(おおみわじんじゃ)】
[御祭神]大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
[鎮座地]奈良県桜井市三輪1422
[創 建]不詳
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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伊勢神宮内宮の参拝を終え、近鉄五十鈴川駅始発の快速急行に乗車。
隣の宇治山田駅から結構な数の客が乗ってくる。
やはり始発の五十鈴川駅から乗って正解だった。
名張駅で4両増結。
このため車端に乗っていたのが8両編成のド真ん中になる。
眼鏡をかけた小学生の女の子が連結作業をジッと見詰めていた。
鉄女予備軍だろうか。
奈良県の近鉄桜井駅にて下車。
駅から歩いて5分ほどのところにある旅館「皆花楼」に宿泊する。
古い旅館だが気が置けず、非常にリラックスして滞在できた。皆花楼 宿・ホテル
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翌朝、今度はJRの桜井駅へ。
駅前に「桜井1番街」というアーケード商店街がある。
だが地方都市の駅前商店街の例に漏れず、ほとんどの商店はシャッターを降ろしている。
薄暗く物静かなアーケードの中をソロリと歩いてみる。
高度成長期真っ只中だった昭和40年代の好景気ぶりが、谺のように遠くから聞こえてくるようだ。
朝9時過ぎ、桜井線奈良行き電車に乗る。
平日の朝だが春休み中とあってか乗客は疎らだ。桜井駅 (奈良県) 駅
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2両編成の電車は隣の三輪駅に到着した。
ところが、待てと暮らせどドアの開く気配がない。
ふと隣の車両を見ると向こうのドアが開いている。
ワンマン運転にありがちなワンドア開閉のパターン。
思わずダッシュし、乗り込んで来る乗客たちを掻き分けながら降りようとしたところ、なんと突然ドアが閉まり挟まれてしまった。
いくらワンマンとはいえ乗客の乗降をキチンと確認していないのだろうか?
暫くするとドアが開き、無事に降りる事が出来たものの。
そういえば、この路線もまたJR西日本。
ひょっとしたらドアに挟まれたまま出発していたかもしれない…。
ホームに立ちすくみ、遠ざかる電車を見ながら身震いする。
土日祝日なら桜井駅からシャトルバスが運行されているので、日が合えばそちらを利用したほうが身の危険を感じることはなさそうだ。三輪駅 駅
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気を取り直して駅前へ。
だが空はドンヨリと曇り、改めて気が滅入る。
駅前から伸びる通りをフラフラと歩く。
大神神社へ向かう道とは逆方向なのだが、一ノ鳥居はこちら側にある。
駅前商店街は細く、古びた個人商店や民家が点在している。
ただし古びているといっても、そこは大和の国。
ボロい感じではなく“文化財”級の“古さ”だったりする。
そのうち商店街も尽きて道幅も広くなり、ごく普通の街並みに変わったと思ったら右手の奥に巨大な鳥居が出現。
やがて駅前からの道が尽き、国道169号線に出た。三輪駅 駅
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交差点を右手に折れると、先ほど見かけたのとは別の小さな鳥居が聳立している。
網越神社という小さな神社が、こじんまりとした杜の中に静かに鎮座している。
その先に、先ほど見かけた巨大な大鳥居が忽然と姿を現した。
両脇に従えているのは社号標というより、巨大な燈籠。
それぞれに「三輪明神」と刻字されている。
明治政府の神仏分離令以前こう呼ばれていたのだろう。
鳥居の間からは“御神体”三輪山が顔を覗かせている。白玉屋榮壽 本店 グルメ・レストラン
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三輪山は奈良盆地を取り囲む青垣山の中でも、特に秀麗な山容を誇る円錐形の山。
標高467メートル、裾野は周囲16キロメートル、面積は約350ヘクタールと小ぶり。
国津神の“ドン”大物主神(おおものぬしのかみ)が鎮まり「三諸の神奈備」(みもろのかむなび)とも称される“神体山”。
「古事記」や「日本書紀」には御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)などと記されている。
山内は一木一草すべてに神が宿るものとされ、松や杉、檜などの樹林の伐採は一切禁じられている。
ただ三輪山への登山そのものは可能で、大神神社の摂社狭井(さい)神社で必ず受付を済ませる必要がある。
そこで入山料300円を支払い、午後4時までに下山しなければならない。
社叢は生え放題で鬱蒼としており、真冬の入山は午後4時前でも真っ暗な箇所もあったりするので要注意とのことだ。三輪山 自然・景勝地
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三輪のランドマーク大鳥居は昭和59(1984)年10月13日の昭和天皇御親拝を記念し、在位60年奉祝と合わせて建立されたもので、昭和61(1986)年5月28日に竣工。
耐候性鋼板製で耐久年数は1300年とも言われているそうだ。
高さ32.2メートル、柱間約23メートルは日本で2番目の大きさ。
ちなみに1位は熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」に立つ大鳥居で、高さ約34メートル、柱間約42メートル。
3位は越後一宮の弥彦神社で、高さ30.16メートル、柱間20メートルとの由。
大鳥居に向かって右側の燈籠の前に「名物みむろ」という看板が立ち、白玉屋栄寿という和菓子店が大店を構えている。
白壁が美しい蔵造りの店の角を左へ曲がると、そこに先出の網越神社。
境内の横を通る細い道を辿って先へ向かうと、突き当りに小さな鳥居が見えた。白玉屋榮壽 本店 グルメ・レストラン
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鳥居の前に立つ社号標には「當國一宮 官幣大社大神■[示偏+申]社」と記されている。
先ほどの大鳥居と大燈籠は、あくまでもモニュメント。
こちらの木造鳥居こそが大神神社の一ノ鳥居なのだ。
三輪“明神”を名乗るだけに鳥居はスタンダードな明神鳥居。
朱に塗られておらず木目が剥き出しのシンプルな鳥居である。
ただ、所々かすかに朱色が残っているので、昔は朱塗りだったのかも知れない。大神神社 寺・神社・教会
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鳥居をくぐると眼前に石造の神橋が架かっている。
正式には「渕本橋(ふちもとばし)」と呼ぶそう。
橋の両側には橙と黒のバリケードが置かれている。
崩落防止のためか、渡橋は禁止されているようだ。
渕本橋の横をすり抜けると突き当りに寺院風の建物が立っている。
門柱には「御祈祷所」の看板が掛かり、扁額には「大神教」の文字。
地図には宗教法人大神教本院の御祈祷所とある。大神神社 寺・神社・教会
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大神教のルーツは明治政府が尊皇愛国思想の普及を目的とした「国民教化運動」を推進するため、明治5(1872)年11月24日に設置した大教院制度に遡る。
大教院とは神仏合同の布教機関で、神職や僧職は教導職に任命され国民教化運動に従事。
大神神社にも分院として小教院が付設された。
小教院は明治13(1880)年2月18日に大神教会と改称し、説教や祈祷、神符守礼の調製授与、講社業務、神葬祭などを行っていた。
ところが明治15(1882)年1月24日の神仏分離令で大教院制度が廃止され、神職の教導職兼務も禁止となり、大神信仰は消滅の危機に。
そこで大神神社の祢宜小嶋盛可が宮司の阪田■[草冠+秀]から了承を得て分離独立し、明治16(1883)年に大神教会を創立。
戦後に入ると昭和27(1952)年の宗教法改正に伴い、宗教法人大神教として認可を受けて現在に至っている。
この大神教本院と出合って神道にも教会が存在することを、神道に暗い自分はこのとき初めて知った。大神神社 寺・神社・教会
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御祈祷所の前を左に折れると両側に松並木を従えた広い参道が、大神神社に向かってスーッと伸びている。
途中で松並木が途切れ、県道を挟んだ向かい側へ移り、そのまま先へ続いている。
その入口には大きな神社の参道でよく見かける昔ながらの食堂が数軒、軒を連ねている。
だがパッと見、営業している様子はない。
営業そのものを停止して完全に閉店しているのだろうか?
それとも正月や例大祭、縁日など参拝客が押し寄せる時に限って店を開けているのだろうか?
そのあたり、いまひとつよく分からない。大神神社 寺・神社・教会
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先へ進むとJR桜井線の踏切。
その横に三輪駅の臨時降車口があった。
参拝客が押し寄せる日はここを開け放ち、大神神社へと送り出すのだろう。
こんなビジネスチャンスをみすみす見逃す手はない。
先ほどの店も、そうした日には営業するに違いない。大神神社 寺・神社・教会
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両脇に祭りの幟が立ち並ぶ参道を歩く。
綺麗に掃き清められ、氏子中の崇敬の念が伝わってくるようだ。
参道の左側には広い池が広がっている。
そういえば相模一宮寒川神社の参道も左側に、池ではないが神奈川県水道記念館があったことを思い出した。
やはり神聖なる土地と水は切っても切れない関係ということか。大神神社 寺・神社・教会
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いよいよ大神神社の社頭に到着。
中央の二ノ鳥居は木製の明神鳥居で、扁額には「大神神社」ではなく大鳥居横の燈籠と同様「三輪明神」と記されている。
左横には白く太々と記された「玄幽」の木札。
二ノ鳥居の扁額とともに福田青山師の揮毫によるもの。
福田師は明治13(1880)年、和歌山県岩出町生まれ。
展覧会や競書会を売名行為として嫌い、碑文や社寺扁額への揮毫を通じた社会貢献を旨とする文人書家だった。
昭和42(1967)年、88歳で逝去。
大神神社のみならず摂社の久延彦神社や狭井神社など至るところで、福田師の揮毫に接することができる。大神神社 寺・神社・教会
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鬱蒼とした樹叢に包まれた参道を通り、拝殿へ向かう。
見るからに幽玄さを感じる境内からは、古代の神話にあった姿が忍ばれる。
今では日本そのものの呼称ともいえる「大和」という国名。
本来はここ三輪山山麓の狭い一帯を示す地名だった。
この地域を歴史上初の街道とされている「山の辺の道」が貫いている。
日本最古の市と伝わる海石榴市(つばいち)から三輪、景行天皇陵、崇神天皇陵、石上神宮を経て奈良へと至る約26キロメートルほどの道程。
その沿道には日本初の巨大前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」や、弥生時代の一大宗教都市「纏向(まきむく)遺跡」が存在している。
所在が畿内か九州かで昔から意見の分かれる邪馬台国(やまたいこく)。
ヤマトの語源はヤマタイ、箸墓古墳は卑弥呼(ひみこ)の墓、そして纏向遺跡こそが邪馬台国そのもの…現在では畿内説の意気が盛んだ。
なお、宮内庁は箸墓古墳を第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の「大市墓(おおいちのはか)」としている。
いずれにせよ邪馬台国の消滅後、大和国にヤマト王権が誕生して日本列島の中心地となったことだけは確かだろう。大神神社 寺・神社・教会
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参道は途中から石段に姿を変え、参拝者を拝殿へと導く。
大神神社の創建時期は不明…というか「古事記」「日本書紀」に創建へ至る経緯が記されているほどだから、まさに神話の時代の話。
日本最古の神社という看板に偽りナシである。
主祭神は国津神の“ドン”大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。
又の名を大国主命(おほくにぬしのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、大穴牟遅命(おほなむちのみこと)など。
日本書紀には他にも葦原醜男(あしはらしこを)、八千矛神(やちほこのかみ)、大国玉神(おほくにたまのかみ)、顕国玉神(うつくしくにたまのかみ)と更なる別称が列記されている。
こんなに様々な呼称を持つ神様は八百万おられる神様の中でも大物主大神ぐらいのもの。
元は各地に点在していた別々の神様だったのが、大国主命が国造りを進めていく過程で次第に融合されていったものと考えられている。
大神神社の起源は大国主命が国造りに勤しまれている時、その和魂(にぎぎたま)が三輪山に現れ自ら鎮座されたことに発する。
和魂とは神の霊魂が持つ二つの側面のうち優しく平和的な面、つまり御加護のこと。
もう一つは荒魂(あらみたま)で天変地異や疫病など人心を荒廃させる面、つまり祟り神。
三輪山に静まった大国主神の和魂は「倭大物主櫛*魂命」(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと/*瓦偏に長)の名で祀られ、大神神社の御祭神となったわけだ。大神神社 寺・神社・教会
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石段を登り切ると“三ノ鳥居”が出迎えてくれた。
正確には鳥居ではなく「注連縄柱」といって、ニ本の柱の間に注連縄を渡したもの。
2本の縄が絡み合って1本の太い縄になる注連縄の意匠は、蛇が交尾する姿に由来するという説がある。
土中に棲む蛇は農業の神の、水中を泳ぐ蛇は治水の神の使いと、蛇は古来から神聖な生物として崇められてきた。
日本書紀の「崇神天皇」章にも、大物主大神は蛇の姿になって登場する。
先述の倭迹迹日百襲姫命は大神の后となるが、なぜか大神は昼に姿を見せず夜しか通って来ない。
不思議に思った姫が理由を尋ねてみたところ、大神から摩訶不思議な返答が。
「明日はお前の櫛箱の中に入っているから、私の姿に驚かないでくれ」
姫は夜明けを待って櫛箱を開けてみると、中にいたのは美しい小蛇。
驚いた姫が声を上げて泣くと、恥じ入った大神は人の姿に戻り、こう語った。
「これぐらいのことに我慢できず、お前は私に恥ずかしい姿を見せた。私が帰れば、お前も恥を見ることだろう」
そう言って大神は空を飛び、三輪山へ帰ってしまった。
残された姫は激しく後悔し、動転したはずみで急に屈んだところ、箸が陰部に突き刺さりそのまま絶命してしまった。
その亡骸を大市に葬ったので、姫の墓は「大市墓」という。
さらに、その墓を世の人々は「箸の墓」と呼ぶようになった。
その呼び名は「箸墓古墳」として現世にまで伝わっているわけだ。大神神社 寺・神社・教会
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石段を登り切ると広い境内の正面奥に拝殿が鎮座している。
現在の拝殿は寛文4(1664)年に徳川四代将軍家綱が造営したもの。
横の長さである桁行は9間(21m)、奥行きを示す梁間は4間(8m)。
正面に巨大な向拝を設えた、江戸時代を代表する木造建築だ。
大正10(1921)年には国の重要文化財に指定されている。
本殿のない神社への参拝は初めてだったので違和感でもあるかと思ったが、実際のところそれほどでもない。
むしろ他の一之宮と比較しても、ここの拝殿は立派過ぎて圧倒されてしまうほどだ。
大神神社が「古事記」に登場したのは上巻、共に国造りに励んできた少彦名神(すくなびこなのかみ)が亡くなった場面のこと。
独り残された大国主神が思い悩んでいると、海の彼方から光彩を放ちながら近づいてくる神の姿があった。
その神は大国主神に「私を祭り崇めれば国造りに協力しよう。だが、それが出来なければ難しいだろう」と申し出る。
大国主神は「どのように祭ればよろしいのでしょうか?」と尋ねると、その神様はこう答えた。
「倭の国を青垣のように取り囲む山々の、東の山の頂に、身を清めて私を祭るがよい」
この神様こそ御諸の山、つまり三輪山の上にいる神である…と古事記には記されている。大神神社 寺・神社・教会
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一方「日本書紀」では「大国主神、別伝(一書の六)」に登場、ほぼ内容は古事記と同じ。
ただ、主役は大国主神ではなく大己貴神。
海を超えて来たのは大己貴神自身の幸魂(さきみたま)と奇魂 (くしみたま)だ。
幸魂・奇魂は大己貴神に「大和の三詣山(みもろやま)に住もうと思う」と宣託。
その場所に神殿を建てて祀った神が「大三輪の神である」と記されている。
ちなみに幸魂とは愛を以って人を幸せにする神霊、奇魂とは奇跡を以って物事を成就させる神霊のこと。
いずれにせよ三輪山そのものがご神体なので本殿が設けられることもなく、拝殿から山を直接遥拝する。
このスタイルは古神道における原初の神祀りの様式とも云われて、日本最古の神社たる所以でもある。
拝殿の奥に本殿はないが、それに置き代わるかのように俗世と三輪山とを結ぶ「扉」が存在している。
「三ツ鳥居(みつとりい)」、又の名を「三輪鳥居(みわとりい)」。
明神鳥居の両脇に脇鳥居を並べて組み合わせた独特の形状をしている。
この形式がいつ頃どのようにして出来たのかは全く不明。
神社の記録にも「古来、一社の神秘なり」と記されているだけとか。
三ツ鳥居の左右には長さ16間の瑞垣が延び、神世と俗世をキッチリ分けているという。
大物主大神と縁の深い動物や花鳥などが彫られた欄間が嵌め込まれているそうだ。
三ツ鳥居と瑞垣、ともに国の重要文化財に指定されている。
しかし拝殿の前からは、いずれの姿も伺い知ることはできない。
参集殿で見学を申し込めば間近で拝観できるそうだが。
それでは余りに安易過ぎる。
拝殿の右隣には勅使殿があり、さらに右奥には神宝社がある。
そこまで足を運べば少しは見えるかと思い行ってみたが、樹叢に遮られて瑞垣の端っこすら拝めなかった。大神神社 寺・神社・教会
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三ツ鳥居を拝むこと叶わず、拝殿の前までトボトボと戻る。
国造りの神である大物主大神を主祭神と仰ぐだけに、そのご神徳はオールマイティ。
農工商すべての産業はもとより方除や治病、禁厭(まじない=呪術のこと)や縁結び、交通や航海など人間生活の隅々まで行き渡っている。
出雲大社が縁結びの神として大人気だが、御祭神は大神神社の大物主大神と同一とされる大国主命。
大物主大神が縁結びの神として人気が高い理由は、超イケメンのうえ凄まじいモテメンだったこと。
日本書記には先述した別称の後に続けて「その御子すべて一百八十一(ももやそあまりひとはしら)の神まします」と記されている。
181柱もの御子を授かるとは相当な艶福家。
多産は豊穣の象徴であり縁結びの神様として崇められるのも当然かも知れない。大神神社 寺・神社・教会
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勅使殿の前に杉の巨木が玉垣に囲まれ祀られている。
江戸時代は雨乞いの依代だったことから「雨降杉」と呼ばれていた。
根本に「巳(み=蛇)さん」が棲んでいたことから、いつしか「巳の神杉(みのかみすぎ)」と呼ばれるように。
先述の通り「日本書紀」では大物主大神の正体を小蛇と記していた。
これは三輪の神の原初的形態が蛇の化身である“蛇神”だと信じられていたからではないだろうか。
「巳の神杉」の前には蛇の好物である卵が、今も絶えることなくお供えされている。大神神社 寺・神社・教会
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ひととおり参拝を終え、御朱印帳を贖うために参集殿へ。
入口に金色の「なでうさぎ」が鎮座している。
「因幡の白兎」の神話を紐解くまでもなく、大国主命といえばウサギ。
毎日のようにを撫でに来る人もいるそうで、大神神社一の人気者とか。
それにしても参集殿に並ぶ御守や御札の種類と数には圧倒される。
さすがオールマイティな神様だけある。
ここでひとつ単純な疑問が湧いてきた。
大和国に存在したヤマト王権は“天津神”天照大御神の系譜を継ぐ天皇家の政権。
ところがそのド真ん中に、なぜか敵である“国津神”のドンを祀った神社が存在している。
古事記によると、大和国を造ったのは大物主大神ではある。
その後、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)が日向国から東征して大和国を征服し、橿原の地で初代天皇に即位した。
これが大和国にヤマト王権が生まれた由来である。大神神社 寺・神社・教会
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二ノ鳥居を出てすぐ右側の角に小さな商店がある。
看板に記された店名は「森栄進堂」。
だが店頭には三輪素麺以外これといった土産物は見当たらない。
むしろ、きな粉や胡麻など自然食品のような品揃えが目立つ。
大神神社は門前の土産物店まで虚飾を排しているのだろう。そうめん處 森正 グルメ・レストラン
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「森栄進堂」の斜向かいに古風で由緒正しげな建物の姿。
店頭には「そうめん處」という大きな看板が掛かっている。
その下にもう一枚、「定休日 月・火曜日 森正」と記された小さな看板。
ここが有名な素麺の店「森正」か。
しかし本日は火曜日、生憎と定休日だった。そうめん處 森正 グルメ・レストラン
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森栄進堂と森正の間の小径を奥へ突き当たると石段がある。
上には木製の明神鳥居が立ち、「若宮社」と記された扁額が掛かっている。
正式な名称は「大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)」。
大物主大神の子孫である大直禰子命を祀っているので「若宮社」とも呼ばれているそうだ。
ところで、大和国のド真ん中に“国津神”のドンを祭った神社が存在している謎について。
古事記では、こう記述している。
初代神武天皇の即位で大和国に王権が誕生してから10代後の崇神天皇の御代のこと。
凶悪な疫病が蔓延し、大和国から人々が死に絶えてしまいそうになった。
悲観した崇神天皇は疫病退散のために神殿を建立。
その床で就寝中、夢の中に大物主大神が現れて宣託を下した。
「疫病は私の仕業。意富多多泥古(おおたたねこ)に命じて自分を祭らせ、酒を奉納させれば世は元通りになるだろう」
崇神天皇は四方八方に手を尽くして意富多多泥古を探し出し、彼を神主にして御諸山に意富美和之大神(おほみわのおほかみ=大物主大神)を祭らせた。
おかげで祟りの疫病は収まり、すっかり元の平穏な国に戻ったという。
これが天津神の国のド真ん中に国津神が祭られている理由なのだ。大神神社 寺・神社・教会
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石段を登って境内に向かうと、思ったほど広くはない。
参拝客がひっきりなしに訪れていた大神神社とは対照的に人影はなく、ひっそりと静寂の中に包まれている。
それにしても若宮社の社殿、見れば見るほど不思議な形状をしている。
どこをどう見ても神社ではなく、お寺の本堂のような印象を受ける。
それもそのはず、ここは昔「大御輪寺(だいごりんじ)」というお寺だったのだ。
最初は大神神社の神宮寺である「大神寺(おおみわでら)」として創建。
後に「大御輪寺」と改称し、神仏習合の時代は寺院として存在した。
しかし明治期の廃仏毀釈に直面し、堂宇のほとんどが滅失。
唯一残された本堂だけが若宮社の本殿として現存。
大神寺創建当初の部材も残っているそうで、貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財に指定されている。大神神社 寺・神社・教会
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なぜ神仏分離で大御輪寺が大直禰子神社になったかというと、大直禰子命の御神像と本地仏の十一面観音像が合わせて祀られていたから。
ところが廃仏毀釈の波に呑まれた十一面観音像のほうは高欄の下に打ち捨てられていたそうだ。
その有り様を見た聖林寺の住職が機転を利かせて大御輪寺と交渉し、大八車に乗せて運び出すことに成功。
慶応4(1868)年5月16日、大神神社の遥か南に位置する聖林寺へ“避難”させた。
ちなみに前述の通り大御輪寺の施設は破壊し尽され、十一面観音像に関する資料も一切が灰燼に帰したため、その由来は全く不明との由。
それまで秘仏とされてきた観音像は明治20(1887)年、アメリカの哲学者フェノロサの手で禁が解かれ、その美しい姿が初めて人前に披露された。
明治30(1897)年に旧国宝制度が制定されると共に国宝に指定。
さらに和辻哲郎が大正8(1919)年に出版した「古寺巡礼」で「天平彫刻の最高傑作」と激賞し、その名が広く知られるようになった。
戦後の昭和26(1951)年に新国宝制度が発足すると、ここでも第1回の国宝に選定されることに。
そして今、聖林寺の国宝十一面観音像は拝観料を払えば誰でも拝むことが可能だ。
一方、大直禰子命像は国宝にも指定されていなければ、自由に拝観することも叶わない。
一体「廃仏毀釈」って何だったんだ?
石段を降りながら、そんな素朴な疑問を頭の中で反芻してみた。大神神社 寺・神社・教会
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門前を横切り、二ノ鳥居に向かって右側にある三輪素麺の店「福神堂」へ。
外見は大きな蕎麦屋といった風情で気の置けない雰囲気。
来店したのは午前11時ごろで、ちょうどお昼前のアイドルタイム。
店に入ると奥のテーブルで従業員の小母さん達が食事中。
私の顔を見るや皆さんバツの悪そうな顔をして各々の作業に散っていった。
こうしたシーンには旅先で何度も遭遇したことがあるので特に不愉快な思いもなく。
むしろ自然に笑みが浮かんで心がホッコリする。福神堂 グルメ・レストラン
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まだ春先、しかも小雨模様で肌寒い天候だけに冷たい素麺は敬遠。
最もシンプルなメニュー、温かい素麺「にゅうめん」を注文する。
一杯700円也。
澄んだ出汁の中に細く白い麺が漂い、蒲鉾や三つ葉といった具材が彩りを添える。
淡白でコシのある細麺にあっさりとした出汁が絡む温麺は、饂飩とはまた違った繊細な味わい。
やはり大神神社に蕎麦は似合わない。
素麺じゃないとシックリ来ない気がした。福神堂 グルメ・レストラン
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「福神堂」を出て大鳥居方面へ向かう途中、細い路地を発見。
街灯に「JR三輪駅→」の看板が掛かっている。
どうやら三輪駅に連絡する参道のようだ。
左側の角、緑色の庇の下に自動販売機が置いた店がある。
煙草屋と思いきや、本業は神道用品を扱う景山神具店。
店は開いていない。
人間に代わって機械が24時間、煙草を売り続けている。大神神社 寺・神社・教会
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右側の角に露店のように突き出た店がある。
「村上かど店」といって、もちろん露天ではない。
手前は甘酒や味噌田楽、たこ焼きなどの茶店。
奥は野菜や果実を販売している青果店だ。
大神神社にお供えする酒や玉子も販売している。大神神社 寺・神社・教会
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景山神具店と村上かど店の間の道を奥へ進む。
その途中「名物みむろ」の看板を発見。
大鳥居の横にあった和菓子店、白玉屋榮壽の支店だ。
「みむろ」とは弘化年間(1844〜1848)に同店の初代が創案した最中。
以来160年余、製法を七代にわたり一子相伝で受け継いできたという。
菓子名の由来は大神神社の御神体山「三諸山」に因んだもの。
定休日は毎週月曜日だが第三週のみ火曜日も休み。
またも生憎、この日は三週目の火曜日だった。白玉屋榮壽 参道店 グルメ・レストラン
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白玉屋榮壽の数軒隣にある食堂「万直(まんなお)し」。
道を挟んだ向い側には「万直し旅館」。
食堂と旅館に分かれて営業しているようだ。
「万直し」とは験(げん)直し、縁起直しという意味。
食堂はともかく、旅館には文字通り「万直し」のため一度泊まってみたい気がする。
現在でも営業しているのだろうか?万直し旅館 グルメ・レストラン
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先へ進むと駅前から伸びる商店街に出る。
その交差点に一軒の古びた食堂がある。
緑色したビニール製の庇には「みわ寿司」の店名。
暖簾の染め抜き文字は「素麺」ではなく「うどん」だ。
ちなみに麺の直径が1.3mm未満を「素麺」、1.3mm以上1.7mm未満を「冷麦」、1.7mm以上を「饂飩」と呼ぶ旨、日本農林規格(JAS)で決められている。 -
店頭には「大神々社御用達」の看板。
建物の風情は、いかにも御用達っぽい雰囲気。
暖簾には「にぎり寿司」と染め抜かれている。
江戸前の握り鮨だろうか?
確かに奈良名物「柿の葉寿司」に比べると作るのは楽そうだ。
こう言っては「福神堂」に申し訳ないけれど、こちらで食事すればよかったかなと少しく後悔。
別に美味い不味いの話ではなく、ああした大きくて立派な店より、こうした個人で営業しているような小さな店のほうが好きなだけの話。 -
「みわ寿司」から三輪駅に戻って来た。
駅前には小さなカフェ「三輪座」。
蔵元今西酒造の経営で、メニューには蔵元ならではの日本酒アイスも。
店頭では飲食以外にも、三輪ならではの御土産を販売している。
しかし今日は初っ端から電車のドアに挟まれたりして気分がドンヨリ曇り気味。
朝から日本酒アイスの気分にもなれず、なんとなく冷やかしただけで後にする。
それにしても、なぜわざわざ日本酒をアイスにする必要があるのか?
それが大有りなのだ。
先に大神神社の御神徳はオールマイティだと述べたが、なかでも医薬と酒造については別格。
医薬については、大物主大神が少彦名命と国造りに勤しまれていた時、病気を癒やす処方を定めたと日本書紀に記されている。
また、崇神天皇御代に疫病が蔓延した折、御諸山に大物主大神を祀ったことで退散した故事から疫病除けの神様としても尊崇されるように。
祈祷殿から狭井神社へ向かう参道沿いには製薬業者から奉納された薬木が植えられ「くすり道」と呼ばれているそうだ。
酒造については、崇神天皇が意富多多泥古命に命じて大物主大神を祀らせた折のこと。
三輪山の麓、?橋という村に住む活日(いくひ)という者を、大物主大神に捧げる神酒(みき)を司る掌酒(さかひと)に任じた。
活日は一夜で酒造りを行い神酒を奉納したところ、疫病は一掃され国が富み始めた。
以来、活日は杜氏の祖神「?橋活日命(たかはしのいくひのみこと)」として、日本で唯一の杜氏の神社である摂社活日神社に祀られ、酒造家たちから篤く信仰されている。 -
晩秋、酒蔵には新酒が出来たことを知らせる、杉葉を束にした「志るしの杉玉」が吊るされる。
最初は青々としていた杉玉が一年かけて茶色になっていく、その色の変化で酒の熟成具合が分かるそうだ。
杉玉の原型は中世から近世にかけて生まれた、大物主大神の御神威が宿る杉の葉を束ねて酒屋の軒先に吊す「酒箒(さかぼうき)」「酒林(さかばやし)」と呼ばれた風習。
現在でも三輪山の神杉の葉を球状に束ねて作られた小型の杉玉が大神神社で奉製され、全国の酒造家に配られて酒蔵や軒先に吊されている。
なので全国どこの酒蔵でも、杉玉の下に吊るされている札には「三輪明神・しるしの杉玉」と記されているのだ。
もちろん大神神社にも拝殿と祈祷殿の向拝に直径1.5m、重さ150kgにも及ぶ大杉玉が吊るされている。
これは年に一度、11月14日に行われる新酒の醸造安全祈願大祭「酒まつり」前日に青々とした新品に交換される。
「酒まつり」は新酒の仕込みの季節を前に、全国の酒造家や杜氏たちが安全祈願に訪れるお祭りだ。
酒造りの故郷である三輪には酒蔵が林立しているかに思えるが、実は先述の今西酒造一軒しかない。
万治3(1660)年創業の老舗で、銘柄は仕込み水に三輪山の伏流水、米に三輪産を用いた「三諸杉」。
三輪山の別名「三諸山(みむろやま)」と神が宿る木「杉」を合成したネーミングだ。
この「みむろ」は「実醪」、酒造りの過程で生まれる発行原料と酵母を混合した「醪(もろみ)」の語源になったとも言われている。 -
三輪駅から桜井駅へ戻る電車に乗る。
今度はドアに挟まれないように、注意深く。
天候といい、ドア挟撃事件といい、前途多難を予感させる大神神社への参拝だった。三輪駅 駅
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